初めて歩く道だった。商売気のない閑散としたシャッター街と化したメイン通りから二本ほど奥に入った裏路地の路面にはアルコールが入っていただろう酒類の空き缶や、医療目的でない用途で使用されただろう注射器で取っ散らかっていて、如何にも場末の"良くない場所"といった雰囲気を醸し出している。しかし、仕事をする上ではこういう場所の方が都合が良い。篝は舌を舐めて湿らせると、左手に着いた汚れを拭うようにスカートを擦る。
灯りも碌に照らされていない真夜中を歩くには篝の出で立ちは非常に不気味な事この上無かった。
頭髪は黒色だが先に行くにつれてファンシーな桃色のグラデーションとなっており、涙袋の主張が強い下瞼からほんの少し目線を上げると、瞳に水色のカラーコンタクトが嵌めこまれていることが分かる。黒マスクをしているため正確な表情は読み取れず、その下にある皮膚は日中を知らない吸血鬼のように色白だ。
更に異質なのが着用している服だ。
篝が着ているのは原宿だの秋葉原だのを歩けば一度はすれ違うくらいテンプレートで時代的には少々痛い、如何にもと言ったゴスロリの服装である。ピンクを基調としたフリルたっぷりのトップスに、これまたひらひらとした膝の関節を覆う長さの黒いスカート。インターネットやコンカフェなどに屯うメンヘラ女でもここまで役満クラスの格好はしないだろうという出で立ち。ここが都内の繁華街であれば夜中だろうが違和感が無いだろうが、人気が一切ないこの空間でそんなファッション的な重武装を決め込み、一人何気ない顔で歩く篝はどう考えても今この場で浮いた存在だった。
ただ、これだけならばまだ仕事帰りに帰路に就くゴスロリ女という見方もあった。
最も目を惹くのは右手に握られた銀色の鈍い反射光。
現代人なら持つスマホの形状などではなく、それは鋭利な刃が付いた鉈状の形をしていて、俗にマチェットと呼ばれる道具の一種であることが分かる。本来の目的としては山林の獣道などを進む際に邪魔な草木をその刃で切り伏せ、或いは叩き折り、道なき道を切り開く際に使わるだろうが、篝が持つマチェットの用途はそんな本来の用途とは掛け離れた目的で使用されている形跡が明白としていた。何故なら刀身から、赤く少々粘性を帯びた液体がポタリポタリと雫状で垂れては、コンクリートの地面に円状の染みを作り上げているからに他ならない。
薄っすらとした視界しか確保されない暗闇の中、篝は厚底の黒いローファーでコツコツと歩いていく。
ここで情報が漏れていたのでお伝えすると、篝の前には一人男がいた。篝から必死に逃げており、しかしその速度は早歩き程度でしかなく、時折ぐらりと左右に揺れて失速しては、歯を食いしばって何とか転ばないように再度早足で裏路地を歩き進める。男は右足の太腿を切られているようで、切り裂けたズボンから見える肉の切れ方から察するに刃が通った深さは大体5cmほど。致命傷ではないものの命の雫は動く度にドロリと流れ出す。この様子だと無傷の篝から逃げ切るのは至難の業だろう。
不格好な歩き方で逃げる男は篝は追った。走れば一瞬でマチェットの刃が達する捕捉範囲内に達するだろう。だが篝はしなかった。それは決して篝が傷付いて逃げる姿を楽しむ愉快犯のサイコパスだということを意味しない。経験則的に、適度に手負いになった相手こそ警戒を払う必要があるという単純な理由である。窮鼠猫を嚙む、急いては事を仕損じる、そんな慎重主義さが篝にはあった。実際に腕を一本切り落としたにもかかわらず反撃を受けたことが一度ある。腹部に受けたその時の刀傷の跡は未だに消えず残っており、それからはその事を教訓として無理に自ら動くことはしない。早いか遅いかの問題であって、篝が齎す結果はどうせ変わらないのだから。
篝は男にターゲットを絞っていると、ふとした直感からマチェットを構えた。片方の手のひらを開いて、もう片方の手で持つマチェットの切っ先の照準を男へ向ける。
「く、来るなァ……!」
構え終わった頃には逃げ切れないことを悟った男が反転してきていた。夜闇で漠然としか見えていなかったが、浮浪者然とした中年の男だった。40代中盤にも見えたが、エージェントによればこれでも20代後半らしい。目は血走っており、髭は清潔さは微塵もなく四方八方に長く伸びている。あちこちが解れまくったサイズの合わないボロボロのパーカーを着用し、ジーパンは草臥れて天然物のダメージジーンズとなっていた。そういえばダメージジーンズは少々昔は多少高価で取引されていたが、今でもそのブームは残っているのだろうかと今この場においてどうでもいいことを篝は考えた。
冷然とした篝の態度が更に男の琴線に触れたのか、歯茎を剥き出しにして大きながなり声が響く。
「なんだよ!? なんだよお前は!? 俺を殺すのかァ……!? 殺しても社会も世界も地球も何も変わんねえぞクソサブカル女ァァ!?」
篝は反応しなかった。今から殺害する対象に大きな感情を抱かず無関心でいることは、殺人という悪徳行為に対して自分なりに決めている自己防衛策だ。
加えて論議する余地が無い程目の前の男が悪人というのも篝は知っていた。
この男は控えめに言えば薬物のバイヤー、更に言えば社会に害を齎す半グレというやつだった。背景に最近世間を賑わせている事件がある。最初はホームレスに対してタダで薬物を渡し、依存性が認められると薬と引き換えに違法行為の実行を要求するという犯罪スキームだ。内容はそれぞれだ。気に入らない人間の殺害指示、気に入った女性を誘拐して強姦、強盗指示。勿論これだけ大事となれば大々的に警察も動いて捜査をしていたが、組織的にこの動きは行われているらしく、末端は捕まっても黒幕は中々見つからずその証拠も現在も見つかっていない。
そんな中で今回依頼されたのが、黒幕として有力候補たるこの男の社会からの駆除である。篝のエージェントは正義の味方でも気取っているのか、殺害という直接的な単語を使わず駆除という言葉を使いがちであった。篝からすればまどろっこしいことこの上ないとも思うが、お金はそれ相応に貰っている為口に出したことはない。クライアント様の趣味に興味はなく、勿論善人を殺すのは気が引けるが、はっきりと害悪と分かる社会の膿を断ってお金をもられるのであれば篝的には何の問題も無いのだ。寧ろ喜んで殺せる。篝はそういうタチなのだ。そう言った面から、篝の精神構造は少々この仕事に向いていると言えた。
「お前が死ねよぉぉぉ!!!」
男が掴みかかろうと右手を伸ばしてくるが、篝からすれば容易に対処可能な範疇だった。マチェットの刃を立てて、一閃させる。マチェットの切れ味はお世辞にも良いとは言えない。このマチェットは何十種類も通販や店舗で買って試し切りをした中で選んだ一番良い切れ味のものではあるが、所詮は軍用マチェットのように殺傷を目的とした武器ではない。日常生活を便利にすることに重点が置かれた道具だ。だから篝がマチェットに求めたのは鈍器としての役割だった。日本刀のような刃の鋭利さを持たない西洋剣は重さで叩き切るという。女性が片手でも扱える程度の重量感しかないマチェットには叩き切るような剛健さはないにせよ、篝の身体には実のところ容姿からは分からないほどの怪力が備わっている。篝が依頼を一件も失敗したことない理由の一つであった。
