作品の描写の為、様々なものを詭弁で否定しています。
その点はご容赦ください。
人は常に自身の幸福を最大化し続ける。しかし幸福の基準という物はそれぞれ違うのだ。そしてその基準が相いれない場合闘争が発生する。
ならば問いたい。私の幸福の基準つまり評価軸は何であるかと。
朝、人々は起き朝食を取り、身支度をし、学校に行く。
人々はそれを当たり前のようにこなす。しかし、実際のところ何故その様な事をする必要性があるのか私は疑問を覚える。
何故人々は自由にもっと生きようとしないのだろう。何故制服などというどうでも良い服を着て学校に行くのだろう。
しかし、私の悩みという物は極度に習慣化された無意識に打ち勝てる程の物ではなかったらしく、その様な事を考えている内に母が出してくれたトーストを頬張っていた。
「…。」
普通。それ以上の感想が出てこないが黙々と食べていく。
私は時々思うのだ。何故人々はもっと効率化した栄養補給手段を利用しないのだろうかと。
工業化と国際化が進んだ世の中ならば効率化できると思うのにと。
そんな思考を刹那に転がしつつ牛乳を飲み干す。
コップを置いて一言いう。
「ごちそうさまでした。」
「お粗末様でした。」
道徳では生命へ感謝するという趣旨の意味で教えられた事を覚えているが、もし私が捕食されたら「ごちそうさまでした。」の一言で許すわけが無いし恨み続ける。すると、その様な言葉をいう意味はただの自己満足に過ぎないわけであるが、何故人々はそのような事をするのだろうか。
自分で結論は出ているわけだが分かっていない振りをしながら歯磨きをする。
身支度という時間ロスを挟んだ後に学校に向かう。
非常に世知辛いことではあるが、受験を経て学校に行くとなると受験をしていない奴らと比べて電車を利用する割合というのは上昇するのだろう。…データなんかないけど。まあ、それは兎も角、私も電車を利用して通学するそんな一員だった。
「おはよう。」
「おはよう。」
友—其れはお互いがお互いに利用価値を認め合い利害が一致しあうときのみ発生する関係である。国で例えるならば同盟に近い。
私はこの友という存在に価値を見出すことが出来なかったのだが、学校という場において作っておくべき存在である。
弱き者は「いじめ」という組織の結束を強化する為の手段によって精神的、肉体的に攻撃されてしまう可能性がある。
いや、弱いか強いかは関係ない。
現代のいじめという物は、複雑極まり無いが為に一概には言えないが、確実に言えることとしては、いじめに巻き込まれることは、被害者だろうが加害者だろうがデメリットの方が大きいということだ。
まず被害者側であった場合、これはもう言うまでもなくデメリットしかない。
次に加害者側であった場合、この時メリットは集団の結束という一時的な物であり、デメリットである発覚した際の社会的立場の喪失という物と比較して明らかに小さい。
つまり何が言いたいかというといじめには出来るだけ関らないようにする事が最も重要なのだ。
そしてそれに際して最も有効なのは「友人」である。
コミュニティに属していれば、そのコミュニティに攻撃されない限り安全である。
そういった理由により、私は友人との関係を維持し続ける。
「今日の一限目って何だっけ?」
「えっと、数学。多分一次関数の続きかな。」
この会話にあまり意味は無い。何故なら時間割はPDFファイルで全員のパソコンに基本的に入っているからだ。
しかし、友人に貸しを作る意味でもあえて聞いている。
「あ、そうそうこの水槽に水を入れるテンプレ問題の解き方って分かる?」
「これ、多分ね…とりあえずここの容積を求めれば良いんじゃない?」
「あー、でSの値を出せばいいのかな?」
「塾でやったの2か月くらい前だから覚えてない。」
「オイ。」
私は、数学が学年13位なのでこういった質問にある程度答えることが出来る。
「学力」という力はこういう時に貸しを造れて便利なのである。
そしてその瞬間、チャイムがなる。
「じゃあ、数学の授業を始めていくよ。」
正直なところ私は数学という物にそこまで大きな価値を見出していない。
何故なら数学は実生活においてそこまで重要でないからだ。
現実世界を見てみよ。
大人は私たちにやれ懐かしいだの、やれあまり覚えてないけどと言いながら私達に質問した内容を教えてくるのだ。勿論、先生は除くが。
それに対して算数は質問しても明瞭どころかそれくらいは当たり前だろうという感情を含んだ視線で、時には大声で質問した箇所を教えてきた。
つまり、「算数」は必要だが「数学」は必要ないのだ。
等と考えていると、いつの間にか時計は授業開始から30分経ったことを告げていた。
ノートはいつもの2倍綺麗だった。
さて、そろそろ先生が生徒に質問という名の確認作業を始めるころ合いである。
「じゃあ~XX」
「ハイ、垂直に交わる二直線の傾きはmM=-1なので、そこの傾きは1/3です。」
所詮数学は暗記なので速やかに答えてしまう。
「ヨシ。じゃあ、YY、この関数の切片はなんだ?」
「多分6です。」
「よろしい。」
このような茶番を続けていると、授業の終了を告げるチャイムがなった。
「じゃあ、宿題はP163~164、見開き1ページね。」
宿題について私は無駄としか思えない。やる気の有る奴は宿題の範囲くらいもう終わっている。やる気のない奴はそもそもやらない。
こんなものに何の意味が有ろうか?
