20XX年、ブームは突然訪れた。
「皆さーん、こーんにちわー! 私は今、バーチャルの世界から配信をお届けしております!」
「仮想空間、仮想世界、通称メタバースと呼ばれる現実ではないもう一つの世界。無限大の可能性で満ち溢れた新たな世界に、皆さんも現世を抜け出して是非来てみませんか?」
画面には銀髪の少女と眼鏡の似合う長髪の男が宣伝をしている様子が映し出されている。
それは仮想世界、世間ではメタバースと呼ばれる現実ではない新たな世界。巷で有名なライトノベルに登場するフルダイブ型VRマシンのような殺伐としたものではない、仮想の空間で自由に生きるという人々の夢が遂に実現された。
最先端の技術を屈指した専用の機械を通して仮想を見せる。
電磁パルスを流し、機械が作り出す五感情報を脳へ送り込むことによってフルダイブを可能とした。神経パルスが遮断されたことにより肉体は植物状態となり、高性能生命維持装置に脳みそ本体を移すまで点滴によって生かされる。脳の取り出しに成功すれば後はホルマリン漬けにし、電気信号を送り続けることによって永遠に仮想世界で生きることができるのだ。
生きたまま脳を取り出す、そんなことが可能なのかと疑いたくなるが成功率はなんと驚異の97%を叩き出し、実際に移住した人間の数およそ20億人、世界人口の三分の一に近い数の人々が既に現実世界を離れていた。
何故こんなに多いのかというと、この世界の状況は今や最悪と言っていいほどの厄災に見舞われているからだ。
王冠を纏うウイルスが蔓延り、対策が為されてきたその翌年にかつて欧州で猛威を振るったマールブルグ病が形を変えて流行り出した。
自由の象徴である米国ではペルシルベニア州フィラデルフィアより発生した未知のウイルスによって人々はゾンビと化し、ゾンビパニックに対策を追われると共に財政は徐々に崩壊、接触による感染が確認されて以来一部の州以外の立ち入り禁止となり、外部と接触することもできず実質の鎖国状態となってしまう。
そして、ゾンビの体内で生成されたマールブルグウイルスに似た死亡率の高い病原菌が大気に流れ出し、接触以外の空気を伝った感染経路を新たに獲得し僅か二ヶ月で世界中に散布された。
外を出るにはガスマスクが必須で、食料を調達することすら危険が伴う。さらに、食料自給率が減少する一方だった日本では米国からの輸入が途絶えたことにより各地で飢饉が発生。パン一つに二千円という破格の値段で売られるようになってしまう。
そんな状況に陥り、これからもっと酷くなって行くだろうと思っていた矢先に出てきたのがメタバース移住計画。まさに完璧なタイミグで人類の希望が現れた。
当然最初は信用できるわけもなくあまりの唐突ぶりに疑うしかなかった。しかし、誰もが知るであろう超有名なハリウッドスターが移住を決意し、バーチャルでの生活を実際に映像として流すことによって人々は次第に魅せられていき、一人また一人と肉体を手放し電子の世界へと飛び立っていった。
日本でもYouTuberやインフルエンサーが実際の様子を発信するとこによって信用はどんどん増していき、恐怖心は薄れ今では全人類がやがて電子世界へ飛び立つだろうとまで言われるようになった。
そして、僕も今日いよいよメタバースへと移住することが決まった。
聳え立つ巨大な建物を見て、生唾をごくりと呑み込む。日本では各都道府県合わせて十三個存在する施設であり、そこで人々が肉体を捨て第二の人生を謳歌するために仮想世界へとフルダイブする。
事前に送られたパスを警備員に示し、許可を得ると厳重に閉ざされた扉が開いた。
緊張が押し寄せてきて手脚を少し痺れさせながらも中へ進むと、順番待ちをしている人々の姿が見える。僕はほっとして胸を撫で下ろし、暑苦しいガスマスクを剥がして受付へ足を運んだ。
「パスとIDをご提示下さい。……はい、無事確認が取れましたので、順番になりましたらお呼びいたします。しばらくお待ち下さい」