力任せに振るった結果、鈍い音と共に男の右手がひしゃげた。手の平が口のように裂けて、中指、人差し指、薬指があらぬ方向を向いている。小指に関しては根元の粗い切り口しか残っていない。どうやら千切れてどこかに飛んで行ってしまったようだ。右手が悲惨なことになっている事実を認識したのか、痛みで反射的に身体が反応したのか、酒で焼けたようなガラガラ声の醜悪な悲鳴が男から上がった。
続けざまに篝は男に一歩近づき、ローファーの先っぽで股間を蹴り上げた。篝の履いているローファーの先端には鉄板が仕込まれているため、女である篝には分からないが、目の前の人間からすると想像を絶する痛みが足元から旋毛まで駆け巡ったようで、男は声すら上げられない様子で悶絶して下部を抱えて倒れ込んだ。
振り上げた刃が月下に照らされた。
銀色というにはあまりにも鈍く黒く光ったマチェットは、月の神聖さに唾を飛ばすかの如く朱色にその姿を染め上げた。
二度三度とマチェットの峰部分で頭部を殴打した。篝の怪力により、男の頭蓋骨がガツガツと割れる音、その度に骨が肉へと突き刺さるエグイ音が静謐な夜に溶ける。既に男の息は無かった。最後に一振り首元の大動脈を切り捨てると、B級スプラッター映画で出てくる哀れな犠牲者が夜空の下で完成した。
人間だったものを篝は見下して、マチェットをその辺に放り投げた。こう言った物証はその辺に捨てておけばエージェントが文字通り処理してくれる。自分で抱えて殺害の証拠を保存するよりも、処分してもらう方が楽だしリスクも少ないので慣れた頃には既にその方法を取っていた。
「一ノ瀬さん」
背後から話しかけられた篝は手慣れた様子で振り返る。
黒スーツ姿の男が立っている。短髪で整えられており、身長は篝より一回り大きい。黒サングラスによって顔付きは完全に隠している。特徴という特徴が完全に消された出で立ちではあるが、恐らくこの寡黙さはいつもの人だろうなあと篝はぼんやりと考えつつ疲れた面持ちで腕をポキポキと鳴らした。
この登場は完全に予想したことだった。
殺害現場の下準備はエージェントが行っている。人払いからターゲットに不利になるような状況調整まで、事前準備は完璧にエージェントが整えた上で篝のような殺し屋を呼び出す。そこまでやるんなら自分たちで殺しをやれるんじゃないかと篝は度々思いつつも、ともあれエージェントによりその殺害現場をリアルタイムで監視されているのは至極自然な事で、過去20回ほどの仕事でも仕事後は必ずエージェントが現れた。
「凶器はお願いね。あと服とか髪も処分するから代わりの服お願い」
「はい。表通りに車を止めていますので、それに乗ってください」
「あれ、表通りって言うのかな?」
篝の軽口にエージェントが反応することは無かった。それを知っていた篝は返事を待たずに足を進めて、裏路地から出て行った。
────── ◇ ──────
それは篝自身が過去を省みて、その自らの異常性を認識した上での評価である為、そう間違った評価では無い。
これまでに殺した人数は25人。ほぼ全てが依頼により金銭のために殺している。いや、金銭の為とまるで守銭奴のように語るのも一ノ瀬篝という少女を表すのに正確ではない。
篝は何処まで行っても殺人鬼である。
篝のこれまでの人生を紐解けば、殺し屋が後で、殺人鬼が前に来る。
別に殺人の瞬間を楽しんでいる訳では無い。どこぞのサイコパスみたいに人間の四肢がグロく捥げて、悲鳴に喉を震わせながら丸めたティッシュみたいにクシャクシャになった人間の絶望面が好きなわけでもなければ、人間の血潮に何かしら神秘性を感じていてそれを浴びるたびに高揚感を覚えるタチでもない。仮に自らをサイコパスと定義したとしても、恐らくは何ら違和感を持たれずに社会生活に溶け込めるタイプのサイコパスであると篝は自分自身を定義づけている。つまりまだマトモよりという自負が篝にはあった。
しかし、どれだけ正当化の理由を並べてもサイコパスであるのは違いないのだろう。
篝には殺しをしたくなる瞬間が定期的に訪れる。
授業中『あ、いま人を殺したいな~』と思えば、隣で板書する同級生の首元にシャーペンを突きつけそうになる衝動が心の底から湧き出してくる。体育の授業中、手に握った竹刀で、見本を見せる体育教師の喉仏に切っ先を突き付けたくなって何度自分の手を抑えたことか。
一回その瞬間が訪れれば、日常のあらゆる場面で篝の脳味噌の反対側に住まう悪徳を嘯く悪魔が甘美な声で囀りかける。その魅力的な提案に不覚にも篝は逆らえない。一定期間ならば堪えられるが、限度を超えたら篝自身でもどうなるか分からなかった。最悪、その時近くにいる人間から順番に殺すことだって考えられる。そんな惨事は人殺しを生業にする篝と言えど望んでいない。だから健全に、という言葉を使うには少々血生臭いが、殺し屋としてその溜まりに溜まった衝動を社会の淀みにぶつけては発散する日々を送っていた。
篝にとって殺しとはマスターベーションとトートロジーだ。違うのは他者の存在。殺害という行為には殺害対象が必要である。殺害対象は自分で見繕うことが出来ないため、より正確には篝にも無辜の人間を進んで殺すのはしたくないなと思えるくらいに一応は真っ当な感性が備わっていたため、何処からか殺しの依頼を見繕ってくれるエージェントと契約して殺し屋としてゴミを掃除し、社会貢献を兼ねて自分の欲求も発散しているというのが現在の誰にも知られていない篝の裏の顔である。
では表の顔は何かという話になれば、こう答えよう。
桶明学園1年3組、出席番号2番。
クラスから一目を置かれる人気者。殺人鬼とは正反対な肩書きと共に篝は高校生活を謳歌している。
そうなった理由の一つが端麗な容姿だった。
金色に染め上げた高級な生糸みたいな髪の毛は一本一本乱れもなくすらりと肩まで生え揃い、目鼻立ちは3Dアバターでメイキングしたかの如く美少女然としている。月並みな表現ながら西欧の王城で使われている高級な陶磁器のような白く毛穴1つない肌に、学内指定のYシャツから盛り上がった人並み以上に豊満な胸は異性の目を日々引いている。薄く筋肉が付いた四肢はゴリゴリなマッチョというわけではなく、適度に備わりつつも健康的な運動部の女子の範疇に収まっている。
それだけではない。
篝は教室内では真反対の人間を装っていた。所謂陽キャラという種族である。積極的にコミュニケーションを図り、話しかけられれば明るく笑顔で返答をする。声音も明るく、常にポジティブで人の悪口には一切言及しない。
燦然と輝く太陽のような篝は成績もある程度良いことも相まって、模範的な優等生という立ち位置を獲得していた。
───だが、当然ながらそれを篝の性格と称するのは全く違う。篝は本来物大人しく、言葉数も少ない方だ。
篝からすれば学生生活において、何よりも大事なのはベースラインだった。
言い換えれば周囲の空気に馴染むという話だ。
篝は異常な人間である自分自身を深く理解している。当然殺人行為を目撃されたり証拠を校内に持ち込むようなヘマはしないが、異常だからこそ集団に溶け込むのは非常に重要なミッションと言える。素のままで暮らして何らかの形で自身に嫌疑が向くリスクを抱えるよりは、演じることで或る程度そのリスクを減少させられるならばそれを選択するのは自然の流れと言えた。
