いつものように沖合に浮かぶ巨大な建造物を眺めていた。
そうしたらふと、別に行ってもいいじゃないか、と思った。
なぜ気づかなかったんだろう。
考えてみればそれを妨げるものはもう何もないのだった。
港のオン爺が亡くなって、みんな泣きはしなかったがすこし寂しい浜辺になったと思っていた。
でもオン爺には悪いけど、オン爺が居なくなったということは、あの浜辺を使うのに文句を言う大人は今、誰も居なくなったということだ。
そしてボートもまだ残っていれば、簡単にあの向こうの廃墟まで行くことができるかもしれない。
よく晴れた夏の朝、僕は教室の窓からいつものように海を眺めながら考えたことを、鳴海に話した。
「そういえばそうだな、行ってみるか、今日?」
鳴海は僕の話を聞いて沖合を眺め、振り返るとそう言った。
僕は頷いた。
オン爺のボートは彼が生きていたころと同じ場所にとめられたままだった。
オン爺がやっていた海の家は、実際には地元の子供にとって「海の交番」であって、彼はその交番の口うるさい駐在なのだった。
今や空き家になった海の家には電気の通っていない冷蔵庫や、アイスクリームの空のショーケースがじっと息をひそめている。
「吉成! あった!」
鳴海が奥の部屋から僕を呼んだ。
店の奥へ向かうと鳴海も出てきて、目当てのものを掲げて見せた。
「ほら」
その手にはオン爺のボートの鍵が握られている。
「よく知ってたね」
「バイトした時にオン爺に何度か借りれないかせがんでてさ、高校生になったら考えてやるって言って渡してくんなかったけど、どこに仕舞うかは教えてくれてたんだよね」
「でもあってよかったね」
「ああ、ボートの処分の前にな。あとは燃料があればいいけど」
係留されていたボートにキーを挿すと、エンジンが音を立てて動きだした。
「よし、じゃあ、さっそく行くか」
「うん」
燃料はおあつらえ向きに、ほぼ満タンになっていた。
沖合には僕らが生まれたときから巨大な高層ビルの残骸が浮いている。
漁師たちの間では「ビルの森」と呼ばれていて、いくつもの斜めに傾いた廃墟のビルが海原の中に突然現れて、遠くから見るとまるで小さな島のように見える。
その海域は水深が浅く、ビルはそこから生えているらしかった。
漁師たちはその不可思議な入り江に集まる魚を捕らえてくる。
偶然できた人工的な漁場なのだ。
いつからあるのかわからないそのビルの森の海底には、他の海では見かけない生き物も多く生息しているらしい。
「俺、漁師になったらまっさきにここに来ようと思ってた」
鳴海はボートを唸らせて加速を上げながら、僕に聞こえるように大声で言った。
「でも、お前卒業したらいなくなっちゃうだろ? だからもう、待ってらんねえと思ってさ!」
鳴海もきっかけを探していたのだろう。
僕はエンジン音の中で声を張り上げてまで伝えるべき言葉を見つけることができなくて、ただ運転に忙しそうな彼に頷いて見せた。
ビルの森はすぐそこまで近づいてきた。
「ヨシ、どこにとめる?」
僕らはボートの速度を落として、いまやビルの森の中に入ってきていた。
ビルはそれぞれ密集していて、その間の水路のようになった海面はほとんど日陰になっていた。
廃墟ビルの上の方にはどこから流れてきたのか、木々や草が生い茂っていて、本当の森のように木々のざわめきが波の音と重なってビルの間に反響していた。
「たしか、本当に入り江みたく、船をつけて下りられるような場所があるって聞いたことがある」
「俺も親父から聞いたな。よし、そこに行こう」
ボートでいくつかの”通り”を進んでいくと、実際にビルのふもとにごく小さな浜辺ができている場所があった。
「降りよう」
鳴海がボートを浜につけ、僕らは降り立った。
そこにはビルと木々の陰に遮られずに届いた日の光が、浜辺だけをちいさく照らしており、浜辺の砂はビル群のなかにあって不釣り合いなほど黄色い混じりけのない輝きを反射していた。
