奥州の辺境にその寺はあった。
人が寄り付かないような山の奥に建てられた寺院は、一目見れば廃寺と勘違いしてしまいそうなほど老朽している。
緑に苔むした石段を登る。雨で削れていったのか均等に並べられて居たであろう石段は凸凹としており、踏み込むたびにグラグラと揺れた。
長い石段を登り切った先に小さな本堂が建てられており、その前を白い巫女服を着た女が
桃色の髪を持つ女が来訪者に気が付き、目線を上げる。
目が合った。白目を覆いつくすような大きな黒目と目が合い、思わず緊張が走った。
此処に来るまでに覚悟はしてきている筈であったが、それでもいざ目の前にすると話は変わってくる。
動悸が激しくなる。息が苦しくなって、汗が氷のように冷たい。
大きく息を吐き、女に近づいた。近くまで寄ると、自分に気が付いたのか手に持った帚持を床に落とす。
「……お久しぶりです…亨子さん」
一年ぶり見た亨子さんは、少し髪が短くなっているような気がした。
亨子さんに連れられて、小さな客間のような場所に付いた。
5畳ほどの大きさの客間は、建物の外見に反して内装は質素ながらも清潔を保っていた。
亨子さんと向かい合うように座る。
此処について行く間に亨子さんとは何も話していない。
ただ「付いて来て」とだけ言われ、今に至っている。
話す事を事前に考えてきていたが、いざ目の前にすると考えが白紙に変わり何も言葉が出てこない。
何か言わなくては。そういった焦燥に駆られるが何を話していいのか分からずに、口を噤んでしまっていた。
そんな私の焦りを察知したのか、最初に口火を切ったのは亨子さんだった。
「……1年ぶり…くらい?なんかデカくなったね。今何歳だっけ?」
「あ……18になりました」
「そう。18…ね。私も歳とるわな。ホントあっという間」
「…そうですね」
気を使わせてしまった。それくらいは私でも分かる。
この期に及んでまた迷惑をかけるのか。そういった自嘲を勝手に浮かんだ。
違うだろ。そんな風に捉えてまた逃げるのか。
「ここに来てからは…どうされていたのですか」
亨子さんは視線が少し上に向いた。
「住職の手伝い…みたいな。掃除とか簡単な農業とか。居候みたいなもんだからね。羂索に恩があるみたいだけど…それで私が食わせて貰うのは違うし…」
少し意外だった。あまり農作業といった地味な作業を亨子さんがやる姿が想像出来ないから。
「でも…そんなに話せる事はないわよ。目立たないように過ごしてたから。アンタの方は?」
彼女から質問に、少し心臓がドキリとした。
まるでこれまでの不出来に対する
「話す…ような事は…あまり。呪霊をずっと祓っていました。飢饉があったので」
恐る恐る亨子さんの反応を伺うように答えるが…彼女はこれと言った反応を見せない。
「あー、西は飢饉があったそうね。こっちはあんまり影響無かったけど」
亨子さんの手が茶碗に向いて口をつける。
「あ、あと。その…両面宿儺の祓除を行いました」
亨子の口から勢いよく噴き出した熱湯が、顔に降りかかる。
鼻腔に茶葉の香りが広がった。
不思議と汚いとは思わなかった。熱くはあったけど。
「ごほ!ごほ!あ、ごめ、拭くもの持ってくる」
そう言って少し慌てたように亨子さんが持ってきたぼろ切れで顔を拭いた。鼻の奥にうっすらと茶の匂いが残っている。
「…よく生きてるわね」
関心するように亨子さんが呟いた。
『助けて頂きました。五条家の方に』そう言おうとして、喉が詰まる。
お前は何で他人事のように語ろうとしている?