さて、じゃあ篝が何故自身とは真反対の明るい美少女優等生を装うか。
その前提として、高校生の集団と言っても種々様々な空気が存在する。集団により繊細な空気感は変わってくるが、凡そマジョリティーとなる個人の属性がおおよそ集団の特性へと塗りつくされる。
ガリ勉が集まった集団では大人しい生徒の方が目立たない。
野球部やサッカー部みたいなアクティブな人間が集まった集団ではある程度活発的な方が目立たない。
そう言う空気感を察知することは、高校生という垣根を越えて非常に異色な精神構造を持つ篝にとって非常に大切なことだ。
なので入学して最初に篝が考えたことは集団の特色を観察することであった。
二週間観察した結果として、このクラスには比較的対外的な人間が多かった。中心人物になりそうな人間は帰宅部ではあるものの爽やかさと要所要所にウェットなユーモアを挟む人間で、クラスの人物も全体的にそのユーモアに悪乗りしたり揶揄ったりする、所謂陽キャ寄りのクラスであった。
次に鑑みたのは自分の容姿だ。
その頃はまだ清楚な黒髪ロングであったが、篝の見目は良いから何もしてなくても目立つ。寧ろ何もしていない方が一際目立つまである。中学の経験から地味であることが目立たないことを意味しないことを篝は実感していた。何故なら只ならぬ篝の容姿は異性からの要らぬ告白を招くからであった。物大人しく孤立すると、自分でもいけるだろうと自信満々な校内カースト上位の男子から愛を囁かれるのだ。勿論篝はその全てを断ってきている。『血に染まったこの手で、異常な嗜好性を持つ自分が人を愛しちゃならないよね』という悲劇のヒロインぶった思考回路も多からず存在したが、一番は単純に異性に関心が薄いからだった。自分が人を殺す片手間に男と愛を育み子供を作るなど、全く想像だに出来ない。
ともかく、以上の理由から実はある程度教室内で地位を獲得しておいた方が異性からの関心(ニアリーイコールで告白である)を招く可能性が低いことを篝は知っていた。無論皆無にはならないが、或る程度校内カーストに浸った人間ならばカースト最上位にいる篝に無謀にも告白してくることはあまりない。篝は何をしようが絶対に目立つ容姿であるから、当然のようにそれを生かして教室で地位を気付けば逆に目立たなくなるのである。美男美女が学内カースト最上位に居座ることは当然である、そしてそんな人物に性格的瑕疵が存在するはずがない、まさか殺人鬼だなんて誰も考えないだろう。そういう正常性バイアスを狙った篝の戦略である。
以上の事柄を考慮した結果として、篝は髪を金色に染め上げて、常に朗らかな笑みを浮かべて積極的にクラスに介入する生存戦略を取ることとした。誰からも好かれる人気者の美少女、一ノ瀬篝の完成だった。
その日も例に漏れず篝は聖女のような笑みを湛えて、倒錯した本性を何重もの南京錠で心の奥に仕舞いこみ、クラスメイトと会話をしていた。
今は六月だった。開いた窓から湿った風が教室に流れ込んできては髪が湿り気を帯びて嫌な気分になっていると、目の前の少女が口を開いた。
「駅前にクレープ屋が出来たんだって。だからどうかな? 放課後行かない?」
少々幼さを感じる丸い顔を人懐っこい表情にして篝に話しかけてくるのは
「ダイエット頑張るって言ってた口は何処に置いてきたの?」
「だって美味しそうなんだもん! 美味しいスイーツを食べないのは失礼だよ!」
「失礼なのはダイエットの約束を反故にするアキちゃんのその口だ~!!」
「うえぇ~頬摘まむのやめてよかがりん~!」
篝は波科の頬を摘まんでゲームのコントローラーでも操作するようにぐにぐにと十字に動かした。
波科のことを『アキちゃん』と呼んだりクラスメイトから『かがりん』と親し気に呼ばれるのはこのキャラに演じるに当たっての仕方がない"必要経費"と捉えている。名前も嫌なのに渾名なんて鬱陶しいなと思っている篝であるが、ここを割り切らないとクラスの人気者の地位に就くのが少々難しくなる。苦渋の末の決断だったりする。
8秒くらい頬の感触を楽しんで手を離すと、波科は赤くなった頬を抑えながら少し涙目で篝の隣を見た。
「そうだ、伊予君も行くよね? クレープ屋だけどケーキとか、あとプロテインケーキもあるんだって!」
と、視線を向けた先に立っている男子生徒。
「別にプロテインがあればなんでも良い訳じゃないよ」
「でも食事の度にプロテイン飲んでるよね? 折角ならスイーツで合法的にプロテイン取りたいよね?」
「普段飲んでるものは違法じゃないって」
「でもスイーツ食べたくない?」
「今日も部活あるからいいかな……」
今にもぶー垂れそうな顔をする波科に、控えめに笑みを浮かべた。
伊予がこうやって断ることは珍しいことでは無かった。実際に部活が忙しいのだろう。このグループに置いて放課後の付き合いはトップクラスで悪く、篝的には隠れ蓑として助かっている存在だ。何故なら篝が二番目に付き合いが悪いからである。
伊予が断ったことで自然と波科の視線が次の人物を定める。その男子生徒はすぐに口を開いた。
「あ、俺は行くぞ。アキの奢りならだけどな」
「奢らないよ! 自分の分は自分で払ってよ!」
「マジか。幼馴染割とかない?」
「無いっ!!!」
と、波科と気安く言い争う相手がこのクラスで最も中核と呼べる人物、
そう言えば波科と仲が良い榎本ではあるが、実は彼女が存在していないらしい。教室、引いては学内でも一番顔が良い榎本は非常にモテるみたいで、帰宅部の癖に偶に放課後別行動する時は大抵告白を受けている時だったりする。そして不服そうに頬を膨らませながらも不安そうに瞳を歪める波科を励ますのが篝の最近の日常だった。早々にその役割の引退を考えているが擦り付ける相手が居ないので暫くはこのままだろうと諦めている。
「雪香はどうするんだ?」
「私はいいわよ。甘いの別に好きじゃないもの」
榎本がグループの最後の一人に言葉を投げ掛けた。
かなりの文学少女でありつつも人と話すのが嫌いじゃないみたいで、篝も度々話す機会がある。どちらかと言えば落ち着いた性格の長灘は篝にとってこのグループで一番話しやすい人物であった。といっても比較的という枕詞を越えてはいない。篝の人生において本当の意味で友達と言える人間は誰一人存在していない。
「そうか、まあなら仕方ないな。そうだ、篝は来るよな?」
さりげなくこちらへ目配りされる。しかし今月既に三回は放課後を共にしているので、これ以上参加したところで大して意味は無いと考えた篝は今回は首を横に振ることにする。
「ごめんね! ちょっと放課後は外せない予定があるんだよね」
「おいおい、同じ帰宅部じゃん俺達」
「帰宅部の期待の星だからね、忙しいんだよ私って」
「いや暇人じゃん」
「悪いね~」
榎本もそこまで本気で誘っている訳ではなく、特に執拗に食い下がることはせずそのまま引いた。そんな榎本へ波科がニコニコと嬉しそうに目線を送っている。本日は件のスイーツ店に二人きりで赴くことになるのだろう。
篝はサイコパス寄りの人間ではあるが、こういった感情の機微を読み取るのは不得意ではない。幼馴染という関係性からも只ならぬ縁があることは察していたが、やはり、波科は榎本のことを好きであるらしい。数日前から確信していたとはいえ、こうも微笑ましいものを見せられると篝でも何も思わないというのは難しい。面倒だから早くくっ付けバカップルと笑みの裏で毒舌を忍ばせた。
