時雨はその日、ちょっとおかしかったのだ。
グラフィックデザイナーとして、これ以上は望めないほど成功している。
仕事仲間も友達も面白い人ばかりだし、毎日いろんなネタが転がりこんできて退屈する暇もない。
全世界を数年間にわたり苦しめたパンデミックだって、千載一遇の僥倖といえた。
ヴァーチャル・エンターテインメントが空前の大需要をもたらし、新世代アイドルを星の数以上に誕生させるチャンスを与えたからだ。
時雨は当初スタッフとしてこの激流に乗り、あれよあれよという間に自らもスターになった。
裏視点と表視点を同時に考えながら客観的に分析を加えられ、かつ自分自身で動いて試行錯誤できる者は強い。
時雨は常に控えめなポジションを保ちつつも、この業界にとって無くてはならぬ人材として、着実にキャリアを踏み固めていた。
だが、さすがに膨大な体力を削られる。
精神はもっとダメージを被る。
時雨のファンは、ライト層より知的な大人が多い。
かれらは高尚な励ましをくれ、購買力も見せつけたがる。その影響力に助けられている。
配信の再生数やリポストの拡散力など、視聴者にも見えやすい数字は全パーソナリティが煽って競い競わせたがるものだけれど、あまり公開されたがらない、生々しい損益管理の実績こそが、経営者やスポンサーを動かすには決定打となるんだよね。
このポジションをキープするのって、世間一般の方々が想像するよりも、ずっとずっとずーっと、キツいんだよ。
はあ。
そんなわけで、充実しているといえばこれほど幸福な人生も無いんだけれども、時雨にも悩みは尽きなかったのだ。
肩も首も腰だって、バリバリに凝っている。
また時間つくってセラピーしながら熟睡させてもらわなきゃなあ。
でもしばらく予定が立てこんでて納期も余裕ないんだよなあ。
とんでもないパーツ数の動画引き受けちゃったしなあ。
なんていうタイミングだったものだから、その日の時雨は、ちょっとだけ、おかしかったのだ。
スタジオAからBへ向かう途中で、化粧品店などへ寄り道していくつもりだった。
Aでは少し眠気がきてディレクターとの対話中、何度か考えこんでしまったりした。
いけないいけない。
少し強めのリフレッシュをしていかねば。
ここで常用のピルケースを取り出す。
今のコンディションだったら、コレとコレだな。コレも飲んでおこう。
水筒のお茶で嚥下する。
暑いなあ。
よし!
と歩き始めて数分後、どうやらおそらく路上で倒れた。
目を覚ます。
冷や汗が流れた。
いま何時?遅刻しちゃった?
スマホを取り出……
猛烈な違和感。ポケットが遠い。
今日着ていた服じゃない。
それでもスマホは手に触れた。重……い。サイズも、ひとまわり大きくなったような……
ロックを外さなくても時刻は表示できる。
ものの数分しか意識は失っていなかったようだ……けど……
このとき画面に反射する自分の顔を見て驚いた。
一瞬後、ある仮説を思い浮かべる。
心を落ち着かせながら、視線を移す。
服はだぶだぶ。下着も外れている。はしたない。
何歳くらいだろう、今の肌年齢。
9歳か10歳……いやもっと下か。つやつやだ。
意識は元のまま。記憶も確か。
体だけが幼女化したようだ。
最高かよ。……いや。いやいやいやいや。
人通りの少ない路地だったが、もっと奥まで隠れる。
なんとか歩けるように服を整え直そうと思うが、無理にもほどがある。
靴がブカブカだ。バッグだって重すぎる。
誰かに助けに来てもらうことを考えつかなかったわけではなかったのだけれど、とにかく安全な場所まで移動してからだという焦りの方が勝っていた。
慌てながらもなんとか服を体に巻きつけ、路地から抜け出る。
視点の低さも衝撃だった。
幼女って、こんな風に世界を見上げてたんだ……
ちょっとの間だけ、固まってしまう。
上から声が降ってきた。
「どうしたの?お嬢ちゃん。すごい格好だけど、困っているのなら、僕が……」
臭い男が見下ろしていた。
死を覚悟した。
いや、死ぬよりもっとひどい辱めを受けることになるだろうと、本能が叫んだ。
逃げた。
とっさに駆け出していた。
靴が脱げた瞬間、やけどするほど熱いアスファルトに殺されるかと思った。
バッグを落としてしまった。
男、すかさずそれに手を伸ばす。
ヒッ。やめろ!