終わった事だとでも思っているのか。何も終わってなんかない。
お前は生かしてもらったんだ。なら救われた命全て使って報いるべきじゃないのか。
そうだ、私は生かして貰った恩を一生かけて_____。
突如、何かが頬に触れる。
意識が浮かび上がった。真っ暗だった視界は急速に開け、目の前には手を伸ばし私の両頬を摘まむ亨子さんがいる。
「アンタさぁ…どうせ自分の代わりに誰かが死んで、その人の分まで頑張らなきゃとか思ってんでしょ」
彼女はそう言って呆れたようにこちらを見ている。
五条是綱の話を私はしていない。では何故…何故彼女はそうと分かったのだろうか。
「ワザとやってんのそれ?分かりやすく陰気な感じ出されたら私じゃなくても分かるでしょ」
「……そんなつもりではないのですが」
「じゃあ辞めたら。そう如何にもって感じで落ち込まれると触れづらくて仕方ない。人によっては不快に思われるわよ」
彼女の語る事は理解出来る。ワザとやっているつもりは無かったが、周りからそう見えるのなら辞めた方が良いのだろう。
だが理解は出来ても納得はしたくなかった。
「しかし…それでも私は過去を忘れのうのうと生きる事は「忘れたらいいじゃない」
彼女の低い声が遮るように響く。
「
そう彼女が飄々と言いきった。
さも当たり前のように。
問題はそう簡単でもないのに。
「…そんなに簡単に忘れられませんよ」
「私は別に簡単とは言ってない。忘れるって難しいの。でも忘れる努力は出来るし、どうせ解決しない問題を永遠に抱え続けるよりは「できませんよ!!」
制御が効かず、自分でも驚くほど大きな声が出た。
でもいいや。だってそうなんだから。
「忘れる事も…無かった事にすることも出来ません!…無理なんです。それに…自分が楽になりたいからといって背負った枷を放り捨てるなんて…していい筈がない」
目の周りが熱くなって涙がこぼれた。
何だか最近はやたら泣いている気がして、そんな自分に腹が立つ。
「私のせいで…私のせいで亨子さんだってあんな目にあって…なのに…忘れて無かった事になんか……出来るわけがないでしょう!!!」
姿勢を保てなくなって頭から床に倒れる。両腕を床につき首を垂れる。
子供みたいに泣いた。体の中に残った息を全て吐き出すように声を出して泣いた。
泣いて泣いて泣き疲れて…感情が沈静した頃に冷静になって死にたくなった。
相手の事も考えず自分勝手に泣いてしまった。それも私のせいの事なのに。
恐る恐る顔を上げると、胡坐をかいて太ももに肩肘をついている亨子さんと目が合った。
「あ、もう終わった?」
なんとも興味がなさそうな態度に、思わず困惑した。
怒るわけでも困るわけでもない。ただ呆れているような態度に、どうしていいか分からない。
「あのさぁ…まぁそんなとこだろうと思ったけど。……私は別にアンタのせいとか思ってないから」
「…亨子さんはそう思っていても」
「いや、だから。そもそも早離が悪い訳じゃないでしょ。一番悪いのは藤原。アイツらの内輪もめのせいで冤罪かけられたんだから…自分のせいだと思うくらいならアイツら殺す方が先決でしょ」
「し、しかし。私の利用価値が下がったせいで」
「それで言ったらそもそも早離じゃなくて私の利用価値が低い事に起因するわよ。…え、遠巻きに馬鹿にしてる?」
そ、そんな事思っているわけがない。
必死で首を横に振った。
「殺されそうになったのは絶対に許さないけど…ていうかアンタに助けて貰った立場なのに、それで早離のせいにされても私が困るって言うか…勝手に背負わされる側の気持ちだってあるでしょ」
似たような事を天元様にも言われた事を思い出す。
頭では理解している。彼女や天元様のいう事は正しい。
自分が逆側の立場に立てば、同じ思いになるのかもしれない。
でも、それでも、自分がそう割り切れるとは思えない。
「…それでも…あんな目にあって、でもそんな考え方を亨子さんにさせて、それで私が楽になりたくは…ないです。」
語尾が弱くなる。指摘されてなお、間違いを選んでいる事くらいは分かっている。
亨子さんの視線も呆れを通り越して、少し怒っているように思えた。
「だから!私が面倒くさいって言ってんの!別に生娘でもあるまいし、アンタと初めて会った時もそうだったから分かれでしょ!そういう生き方をしてきたの!!!だからあれぐらい何ともないって」
「過去が良くないとしても、それで傷を付けられていい訳がありません!!」
「だから気にしてないって言ってぇんだろ!!」
亨子さんが手に持った茶碗をこちらに投げる。
咄嗟の事で呪力による防御が間に合わない。頭部に当たった茶碗が床に落ちる。
頭頂部の方から血が流れて目の横を垂れた。
「思いやりも行き過ぎると侮辱に変わるって分かる?…はぁ……ごめん。やり過ぎた」
「これぐらい何てことありません」
「じゃあ治して。そのままでいられても不快」
頭部の裂傷を反転術式で治癒させる。
傷跡はすぐに塞がり、痛みが消える。
こうやって、ただの傷ならすぐに反転術式で治せるのに。
「……多分、このまま会話を続けてても互いに良くないと思うから。だから、もう帰ったら?」
落ち着きを取り戻したように見える亨子さんが深く長い息を吐くと、そう言った。
視線を逸らし、顔には暗い影を落としている。
「亨子さんは…これからどうするんですか?」
「…羂索の誘いに乗ろうと思ってる。なんか呪物になれば羂索が生まれ変わらせてくれるって。呪術を使って藤原に生きている事がバレたらまた殺されるだろうし…だったら生まれ変わりに賭けてみるのもアリだと思ってる」
『胡散臭いけどね』そう彼女が付け足した。
羂索が亨子さんまで誘っていた事は知らなかった。もしかしたらその為に誘ったのかも知れない。でも…どうして?