さて、そろそろ会話を切り上げてしまうかと考えていればスマホのバイブレーションが鳴る。一回、三回、また一回というモールス信号のような振動の仕方は、篝にとってこの一年で非常に馴染み深くなったものであった。
そう、仕事の連絡である。
────── ◇ ──────
一旦波科たちに断りを入れて、女子トイレの一番奥の個室に入ると簡易的な鍵を掛けた。個室内の天井は開いているため篝は一定の警戒心を持ちながらスマホのチャットを確認する。勿論普通のチャットアプリじゃなく、エージェント特製のアプリである。UIこそは普通のチャットアプリを装っており、チャット履歴もダミーの物がいくつも並んでいる。しかし実際にこのチャットアプリにメッセージを送る人間は一人しかおらず、全て殺しの依頼だ。受信してから二時間以内にデータが勝手に消える仕様となっていて、承諾する場合はその間に返答を送らなくてはならない。まあなんだ、言ってしまえば篝のような殺し屋はこうやって体よくつかわれている訳だ。言わば篝はエージェントにとって葉であり、葉は幾らでも刈り取っても代わりが出てくる。だから情報は絶対に端末に残らないように工夫が凝らされている。
エージェントとのチャット画面には通知が有ったにも関わらず何も表示されていないが、特に疑問も抱かぬまま篝はポケットから長方形上の小型の機械を取り出した。RASトークンである。小さな液晶が付いており、そこに表示されている数字は30秒刻みで不規則にその数を変化させている。どうもこのチャットアプリではRASなる暗号化方式を用いた本人認証を行っているらしく、高校生の篝には詳細な原理とかは詳しく分からなかったがこの数字が表示されている間にエージェントに同じ数字を返答すれば案件の詳細が返ってくる。そういう仕様だった。
トークン端末を取り出した瞬間が数字の変化する凡そ5秒前だったため、篝は少しだけ待って数字がリフレッシュされたところで新しい数字を入力した。ここでRTAの如く素早く5秒以内に数字を打つことを試みても特に問題はない。誤って古い数字を打ってもペナルティーは無いことも確認している。しかし篝はこういうことはきちんとやりたいタイプだった。
表示されたメッセージの内容を目で追っていく。次第に篝の表情が困惑に包まれた。
ここで初めに、送られてくる情報は下記の決まって五種類である。
・本人写真
・氏名、性別、年齢、住所などの個人情報
・殺害計画
・殺されるべき理由
・特記事項
この中で最も重要な情報は何か。
これまで篝は一番目であると判断してきた。写真は全身写っていて、基本ここ三カ月以内のものだ。目つきや体格、筋肉量、利き手、利き足、眼鏡の有無など、全て殺しを実施する際に重要な情報となる。その他も知っておいて損はないが、対して緊要じゃない。大事なのは殺しをする上で相手を知ることだ。だからそれ以外の優先度は落ちる。そう篝は思ってきた。
しかし、今回は大分毛色が違う。
まず写真。ここからして篝の脳を僅かに揺さぶった。
何故ならクラスメイトだった。
誰よりも目立つ長い銀髪。姿を撮影された場所に見覚えがないが、三カ月以内であることを考えればこの学校のどこかの教室内なのだろう。顎を手の上に置いて窓の外を青い瞳が見つめている光景は美術画すら思わせる。長い下睫毛に、ミルクを落としたような白い肌、普段からそうだが写真でも物憂げな表情をしていて何を考えているかさっぱり分からない。個人情報を見るまでも無く分かる。名前は
そして、それが今回のターゲットということらしい。
ここで普通の精神構造をしていれば多少の戸惑いや忌避感を覚えるだろうが、何度も言うように篝は普通の女子高生ではない。知人や善人はなるべく殺したくないが、そういう状況があるならば迷わず殺せる、マトモな倫理観に期待をしちゃいけない類の人種である。それは例えば仲の良いクラスメイトの波科だったり、榎本だったりでも変わらない。殺すべき対象となれば殺す。それが篝の生き方だ。だから写真を見た刹那の動揺はすぐに収まった。
問題は五番目、普段ならば特に気にも掛けない特記事項だった。
ここはエージェントの趣味が良く出ている項目だと篝は思っている。或る時は殺害対象の人間性の否定であり、或る時はしょうもない泥沼恋愛の摘要が書かれていたり、或る時はアルコールとギャンブルに溺れて家庭崩壊させたとか、要するに「そんなの知ってどうするんだ」と篝が思うようなことばかり羅列される項目だった。殺す相手の人生の一部を知ったところで何のプラスにもならない。そう思って篝は毎回読み飛ばしている。
しかし今回は訳が違った。
初石月。
特記事項が言うには、彼女は既に最低30人をも殺害してきたシリアルキラーだというのだ。
しかもその全てが彼女がやったという証拠もなく、それ以前に警察の捜査線上に浮上することもなく、迷宮入りしているというから驚きも一入である。
教室じゃそんな素振りが一切ない、と言えば自分から暴露する殺人鬼なんていないので当然なのだが、それでもギャップの高低差がありすぎて流石の篝でも驚愕してしまう。この見た目で凶悪殺人鬼。でも篝は脳内をどれだけ探ってもこの周辺でそんな大量の行方不明事件があっただなんてニュースが報じられた記憶は存在しない。可能性として今思いつくのは二つ。事件を起こす為だけに遠出をしているのか、それとも篝と同様に何かしらの組織から依頼されて殺人を引き受けているのか。篝はすぐに前者を頭から消去した。この情報化社会において個人で引き起こした事件と仮定すると、1件や2件ならまだしも30件を超したらとても隠蔽などできるべくもない。恐らくだが初石千という少女のバックにはそういうきな臭い組織がいるのは考えるべきだろう。その仮定で言えば、初石千は篝の同業者と言うことになる。
───つまり殺し屋の殺害依頼、か。
情報をインプットしきった篝はスマホを閉じて、ついでに用も足すと便座を下ろて身嗜みを整えながら考える。
一言で言えば、冗談じゃなかった。
殺し屋とは戦いのプロを意味しない。名の通り、飽くまで殺しという限られたフィールドに関するプロであり、純粋に戦うという話になれば自衛官とか警察官とか武闘家の後塵を拝する。しかし、それでも篝はそういった相手でも今まで殺してきた。理由が明白で、大抵の人間は生と死の境界線を違えることに忌避感を持つからだ。相手を殺しかねない一撃を繰り出す時、大抵の人間は一瞬で留まらない戸惑いを覚えて動きが鈍る。特にそれは格闘技や喧嘩などで暴力に慣れた人間に多い。自分の攻撃の威力を知るからこそ躊躇いの心が表層化する。言わば、殺し屋にとっては約束された絶好機。
その隙を殺し屋は絶対に見逃さない。
どれだけ形勢が悪かろうが、どれだけ無様にやられていようが、最後まで相手の死に執着するのが殺し屋という人種だ。篝だって幾度となくそうやってターゲットを事切れた肉塊に仕立て上げてきた。殺し屋にとっては一般人など鴨でしかないのだ。
しかし相手が殺し屋となれば話はまるで違う。
