『葬送のフリーレン』の世界に転生した少女イリゼは、ある日「生きる魔導書」ゼーリエの存在を知り、無謀にも彼女へ勝つことを目標にする。

だが、長年魔法を学んで挑んでも、結果は惨敗。
死の先で再び生まれ変わった彼女は、自分の魂に「前世の記憶と魔法を刻む固有魔法」が宿っていることに気づく。

人間として、エルフとして、時には魔族として。
何度も転生し、何度も敗北しながら、彼女はゼーリエへ挑み続ける。

やがてゼーリエもまた、姿も種族も変えて現れる彼女を、ただの挑戦者ではなく奇妙な因縁の相手として認識し始める。

これは、死と転生を重ねる魔法使いが、黄金の大魔法使いに届くまでの物語。

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黄金の魔法使いに勝つまで

 最初の人生で、彼女は人間だった。

 

 名を、イリゼと言った。

 

 ヒンメルという勇者が生まれるより、はるか昔の時代。

 北側諸国の外れにある、小さな猟師村で生まれた娘だった。

 

 淡い金髪。

 灰青色の瞳。

 痩せた身体に、妙に整った顔立ち。

 

 幼いころから村の者たちは、彼女を見るたびに言った。

 

「神様が暇つぶしに彫ったみたいな子だ」

 

 イリゼは、その言葉があまり好きではなかった。

 

 自分は人形ではない。

 

 彼女には、前世の記憶があった。

 

 かつて別の世界で、男として生きていた記憶。

 魔法など存在しない世界で暮らしていた記憶。

 そして、この世界を物語として知っていた記憶。

 

 最初は信じなかった。

 

 魔物がいる。

 魔族がいる。

 魔法使いがいる。

 

 それだけなら、似た世界に生まれたのだと思えた。

 

 けれど、旅の魔法使いが村に立ち寄り、焚き火の前で「ゼーリエ」という名を口にした瞬間、イリゼは理解した。

 

 ここは、『葬送のフリーレン』の世界なのだと。

 

 生きる魔導書。

 神話の時代から生きる黄金の大魔法使い。

 後に、大陸魔法協会の頂点に立つ存在。

 

 ゼーリエ。

 

 その名を聞いた夜、イリゼは眠れなかった。

 

 怖かったからではない。

 

 胸の奥に、どうしようもない願いが生まれてしまったからだ。

 

 ――勝ちたい。

 

 この世界で最も魔法を知る存在に。

 魔法というものを、まるで所有物のように扱う黄金の怪物に。

 自分の魔法を届かせたい。

 

 あまりにも身の程知らずだった。

 

 だが、魔法使いとはたぶん、身の程を知らない生き物なのだ。

 

 十五歳で、イリゼは村を出た。

 

 最初に覚えた魔法は、攻撃魔法ではなかった。

 

 針を使わずに布を縫う魔法。

 

 旅先で出会った老婆が使っていた生活魔法である。

 

 次に覚えたのは、

 

 傷口を一時的に塞ぐ魔法。

 

 治癒魔法と呼ぶには粗末だった。

 裂けた肉を無理やり寄せ、出血を少しだけ遅らせるだけの魔法。

 

 だが、イリゼはそれを気に入った。

 

 戦いの中で一秒だけ長く生きられる。

 その一秒が、魔法使いには必要だった。

 

 彼女は人間の魔法使いたちの間を渡り歩いた。

 

 魔物避けの結界。

 水を澄ませる魔法。

 濡れた薪に火をつける魔法。

 夜道で足元だけを照らす魔法。

 遠くの音を少しだけ拾う魔法。

 

 どれも小さな魔法だった。

 

 けれど、この世界の魔法はそういうものだった。

 

 誰かの生活に根ざし、誰かの願いに寄り添い、奇跡というにはあまりにも限定的で、だからこそ確かな輪郭を持っている。

 

 イリゼは、それが好きだった。

 

 けれど、ゼーリエに勝つには足りない。

 

 二十歳を越えてから、彼女は戦場に出た。

 

 人間の魔法使いとして、魔族と戦う軍に雇われたのである。

 

 そこで彼女は、初めて自分の攻撃魔法を作った。

 

 曲がる光矢を放つ魔法。

 ルメルシュトラール。

 

 魔力を細い矢にして撃つ。

 

 それだけなら、多くの魔法使いがやる。

 