「……生まれ変わって何をするんですか」
「話聞いてた?…さぁ、そんな事考えてないわよ。ほとぼりが冷めるまでは呪物のままだし…多分アンタがジジイになってる頃に生まれ変わって…それで…まぁ、今よりはずっと良いんじゃない?」
亨子さんは語る未来は非常に不明瞭に思えた。
羂索に邪悪な考えがあるとまでは思っていない。だが何か裏が無いとわざわざ彼女を助けないだろうという確信があった。
そして亨子さんもそれを理解した上で、羂索の誘いに乗ろうとしている事も。
「それなら…どうして、ここに居たんですか」
一年は長い。このまま呪物になろうとするのであれば…既になっていてもおかしくは無かった。なのに亨子は今だ人のままだ。
亨子の目がキョロキョロと動く。何かを言おうとして言い淀んでいるようだった。
ただ無言で彼女の瞳を見つめて。
暫く見つめていると、諦めた様にため息を吐いた。
「あの時は…少しだけ意識があって。アンタが馬鹿見たいな顔で、私を見てた。今にも泣きそうで情けないツラしてて。…それで私は…多分、コイツは引きづるかもしれないなと思ったの。やっぱり引きづってたし。それで…だから、私が何も言わずに消えたら死ぬまで後悔してんじゃないかって…思って。今みたいに顔見せに来たら、その、やめろバカって言って。それで終わりにしようと思ってた」
亨子の頬は少し赤くなっていた。
目線を合わせずに、目の上に皺を寄せて、たどたどしくそう言った。
「でも、アンタ全然来ないから…なんか1年経ってた。すげぇ優柔不断って言うか…臆病って言うか。このまま来ないなら呪物になろうかなとか思ってて、そしたら丁度来たし。だからもういいかなって」
彼女の独白を聞いて、ただただ情けなく思う。
彼女は私の事を考えて留まっていたのに、私は怖気づいて一歩踏み込む事すら出来なかった。
もう間違えないと決めた筈なのに、その後もずっと間違いを続けてしまっていた。
いや違う。今、ここでまた間違いを一つ犯そうとしている。
あぁ、そうか。今だ。今なんだ。私は瀬戸際に立っている。
自分が感情につける名称なんか分からない。
理路整然と語れる魂胆は無い。
ただ、ただもう誰も失いたくはない。それだけは確かなんだ。
必死で頭を働かせて彼女を止める言葉を考える。
彼女は自ら呪物になろうとしているのに止めるのか?