互いに死を生業とする者同士、一度殺し合えば有利不利のない実力勝負に持ち込まれる。結果を決めるのは腕っぷしだけだ。一年以上殺し屋として闇に身を埋めてきた篝からすればそんなものは不確定要素でしかない。一ノ瀬篝は絶対に死が計算出来る殺し以外を引き受けない。成功と失敗を天秤に乗せて、1ミリでも失敗に傾くようならば篝は依頼を引き向けないようにしていた。
篝は返信することなくスマホをスリープモードにするとトイレの個室を出た。手洗い場を見ると、先程からずっと同じ場所で喋り続ける女子生徒3人組が未だにその前を占領していた。手を洗うことなんてせず、スマホを片手に互いのSNSを見せ合いながら時折けたたましい笑い声が響かせる。そして手洗い場の数も丁度3つ。非常に邪魔なことこの上ない。
薄目で見ながら篝は考える。もし殺すなら殺し屋よりも、こういう頭が悪そうな女の方が良い。殺すのが楽な割に、多少は世のため人のためになりそうだ。
篝は笑顔で女子生徒たちに断りを入れて退いてもらいながらも、心の中で見下した。
────── ◇ ──────
教室に戻って篝が一番最初にしたことは初石月を観察することだった。
現在の席順はまだ入学して間もないということもあって名前順である。篝は窓際で前から2番目が定位置、一方で初石は廊下側先頭だったので、これまで一度も話したことは無かった。正体も正体なので、今から話そうという気概も別にない。
しかしクラスメイトに同業者がいるという好奇心は篝が視線を寄せるに十分な理由だった。
篝が何度か見た印象の通り、初石は無表情ながらつまらなそうな顔で本を読んでいる。何を読んでいるのかは書店で貰えるブックカバーが邪魔をして読み取れない。ペラリペラリと緩慢に捲る仕草だけが初石の動きの全てに見えた。人間らしさが皆無なその静を極めたような姿勢に、再び不気味な女だなと篝は視線を切った。これ以上は観察しても収穫は得られない気がしたのと、何より初石に正体を勘付かれることは篝の中では絶対に避けるべき事項だった。
「かがりん何見てたの?」
そんな篝に対して、空いていた前の席を陣取っていた波科が髪の毛をふわりと揺らしながら問いかける。
一瞬フリーズしたが、すぐさま篝は目の動きだけで初石の方向を確認して言い訳を作った。
「福縄君って最近ピアス開けたよね。あれって校則違反とかならないのかなって思ったんだ」
「ピアス……?」
波科が廊下側へ視線を遣った。初石から後ろに二席数えた位置に座る福縄は、このクラスでは最もチャラくてノリも軽い、言葉を隠さず言えばウェイ系という人種である。だが篝の記憶だとピアスなんて先週までは開いていなかったように思える。開けたのは多分つい最近だ。これは中々良い言い訳になったんじゃないだろうか。
そんな自己賛美をしていると、波科が少し目を輝かせた。
「全然気づかなかった……よくそんな細かい変化気付くよねかがりん。というかもしかして……かがりんに春!?」
「違うから」
想像以上に冷えた声音が出てしまう篝である。でも大きく否定をしておかないとこの後が面倒そうなので、結果オーライとして篝は考えることにした。
そんなことなど露知らず波科はピンポンと口で言って続ける。
「じゃあ夏!?」
「もう意味分からないよ?」
「とか言って二人っきりで水着デートとかもう計画しちゃってたり?」
「しないから! 第一福縄くんとは私全然喋ったことないからね!」
「なーんだ、そういう感じか」
拍子抜けしたような表情を波科は浮かべる。それに対して「もぉ~やめてよ」と言いたげな表情を作って篝は不服な声を上げた。実際九割九分は本気で、他人の恋バナにハイエナみたいに食らいつく女子高生の生態が篝は嫌いだった。
波科の横に陣取っていた榎本が昼餉として食べ終えた菓子パンの袋を固結びしながら、篝に顔を向けた。
「そういや篝って彼氏いんの? いやいないか」
「ちょっと断定早すぎない?」
「だっていたら俺らとこう毎日飯食ってないだろ」
「いやそうだけども乙女心の問題!」
と、そんな純真無垢な心を篝は欠片も持ち合わせていないが演技でそう嘯いた。
その言葉に僅かに榎本の口角が上がる。それを視認してやはりかと思った。何回も経験があるから分かるが、恐らく幼馴染の波科を差し置いて榎本に好かれている。篝は顔には出さずげんなりした。
「へえ、まあでも福縄はアレで顔は悪くないよな。チャラいけど」
廊下側に視線を配った榎本に、波科は立ち上がり榎本の肩に手を置いた。
「潤ちゃん、詮索屋は嫌われるよ?」
「ドラマでしか聞かないぞその言葉。てかアキのことは詮索してないだろ」
「なんかムカつくその発言!」
「いやだって幼馴染だし。お前のこと全部知ってるし」
波科の動きが止まった。篝が良く見れば、波科の頬が気持ち少し上気していて、ああこれ照れてるんだなと理解する。
固まった波科に対して榎本は困ったみたいにぽりぽりと頬をかいた。
「おーいどうしたアキー?」
「な、なんでもないよ!?」
「うるさっ」
照れ隠しに波科が榎本の頭をぽかぽか殴る。
ハイハイごちそうさまでした。お会計は何円なんですかね。
冷めた気持ちで幼馴染同士の気安いやり取りを見ていた篝は、唐突に脳に小さな糸が滑り込んできたような感覚を覚えて、直感に従い廊下側の席に視線を向ける。
初石月がこちらを見ていた。
澄んだ南国の浅瀬みたいな水色の瞳で、篝の姿をじっと捉えていた。
なんだろうなと篝は思う。
単純に五月蝿かったから目で責められているのかもしれないと最初は思ったが、それにしては初石の顔に非難の色が一切浮かんでいない気がする。いつも通り無表情で、何を考えているかまるで見通せない出で立ちで、手元の本を閉じて篝をただ見つめている。
自分が殺しのターゲットになっていることがバレた───という線も怪しい。
目を見れば篝には分かる。人間、どんな感情を抱いているかは顔では隠せていても目では隠せない。目というのはそれ程までに情報の宝庫と言える。
そして初石のそれは、不気味な程に一点を注視する目だった。篝には分かる。確かに視線は感じるが明確には興味を持たれていない。奇妙な岩を見て、この窪みが異常に深いだとか一部だけ色合いが違うだとか、無機物を観察する眼差しであって、決して人を見る目ではない。初石の不気味さも相まって、篝でなければその視線の無機質さに恐怖を覚え、一時の気の所為だと信じ込み一時間後には忘れようと試みるだろう。
初石が何を考えているか、その視線の意図は何なのか。
篝がその意図をはっきり理解するのは少し後の話であった。
────── ◇ ──────
それから数日の間、篝は特段変化の無い日常に埋没した。
あれ以降エージェントからの依頼は一通もこず、期間が少し空いたことで篝の抱える殺害欲求は高まりつつもまだ1週間から2週間は持つだろうという予測を立てながら、篝は7月下旬に迎える前期末定期試験の対策を進めていた。
一応校内では程々に優等生として装っている篝だが、実際のところ勉強は嫌いではない。特に好きなのは化学だ。これは参考になるなあと思いながらまだ授業でやっていない分野まで独習する程度には化学の勉強を気に入っていた。因みにここで「何の参考になるの? もしかして研究とか実験とか好き?」などと問うのは愚問である。一ノ瀬篝は殺し屋である。残りの句は言うまでもないだろう。