 イリゼはそれを途中で曲げた。

 

 右へ。

 左へ。

 上へ。

 

 相手の防御の縁をなぞるように、光矢の軌道を変える。

 

 威力は低い。

 発動も遅い。

 後の時代の一般攻撃魔法とは比べものにならないほど粗末だった。

 

 だが、当時の人間の魔法としては奇妙だった。

 

 奇妙な魔法は、初見の相手には刺さる。

 

 イリゼはそれで魔物を倒した。

 盗賊を退けた。

 下級の魔族と遭遇し、かろうじて生き延びた。

 

 六十歳を過ぎるころには、人間の魔法使いとしてはそれなりに名を知られるようになっていた。

 

 それでも、彼女は分かっていた。

 

 足りない。

 

 何もかも足りない。

 

 ゼーリエに挑むには、自分の人生はあまりにも短すぎる。

 

 だが、人間に次の百年はない。

 

 だから行った。

 

 寿命が尽きる前に、挑まなければならなかった。

 

 北の雪山だった。

 

 ゼーリエの居場所を、イリゼが正確に知っていたわけではない。

 

 ただ、長く魔法を追っていると、時折、人の領分ではない魔力の残り香に出会うことがある。

 

 それを追った。

 

 吹雪の中を歩き、凍った岩を越え、老いた足で山頂へ辿り着いた。

 

 そこに、黄金の髪のエルフがいた。

 

 小柄な身体。

 退屈そうな瞳。

 だが、纏う魔力は山よりも大きい。

 

 イリゼは、その場で笑った。

 

 恐怖で膝が震えていた。

 

 それでも、笑った。

 

「あなたに勝ちに来ました」

 

 ゼーリエはイリゼを見た。

 

 人間の老いた女を見た。

 

 それ以上の興味は、まだなかった。

 

「何年、魔法を学んだ」

 

「四十年以上」

 

「足りんな」

 

 ゼーリエはそう言った。

 

 それだけだった。

 

 次の瞬間、イリゼの胸の内側が消えた。

 

 攻撃魔法だったのか、魔力の圧だったのか、防御の隙間を抜かれたのかすら分からない。

 

 ただ、心臓がなくなっていた。

 

 死因は、心臓部の完全消失。

 

 イリゼが仕込んでいた傷口を塞ぐ魔法は発動した。

 

 けれど、塞ぐべき傷口がなかった。

 

 胸の中にあるはずのものが、そもそも存在しなくなっていたからだ。

 

 膝をつく。

 血を吐く。

 視界が白く滲む。

 

 魔法は届かなかった。

 

 ゼーリエの身体どころか、服にも、髪にも、周囲の空気にすら、イリゼの魔法は触れられなかった。

 

 それでも、イリゼは最後に言った。

 

「次は……一歩、近づきます」

 

 ゼーリエの眉が、わずかに動いた。

 

「次?」

 

 答える前に、イリゼは死んだ。

 

 享年六十八。

 

 ヒンメルの死から数えて、千三百五十二年前のことだった。

 

 そして五年後。

 

 彼女は、未来に生まれた。

 

 過去へは戻らなかった。

 

 世界は、イリゼが死んだ先へ進んでいた。

 

第二章 魂に刻まれる魔法

 

 第二の人生で、彼女はエルフだった。

 

 名を、エルネと言った。

 

 イリゼの死から五年後、森に近い小さなエルフの集落で生まれた。

 

 薄緑の髪。

 湖のような瞳。

 人間だったころとは違う顔。

 

 それでも、妙に整っていた。

 

 問題は、身体の時間感覚だった。

 

 人間だったイリゼの焦りが、エルフの身体には合わない。

 

 一年が短い。

 十年が短い。

 百年でようやく、呼吸一つ分の重みになる。

 

 最初の五十年、エルネは自分の焦りに苦しんだ。

 

 ゼーリエへまた挑みたい。

 

 今度こそ、近づきたい。

 

 その衝動が魔力を荒らした。

 

 ある日、エルネは森の中で一人、結論を出した。

 

 急ぐのはやめる。

 

 人間だった自分は、短い時間を燃やして挑んだ。

 

 ならば、エルフの自分は長い時間を沈めて挑む。

 

 そこから彼女は、魔力の観察に百年を費やした。

 

 魔法を撃つのではない。

 

 魔法が生まれる前を見る。

 

