絞首台の街、安楽死の少女   作:東雲佑

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3.最後のお願い

 広場に隣接した道路を横切ったところに、古ぼけた四階建てのアパートメントがある。

 その三階、階段側から数えて三つ目がカッコーの部屋だった。

 道路側に面する西向きの窓からは真っ直ぐに絞首台を見下ろすことが出来る。居間は寝室を兼ね、水場もトイレも各階ごとの共有だったが、カッコーにとってそうした一切はどうでもよい事柄だった。

 

 彼にとっての重要事は窓の外にしかない。

 

 

   ※

 

 

 カッコーがこの部屋に移り住んだのは、弟が死んだ翌週のことだった。

 弟がそれを切り出した時の台詞を、彼は一字一句として違わずに思い出すことが出来る。

 

 冬のはじめの木曜日の夜、動物園で最後のカバが死んだ次の日だった。

 

「今度の土曜がもし晴れたらね、その日に死んじゃおうと思ってるんだ」

 

 夕食後の居間で、まるではじめての恋人が出来たことを報告するときのように少しだけはにかみながら、弟はいともあっさりとそう切り出した。

 その表情に苦悩や悲嘆の陰は皆無で、口調はむしろ弾んですらいた。

 

 弟が何を言ったのか、カッコーはしばらくのあいだ理解することが出来なかった。

 彼はただ漠然(ばくぜん)と「こいつは今なにか普通でないことを言ったみたいだな」と思いながら、テーブルの反対側に座る弟の顔をぼんやりと眺めていた。

 弟の発した言葉の意味を飲み下すには少なくない時間が必要とされた。

 そしてその内容を正確に理解したとき、彼は身体の内側から激しく揺さぶられるような感覚を覚えた。

 

「お前が?」カッコーは呆然として問い返した。「死ぬって、お前が?」

「そう、僕が」

 

 弟はやはり気負いなく答えた。

 そして楽しそうに笑いながら、「今みたいな言い方で僕以外の誰を指すっていうのさ」と言い加えた。

 

 頭の芯から目のほうにかけてなにか重い物が押し出されてくる感触をカッコーは覚えた。

 息の吸い方と吐き方がわからなくなり、正しい呼吸が刻めなくなった。

 

 彼の脳裡にはすでに絞首台のイメージがあった。ここまでいわれてそこに考えの行き着かぬ者は街には一人としていない。

 しかし、それでもカッコーはこれまでの人生で最大の驚きを覚えていた。

 絞首台とそれにまつわる理念はもちろん知っていたし、実際にそれを使う者がいるということも話には聞いていた。

 

 けどそんなのは所詮(しょせん)他人事、自分たち兄弟には関係のないことだと、カッコーは心のどこかでそう決めつけていた。

 彼は普段から「死ぬ気になれば大抵のことはなんとかなるものだ」と考えていたし、そしてそう信じている自分以上に、陽気そのもののこの弟が自ら命を絶つなんて想像したことすらなかった。

 

 子供の頃に両親が揃って死んでしまってから(両親の死は自殺ではなく、工場火災に巻き込まれての至極()()()()()()()()だった)彼と弟は互いに支え合って生きてきた。

 実直な兄と明るく素直な弟に周囲の大人たちはみな親身に接してくれた。

 工場側の支払った少なくない額の保証金もあり、孤児という言葉につきまとう悲惨さとはほとんど無縁のまま二人は成長し、それぞれに気に入った仕事を見つけることも出来た。

 

 なのにいまさら、なんで死のうなんて考えるんだ?

 

 カッコーは弟が死を望む理由を知ろうとした。ともかく、それを知らなければ何もはじまらないと彼は考えた。

 そんな兄に対して、弟は少しだけ困ったような色を笑顔の中に浮かべて答えた。

 

「なんて言ったらいいかわからないけど、でもそれはもうどうでもいいことなんだ」

「どうでもいい?」

「そう、どうでもいい」

 

 弟はもう一度言った。

 

「どうでもいいって言っても、別にやけっぱちで言ってるわけじゃないよ。もちろんなにかの比喩とかそういうややこしいことでもない」

 

 理由なんてもう本当にどうでもいいんだよ、と弟は続けて言い切った。

 

 もちろんカッコーはその答えに納得しなかった。

 彼はなおも問い募った。

 

 仕事や人間関係になにか問題でも?