淡々としたやりとりをした後、呼び出しをされるまで大人しく空席のソファに座る。施設内は新鮮な空気が漂っており、久々に深呼吸をして最後の空気を堪能した。仮想世界では、ここより空気が美味しいのだろうか。
「今回ご紹介するエリアはこちら! 赤や白、青や紫、虹色や黄金に輝く薔薇が一面に咲く花畑は女性やカップルに人気な絶景スポット!」
「視界を埋め尽くす彩り溢れる景色は圧巻の一言。おや? あちらのカップルはどうやら空を飛びながらデートをお楽しみ中のようですね。このようにバーチャル特有の多種多様な楽しみ方があります。実にいいですねぇ」
「くぅ〜羨ましい!! 私もあんなことができる相手が居たらなぁ」
空中に大きく映し出されているモニターには先程見かけた二人の男女がメタバースの紹介映像をリアルタイムで配信していた。
この二人の姿は自分で創作したアバターであり、それに憑依する形で過ごすことになる。容姿にコンプレックスを抱いている人も、メタバースでは自分の好きな顔にカスタマイズできるのだから、ほんと大したものだ。
そうしてしばらく配信を見ていると、番号を呼ばれたのでゆっくりと立ち上がった。
「お待たせいたしました。お部屋までご案内します。くれぐれも逸れぬようご注意下さい」
入口同様厳重にセキュリティロックが為された扉の先には、幾つもの部屋があった。それもそのはず、一日に何人訪れるのか定かではないが人の数は膨大なのだ。キョロキョロと回りを見ながら納得する。廊下はやけに静かだった。
「こちらです。中へ」
案内された先に進むと、中央にフルダイブを可能にするであろうVRマシンとそれを作動させる担当医らしき白衣を着た人物がいた。
「どうぞ、座って下さい」
背もたれのない丸椅子に座ると、白衣の男と向き合う。
「えー早速ですが、事前に送付された注意事項及び契約内容の確認はお済みですか?」
「はい、バッチリです」
「返事がいいですね。今一度お聞きしますが……もう二度とこちらの世界へは戻れなくなります。よろしいですね?」
「はい、それももちろん分かっています」
少し前のめりで返事をする。興奮のあまり先走ってしまうのは誰だって起きうることだ。
「ハハハ、早く行きたいようですね。では、お時間もあります。そこに座って機械を頭にセットして下さい。カチッと音が鳴るまでしっかり嵌めましたら作動いたします」
「はい……大丈夫です。セットしました」
「よろしい」
この日が来るまで待ち侘びていたのに、こんなにもあっさりと行くことになるとは。いや、これぐらいで丁度良い。つい先程指摘されたけど、僕は早く行きたくて行きたくて仕方がない。うずうずが止まらない。
これで最後というのも味気ないなと思ったので、旅立つ前に一つ質問をすることにした。
「あの、一ついいですか?」
「はい? なんですか?」
「その……あなたは、メタバースに行かないのですか?」
そう聞くと、男は少し微笑みながら答えた。
「そうですね、皆さんをお見送りした後、その時に私も行くとしますかね」
ああ、そうか。
この人たちは僕たちを移住させるためにここに残らなければならないのか。可哀想だと思ったけど、それでもこうして何人も見送る男をカッコいいなとも思えた。
「準備はいいですね。数えますよ」
「はい、お願いします」
いよいよだ。ここから、始まる。
「さん、にー、いち」
僕の第二の人生が、ようや──。
「ID698133257129……ああもうなんでもいい、死亡を確認。ほら、運べ運べ──おい! 次!」
まだ生暖かい青年の死体を錆びついた台車に詰め込んで、廃棄場へと運ぶ。笑顔のままぴくりとも動かなくなった青年を見て、ほんの数分前まで電子の世界に夢を見ていたことが嫌というほど伝わってくる。愚者が辿る末路はいつだって報われない。この世界の真実を知らない人間に、明日は訪れない。
「ほれ、頼んだぞ」
「おっす、お疲れさん」