6月も中旬に入り、篝のクラスは一回目の席替えを迎えた。今までの座面図としては篝の1つ後ろに伊予がいて、その更に後ろに榎本が座る図式だったのだが、公平でアナログなくじ引きによって篝は中央最後列へ移動となった。いつものグループメンバーはというと2つ右隣に波科、左斜め前に榎本、長灘は窓際最前列、中央最前列に伊予という形に変化した。因みに以前軽くスケープゴートにした福縄が篝の前に来ており、何だか凄い騒いでいて鬱陶しいからこいつの席だけ窓から投げ出したい。元来物大人しめの性格ゆえ、本気で検討してしまう篝である。
「よっ、これからも宜しく」
憂鬱になったのでこっそり溜息を吐きかけて、その直前に榎本から話し掛けられた。仮面をすぐに被る。
「うん。腐れ縁だね〜アキちゃんには負けるけど」
「アイツとは…………何年だったか忘れたけどめちゃ長いからな」
途中まで数えようとした榎本は、思考放棄するように手をヒラヒラと振った。
そこに割って入る小さな影。
「12年だよ!! なんでそう忘れるのかな潤ちゃんはさあ!!」
「いや、普通に良く覚えてんな……流石幼馴染」
「そっちこそ私の幼馴染なんだから覚えててよ! もう……なんか私の一人相撲みたいで淋しくなるなぁ」
「いやガキの頃の記憶なんて曖昧だしな。中々そこまで正確に覚えてねえって」
「私覚えてるけど? 潤ちゃんが馬鹿である事実を棚に上げて世の中の平均を下げるのは止めた方がいいんじゃない?」
「アキお前、それ言ったら喧嘩だぞ」
「やるの? 負けたらケーキセット奢らせるよ?」
多分大声で話す内容じゃないよなあと篝は気まずくなりながら空笑いした。こうやって直ぐに二人だけの内輪の空気を作るので、こうなったら篝としては適度に放っておく以外の選択肢が無い。
仲良さげに話す二人から篝は目を離して、篝は右隣の住人に気付かれないように眼球の動きだけで視線を送る。
……まさか、この人が隣に来るとは。
そう篝が考えながら見た先にいる少女は、初石月だった。
常に黙する美少女としてクラスでも主に男子生徒からの人気が高く、そこに存在するだけでどこか空気を綺麗にしてまいそうな程眩く儚い美貌を持っているマドンナだ。虫すら殺したことが無さそうな純白な出で立ちであるが、ただ篝だけはこの美少女が殺し屋だと知っている。
あれ以来何度か視線こそ感じるものの、特に初石からの接触は無かった。篝からも接触はしていない。
そこには明確な二つ理由があった。
一つは単純に物理的な距離。前の席では篝の席と初石の席は教室の端と端のため、単純に接触の機会が皆無で話す機会が一切無かった。
二つ目は初石月の正体。なにせ考えてもみて欲しい、どれだけ容姿が良かろうと殺し屋と分かっていて好き好んで仲良くする人間がどこにいる。下手に関われば同業者の勘から篝自身の正体すら見破られそうで、最早初石にはお近づきになりたくない要素ばかり詰め込まれている。普通に地雷でしかない。
上記を以って、出来るだけビジネスライクな関係性のご近所付き合いをすることが最善手である。
こんなところから正体がバレてしまうのは確実に避けなくてはならないのだ。波科や榎本と程々に友人っぽい関係性を構築しながら、初石とは最低限の会話だけで済ませるようにしてやる。
そう決意したその日に、篝は自分の下駄箱に差出人不明のラブレターが投函されているのを発見した。
────── ◇ ──────
そして18時前、特別科目授業棟の裏に篝はいた。ラブレターの告白を受ける為だった。
至極面倒だが、篝の現在の学生生活を鑑みるとラブレターを無視することは少なからず現在頑張って育んでいる優等生的なイメージに傷が入る可能性がある。それにこれが初めてと言うわけでもない。実は高校入学以降でもこれまで3度ほど呼び出されては告白を受けていたりするので今回も溜息混じりにこんな人気の無い場所に足を運んだ訳ではある、のだが、今回はちょっと酷い。あまりにも目に余る。
なにせ待ち合わせ時間が18時だ。どう考えても遅すぎる。帰宅部の篝的には放課後から2時間強も待たせる相手とかもう論外中も論外であって最初こそキレそうだったが、図書室で勉強して時間の有効活用は出来たので今は半分くらいは水に流してもいいかな〜と考えている。残り半分はその命で弁償してもらおう。冗談だ。こっぴどく振ることでチャラにしよう。篝はYシャツのシワを気にしながら、常識的にそう考えた。
にしても夕方だった。
太陽は地平線の彼方へ沈み、夕焼けの残り香が辺りを覆って、日中より若干冷えた風が篝の折り目正しいスカートを揺らす。影はより濃くなり、校舎の裏という位置関係もあって時間帯以上に暗所に感じる。
特にこの場所は生徒が全く来ない場所で、教室がある本棟やグラウンドからも少し距離があるため他の生徒の声は微かにしか聞こえない。鳥や虫すら黙った瞬間には世界が時間を忘れ去ったのかと思ってしまうほど、何一つ動きのない退屈な場所だ。
思わず篝はスマホを見た。
ホーム画面のウィジェットに置かれたデジタル時計は18:00と表示している。一応差出人が来る予定時刻になった訳だ。
だから篝は辺りを左見右見してみるが、人影はやはり一つもなく足音すらしない。
考えたくはないが、悪戯の可能性が頭を過る。
再三になるが篝の容姿は良い。クラスで最も容姿の整った初石月にこそ並べないものの、燦々と突き刺す太陽のような笑みと、照り返すような煌めく金色の髪。篝自身でもその美少女っぷりを一応は自負している。
だから、これは飽くまで想像話だが、そんな篝を見て調子に乗ってるなどと難癖をつけて嫌がらせをしようとする命知らずな女子生徒がいるのかもしれない。実際に篝は同学年でトップクラスに顔の良い榎本というイケメンと仲が良く、あと同じグループの伊予も榎本には譲るが何だかんだ女子から人気のある男子である。クラス内イケメンツートップと親し気な顔の良い女というのはやっかみを買ってしまう対象になるのだろうか。分からないが、だとすれば篝の生存戦略は間違えたことになる。初石のように、誰とも喋らず孤立して学園生活ソロプレイの方がリスクは生まれるものの気楽で生きやすかった。
結果次第では方針転換もあるなと篝が悩んでいたその刹那───同時に複数のことが起きた。
まず最初に篝の直感が反応した。第六感と言っていい。
神経に危険信号が伝播され、身体を反りながら篝は地面を蹴ってその場から後ろへ飛んだ。
次に極々小さい風音が聞こえた。ただ発生源は篝の頭上だ。当然竜巻が自然発生したとかじゃなく、これは風切り音だ。篝が確認のため見上げれば人間が片足をこちらに向けて降ってくる、そんな状況だった。
その一瞬の現認から篝は人影が初石月だと特定した。降ってくる人物は女子学生用規定制服のスカートを履いていて、普段は背筋に沿って流れる銀食器のような髪が頭の上で広がっていた。間違いなく初石だ。何なら重力にスカートが舞い上がって少しアダルトな黒い下着まで衆目に晒していたので、何に使う訳でもないが一応篝はその光景を脳に焼き付ける。
しかし、そんな学生生活用の思考回路は初石の右手に持たれた獲物を見ればスイッチが押されたみたいにカチリと切り替わる。
それは包丁だった。一瞬で良く見えないが恐らくはそうだ。刃渡り15cm未満、何の変哲もない三徳包丁に見えた。
何のためにそんな物騒なものを、なんて言葉にするまでもない。初石月は殺し屋である。そのことだけ知っていれば、状況は簡単に読めた。