其れは兎も角。
私の通っている学校には未だに給食という制度があり、話したくもない人と話すことを事実上強要される。
「数学って正直いらないよね~。特に方程式。」
「わかるわ滅茶。代入法とかなんだよ、加減法だけでいいじゃん。それに何で果物の合計金額だけわかるんだろおかしいだろ。」
しかし、このように話が合う人と話すことが出来ることがある事は良いことであろう。
さて、義務的に給食に手を付け終わった後は歯磨きという人類が2回しか歯が生えないことの代償を支払った後、午後の授業を受ける。
「では、まず過去の助動詞「き」と「けり」の違いを教えます。まず、一言で言うと体験…。」
古文という、もはや使われていない無駄な言語の文法を叩き込まれた後、本日最後の授業、道徳を受けに行く。
道徳とは、はっきり言って無駄な科目である。これまで数学や国語は無駄だと思ってきたが、それらの授業にも学ぶべき点は垣間見えた。
例えばギャンブルの無駄さ、例えば昔の面白いエピソード。
しかし道徳の時間には全くもって価値を見出すことが出来なかった。
しかし、こんな科目でも他の人との意見交換の際には楽しさを感じることがある。
それは、相手より高い理解を持っていると感じた時だ。例えば、他の人を助ける必要性について、皆は「それは双方を笑顔にするからだ」などと答える。
しかし、私は「それは最終的に自身の利益に繋がるからだ。」と論理的に回答できる。
こういう時に多少の快感を得られるのだ。
…結局論理的に考えてやればいいのだ。人が動くなら何かしら合理的で利己的な理由がある。社会が動くなら合理的で功利主義的な理由がある。
そう考えるだけでもだいぶ違ってくるものだ。
さて、今日のテーマは何だろうか?
「では皆さん。何故命に感謝して「いただきます。」と言ってから食べ始めるのでしょうか?」
「三分間考えてみてください。」
「三分間経ちましたね?では、班の形となって意見交換をしてみてください。」
まず、こういう時には人に先に話させる。
「私は命を提供してくれて有難いから言っているのかなと思います。」
「僕は、作ってくれた人への感謝の気持ちが込められているのだと思います。」
「空気」という日本社会に蔓延る無用な習慣の為に私が最後では無く3番目に話すことになった。
一呼吸おいて話し始める。
「私も二人の意見に賛成なんだけどさ…そういう挨拶って無駄だよね。」
「そもそも唯の物に何でそんなこと言うんだろう物に感謝する必要は無いよね?」
他の班員の様子を見てみる。
先に意見を言った二人は苦笑い?をしているようだった。
多少の快感を得たその時。
「いや、それは違うな。」
黙っていた班員が話し始める。
「そもそも論点がずれている。さっきまで僕たちは『何故命に感謝して食べる前に一言言うのかに』について話していた。」
私は眉をひそめた。
「それにだ、何故命を物扱いするんだい?僕たち人間だって一つの命じゃないか?」
私は声の震えを抑えながら言った。
「数多の命を犠牲にして生き続けることの何が尊いんだ?」
震えは止まらなかった。
「数多の命を頂いたからこそ尊いし感謝する必要があるんだよ。」
自分の捻くれた論理を結果的に正論で叩き潰していった彼のことを私は忘れることは無いだろう。
何にせよ、私は俯くしかなかった。
家に帰っている途中鴉を見た。
太陽が残光を放つ時間帯だった。
空は紫色だった。
少しさっきまでの自分が恥ずかしくなった。
思想強いよね。