俺の仕事は基本的に死体の運搬で、廃棄場に直接死体を落とすことはしない。それはまた別のやつの担当だ。つい二ヶ月前までは死体の落とす担当だったが、個人的にはただ運ぶだけのこっちの方が有難い。常時スーツを着てるせいで汗だくにはなるが、鉄の臭いが漂う廃棄場近くにずっと居るよりかはマシだった。
ここに居る人間は基本的に黒服の着用を義務とされている。
統一感を出すため、組織への従属を示すため、そして一般社員と
メタバースへの完全移住計画、肉体を捨て電子の世界で永遠の命と娯楽を得る。世界中の政府が一丸となって促進するこの計画はまさに夢のような話で、常に労働を強いられてきた何千何億という人間が喰いつくほど。──しかし、現実はそう甘くない。
実態は
それにも関わらず、極めて悪質なこの悪魔のビジネスの正体に市民が気づけていないのは超監視社会となったが故のことだろう。つい数年前から私生活、私的財産、個人の持つ情報その全てのデータベース化に成功し、言論統制を敷いて徹底管理を行なったのだ。全てはこの計画のために。
もちろん、ウイルスなんかは嘘っぱち。米国で起きたゾンビパニックはマッチポンプの茶番劇である。全ては仮想の世界へと興味関心を惹きつけるため。
狂っている。正気の沙汰とは思えない。
そうと分かっていても批判することなんてできなかった。我が身が一番なのは誰だって同じだ。高出力の電磁パルスで脳を焼かれ、笑顔で固まる死体を尻目に思考を停止する。何も考えず従っておけば、まず死ぬことはない。それに今更叛旗を翻したところで手遅れだ。
もう、何人も見殺しにした。
この手で何人運んだと思ってるんだ。
この目で何度見届けたと思ってるんだ。
毎日毎日、廃棄場に滑り落ちプレス機で空き缶のように潰されて地下百メートルの溝に放り込まれる様を、同じ人間が辿る末路とは思えない悲惨な光景を目に焼き付くほど見てしまった。
俺の脳みそは電磁パルスで焦がす前に。
とっくのとうに、ぶっ壊れている。
「さて、今週号出たな」
独房のような自室に戻り、週刊少年誌を読む。
こんな世界になっても漫画は読めるんだ。サブカルチャー文化が流行りの日本には感謝でしかない。まあ、いまやそれだけしか取り柄がなくなったけどな。
人気連載漫画をあっという間に読み終わり、いつも通り余韻に浸ろうとしたらページの最後に作者のメッセージが書かれていた。
「んーどれどれ……えっ?! あと五話で終わりかよ……」
確かに、勝負は最終局面へと迫っているなとは思いつつも、こうして終わりを告げられると途端に淋しい思いを背負わされてしまう。とりあえずこれが終わるまでは生き延びようと誓いを立てた。
これで終わりかと思いきや、メッセージにはまだ続きが書いてあった。
「連載が終了したら、私は兼ねて待ち侘びていた電子の世界へと冒険に出かけます、か……。あーあ、マジかー」
惜しい人材を無くすことになる、とどこか他人行儀に思うと共に胸に蟠りがまた一つ増えた気がした。
この世界はとことんクソだということがどうしようもないほど理解できた。
メタバースの世界に夢を見る人間がまた一人、笑顔のまま死んでしまうのだろう。メタバース、ヘブライ語では黄泉の国と言うらしいがまさにその通りの結果となるだろう。ほんとやりきれない気持ちになる。
「そろそろ飯の時間か……」
配膳ロボットに運ばれてきたご飯を平らげる。
ここでは一日三食きっちりと出る。外の世界にいれば明日の食事さえままならないのだ。例え監視の目があり、脚に爆弾が装着されていようとも生きながらえているだけ有難いと思っていた。思うことにした。
食事が終わり珍しく支給された健康補助食品を摂取すると、疲労が溜まっていたのか睡魔が一気に襲いかかってきた。
今日はシャワーを浴びていないが、明日の朝でいい。
今はとにかく、何もかもから目を瞑ろう。
「朝の時間となりました。起床の準備をお願いします」
