ホロウ内のエーテル濃度が基準値まで低下したことを告げるアラートが鳴り、端末の画面から赤い警告表示が消え去った。
長く張り詰めていた空気が、まるで風船から空気が抜けるようにスッと解けていくのを感じながら、自然と深く息を吐き出していた。
「これにて、本日の清掃業務は完了とさせていただきます。店長様、今回も素晴らしいナビゲートに感謝いたします」
優雅な所作で身なりを整えながら、ライカンさんが静かな声で労いの言葉をかけてくる。戦闘の直後だというのに、彼のスーツには埃一つ、皺一つ見当たらない。ヴィクトリア家政の完璧な執事としての矜持がそこにはあった。
「こちらこそ。ライカンさんとエレンの連携のおかげで、予定よりもずっと早くルートの開拓が終わったよ。事後処理のレポートは、今日の夜にはそちらに送っておくから」
「承知いたしました。確認次第、報酬の手続きを進めさせていただきます」
ホロウ調査後の事務的な引き継ぎ。いつも通りの光景だ。
僕は端末を操作しながら、ふと視線を横へと向ける。
新エリー都の郊外、かつては公園だったのだろう廃広場の朽ちかけたベンチ。
そこに、今日の一番の功労者であるサメのメイドが腰掛けていた。
両足を投げ出し、背もたれに深く寄りかかった姿勢。目を閉じ、規則正しい呼吸を繰り返している。
戦闘の疲労からいつものように居眠りをしているのだろうと最初は思った。だが、よく見れば彼女の様子は普段と少し違っていた。
その耳元には、見慣れないワイヤレスイヤホンが収まっている。
微かにリズムを刻むように、彼女の華奢な肩が揺れ、それに連動してベンチの下に垂れ下がったサメの太い尻尾の先が、パタ、パタと規則的に地面を叩いていた。
「……珍しいな。仕事終わりに、あんな風に音楽を聴いているなんて」
僕の視線を追って、ライカンさんもエレンの方へと目を向ける。
面倒な事後報告や事務連絡には一切関わろうとしないのは彼女の常だが、大概そういう時は飴を舐めながら虚空を眺めているか、本気で船を漕いでいるかのどちらかだ。
「ええ。ですが、無理もありません。今日は普段よりも高負荷な戦闘が続きましたからね。彼女なりに、オンとオフの切り替えを行っているのでしょう」
「なるほど。音楽でクールダウン、という感じかな」
「そういうことです。……さて、私はこの後、現在雇用契約を結んでおられる別のご主人様の元へ向かわねばなりません。申し訳ありませんが、ここでお暇させていただきます」
ライカンさんはそう言うと、胸に手を当てて深く一礼した。
「エレンのことは、お任せしてもよろしいですか?」
「もちろん。彼女が満足するまで休ませてから、帰り道を案内するよ」
「助かります。では、また後日」
踵を返し、足音すら立てずにライカンさんが立ち去っていく。
残されたのは、僕と、未だ目を閉じたままのサメの少女だけになった。
ホロウの入り口付近とはいえ、周囲には風に揺れる草木の音と、遠くで鳴る都市の喧騒しか聞こえない。
僕はエレンの隣、少しだけ距離を空けたベンチの端に腰を下ろした。
邪魔をするつもりはなかった。彼女が自分の世界に浸っているのなら、それを尊重したかった。
ただ、目を閉じた彼女の横顔を、静かに見守ることにした。
長いまつ毛が、薄暗い夕暮れの光を受けて頬に影を落としている。
色素の薄い肌には戦闘の煤や汚れは見当たらず、ただ健康的な血色だけが透けて見えた。
イヤホンからはシャカシャカとした音漏れすらなく、彼女がどんな曲を聴いているのかは全く分からない。激しいロックなのか、それとも静かなバラードなのか。
だが、地面を一定のテンポで叩き続ける尻尾の動きを見ていると、どうやらアップテンポな曲らしいことだけは想像がついた。
十五分。いや、もう少し経っただろうか。
不意に、パタパタと動いていた尻尾がピタリと止まった。
ゆっくりと、エレンの瞼が持ち上がる。
気怠げな赤い双眸が何度か瞬きをして焦点を結び、そして、隣に座っている僕の存在を捉えた。
「……あれ」
かすれた、少しだけ鼻にかかった声。
エレンは耳からイヤホンを片方だけ外すと、不思議そうに首を傾げた。
「まだいたんだ。ボスは?」
「ライカンさんは次の仕事があるからって、先に帰ったよ。事後処理の報告はもう全部終わってる」
「ふーん。じゃあ、アキラはどうして帰らなかったの」
ジト目が僕を射抜く。
責めているわけではない。ただ純粋な疑問としてだろう
「そのまま君をほっぽって帰れるわけないだろう? エージェントを野良ホロウの入り口に置き去りにするなんて、プロキシの流儀に反するからね」
