何でもない日であった。
本当に何でもない日であった。
ある場所にぽつねんと建てられている一つの神社の境内で、一人の、15か16程の少女が欠伸をしながら竹箒で掃除をしていた。
紅白で分けられている巫女装束だが袖が分離している関係もあって脇がはっきり出ており、頭には同様に紅白の大きめのリボンが付けられている。
「暇ねぇ……」
彼女の名は博麗霊夢。この神社、博麗神社の巫女である。
とはいえ博麗神社の祭神が何なのかすら知らないし、そもそもあんまり人がお参りに来たりもしない。
証拠に、ではないが博麗神社は人里からかなり離れた場所に立地しており、更に石台の上では狛犬が欠伸をしているし、神社の屋根では鬼が一人、瓢箪を煽って酔っ払っている。居住区から離れすぎている上に人が居ないどころか妖怪が住み着いているのだ。神社としてどうなんだそれ。
更に加えてよく来るのは、胡散臭いスキマ妖怪と従者の狐と猫や吸血鬼とその従者達、亡霊とその従者の半人半霊、不死の蓬莱人や別の神社の巫女、祭神、スクープ好きな天狗、さとり妖怪の姉妹とそのペット、屋根にいるのとはまた別の鬼などエトセトラ。
一般人として来るのは、彼女の幼馴染にして悪友と呼べる普通の魔法使いを名乗る一人くらいのものだ。まあ彼女も一般人と呼べるのかは微妙なところではあるが。
とまあ現状、はっきり言って一般人がふらっと立ち寄る場所ではない。もし運悪く一同が会しているところに出くわしでもしたらすわ百鬼夜行かと腰を抜かしかねない。
一応もう一度言っておくが、神社なのだが。ここ。
ともかくそんな始末だからか、そんな大量の人や人ならざる者たちを抱えるここ、幻想郷の管理を任されている一角であるにも関わらず、博麗神社は割と常に閑古鳥が鳴いているのが現状だ。まあ別に彼女の収入は賽銭だけではないし、加持祈祷や御守、人里での問題解決や妖怪退治なども請け負っているため別に貧乏というほどではない。本人は働かずにお金が入ってくればいいのになーなんて考えたりもしているが。
そう。そんなただの日常だった。
「……?」
感じたのは、わずかな違和感。
異変──定期的にはた迷惑な妖怪や人外達に引き起こされる事件──の解決も任されている彼女の、生まれ持った天性の勘とでもいうべきものが反応した。
別に何かが目に見えて起こったわけではない。かなりボロボロの社も、誰も来ない境内も、所々ヒビの入った石階段も、晴れ渡った空も、神社を取り囲む周りの木々が風に吹かれてざわざわ言っているのも、別にいつも通りだ。
だが、この手の彼女の勘はほぼ確実に当たる。
おそらく何かは起こる。
「…暇、とは言ったけど面倒ね…」
とはいえ今はまだ何も起きていない。となれば出来ることも特にない。
どうせまたこのあと来るであろう人外達や悪友、あと極稀に来る参拝客達のために、ぶつくさ言いながらも彼女はとりあえず掃除の手を進めるのであった。
太陽は、ただ只管にそれを見ていた。
トプ、と更けた夜に染みが付いた。
広がり、纏まり、ソレは球状に形を変える。
すると、近くを哨戒していたのであろう一人の天狗が近寄ってきていた。
ここは、今のところ天狗たちが牛耳っている妖怪の山。哨戒中なのだから怪しいものを見つければ確認し、上に報告しなければならない。
しかし、今の場においては逃げなければならなかった。
次の瞬間、音もなくその体が宙を舞っていた。
妖怪という人とは比べ物にならないほど丈夫な体が、まるで小蠅を払うように空中に放り出されたのだ。
本人も何が起こったのか理解できない状況だったようだ。
これは不味い、そう思ったのだろう。
何とか辛うじて動くその背中の羽を動かし、妖怪の山へ報告に向おうと背を向けた、その瞬間。