もう朝か。随分とよく寝たもんだ。
さっさと起床し、時間内に移動を開始しないとしんようが科されるので急いでスーツに着替える。シャワーを浴びることは断念し、代わりに寝癖を治すついでにささっとお湯を掛ける。
部屋から出ると、同じタイミングで出てきた隣人に軽く挨拶をする。雑談をする気分でもなかったので、俺はそそくさといつもの集合場所へ向かった。
「今日は見回りに行くからなー。いつも通りしっかり働けよ」
長々とエリートの演説を聞かされ、憂鬱な気分になりながら配置に向かう。ただの禿げジジイだろと内心悪態を吐きつつも、誰一人として逆らわないのは少しでも反抗の意を示せば殺されると理解しているからだろう。俺もそのうちの一人だ。所詮奴らの道具に過ぎないただの雑魚だ。
「よ、今日も頑張ろうぜ」
声を掛けてきたのは廃棄場担当の奴だった。こいつとはここに来てから割と長い付き合いで、何かと一緒になる機会が多かった。
肩に置かれた手を払い除けて、面倒臭さを隠さず気怠げに返事を返した。
「そうだなー」
「なんだよ、いつにも増してつれねえな」
そもそもここにいて元気なのがおかしい。話す度に毎回思ってることだが、毎回口にはしない。こいつにとっては、これが普通なんだろう。それだけだ。
「あ、そういえば」
唐突に思い出したという雰囲気で言った。
「今日、お迎えだってさ」
「……もう?」
「もうって、あれから一ヶ月だろ? だから今日は途中で抜け出せってさ」
「分かったよ。はあ……なんで俺たちなんだろうな」
月に一度、何故か俺たち二人に課された仕事がある。
他の連中の何人かも独自に課された仕事があるみたいで、みんなに共通点らしきものはなく単に運悪く選ばれただけみたいだった。少なくとも俺はそうだと自分を納得させるために決め付けている。代われるものなら早く誰かに代わってほしい。この仕事がある日は決まって悪夢を見るのだ。
現場に到着したら気合いを入れ直し、少し伸びをしてから準備に取り掛かる。死体に直接触れないよう手袋をして、匂い消しの香水をシュッと振りかける。
開始のチャイムがなる前に用を足し、手を洗いながら鏡に映る自分を見る。酷く歪んで見える無駄にガタイの良い男が映っているだけで、特に面白味もなかった。
「さて、行くか」
今日は途中で抜け出すんだっけ。忘れてました、なんて通用するわけないよな。
胸のポケットの膨らみが、きっとそうはさせない。
そんなこと、分かりきっていた。
「お、きたなー。そろそろ終わるみたいだぜ」
先に行って待っていたのか、血の匂いを染み付かせながら壁にもたれかかっていた。相変わらず気色の悪い笑みを浮かべやがる。こいつの笑顔は心底嫌いだ。
俺は隣には並ばず、反対の壁に背中を預け時間になるまで待つことにした。
二人きりの空間で、時の流れに身を任せる。
反対側いるやつは呑気に鼻唄を歌って、一方俺は耳を研ぎ澄ませるので精一杯だった。扉の向こうに聞こえる男女の声は、元気溌剌としたものと淡々としたものでコントラストを生み出していた。ここ一か月で聴き馴染みとなった声だ。今更違和感など感じることはなかった。
しばらくして、その時は来る。
行くぞと手で合図すると俺たちは扉をノックして中へと入った。
「よっす二人とも、配信お疲れさん!」
「あっ! お久しぶりで──うっ、相変わらず臭いですね」
「お久しぶりです、御二方。どうされたのですか?」
部屋の中には先程までとある配信をしていた男女。モニターにはすっかり動かなくなった銀髪の少女と成人男性のアバターが映っている。
女の方は元登録者数五十万人越えのVtuberで、男はかつて俳優を目指していたスターの卵だった。
「いやなに、久々に時間が空いたからお話ししたいなって思っただけさ。見てたよ、ここ一か月の見事な配信っぷり。いや〜流石元配信者と俳優の卵ってだけあるね〜」