うるさい。黙れ。違う、違うだろ。
好きで博打を打つ者は居ない。そうせざる負えないからやるんだ。
誰が不確実な生まれ変わりに縋る。誰だって今世で幸せになりたいんだ。
「…私が…
そこまで言って止められた。
彼女の手が首元まで延びた。襟を掴まれ引き寄せられる。
青筋を当てて見るからに激昂している亨子さんは、何も言わずに私を睨みつける。
駄目だ。ここで引いてはいけない。
「…私言ったよな?なに勝手に背負ってんだよ。それに…寄りにもよって藤原に頭下げて許しを乞えって言ってんのかよ…殺すぞお前」
「亨子さんが謝罪をしろとは言ってません」
「同義だろうがよ!あぁ!なに勝手に私の進退までお前が決めてんだ!私がどう生きようがアンタには関係ないでしょうが!!」
亨子さんの言う事は最もだ。何も間違っていない。
それでも…それでも……。
「じゃあ関係させてくださいよぉ!!私は…私だって!!皆勝手に居なくなって…勝手に背負うなって言うなら勝手に消えたりなんかするなよ!!置いて行かれる…こっちの身にも…なれ、よ」
感情のままに彼女に抱き着いた。
手を離せばそのまま離れていくような気がして、力いっぱいに抱きしめる。
「はた迷惑でも余計なお世話でも何でもいい…背負わせてください…背負いたいんだ!私は…私の意志で、そうなりたくて此処に来ました。これは…嘘でも何でもない」
祈る様に、縋る様に懸命に頼み込む。
恥ずかしいとか、もうそんなのどうでもよかった。
「居なくならないで下さい。消えないで下さい。お願いします…お願いしますから」
どんなに情けなくても、どんなに惨めでも、それでも彼女まで居なくなって欲しくはない。それだけは確かなんだ。
泣いて泣いて、何も考えられなくて、それでも狂ったように懇願し続けた。
途中からは自分でも何を言っているのかも分からなくなって、ただ彼女を抱きしめてた。
どれくらい時間が経ったか分からない。
頭が冴えてきて…ようやく自分の行いを冷静に見れるようになった。
泣き疲れて、喉もカラカラに乾いて、いつもより視界が開けて見えた。
「……ごめんなさい」
何を言えばいいか分からなくて、謝った。
彼女の背中に回した両腕を離して少し距離を取る。
亨子さんの反応は無い。
今になって先ほどからずっと反応を見せていない事に気が付いた。
本当は怖くて、恥ずかしくて、彼女の顔を見たくなかったけどそれでも顔を上げる。
例え間違いであったとしても、自分の選択を間違いであったと思いたくないから。
もし顔を赤らめていたら良かったのか。それとも怒っていた方が健全なのか。私には分からない。
ただ変わらず呆れたような顔を見せる亨子さんは、大きなため息を吐いて口を開いた。
「…落ち着いた?」
「え」
「落ち着いたかって聞いてんだけど」
「…は、はい」
亨子さんはその場で指を折り自身の爪を眺めたり、上を向いて首の裏を爪で掻いたり、ワザとらしいため息を数回吐いて…何も言おうとしない。
彼女の反応が何を示すのか全く分からない。拒絶もない。だが賛同もなに。
これは一体何が起きている。
「情けなかった」
目線を合わせることなく、そっぽ向いた彼女が吐き捨てるように言う。
「本当に情けない。女に抱き着いて、ガキみたいに泣きわめていて、体だけ成長しても中身はガキのまま。何考えてたらそんな痴態を晒して生きていけるの?私に教えなさいよ、恥ずかしくないの?」
反論の余地もない正論に心が痛い。
「独りよがりに傷ついて叫んで、それで最後が泣き落とし?もっとマトモな手段とか考えられなかったの?」
全てがその通りだ。
指摘されるたびに背中が重くなり、視線を下に向いてしまう。
「情けない。哀れで惨めで滑稽で、本当に見るに堪えないわよ、あんたって」
口調は落ち着いているが、その内容と抑揚で彼女の感情が突き刺さる様に浴びせられる。
枯れるまで泣いてしまったので涙は出ないが、もしそうでなければ泣いていたかもしれない。
「……これ以上に情けない姿を見せられると…私はあまりの忌々しさに憤死するかもしれない」
彼女は少し声を詰まらせながらそう言った。
次にくる言葉は誰だって予想できる。『もう二度と姿を現すな』だ。
「だから………
………
よく意味が分からずに、つい顔を上げた。
相変わらず彼女は仏頂面を保っている。
大きな黒い瞳と目が合った。
「これ以上アンタを放っておいても生き恥を重ねるだけだし、傷つかれて勝手に死なれたりしても面倒」
彼女の言わんとしている事の意味が直ぐに理解できず、ただ茫然と彼女を見ていた。
「だから…ちょっと先延ばしにする…だけ、だから」
「…だから?」
「…だから」
「…だから…っていうのは?」
「だからはだから」
「それは…つまり?」
「だ!か!ら!…だからはだからって言ってんだろ!」
そう怒る彼女の事を、今だけは気にも留めなかった。
このまま抱き着きたくなったが…すんでの所でやめた。多分、まだ早い気がした。
「…別に次の人生を諦めたわけじゃない。延期するだけ。それは分かるわよね」
首を縦に振った。思いっきり振った。
「それと、藤原に下るのも無し。それだけは絶対。私じゃなくてもアンタが頭を下げると間接的に私も下げた事になるの。だからダメ」
追従するように首を振るが、彼女の言い分だと疑問が残る。
それでは今後どう過ごしていくのか。
その答えを聞く前に彼女が教えてくれた。
「早離さ…
「…は?」
「別に…このまま抜けたらいいじゃん。それで適当に…適当に生きていく。藤原とか陰陽寮とか関係なしで…呪術師なんかも辞めて…それで良いじゃん。…うん、それで良い」
彼女が自身の言葉に自分自身で改めて納得するように、言葉を紡ぐ。
いや、待ってくれ。え、いや…それだと…え?