 魔力が集まり、形を取り、術式になり、現象へ変わる。

 

 その流れを読む。

 

 そして作った。

 

 魔力の残響を視る魔法。

 ナハトレム。

 

 放たれた魔法の痕跡を、残響のように視る魔法。

 

 攻撃力はない。

 防御力もない。

 

 ただ、相手の魔法の癖が見える。

 

 どこで魔力が濃くなるか。

 どこで術式が折り畳まれるか。

 どこに殺意が乗るか。

 

 さらに百年を使い、二つ目の魔法を作った。

 

 防御の輪郭をずらす魔法。

 ラグランツ。

 

 防御魔法そのものを強くするのではない。

 

 相手の攻撃が触れる位置を、ほんの少しだけ誤認させる。

 

 爪一枚分。

 髪一本分。

 

 それだけズレれば、即死が重傷になる。

 重傷が軽傷になる。

 軽傷が無傷になる。

 

 ゼーリエ相手には、その程度しか望めない。

 

 だが、その程度が必要だった。

 

 エルネがゼーリエに再び会ったのは、四百四十八歳の時だった。

 

 イリゼの死から、四百五十二年後。

 

 世界は当然、戻っていない。

 

 人間の王も、村も、戦争も、いくつも消えていた。

 

 イリゼを知る者は、もう誰もいなかった。

 

 だが、ゼーリエはいた。

 

 古い遺跡の上だった。

 

 すでに人の名も国の名も失われた石造りの塔。

 その最上階で、ゼーリエは朽ちた魔導書を読んでいた。

 

 エルネが姿を見せると、ゼーリエは本から目を上げた。

 

 そして、わずかに目を細めた。

 

「その魔力……」

 

 エルネは礼をした。

 

「お久しぶりです」

 

「まさか、あの人間か」

 

「はい」

 

「転生か」

 

「そのようです」

 

「魔力反応が同じだ。姿は違うのにな」

 

 エルネは、自分の胸に手を当てた。

 

 そう。

 

 自分でも感じていた。

 

 肉体は違う。

 魔力量も違う。

 種族も違う。

 

 それでも、魂の奥で脈打つ魔力反応の核だけは、イリゼだったころと同じだった。

 

 変えられない。

 

 隠せない。

 

 捨てられない。

 

 まるで、魂に刻まれた署名のように。

 

「気色悪いな」

 

「私もそう思います」

 

 ゼーリエは、ほんの少しだけ笑った。

 

 イリゼの時にはなかった反応だった。

 

 その笑みだけで、エルネは四百年以上が無駄ではなかったと思った。

 

「今度は何をしに来た」

 

「前回の続きです」

 

「私に勝つと?」

 

「まずは、あなたに近づきます」

 

「やってみろ」

 

 戦いは、前回よりずっと長く続いた。

 

 十秒。

 二十秒。

 一分。

 

 エルネにとっては奇跡だった。

 

 ゼーリエの魔法は、やはり理解できないほど大きかった。

 

 ナハトレムで残響を見ても、見える情報量が多すぎる。

 

 普通の魔法使いの魔力が川なら、ゼーリエは海だった。

 

 波の一つ一つが魔法であり、泡の一つ一つが術式であり、潮の流れそのものが殺意だった。

 

 それでも、エルネは読んだ。

 

 死なないために。

 

 ラグランツで防御の輪郭をずらす。

 

 一撃目を逸らす。

 二撃目を逸らす。

 

 三撃目で、ゼーリエが対応した。

 

 防御が髪一本分ずれるなら、その髪一本分を含めて全体を潰せばいい。

 

 あまりにも単純な回答。

 

 あまりにも暴力的な正解。

 

 エルネの左腕が消えた。

 

 続いて右脚が砕けた。

 

 それでも彼女は、倒れる寸前に最後の魔法を放った。

 

 月針を放つ魔法。

 モントナーデル。

 

 威力は捨てた。

 範囲も捨てた。

 

 ただ、細く。

 ただ、速く。

 ただ、ゼーリエの防御の一点へ届くことだけを考えた魔法。

 

 それは、ゼーリエの身体には届かなかった。

 

 黄金の髪にも、白い肌にも、服の裾にも触れなかった。

 

 ただ、ゼーリエの前にあった空気が、細く裂けた。

 

 ゼーリエは動かなかった。

 

 だが、初めて、エルネの魔法を視線で追った。

 