 それとも健康……そう、病気にでもなったのか?

 とにかく、金で済ませられることならばどうとでもなる。一人で背負いきれない責任があるなら俺が、兄ちゃんが一緒に背負ってやる。

 

 ……それとも、まさか俺が、この俺が原因のことで、お前は?

 

 一言ごとに声音が引きつっていくのをカッコーは自覚した。

 しかしそんな彼とは対称的に、彼の弟はどこか朗らかさすら感じさせて落ち着いていた。

 

 結局、いくら聞いても無駄だった。

 弟は自分が死のうとする理由を兄に明かそうとしなかった。

 唯一「俺のせいなのか?」という言葉には「それは違うよ」と即座に否定を返したものの、あとはただ黙って首を振るか、「どうだっていいんだよ、そんなの」と苦笑混じりに繰り返すばかりだった。

 

「兄さんにはすごく申し訳ないと思う。でもね、もう決めたんだ」

 

 ごめんね、と弟は謝った。その声音はやはり穏やかで柔らかくて、安らかだった。

 しかし同時に、そこには有無を言わさぬ決心の強さも感じ取れた。

 

 カッコーは絶望の手触りを知った。

 俺がもう何を言ったところで、お前は決意を変えたりはしないんだろうな、と彼は思った。

 

 死は生きるのと等しく誰しもに保障された権利と街では考えられていた。その権利を奪うことはたとえ肉親といえど出来ない。

 死ぬなという言葉は死ねというのと同じくらいひどいことなのですよ。彼はそれを幼い頃に道徳の授業で学んだ。

 

 カッコーはしばらく何も言わずにテーブルの木目に視線を落としていた。

 弟も兄に付き合うようにじっと黙っていた。

 

 時計の針が無抵抗な時間を葬っていく音だけが、静かな部屋の中で奇妙に際立っていた。

 

 長い沈黙のうちに、カッコーは受け入れたくないいくつかの事柄を無理矢理受け入れた。

 彼は一度だけ深く息を吸って吐き、弟を見据えた。

 それから、こみ上げてきた涙を素早く拭って、、ありったけの意思を動員して言った。

 

「……なら、最後になにか、俺にしてほしいことはあるか?」

 

 なんだってしてやるぞ、とカッコーは続けた。

 声が震えるのだけはどうしても抑えきれなかった。彼は真っ直ぐに弟を見つめ続けた。

 

 兄の示した理解と申し出に、弟はこの夜はじめて目を(みは)っていた。

 驚いて自分を見つめ返す弟に、カッコーは黙ったまま(うなず)いて見せた。

 

 それが彼の限界だった。本当は笑いかけてやりたかった。しかし頷く以上のなにかをすれば涙がこぼれてしまうのがわかっていた。

 

「……本当に?」

 

 少しの間のあとで弟は言った。

 

「本当になんでもいいの?」

 

 いまさら何を遠慮してやがるんだ、とカッコーは言いたかった。

 しかし言葉を発することは出来ず、やはり彼は黙したままただ頷いた。

 

 弟はしばらく思いを巡らせていたあとで、やはりどこか遠慮がちに切り出した。

 

「えっと……それなら、あの、もしダメならそれならそれで全然構わないんだけど」

 

 カッコーは黙ってその先を待っていた。

 ダメなんていうかバカ野郎、と彼は思っていた。

 

 弟はゆっくりと一回深呼吸してから、「その、もしも兄さんが本当にいいっていうならだけど」と続けた。

 ここに来て弟はひどく真剣な表情を浮かべていた。

 

 弟はもう一度だけ躊躇(ためら)う様子を見せ、それから、思い切ったように笑顔を浮かべて言った。

 

 

「もし兄さんがいいなら……そしたら、兄さんの手で僕を絞首台に吊ってくれないかな?」

 

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