「あ、あの…それだと…呪詛師に」
突然差し出された彼女の指が折り曲がると、額の前で跳ねた。
べチンと音がして、遅れて痛みが走る。
「呪詛師になるなんて一言も言ってないでしょ!この一年で私も農業とか出来るようになったし…そりゃ生活に困れば呪術は使うつもりだけど…あくまで平和的にやっていくわよ!!」
先ほどとは打って変わり、良い意味で理解が追い付かない。
ほのかに湧き出てくる笑みを抑えながら会話を続ける。
「な、なるほど。でもそれで生活は出来るのでしょうか」
「困ったら呪術使えば良いわよ…ちょっとだけなら向こうにバレる事も…いや、どうせ放浪するなら大陸に渡るのもアリかも知れないわね…それなら呪術を好きなだけ使っても」
彼女が次々と色々な意見を出して、私はただそれに相槌を打った。
ものを知らない私は、彼女の語る未来にどれだけの苦難が待ち受けているか全く想像が付いていなかった。
ただその時は嬉しくて仕方なかった。
彼女と一緒に居られることが嬉しくて堪らなかったんだ。
それは出雲の国の小さな村であった。
主要な集落から外れた場所にあり、村民も数十人程度の小さな村。
その村には一人の老人が居る。
村の長を務めており、他に身寄りは居ないものの、その人の好さと経験の豊富さで多くの村民から愛されていた。
そんな老人の元に若い男性が訪れた。
20代程の
線が細く、箱入りで育てられた貴族のご子息のように見える。
老人は突如訪問してきた男性を一目し、乾いてひび割れた唇を動かした。
「……
老人の反応に若い男性の目が大きく開くと、口角を上げた。
「ご名答…なんで分かったのかな」
「…友の顔を間違えたりするものか」
「そうか…そうか。入っても?」
若い男性が…羂索が聞くと、老人は家に招き入れた。
囲炉裏を中心に、二人が座る。
老人は体が不自由なのか、座るだけでも苦労しているように見える。
「早離は随分と老いたね」
「60になる。それに比べてお前はまるで別人だ」
「だって別人だからね」
「ハッ、笑えないな」
そう言って早離はニカっと笑う。
歯の多くが抜け落ちているせいで、大きく開いた口はみすぼらし。
「一人かい?家族は居ないの?」
「いない。もうずっと一人だ。もう10年になる」
その後の早離は、亨子と二人で日本中を放浪とした。
ある時は蝦夷にある
ある時は二人で大陸に渡り遊牧民と共に平原を駆けて、ある時は大陸の国家である宋の王族に仕え大陸の言葉と文化を学んだ。
かけがえのない日々だった。
世界がこんなに広いのだと知ることが出来たのは、間違いなく彼女のおかげだと彼は思っている。
二人の間に子供が出来る事は無かった。
彼に種が無かったのか、それとも彼女の体に問題があったのかは分からない
それでも彼は構わなかった。身軽な人生を最大限謳歌しようと二人は放浪を続けた。
日ノ本に戻ってきたのは、体の老いを実感した頃だった。
最後に死ぬのであれば見知った土地で死にたい。そう二人が考えたからだ。
亨子は10年前ほどに死んだ。流行り病であった。
反転術式で病は治せない。苦しむことなく、眠る様に逝った。
「勝手に背負うなよ」
彼女の最後の言葉だ。
最後まで彼を気遣った遺言であった。
それから早離は1人で生きている。
「呪物になるつもりはない」
羂索が用件を言う前に、彼がそう突き付けた。
羂索にとって想像通りの返答だった。