 それだけだった。

 

 エルネは満足して笑った。

 

「見て、くれましたね」

 

 直後、モントナーデルの反動で魔力回路が焼き切れた。

 

 死因は、自作魔法の反動による魔力回路の炭化。

 

 全身の神経が火を噴くような痛みの中で、エルネは地面に倒れた。

 

「身体には、届きませんでした」

 

 ゼーリエが見下ろす。

 

「当然だ」

 

「でも、魔法は見てもらえた」

 

「それで満足か」

 

「いいえ」

 

 エルネは笑ったまま言った。

 

「次は、あなたを動かします」

 

「馬鹿だな、お前は」

 

「褒め言葉として受け取ります」

 

「褒めていない」

 

 エルネは笑ったまま死んだ。

 

 享年四百五十二。

 

 ヒンメルの死から数えて、八百九十五年前のことだった。

 

 そして六年後。

 

 彼女はまた、未来に生まれた。

 

 その時、彼女は初めて理解した。

 

 記憶だけではない。

 

 魔法の感覚そのものが、魂に残っている。

 

 人間の身体で覚えた焦り。

 エルフの身体で覚えた沈黙。

 ゼーリエに殺された瞬間の魔力の形。

 

 それらが、次の肉体に完全ではないにせよ、確かに残っている。

 

 これはただの転生ではない。

 

 自分の魂に刻まれた固有魔法だ。

 

 魂に記録を刻む魔法。

 ゼーレンシュリフト。

 

 死の瞬間、その人生で得た記憶、魔力操作、術式理解、痛み、敗北、死因を魂に刻み込む魔法。

 

 そして次に生まれた時、その記録だけを持ち越す。

 

 ただし、万能ではない。

 

 生まれる種族は選べない。

 時代も選べない。

 場所も選べない。

 肉体の魔力量も、その器に左右される。

 

 人間なら人間の寿命しかない。

 

 エルフならエルフの時間感覚に呑まれる。

 

 魔族なら魔族の本能に引きずられる。

 

 過去に戻ることもできない。

 

 世界は常に進み続ける。

 

 自分は死んだ後の未来に、別の器として生まれるだけだ。

 

 そして、魔力反応だけは変えられない。

 

 隠せない。

 

 消せない。

 

 偽れない。

 

 だから、ゼーリエには必ず見抜かれる。

 

 それは、弱点だった。

 

 だが同時に、ゼーリエが自分を覚えてくれる唯一の理由でもあった。

 

第三章 魔族の身体

 

 第三の人生で、彼女は魔族だった。

 

 名は、なかった。

 

 ヒンメルの死から八百八十九年前。

 

 魔族の群れの中に、彼女は生まれた。

 

 黒い髪。

 赤い瞳。

 整いすぎた顔。

 

 人間なら美しいと言うだろう。

 

 だが、あまりにも整いすぎていて、かえって魔族らしい顔だった。

 

 魔族は、人間やエルフのように名を大切にしない。

 

 少なくとも、彼女が生まれた群れではそうだった。

 

 人間の言葉は分かる。

 嘘もつける。

 相手の反応を読むこともできる。

 

 けれど、心の奥にあるものが違った。

 

 共感が遠い。

 罪悪感が薄い。

 人間の悲鳴を聞いても、心がほとんど揺れない。

 

 それが魔族だった。

 

 もし前世の記憶がなければ、自分も人を食い、騙し、殺すことを何とも思わなかっただろう。

 

 だが、彼女には記憶があった。

 

 イリゼとして人間の村で育った記憶。

 エルネとして長い森の時間を知った記憶。

 ゼーリエに殺された記憶。

 

 だから、彼女は魔族として歪だった。

 

 人を食う気になれなかった。

 

 人間の言葉を、狩りの道具としてだけ扱う気にもなれなかった。

 

 代わりに、魔族の身体を研究した。

 

 魔族は魔法に近い。

 

 人間が学問として魔法を組むなら、魔族は本能として魔法を吐く。

 

 そして魔族は、一つの魔法に執着する。

 

 この人生で、ゼーレンシュリフトは初めて戦闘にも応用できる形を取った。

 

 前世の術式を現在の肉体に重ねる魔法。

 エルベストラ。

 

 イリゼの人間魔法。

 エルネの残響観察。

 魔族としての魔力感覚。

 