背中が爆ぜたかと思うような衝撃に、再び体が宙を舞う。
しかし好都合、吹き飛ばされた勢いのまま天魔の元へ急行しようとして…次の瞬間には地面に叩きつけられていた。
一拍遅れて、頭を殴りつけられたかのような衝撃が襲ってくる。酷く、頭が痛む。
このままだと死ぬ。
そう本能的に感じた彼女は対象を完全な外敵と見做し、振り向きいた。
「…は、…?」
目に入ったのは、不定形の球のようなものであった。
闇に紛れるように赤黒く、直径七尺程*1の大きさを持つ球体のナニカ、そうとしか形容できないものが、空中に浮かんでいたのだ。
そのちょうど中心部に、
「あ、あ…あ、ああ…!!」
全身の毛が逆立ち、力なく垂れていたはずの羽がざわざわと張り広がる。
しかし、そこから一歩も動くことができない。空間に縫い付けられてしまったように、指の1本も動けなくなってしまっていた。
恐怖を紛らわせようと叫ぼうにも、気道が開いてもはやそれすらもできない。息が荒く乱れ、全身に嫌な汗がにじむ。
と、次の瞬間には木々の中だったはずの視界が、裸地のような場所に変わっていた。
また吹き飛ばされたのだと考えたが…体に衝撃が来ていないことでソレが違うことに気づいた。
木々がそっくりそのまま削り取られたのだ。それこそ、一瞬見ただけでは同じ場所とも思えないほどに。
あんな攻撃、妖怪とは言え生身で受ければ余裕で死ぬ。
次の瞬間にはその球の前に赤黒い光弾が作り出されており、本格的に死というものの存在が目前まで迫ってきたのを感じ……
「風神 二百十日ッ!!」
次の瞬間、彼女の視界を閃光が塗りつぶした。
「ッ!」
飛び込んできたのは、彼女の上司に当たる鴉天狗であり、幻想郷最速を誇ると言われる…射命丸文。黒の、フリルの付いたミニスカートと白の半袖シャツといった出で立ちで、頭には赤い頭襟が載せられており、その手には楓団扇が握られている。
と、彼女を覆っていた光弾の弾幕が飲み込まれるように弾けて消え、更に球体の中の
「……これ、は…ちょっと不味そうですね」
既に1000年は生きている文ですらその赤光に睨まれると同時に体が硬直しかける。
しかしまだ体は動く。となれば取る行動は唯一つ。
「…掴まりなさい」
というが早いか文は部下の腕を引き、全速力でその場から飛んだ。置き土産に回避の余地も取らせない弾幕を放って。
破裂音と陶器が割れるような音が鳴り、その弾幕が効果を発したのも分かった。
少なくとも、ソレはその場から動く気配はなかったからだ。
回避できるくらいの密度であった彼女の最初の弾幕の雨ですら回避の素振りすら一切見せずに即迎撃を選んでいたし、攻撃も接近もせずにそれなりの距離からの高エネルギー攻撃のみ。
おそらく好き好んで動くタイプではないと睨み、ならば一旦離れたほうが良いだろうというのが彼女の見解だった。
一瞬の間にその場から離れ、手の中の哨戒天狗を見つめて山へと急ぐ。
「しっかりしなさい、眠れば死にますよ」
頭からかなり出血もしているし少しずつ顔色が悪くなってきている。
いかに死ににくい妖怪と言えども痛覚は普通に存在するし力が尽きれば普通に死ぬ。
普段は下のものに対して結構高圧的な彼女だが、流石に同胞が死にかけている場面で見捨てるほど薄情なわけでもない。しかし…
(…厄介なことになりそうですね…)
一秒のうちに何十メートルという速さで飛ぶ彼女の足には、確かにくっきりと裂かれたような跡があった。
(まさか、私の全速力に反応して迎撃までされるとは)
すぐに背後の視界の悪い森の中に駆け込んだし、その上真夜中であることも相まって並の妖怪では目視すら叶わないような速度だったはずだ。放った弾幕の速さもそれに応じて強化しており、