(私に初石月の殺害依頼が来たように、向こうにも一ノ瀬篝の殺害依頼が来てたってことか。笑えない)
そう篝が結論付けるのと、初石が上から篝を蹴り飛ばそうとした形で地面に着地をするのは同タイミングだった。
殺し合いになるのは避けられそうにない。
咄嗟に篝は自身の持つ物を思い出して、周囲を右から左に見遣った。直接的な武器になりそうなものや、相手の動きを牽制できる長物みたいなものも此処には無い。当然今は仕事道具のマチェットは持ち込んでいないので、あるとすれば身に纏った制服とローファー、それからスマホ程度だ。形勢的に不利である。
「初石さんだよね? 二階から落ちてきたけど大丈夫?」
篝は少しでも初石の油断を引き出すべく平時と同じような話し方で切り出す。
多少思考停止してくれれば儲け物程度の行いだったが、
「一ノ瀬篝……ごめんなさい。今から貴方を殺す」
初めて初石はの声を聞いたが、蚊の鳴くような小さく、氷のような声だった。多分今抱く感想じゃないが。
聞く耳すら持たなかった初石はそのまま包丁を逆手に持って、低い姿勢で篝へ切り込んでくる。少しだけその場で待った後に、釣れた、そう思い背後に軽く身体を引く。コンパクトに畳まれた腕で振るわれた三徳包丁が腹部の5mm前を通過していった。返す刃を振るう前にカウンターで顔面に拳を入れようとする。初石は小さく避ける姿勢を取ったが、野球部がバットでスイングしたような轟音を前に、寸前に大きく回避行動を取った。
距離が少し空いた事で篝は逃げることを考えた。初石の足の速さは不明ではあるが、距離的に人目に付く場所に逃げ込むことは簡単だ。完全下校時刻手前とはいえ、まだ部活に勤しむ生徒は多く残っている。助けを呼ぶだけならば大声を出しても良い。
しかし篝は頭の中で直ぐに却下した。自身の異常性が露見する可能性を考えれば得策と言えない。何せ殺し屋に急襲されて無傷で助かるだなんて篝の常識では有り得ないことで、はっきり言って異常である。篝は自身の持つ異常性の一部でも表に出すことは避けたかった。
「なんでこんなことするの? 話なら聞くよ?」
「凄い動けるのね。一ノ瀬篝……危険だわ」
代わりに白々しく口を開いたものの、やはり初石は聞いていない。篝は目を見た。完全に仕事を全うすることだけを考えている目だ。
再度距離が近付いた。初石は力こそ無いが動きは軽量級ボクサーのように素早い。そして容赦が無い。太い動脈や静脈の通る部位を執拗に狙った刃筋は、篝でもその全てを無傷で避け切ることは叶わず、服に掠っては細く切れ、そのまま肉に刃が浅く通り、細腕からは血潮が飛び散った。服が斬られるにつれて次第に痛々しい風貌となっていくが、見た目が派手になっただけで大した怪我は負うことなくカウンターの一撃を狙っている。
あまりにも篝が避け切るからか、初石は仕切り直しとばかりに距離を開けるとキョトンと不思議そうな顔をして口を開いた。
「もしかして喧嘩とか慣れてるの?」
もしかして……正体バレてない?
篝は内心で首を傾げつつも、嘘は吐かないことにした。
「やってないから。私、非行少女に見える?」
「見えないから聞いた」
「あ、そ」
気付けば淡白な返事になっているのは相手が同業者だからだろう。篝は気付いていないが、今の立ち姿は学内での篝と違い感情というものがストンと抜け落ちて、徐々に地中から染み出してくる水のような殺意に神経が研ぎ澄まされている。もし目の前で相対するのが波科や榎本であればそのギャップと不気味さに動揺を隠せなくなるだろうが、初石はクラスメイトにも関わらず平然とした表情で篝を見遣って、真っ白な頬に咲いた篝の返り血に気付くと指で拭い、それを猫の如く舌で舐め取った。普通にキモイと思ったので一歩分篝は距離を空ける。
「甘い」
「それは無いでしょ」
「私、血は結構好きなの。サラリとして喉越しの良い血、嚥下に困る粘性の血、甘い血も辛い血も、全部苦しくて私の好物。温くていい匂いがする」
「ふーん」
恍惚とした笑みを浮かべる姿を見て、狂ってるなと篝は思う。初めて初石の笑みを見たが、その表情だけならば本当に絶世の美少女とも言える顔立ちだった。しかし包み隠さず薄いレースのような狂気を丁寧に纏ったその相貌は、万人が万人、異様であると断じれるくらいには歪な感情を醸し出している。
依然と初石はペロペロと篝の返り血を舐めては、高級なワインのテイスティングでもするかのように口内で味わっている。絵面的にも衛生的にも良くなさそうだ。意外と常識的な感性を持つ篝は更に一歩後ろに下がった。割と本気で関わりたくない。
「……私、貴方の血、好きかも。甘くて、蕩けそうで、熱っぽい」
更に篝は一歩下がった。
「勘弁してよ」
「好き。ダメ? だから殺すね?」
「何を言ってるか分からないよ」
もう脈略もあったもんじゃない。てか私の名前知ってたんかいお前。
篝が拳を構えて、それを見るや否や初石が飛び出した。
一つ一つの対処は難しくないが、やはりスピードだ。ちょこまかと態勢を変え、左右の足をダッキングのようにステップを踏み、意識の切れ目を狙うかの如く包丁が蛇みたいな軌跡を辿って篝の急所を狙う。ジリ貧だった。真っ向から向き合っても怪我を追い続けるのはこちらだ。今は良いが、このまま傷が増えれば集中力も削がれて致命的なミスを犯すのは目に見えている。しかしこうも次から次へと刃を繰り出されると攻めるにも引くにも、突破口を開くことが難しい。
篝は初石のことを殺す気がないのもまたやり辛さを覚える理由の一つだった。
殺人衝動を抱える篝だが、無駄な殺しをしない主義でもある。こと篝の日常面を知る人間となれば尚更だ。殺し屋としての顔がバレていないのなら、その状態を通した方が都合が良い。殺意はあれど殺意を果たす気はなかった。
しかしやり辛さという点で言えば、それ以上に、拳と刃の間合いの違いが大きい。殴るためには腕を折り畳むこともある拳に対して、包丁は腕を広げきっても隙が少ないので総合的に間合いが長い。更に機敏なステップも合わさり、下手に飛び込めば死角から包丁で急所を抉り立てられるだろう。初石はこうして容易に近付けない状況を作り続けている。殺し屋というのは正面から戦って強い必要性は無いが、少なくとも初石はかなり出来る部類だ。同じく出来る部類の篝がそう思うのだから間違いない。
スタミナには自信がある方なので、長時間粘って隙が出来るのを待つのがきっと最善手だ。
だがそれを分かった上で篝はこの場に誰かが来ることを予期して、急戦を仕掛けることにした。完全下校時刻が過ぎれば教師の見回りが始まる。こんなことで自身の正体の影でも踏まれようものなら今までの努力が水の泡だ。それに相手が殺し屋ならではの勝算も思いついた。
より一歩近づき、右腕でジャブ。屈んで交わされる。膝で追撃しようとしてそれも猫みたいに横に飛び抜けて不発。代わりにフィギュアスケートのアクセルを思わせる足払いをしてきた。篝はその場で跳ねて避けて───。
「かかった」
「掛かってないけど?」
足払いをした足を引っ込めながらクルリと2回転目を挟んで、回転斬りの形で初石は斬り掛かった。それに対しての篝は空中で身を引くことで、紙一重で斬撃を回避した。しかし初石は見逃さない。着地する寸前に更に近寄る。
「でも避けれないよね?」