鳴海がエンジンを切ると、僕たちの周りには森のざわめきとかすかな波音だけが残った。
二人ともしばらく黙ってビルや浜に寄せる小さな波を見ていた。
「行こうか」
「……ああ」
鳴海はそれでもしばらくビルとその向こうの海原を眺めていた。
僕らはまず降り立った浜辺からすぐ近くのビルの入り口に入った。
ビルの入り口には動かなくなった自動ドアらしき両開きのガラス扉があった。
だれかがこじ開けたように、中途半端に人が通れるくらいの隙間分だけドアは開いていた。
僕らは身をよじって中に入り、さらにもうひとつ玄関に入る自動ドアもすり抜けると、そこは廃墟ビルの玄関ホールだった。
玄関ホールのすぐ手前、入り口入ってすぐのところには浜辺の砂が散らばっていたが、歩いて奥に進むと石造りの床は僕らを反射するほどきれいなままで、本当にどこかの都市のビルのなかに迷い込んだかのように思えた。
「かなりきれいだな。荒らされてもないし」
「うん。漁師のひとたちは中には用事ないし、実際ほとんど誰も入ったことはないんじゃないかな」
「親父の子供のころからあるらしいけどさ、でもなぜかここに来て探検したって話は聞かなかったな」
「入っちゃダメって決まりとかあったっけ」
「オン爺ならキレただろうけど。そういえばこのビル森にくるの怒ってたのってオン爺だけだったな」
「うちの親もあんまりここのこと話してるの聞いたことない。俺がちょっと行ってみたいって言った時もさ、全然興味ない感じで」
「もしかしてオン爺だけか? ここのこと気にしてたの」
オン爺はビル森について話す子どもをよく怒っていた。
鳴海も僕もビル森に行きたいと思っていたのはずっと以前から同じなので、ボートを貸してくれるようにオン爺へ頼んだこともある。
でもそのときは『バカヤロウ! あんなあっぶねえとこガキだけで行っていいわけあるか!』と鬼のように怒られた。
剣幕に押されて二人ともそういうものかと思ったが、別に大人の漁師はよく来ているみたいだし、なんならオン爺がついてきてくれたらよかった。
でもその提案にもオン爺は怒るだけだった。
『こんな爺一人ついて行っても仕方ねえだろ!』
「冷静に考えるとさ、なんであんなにオン爺がここに来るの怒ってたのかよくわかんないよね」
「そうなんだよなあ。別に島の大人もこのビル森のことなんかなんとも思ってないっぽいんだよな。オン爺だけなんか神経質だった気がする」
「なんか秘密でもあるのかな。海にいつでも出てこれるのは漁師以外だとオン爺だけでしょ」
「あるかあ? あの爺さんにそんな秘密。ただヒステリックだっただけっていうか、正直ちょっとボケちゃってたんじゃないかと思うけどね」
「でも一応僕らのバイト先の店長でもあるから」
「バイト先の上司がバグってるなんてあるあるじゃん」
僕らは玄関ホールとおぼしき場所から二階に上がってみた。
そこは一階よりもよりオフィス然としていて、いくつかの場所がパーテーションで区切られていて奥までは様子が伺えない。
「なんだろ。会議室みたいなかんじか?」
鳴海とそのフロアに入っていく。
フロアの中央付近まで来たとき、鳴海が立ち止まって奥をじっと見始めた。
「どうしたの?」
「ちょ、静かに」
(……?)
フロアの奥、鳴海の見つめる先からは、かすかに何かの音が聞こえてくるのがわかった。
それは木々のざわめきとも、波の音ともちがう、もっと小さくてこそこそとしたものだ。
それは人の話し声に他ならなかった。
(……誰かいる?)
(まさか。だって俺ら以外にボートなんてなかったろ?)
(……でも、きこえるよね)
鳴海は僕と目を合わせると、ひきつっていながらも、我慢できないとでもいうようににやりと笑った。
(見に行こうぜ)
(……まじ?)