「一応聞くけど…どうして?」
「俺はもう十分生きた。後悔はないさ」
それに、と言葉を続ける。
「これ以上待たせると亨子が怒る。1年待たせただけで激昂したんだよ、アイツ」
おどけるように早離が言う。その瞳は未来を捉えていない。
「私…じゃなくなったんだね。それに…敬語も使わなくなった」
羂索の質問に早離は眉を顰める。怒っているわけではない。
意味が伝わっていないだけだった。少しして、彼が意味を理解した。
「もう無理して大人びる必要がないからな。立派な爺だよ。ほら、髭まで白い」
伸びた髭を手で伸ばして振る。
体躯はすっかり衰えてしまったのに、何処か幼い部分を残して早離を見て、羂索は感慨深くなる。
「最後に教えてくれ…どうして強制的に呪物にしなかった」
「前も言わなかったっけ。呪物にするには本人の同意が必要なんだ。だから隠れ家を作って囲っていた亨子を連れていかれた時は、頭に来たね」
「それは申し訳なかった。おかげで良い人生を歩めたよ。亨子が死ぬ前に来なかった理由は?」
「単純だよ。君たちが何処にいるか分からなかった。各地を転々として…特に海の向こうにまで行かれたら分かるわけない。それに…正直言えば、優先順位が低かった。同時並列に進めているからね。キミたちだけに構ってられなかったんだ。」
彼が日本に居ない間に、羂索は天元の老化を進め全人類と天元の同化を実行しようとした。
結果は失敗。止めにはいった『六眼』と『無下限』を持つ術師…五条是綱の息子に敗北し頓挫した。
「彼女は数合わせだからね。わざわざ探すより、誰かで補った方が早い」
羂索の言い分に対して、彼が怒りを見せる事は無い。
酸いも甘いも全て味わってきた。
だからこそ羂索から受けた恩と仇を差し引きして、残るものを信じている。
「……俺の死体は自由にしていい。どうせ腐るだけだ、好きにしろ」
「話が早くて助かるよ。と言ってもいつになるか分からないけど」
「いや________
早離と羂索の目が合う。煌めく羂索の瞳とは反対に、彼の眼は鈍色に淀んでいる。
「新鮮な方が良いだろう…何をしたいのかは分からないが」
これが人生に絶望し、投げやりになった老人の自殺であるなら羂索は喜んで受けていただろう。
だが眼前の老人は違う。全てを理解した上で差し出しているのだ。
それはある種の献身だ。
「…死んでからで構わないさ」
「俺は1人だからな。俺の死を村の者達が気づき…それがお前に伝わるまで時間がかかるかもしれない。状態は良いに限るだろう」
少し沈黙が二人の間で流れた。
羂索は真意を疑っているのだと、彼は気が付く。
「別に…他意はない。ただ…一人より…
年甲斐もなく、恥ずかし気に彼は言った。
口持ちを手で隠して、合わさっていた視線を逸らしている
「……友達か。……友達からの願いなら仕方ない」
立ち上がった羂索が囲炉裏を足で跨ぎ、彼の前に立つ。
右手を彼の前に伸ばすと呪力を集中させる。
「さらばだ、友よ」
羂索の震えた声が聞こえる。
早離が目を瞑る。
瞼の裏にはこれまでの記憶が走馬灯のように巡る。
どれもこれも辛くも輝かしい日々であった。
「さらばだ…ありがとう、友よ」
この日、出雲の小さな村から一人の老人が姿を消した。
村長でもあった老人の消失は、直ぐに村中で共有されその捜索が始める。
村の若衆が捜索隊を結成し、近隣の森などで捜索も行われたが、痕跡一つ見つかることはなかった。