「いやいや、そんなことないですよ〜。最初は……ほんと、上手くできるか不安でしたけど、でも意外と楽しくできちゃって。私、才能あるみたいです! なんちゃって〜」
「これもまた、生きるためですからね。仕方がありません。皆さんを騙すのは少々気が引けるところもありますが……」
「なーに言っちゃってんのー。美味い飯食いたきゃこれぐらいやってのけなきゃ話なんないでしょって」
一か月ぶりに会うはずなのに、随分と仲が良さそうに見える。こいつはこういうところを評価されてきっとこの仕事に選ばれたんだろうな。対して俺は何も話していない。話したがりな誰かと違って不必要な会話は避けたいので基本的にはずっと無口でいる。何を口走るか知ったもんじゃないしな。
俺は少し様子を見守ることにして、楽しく世間話をする三人を視界に収めながらありきたりな妄想をする。もしもこれが平和な世界での出来事なら、俺も楽しく仕事をできたのかもしれないと。
腕時計を確認し、そろそろ時間が惜しくなってきたところでアイコンタクトを送る。ある程度満足できたのか、今回は素直に会話を切り上げた。
「いやー、その様子だとこれからもやっていけそうだね」
「はい! 今の所特に不自由なく暮らせていますし、このままやっていけそうです!」
「そっかそっかー。それはなりより。で、この後は? 一か月記念に二人で焼肉でも食べる感じ?」
「おおー! それ良いですねー! ありよりのあり!」
「焼肉ですか……いいですね、偶にならいいでしょう」
やったー、と嬉しそうに飛び跳ねる女とやれやれと呆れつつも満更でもなさそうな男。焼いた肉を食える身分が羨ましいよ。俺もまだそっち側の方が良かったのかもな。
そんな内心をすぐに掻き消し、本日課された仕事をする。
部屋を出ていく二人の背後から、脳天目掛けて拳銃の引き金を引いた。
銃声が、二度鳴り響く。
「おいおい、また遅れたなー? ちゃんと合わせようぜ。そっちの方が気持ちいいだろ?」
「悪い、次こそ合わせる」
「何回目だよ、ったく。まあいいけどさ」
無機質な床が赤に染まっていく。
嫌というほど嗅いだ血の匂いが、鼻をつんと刺激する。
俺は拳銃を撃つ時、ほんの一瞬躊躇いが生じる。
そのコンマ数秒のズレは俺の中で僅かに残っている罪悪感から来るものだと理解しているが、それはどうにも拭えそうになかった。
「なあ、お前は何とも思わないのか?」
我慢できなかった。いつも躊躇いなく、寧ろ嬉々として人を撃ち殺すこいつに聞かなければいけない気がした。
俺の問いに、頭を掻いて拳銃をしまいながら間を空けず答えた。
「それって罪悪感的な? ないない、そんなの」
「まったく?」
「ないね。お互いのためにやっていることだし、何よりこの瞬間が気持ち良くて堪らない」
俺と重なる部分をがあると期待していたわけじゃない。だからこそ、返ってきた言葉にああやっぱりと納得するしかなかった。
こいつはただの
それ以上でもそれ以下でもない。狂気に呑まれ、屑に成り下がったうちの一人。それが得体の知れない隣人の正体だ。薄々勘付いてた部分はあるが、改めて認識すると全ての言動に納得がいく。
わざと会話を楽しんで、相手の気分を良くさせて、明日もあると見せたところで一気に絶望へ叩き落とした。こんな最低最悪のやり方異常者じゃなければできないだろう。やろうともしない。
「生きてる奴だけに価値があるのさ。死んだ連中のことなんざいちいち考えるかっての。考えるとしたらそいつはとびっきりの馬鹿だね」
「自分で殺しておいてよく言うよ、まったく」
「生者が勝者だ。俺に殺されるようじゃこいつらにそもそもの価値なんてないんだよ。にしても少し勿体無かったかー? 一発ぐらいやりたかったぜ」
そう言って女の死体を弄る狂人に吐き気を感じる。
俺はこれ以上こいつと同じ空間に居たくなかった。
とっとと死体の処理をして自室に戻ろうと思っていた矢先にコツン、コツンと革靴の足音が此方へ近付いてくる。警戒して拳銃をリロードし直すと、相手の姿を視界に移す。