「何それ。あたしが迷子にでもなるとでも思ってるわけ?」
「迷子にはならないだろうけど、歩きながら寝てどこかの溝にハマる可能性はあるかなと思って」
「……失礼だなぁ」
エレンはむすっとした表情を作ると、もう片方のイヤホンも外し、充電ケースへと放り込んだ。
カチリ、とケースが閉まる音が響く。
「別に寝てたわけじゃないし」
「分かってるよ。音楽、聴いてただろう?」
僕がそう指摘すると、エレンは少しだけばつが悪そうに視線を逸らした。
サメの尾が、今度は不規則に、少しだけ照れ隠しのように僕の足元をぺちっと叩く。
「……学校でさ。なんか、今めっちゃ流行ってる曲があるらしくて」
ぽつりぽつりと、エレンが口を開く。
「クラスのやつらが、休憩時間とかずっとその話してるから。とりあえず、どんなもんか聴いておこうかなって。それだけ」
流行りの音楽。ヴィクトリア家政の凄腕エージェントとして、巨大な剪定鋏を振り回し、氷の嵐で敵を粉砕する彼女からは想像もつかないほど、ごく普通の、等身大の女子高生らしい理由だった。
「そっか。それで、どうだった? その流行りの曲は」
「んー……」
エレンは少しだけ考える素振りを見せた後、僕の方へと体を傾けてきた。
華奢な見た目からは信じられないほどの、筋肉と骨格の質量を伴った重みが僕の右肩に乗しかかる。
「悪くはなかったけど……ちょっとテンポが速すぎて、疲れた」
「ホロウ探索の後には向いていなかったかもしれないね」
「そうかも。……聴いてみる?」
「え? ああ、うん。せっかくだし、少しだけ」
頷いて、差し出されたそれを受け取り、左耳にはめる。
有線ではないとはいえ、デバイスとの距離の制約があるのか、あるいは単に彼女の気まぐれか。エレンは僕がイヤホンをつけたのを確認すると、ずるり、とベンチの上を滑るように距離を詰めてきた。
それに引っ張られるように、僕の肩に彼女の華奢な肩が触れ、頭が傾けられる。
ほとんど耳と耳がくっつくような、親密すぎる体勢。太ももには、彼女の重いサメの尾が当たり前のように乗り上げてきた。
「じゃ、流すよ」
エレンが手元の端末を操作しようと顔を動かした、その瞬間。
「冷たっ……」
エレンの耳元についている飾りが僕の耳に触れた。その金属特有のひやりとした感触に、思わず身をすくめてしまった。
「ふふっ」
僕のその情けない反応が面白かったのか、エレンは喉の奥で小さく笑うと、わざとらしく、ぐいぐいとさらに頭を押し付けてきた。
柔らかな髪が頬をくすぐり、彼女の体温が先ほどの冷たさを上書きするように僕の感覚を支配していく。
「エレン。ちょっと近いよ」
冷静さを装って指摘するが、エレンは全く退く気配を見せない。
「別にいいじゃん。誰もいないんだし」
こちらを覗き込んでくる赤い瞳は、明らかにからかっている色を帯びていた。
距離感がバグっているのはいつものことだが、今の彼女は完全に面白がっている。このまま押し切られるのは癪だったが、それ以上に、少しばかり物理的な問題が発生していた。
「いや、誰もいないのはいいんだけど……エレンのカチューシャの金具が、思いっきり僕の頭に刺さってるんだけど」
「……あ」
僕の言いにくそうな指摘に、エレンの動きがピタリと止まった。
彼女の頭頂部にある特徴的なカチューシャ。その鋭利な装飾部分が、僕の側頭部にグサリとクリーンヒットしていたのだ。
赤い瞳がパチパチと瞬きし、やがて、彼女の肌の端がみるみるうちに赤く染まっていく。
「……ごめん」
バツが悪そうに視線を逸らし、エレンは少しだけ体を離そうとした。
いつもならこれで元の距離に戻るのだろうが、今日はなぜか、この温もりから離れるのが少しだけ惜しいような気がしてしまった。
「待って」
僕は離れようとしたエレンの肩に優しく腕を回し、引き留めた。
そして、カチューシャの金具が僕に当たらない絶妙な角度を探りながら、再び彼女の体をぐっと引き寄せる。
「ッ……」
腕の中に収まったエレンの体が、びくりと硬直するのが分かった。
普段は自分から仕掛けてくるくせに、こちらから一歩踏み込むと途端に不器用になる。肩から伝わる彼女の緊張が。
「これでよし。痛くないし、イヤホンも外れない。再生していいよ」
耳元でなるべく優しくそう囁くと、エレンは僕の腕の中でしばらく固まっていたが、やがて諦めたように体から力を抜いた。
僕の肩にすっぽりと頭を預け直し、サメの尾が安心したように僕の足にぐるりと巻き付く。
「……ん」
小さく、くぐもった声が響いた直後。
二人の耳の奥で、アップテンポな流行りのメロディが流れ始めた。