(面白くなってきた)
鳴海は足音を立てないようにそっと声のする方へ向かっていった。
僕も後ろをついて歩く。
一歩近づくごとに声は大きく、確かに人の声だと識別できるくらいになってきた。
僕らはいっそう足音に気を付けながら、話し声に耳をそばだてた。
《――は――ている――もっと――》
《こまかな――が――りない》
《――さいに――にが――たいのかはっきり――》
パーテーションの奥からは誰かの声がずっと聞こえる。
内容が聞き取れるくらい近づいた時、中から別の人の声が聞こえた。
《ありがとうございました》
僕たちはそのはっきり聞こえた声にぎょっとして立ち止まり、そしてすぐに何かの気配が僕らの横を通り過ぎて行った感じがした。
中からまた声が聞こえる。
《次の方、どうぞ》
僕と鳴海は顔を見合わせて、目線で(どうする?)と一瞬相談した。
でも鳴海は意思が固まっていて、僕もそれに乗っかるつもりだった。
(行こう。ここまで来たんだ)
パーテーションの向こうへ回り込むと、そこはさっきまでの廃墟の薄暗いフロアではなく、喧騒のする明るい本物のオフィスの一角だった。
僕らはシャツに短パンだけでその中にポツンと立っており、正面にはこぎれいな服をした眼鏡の若い男性が居て、「どうぞ、かけてください」と僕らと彼の間にある机を手で示した。
僕らは顔を見合わせ、とりあえず流れに身を任せるつもりで、手前の椅子にかけた。気づくとここはクーラーも効いていて、汗ばんでシャツ一枚の僕はあらわになった二の腕をさすった。
「じゃあ、キミらの作品を見せてください」
「え?」
「持ってきてるんだよね? ああ、それかな?」
僕らは彼の言っている意味がよくわからなかったが、男が手で指し示した鳴海の腕には、いつのまにか大きな封筒が抱えられていた。
「え、これ……?」
鳴海は言われるままにその封筒を差し出した。
封筒の中身は分厚く、手渡すときにはその重さが見てわかるほどだった。
「では、拝見します」
学校の集会で賞状をもらう子みたいに、丁寧に両手でその封筒をうけとった男は中から紙の束を取り出して、すごいスピードでそれをめくり始めた。
(鳴海、あの封筒どこから?)
(知らねえ。言われたらなんか手にあったんだ。ていうかなんだここ、寒いしよ……)
ぼくらは二の腕をさすりながら、一心不乱に紙の束をめくり続け、一度最後までいったあとにまた最初からめくり始めるのを繰り返す男を見ていた。
(ヨシ、これ、ここ、なんだと思う)
(わからない……どこかの会社みたいに思えるけど、でもさっきまで僕たちビル森に居たのに)
(なんなんだいったい……)
紙束を見終わったのか、男は最後に一枚目の紙をじっと見ながら僕らに聞いた。
「『ビルの森』鳴海リュウジ、島木ヨシナリ、鳴海くんは?」
目線で聞かれ、鳴海が「鳴海は俺です」と手を挙げた。
「鳴海くんと島木君ね。話はどっちが考えてるの?」
「話?」
「こうしようとか、こうなったらこうなるとかね、人物がどうなっていくかのストーリーだよね」
「えーっと……? 考えたのは、ヨシ……島木ですけど、実際にやってるのは、俺? みたいな?」
「じゃあ、こっちの、島木君が考えて、鳴海くんが形にした感じ?」
「……? まあ、ここまで来るのには、俺が運転しなきゃだったけど、島木が言いださなければやらなかったかな」
「わかった。じゃあ、まず絵のことだけど」
そう言って男が手元の紙束を机の上に広げた。
そこには白い紙の上に黒い線で、四角い中にいくつもの絵や人が描かれ、さらにその中の丸や四角の中に言葉が書かれている。スケッチやイラストの寄せ集めのようにも見えるし、それが四角い線で整然と並んでいるさまは何かの意味を持っていそうな気がしたが、無秩序な絵と言葉の配置にめまいがするようで、いったいこれが何を意味しているのか僕にはわからなかった。
ただ、その中のいくつかの絵には、僕らに似た少年が描かれていて、そのそばには彼らの言葉のようなものが書かれている。
『行ってみるか、今日?』
『よく知ってたね』
『だからもう、待ってらんねえと思ってさ』
『行こうか』
『……ああ』
それはなんとなく記憶にある僕たちの言葉だった。
それがなぜ今ここにあるのか、すべてが不可解で、僕は不気味さと恐怖にとらわれ始めていた。
「絵はすごい良いと思う。君たち中学生だろう? その歳でこれだけ描ける子はそうそういないよ。鳴海くんだっけ? 自信もっていい」
鳴海も僕と同じで、男の言葉に生返事で頷きつつ、目の前の紙に描かれた僕らと思しき人物や言葉をじっと見ている。