そう、避けれない。人間はジャンプした着地直後に即時次のアクションを起こすことは不可能に近い。雑技団や総合格闘家ならともかく、ただの殺し屋でしかない篝にその術はない。それでも意地で首元を引っ込めて喉元へ振るわれた刃を避けて、これからカウンターパンチを狙うかの如く右腕を広げた。
「分かってた、よ?」
しかし初石は振り抜き掛けた刃を手首の動きで反転させた。順手から逆手に持ち変えると、今度こそ深傷を負わせようと首を狙う。拳よりも早い。これは当たる。何もしなければ篝は大静脈を斬られて多量の出血をするだろう。そうなれば篝は死ぬ。
死の寸前。限界ギリギリ。マージナル。格闘家と違い、殺し屋は相手の死を執拗に狙う。例え作られた隙だとしても、致死への糸が繋がってさえいればそれを手繰り寄せて死に導くのが殺し屋の本懐と言って良い。殺し屋は、自身が殺せると思った隙を確保したら止まらない。
だから、篝はそれを利用した。
首の皮膚が数ミリほど切れるて流血すると同時に、初石の横っ腹に衝撃が駆け巡って、理由も分からず蹲った。岩───いや、鉄のような物で殴られたような痛みに思わず呻き声を上げる。顔も顰めた。
それを逃す篝ではない。すぐに取り押さえて、袈裟固めの形で抑え込む。その際に右腕を締め上げることで包丁を取り上げ、その辺の草むらに投擲した。最初こそ抵抗するが、すぐに力が抜ける。
観念したのか四肢を擲ち、肺に入った衝撃を逃がすようにゴホゴホと咳を吐いた。
数秒して苦しそうにしながら口を開いた。
「今のは……」
「安全靴って分かる? アレは靴に鉄板が仕込まれてるんだけど、このローファーもそうなんだ。見えないでしょ」
原理を言えば簡単なことだ。篝は隙を一つ献上すれば、初石がそれを逃さずに殺し切りに来ることを読んでいた。王手を差し切った直後は後は詰めるだけと油断する。だから初石の利き手と反対側の死角から、篝はカウンター気味に横蹴りを放った。気付かれないように腰も入れずに。普通ならそんな蹴りなど牽制以上の威力を持たないだろうが、篝の感触的には骨が折れている。篝印の馬鹿力とローファーに仕込まれた1kgほどの鉄板によってある程度の威力を発揮されたのだ。
しかし、上記のアクションは言葉ほど簡単ではない。
予備動作も無く、相手に悟られずに横蹴り。プロのムエタイ選手ならいざ知らず、篝は格闘技経験者ではない。それが意味することはつまり、一ノ瀬篝という少女が力と天性の才能───殺しの才能を持っていることに他ならない。
「で、何で私を襲ったのか教えてくれるよね」
尚も胸元を強く圧迫して、四肢を動かせない状態にしつつ問いかけた。
「……依頼があっただけ。貴方を殺せって」
「それにしては雑だよね。こんな人払いもしてないような場所で」
「人払い?」
聞きなれない単語を耳にしたように初石はキョトンとした表情を張り付けた。惚けているわけではなさそうだ。
「そんなのは、しない」
「ふーん。背後に誰がいるの?」
「……教えられない」
「そうなんだ」
篝は肋骨の当たりを入念に抑え付けた。苦悶の表情が浮かぶ。
初石の口が小さく開いた。
「ち……」
「ち? ちゃんと言ってくれないと困るよ私」
「気持ちいい……好き……」
うわ、こいつ変態だ。良く見たら苦しそうに喜色の笑みを溢すという器用なのか何なのか分からない表情をまでしてるし。
変態に図らずも触ってしまっている篝は手を少し緩めそうになるが、一応こんな奴でも殺し屋だということを思い出してすぐに力を込める。
「冗談は良いから、言わないと痛いよ」
「ふふふ……痛いの?」
尋問しようにも駄目そうだった。完全に無敵なドMと化した初石に篝の目が死んだ。殺さず無力化した経験が少ないから分からないが、こうやって傾いて尋問を切り抜けようとしてるんじゃ……とか一瞬思うが、直ぐに否定する。だってこいつの目本当に嬉しそうだもん。口元は堪えるように一文字にして苦悶さを零しているのに、目だけは恍惚というか爛々というか……。目を反らす。確認するんじゃなかった。篝の目が更に死んだ。
どうしようか篝が悩んでいる間にも初石が期待する様な視線を送っている。
「………………やらないの?」
「黙れドM」
「……言葉の刃も、アリ」
言葉責めもストライクゾーンに入ってるとか無敵かよ。殺し屋とかじゃなくてスパイの方が適正あるだろ。
ともかく気を取り直して、篝は冷たい目で初石を見た。
「私を殺すの、これで諦めてくれる?」
「うん」
「もし断るならクラスメイトに初石が殺し屋だと──────なんて?」
「うんって言った。その必要はない」
拒否されることを前提に交渉を進めようとして、呆気無く要求を呑んだ初石に対して一瞬空白が生まれる。
肩の力が抜けたように少し頬を緩めた初石は、それを気にせず言葉を続ける。
「丁度良い機会かもしれない。私は殺し屋を辞めようと思ってた」
「それは本心で言ってる?」
「勿論。嘘を吐く理由はない」
「どうだか」
「……どちらにせよここで貴方を殺せなかったから、もう辞めるしかない」
「理由は?」
「殺し損ねた殺し屋に、存在価値はない。私も適切な処置を取られると思う」
処置───殺される。つまりは蜥蜴のしっぽ切りか。
他の殺し屋と会ったことは無いが、少なくとも篝のエージェントは殺し屋を使い潰すようなことはしていない。汚れた雑巾を取り替えるみたいに殺し屋の替えはそう効かないという考え方もあるし、何より篝のエージェントは人権派であると良く自称している。人を殺して良くもまあ人権派とか嘯くなとか思ったりもするが、まあ、篝的には消されるよりはマシだ。
……随分と乱暴なやり口だと篝はそこで一息つく。篝としては初石が死んでも死ななくとも構わない。クラスメイトと言えどこれまで一度も関わってこず、殺されかけたのだ。加えて変態のドMだし良い感情は当然ない。
事の終着を予見して、袈裟固めを緩めて────それが悪かった。
初石は足を絡めて、グルンと篝ともろとも半回転。コンクリートの固い感覚が背中を伝わり、ヒヤリと神経が冷え込んだ。マズイ。油断した。私の馬鹿……!
入れ替わるような形に初石がマウントポジションを取った。
すると、篝の耳元で小さく吐息交じりに呟かれた。
近接格闘では敵わないと悟っていたのか、そのままバッと飛び起きては初石は篝から走り去って行く。
服だけはボロボロの篝一人、その場には取り残された。
初石を追いかけることはせず、緩慢な動きで立ち上がるとスカートや制服を叩いて土埃を落とす。白いYシャツはところどころ切られ肌が見えており事件臭がする格好になってしまったが、篝的にはいつものなのであまり気にはならない。
それ以上に、
「……また殺しに来る、ね」
小声で言われたことを反芻して、篝は口元を歪めた。
何だか可笑しく感じてしまう。
折れた骨は当分はくっ付かないだろう。そして、依頼を失敗したら殺されるという発言が本当だとして、後何日初石には猶予が残っているのか。
篝には可笑しくてたまらない。実力的に、状況的にも、弱者から殺すと言われたのだ。負け犬の遠吠えを聞いて愉快にならないはずが無かった。
「殺すならやってみなよ、顔だけの三下」
カラスの鳴き声に遮られ、その言葉を聞くものは誰もいない。
篝はくつくつと笑った。
凄い書きやすかった。
もう一話は書きたいと思っています。