よもやそんな状態の自分に、破れかぶれの攻撃ではなく確かに狙った攻撃で傷をつけてくるとは思いもしなかった。
(これは……霊夢さんに報告に行ったほうがよさそうですかね)
好きではないが。アレはなかなか手が早いし自分も異変解決に巻き込まれて何度撃ち落とされたか分かったものじゃない。
しかしその腕は折り紙付きだ。
妖怪同士とは言え、ここ、幻想郷において定められた
まあ自分も賢者達か誰かにそれなりに怒られはするだろうが、先に手を出してきたのは向こう、れっきとした正当防衛だ。
そこで、ふと気づいた。
(……?おかしい…)
そもそも。
前述した通り彼女は本気を出せば一秒に何十メートルと飛ぶことができる。
そんな速度で飛べばもうとっくに妖怪の山に到着し、報告やこの哨戒天狗に治療を頼むために他の天狗を探しているはずだ。
なのに。
「どうなって…!」
一向に妖怪の山に近づいていない。
前に見えるのに、一向に近づけていない。
「ッ、何かされている…!?」
幻想郷の中に生きる人妖の中には、
斯くいう文も、「風を操る程度の能力」というものを持っており、その能力もあって凄まじい速度を出すことができているのだ。
また、「程度」なんて言っているが全くその枠に収まらないものもあり、幻想郷を創った賢者の一人、八雲紫は「境界を操る程度の能力」なんていうとんでもない能力を持っていたりする。
まああくまで自己申告制であるため誇張評価されているものも過小評価されているものもあるが、名前はこの際どうでもい
い。
「距離、速度、方向、空間…その手の能力ですかね…?」
しかしあの球体とはある程度の距離は取れている。現に抉り取られていたあの場所とは違ってここはちゃんと木々が鬱蒼と茂っている。
…本音を言うなら野良の妖怪が結構多いからあまり好きではないのだが、この際背に腹は代えられない。最悪自分が帰らなくても向こうでは異変を察して捜索はされるだろう。
もっともここが変に周囲の空間から隔離されるような──それこそあの八雲紫の有する「スキマ」なる空間のようなものでもない限り。
しかし、問題は今ここで死にかけている哨戒天狗。幻想郷というものが出来てスペルカードルールが生まれてからは死という物に出会うことも少なかったためか、自分の手の中で死なれるというのに少し忌避感を感じる。
何かしら種があるだろうからその隙を突くことも考えたが下手に動けば相手に見つかる。アレは正直あまり対峙したい相手ではないのは確かだ。
「………はぁ───…」
癪ではあるが。自身の妖力を少しずつ分け与えつつ、ともかくこの夜をやり過ごすことにした。
夜が明ければ妖怪の力は少し落ちる。その隙を見て逃げるか、と考えつつ、周囲の警戒を続ける羽目になった。
黒から、一滴の雫が落ちる。
地面から離れて浮いていた赤黒い球体が一瞬揺らめき、その体の一部を落とした。
地面に落ちたソレは徐々に形を形成していき、人の形を型取り始める。
先程見た二人の天狗、アレを参考にし、顔や手足といった特徴を作っていく。
トク、トク、と液体は形を決め、そして固体へと姿を変えた。
体は四尺強程の女の子供のような姿を型取り、灰色に濁った髪は地面につくほど長く、目にもかかっている。
肌は病的に灰白く、しかし髪の隙間から覗く赤黒い右目は爛々と輝き、口は三日月を象る。
前を大きく開いた赤黒い袿姿で少し長い裾を引きずるようにしており、足には包帯が所々に巻かれて、赤い足袋と草履を履いている。
ケタケタ、と笑うような音が森から響く。
ざわざわざわ、と近くの木の葉が悲鳴をあげた。
「アソ、ボう、イっショ、に、アソ、ぼウ」
向いている方向には、二匹の天狗がいた。
気が向いたら続きます。