「話は島木君が考えたんだったね」
「……はい」
男が僕の方を見て言った。
僕にとってはただこの状況の中で、会話らしきものを成立させることだけが、不可解な状況をコントロールするためにできることだった。
「海の上にビルが建っている、そこに探検に行くっていうのは、発想としては面白いけど、でも、せっかくだから何かこの主人公やその友達に、目的とか、悩みみたいなもの、それを解決するような話が見れると、もっと読みたいって気持ちを読む人に持たせることができるかもしれない」
男の言葉に頷きながら、いったい僕は何をしているんだろうと思った。
「読者は感動したいものだし、感動できる話を僕は持ってきてほしい」
「感動?」
「この探検にも、きっと意味があったはずだろう? その意味を読者にもわかる形で共有できれば、そしてその目的の解決を提示できれば、この作品は読む人との間にちゃんと橋渡しができるようになるから」
「……でも、僕はここに、目的があって探検に来たわけじゃないです」
「そうだね、これを読むだけだとはっきり目的が設定されてないのは正直よくわかった」
「僕はただ、ずっと気になってた場所に、友達と二人で見に来たかっただけで、それが何かのためとかじゃないっていうか……」
「でも、こんな風に非日常の体験をしに来るってことは、何か主人公には満たされないものや、渇望があったはずで、それをはっきり目指して克服して成長するときにカタルシスが生まれるんだ。ただ絵のイメージに頼って、そこに行きました、だけじゃドラマにはならない。これが鳴海くんの画集ならともかく、君が考えたストーリーなんだし」
「……別に僕はどこに行こうが、それにいちいち理由をつけて誰かに説明したいとは思わないです。ましてそれで安心して納得した気になって感動とかされるくらいなら、わけわかんないほうがましです」
「でも読む人がいるからね」
「おい、ヨシ! 行くぞ!」
鳴海は僕の腕をつかんで立ち上がらせた。
「鳴海くん、君の絵は見込みがある、いつでもまた連絡してくれ」
「そりゃどうも。もう、来ないと思うけど」
「僕はいつでも待ってるよ」
紙の束を入れ、連絡先らしきメモを走り書きした封筒を男が鳴海に差し出した。
鳴海は一瞬迷ってからそれをひったくるようにし、僕を引っ張ってパーテーションから出ていった。
最後肩越しに後ろを見たとき、男は椅子に掛けたまま『次の方、どうぞ』と言った。
僕らはその声を最後にフロアに出た。
フロアはまたうら寂しい暗い廃墟に戻っていて、来た時よりもパーテーションや机の残骸は倒れたり崩れたりして、中には砂が入り込み、木の蔦が茂り、より廃墟然とした様子になっていた。
「同じ場所か? これ」
「多分……。とりあえず、いったん出よう」
「そうだな……」
一階に降りると、そこもほとんど浜辺の砂に浸食されて、磯の匂いがしていた。
自動ドアのあった場所はガラス片がわずかに残るばかりで、吹きさらしの風が外から舞い込んで砂を運んできていた。
ボートは無事見つかり、僕らはなぜか無言のままエンジンをかけてそのビルを後にした。
立ち並ぶビルを通り過ぎるたび、ビルの間から橙色の夕日が僕らの頬を照らし温めた。
鳴海はまっすぐ進行方向を見ていて、振り返る様子もない。
その手にはあの封筒が抱えられ、夕日を反射していた。
僕はボートのなかに腰掛け、左手から射す夕日と水平線を眺めた。
廃墟ビルで区切られた四角い景色の枠の中で、海原を光で白く染めながら落ちていく夕日は、たしかに絵にしたら美しいかもしれないと思った。
太陽が落ちるのに目的も夢もない。
ただ海も太陽もそこにあって、僕たちはその仕組みに触れることも変えることもできない。
変えられないものほど美しく見えるのはなぜか。
僕たちだってその一つだと思う。
「とりあえず腹減った! 帰ったら飯食ってそれから~!」
ビルの森を抜けた瞬間、鳴海が大声で叫んだ。
僕もそれに応えてつづく。
「海の家にさあ、オン爺の花火、まだのこってなかったっけ!」
「あ! いいねえ! 八木ちゃんとか呼んでさ、夜集合な!」
「おっけー!」
「ふー! 楽しくなってきたー!」
鳴海も僕も、この日あったことを誰にも話さなかったし、二人でそれについて話すこともないまま卒業した。
仲間たちの間では、いまでも夏休み前日の最後の登校日は、夜にみんなでオン爺の海の家で花火をした日として記憶されている。
鳴海は今も島に居るのだろうか。
僕はここでいま、絵をかきながら、ときどきあの森のことを考える。
ビルの森は今もあの島の沖合で静かに浮かんでいるはずだ。