今朝壇場で演説していた禿げジジイがいた。
……たしか、今日は見回りだとか言っていたっけ。
「ご苦労さん。ちゃんとやってるみたいだね」
「お、お疲れ様です。あの、どうしてこんなところに?」
「今朝言ったろ、見回りだって。お前こそ死体を触って何をしてたんだ」
「ああいや、これはそのぉ……死亡したか確認をしていただけで……」
「見れば分かるだろう。はあ……ったく、まあいい。仕事さえきちんとこなしていればそれでいい。ほれ、お前さんはとっとと片付けんか」
冷や汗を流しながら返事をする変態とのやり取りを眺めていると、俺にも声が掛けられた。俺より一回りは小さいくせに、顎をクイっと動かして指示をするジジイに腹が立った。
それでも、俺は従わなければならない。
そう、従うしかない。
……だというのに、だというのに。
どうして、身体が動かないのだろう。
「どうした? 突っ立ってる場合か。早く手と脚を動かせ」
「……一つ、聞いてもいいですか?」
聞いちゃダメだ。きっと碌な答えは返ってこない。
絶望する。自分が保てなくなる。そんな予感がしているのに。
頭で考えていることがどうしても口に出てしまう。
「いつまで、こんなことを?」
分かりきっているだろう。答えなんて。
聞きたくない、ああ聞きたくない。
今すぐ耳を塞ぎたいのに。
こんな時に限って、手から拳銃が離れない。
「決まってるだろ。ずっとだずっと。人が居なくなるまでずっと」
──迷いは消えた。
──パーンッ!
「は? お前、なにやってんの?」
近くで耳障りな声がする。
どうやら撃ち足りなかったようだ。
──パーンッ! パーンッ! パーンッ!
まずは一発、続けて二発、トドメの三発。
先に死んだ二人の分と俺の分を上乗せして、心臓と喉仏、そして額の中心へしっかり決め込んだ。
とびっきりの馬鹿で悪かったよ。
でもな、今度は躊躇いなく引き金を引けたよ。
死体が四つに増えてしまったが仕方がない。もしかしたらもう一つ増えることになるかもしれないが、やれるだけのことはやっておこう。まだ警報がなっていない今が一矢報いるチャンスなのだ。
憎たらしい顔に蹴りを入れて、配信モードをオンにする。
「これを見ている皆さん、今すぐメタバースへ移住することをやめてください。全ては嘘だ。人を殺すための陰謀だ」
誰か一人でも見ていることを願って、吐き捨てるように真実を伝える。
「肉体を捨てて自由に生きる? そんな夢物語あるわけねえだろ! 目覚ませよお前ら!! なあ?!」
俺だって、そんな世界があるのなら生きていたい。
ずっとずっと、好きなことだけをしていたい。
「ほんとゴミみてえなクソっタレな世界だけどなあ!! こんな世界で生きるしか道はねえんだよ!!」
なのに、どうしようもない現実でしか俺たちは生きていけない。
血に塗れた人生、罪に穢れたこの身体で毎日毎日必死に生きていくしかない。目の前で人が何人死のうとも、意識が途絶えるその瞬間まで俺は俺で在り続けなければいけない。
結局は自分に嘘をつき続けるなんて芸当、不器用な俺には出来なかったな。
「今まで何人死んだ?! 二十億人は脳を焼かれて死んだ!!」
脳だけを生かし、外付けの電気信号で揺さぶられる感情。
他人の温もりも、鼓動の高鳴りも、人と人を結ぶ全てが贋作の世界。
「俺は──人なんて、殺したくなかったっ!!」
ありったけの想いをぶつけ、魂の叫びを聞かせてやる。
「全部全部嘘っぱちの!! 仮想の世界なんて捨てちまえ!!!!」
命の尊さも、時間の大切さも、人生の価値も失った世界なんて何の意味もない。腐った人間を量産するゴミみたいな世界など捨てちまえ。幻想なんて実現させちゃダメなものなんだよ。そんな夢見ちゃいけないんだ。
「俺はこの現実世界で!! 最後の最後まで足掻いてや──」
〈シュミレーション終了。判定結果:黒──処刑を実行します〉
※この物語はフィクションです。