と言いたかったが、ここでためらえば捕まってしまうと今度も本能に警告された。
走った。
とにかくあいつから逃げるんだ。
路地へ入りこむ。なるべく細い方へ。暗い方へ。
あのデブはここまで追ってこれない。でも安心ならない。
離れるんだ、できるだけ遠くへ。
一心不乱だった。
やっと落ちついたとき、足の裏は血まみれだった。
スマホもカバンごと失った。
ひどい。ひどい。どうしてこんな目に。
涙があふれ出したが、泣いても、声だけは殺した。
部屋の鍵だけはポケットに入れてあったから、アパートまでたどりつければ、なんとかなる。
途中に交番……あったかなあ。
そこを目指すと、かなりの遠回りになっちゃうから巡回中のおまわりさんに出会えることを祈ろう。
小銭がほしいよう。
喉がかわいてたまらない。
日が暮れて涼しくなるのを待ったほうがいいだろうか。
でも危険度増すじゃないか。
警官じゃなくても誰かに助けを請うことは可能じゃないだろうか。話をきいてくれそうな人がいたら、声をかけてみようか。どう説明しよう……
気合を入れ、時雨は立ち上がる。
おそるおそる路地から顔をのぞかせた。
道行く大人がみんな怖く見える。
悩んでいてもしょうがないよな。よし、と一歩踏み出した。
すぐに声をかけられた。
「どうしたの?お嬢ちゃん。すごい格好だけど、僕でよかったら、なにか力になれるかな?」
ま、た、男かよ……と絶望しつつ振り向くと、最初のよりは若かった。
身だしなみもちゃんとしている。
あ、大丈夫そうかも。この人なら……
と見上げながら頭をめぐらせているうちに、一瞬だが、その男の口元が歪んだ。
落雷が背骨を貫通する。
やばい!!!
ギャアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!
絶叫してしまった。
男、表情も変えずに掌を時雨の口に押し当ててきた。同時に反対側の手で首をうしろからしっかりと押さえつける。
な、慣れてやがる??
こいつ、ホンモノの、陵辱魔か!!
抵抗した。
手も足もメチャクチャに振り回す。
汚いからとてもイヤだったけどそいつの手を思いっきり噛んでやった。
しばしの格闘を経てなんとか脱出に成功し、また路地へと駆けこむ。
今度はもっと遠くまで離れた。
口を洗いたくてたまらなかったが、ひからびるほどツバを吐いて気をまぎらわせた。もったいないから涙は流さなかった。
それより一瞬でもあんなのを信じた自分がゆるせなかった。
ゆるせないよ、ほんと。くやしい。くやしい。くやしい。
絶対ゆるしてなるものかよ。
ひとつ学んだことがある。
時雨は叫んだ。どう見ても変態男が幼女に襲いかかっている図だったはずである。
誰ひとり、助けようとはしてくれなかった。
一瞥すらくれなかった通行人もいた。
音楽でも聴いていたか。どいつもこいつも。
これが現実なんだ。
誰も助けてくれない。
警察官だって、ほとんどが男だ。頭の固そうなおじさんばかりだよ。
毎日お疲れ様ですとは思うが、公務員だろ。心に余裕なんて持っちゃいないだろうなあ。
悪気が無いとしてもだ。どれほど頼りにしてよいものか。
女が、とくに幼女が、どれほど怖い思いをして生きているかなんて、想像してくれるものかな。
落とし物を届けたりとか過去に交番へ入ってみた記憶を、たぐる。
役所の窓口よりも堅苦しくてシステマティックで、時間かけてストレス浴びてきたわーって思い出しか無いんだよね。
とにかく家へ帰りたい。
ひとりでぐっすり眠れるところへたどりつけたら、それだけでいい。
一瞬たりと気を抜かず最短ルートでおうちへかえろう。
生き延びれさえしたら、あとのことはそれから考えるんだ。
ふう。
いいかい時雨。
もう、闘う体力なんて残ってないからね。
ライフはあとひとつだ。心して走るんだよ。
おう。
日が暮れてから、時雨はアパートまで帰ってきた。
すぐベッドへ倒れこみ、朝まで眠った。
目覚めたとき、体はもとに戻っていた。
ゆっくりシャワーを浴びたあと、PCで上司へ連絡を入れる。
必要最低限の説明しかしなかったが、複数の男から暴行されて持ち物をすべて奪われたという事情を充分以上に察してもらえた。
提携先との連絡や業務引き継ぎはすべて会社が穏便に取り計らうので、病院へ行って警察に届けを出したら、心身がしっかり回復するまで有給扱いで休んでもらってていいからねとの言葉をいただく。
ありがてえ。マジ感謝だわ。
日頃から優等生でいてよかった。
それでは自由に動けるうちに、検証へと取り掛かろう。
1週間後、時雨は幼女化する薬の配合・持続時間・副作用や体調管理上のチェックポイントなど諸法則をレポートにまとめ、自分はこれらを完全にコントロールできるという実感を手にした。
変身後のスタイルに合わせたコスチュームに各種武器も取り揃え、万全の態勢で新しいプロジェクトに臨む。
警察へは所持品の紛失届だけ出したが、連絡はこない。
最初の男も、決して善人ではなかったということだ。
もう容赦なんてする必要ない。
あの日の怒りは生涯忘れない。
ひとりきりの幼女にすぐ声をかけてくるのは穢らわしい男だけだ。
誰も助けてくれない。
自分だってこんな現実には気付いてもいなかった。
人知れず被害に遭ってずっと暗闇で泣き暮らしている少女たちは、この街だけでも大勢いるはずだ。
自分なら彼女たちを救える。
聖なる力で、マジヤバ外道な奴等を粛清してやるんだ。
かかってこい蔓延る糞蛆虫野郎ども。
おまえたちの断末魔だって誰の耳へも届くまい。
己へのレクイエムを気の済むまで奏でるがよい。
鳴き嗄らした喉を泥水で洗い汚物消毒できた暁には、きっと来世で親に見せられる姿への浄化だって可能だろうさ。
骨の髄まで腐りきった醜いキモザコロリ。
この手でピリオドを押してあげゆ。
楽園でねんねしな。
(おしまい)