 それらを、現在の身体に合わせて一時的に重ねる魔法。

 

 強力だった。

 

 だが、危険でもあった。

 

 使いすぎると、自我の境目が曖昧になる。

 

 自分が人間だったのか、エルフだったのか、魔族なのか分からなくなる。

 

 それでも彼女は使った。

 

 ゼーリエに勝つためなら、自分の輪郭が多少歪む程度、安いものだった。

 

 彼女がゼーリエの前に現れたのは、百七十七歳の時だった。

 

 ヒンメルの死から七百十二年前。

 

 ゼーリエは、彼女を見た瞬間に殺す気で魔法を放った。

 

 魔族だからだ。

 

 そこに迷いはなかった。

 

 黄金の魔力が視界を埋める。

 

 彼女は、初めて本当の意味で理解した。

 

 ゼーリエは、これまで自分に猶予を与えていた。

 

 人間だった自分にも。

 エルフだった自分にも。

 

 だが、魔族には違う。

 

 魔族は殺す。

 

 それがゼーリエだった。

 

「待っ――!」

 

 叫びながら、エルベストラを起動する。

 

 イリゼの反射。

 エルネの観察。

 魔族の飛行。

 

 ラグランツで防御の輪郭をずらし、ナハトレムで魔力の始点を探り、魔族の身体能力で横へ逃げる。

 

 右肩から先が消えた。

 

 胴体の一部も削れた。

 

 魔族の身体が、灰のように崩れかける。

 

 それでも、即死は避けた。

 

 ゼーリエの目が細まる。

 

「……その魔力反応」

 

 魔族の女は荒く息を吐きながら笑った。

 

「三度目です」

 

「お前か」

 

「はい」

 

「魔族で来るな」

 

「生まれる種族は選べません」

 

「なら死んで選び直せ」

 

「今まさに、そうされるところでしたね」

 

 ゼーリエは不愉快そうに黙った。

 

 殺意は消えていない。

 

 だが、最初の一撃ほど無造作ではなくなった。

 

 魔族の女は、その変化に奇妙な喜びを覚えた。

 

 魔力反応を変えられないことは、弱点だ。

 

 ゼーリエには、必ず見抜かれる。

 

 だが、その不変の魔力反応があるから、ゼーリエは自分を「また来たあいつ」として認識した。

 

 それだけで、死にかけた価値があった。

 

 戦いは三日続いた。

 

 正確には、ゼーリエが三日付き合った。

 

 魔族の女は強かった。

 

 歴代の自分の中で、間違いなく最も強かった。

 

 魔族の肉体は魔法に向いている。

 

 魔力を練る速度が違う。

 術式を身体が覚える。

 エルベストラは、過去の自分たちを一瞬だけ現在へ呼び戻す。

 

 だが、どれだけ重ねても、魔力反応は同じだった。

 

 ゼーリエは見抜く。

 

 動きの癖。

 魔法の組み方。

 攻める瞬間の呼吸。

 死に際まで諦めない、腹立たしいほど真っ直ぐな魔力の流れ。

 

 魔族の女はゼーリエへ爪を伸ばした。

 

 頬を狙った。

 

 けれど、届かなかった。

 

 あと指一本。

 

 その距離で、ゼーリエの魔法が彼女の腕を砕いた。

 

 爪は、ゼーリエの肌に触れる前に消えた。

 

 ゼーリエの身体には、まだ一度も届かない。

 

 次の瞬間、ゼーリエの指が魔族の女の額に触れていた。

 

 魔力核が砕かれる。

 

 死因は、魔力核の直接破壊。

 

 魔族の身体は死体を残さない。

 

 崩れながら、彼女は笑った。

 

「あと、少しでしたね」

 

 ゼーリエは答えない。

 

「次は、触れます」

 

「魔族のくせに、しつこい」

 

「魔族ですから」

 

「お前は魔族としても変だ」

 

「人間としても、エルフとしても、変でしたよ」

 

 魔族の女は消えた。

 

 ゼーリエは、しばらくその場を動かなかった。

 

 魔族の死体は残らない。

 

 ただ、空中に残ったわずかな魔力の残滓だけが、あの女が確かにここにいた証だった。

 

 ゼーリエは、彼女が伸ばした爪の軌道を見下ろす。

 

 身体には届かなかった。

 

 肌にも、髪にも、服にも、触れていない。

 

 だが、近づいてはいた。

 

「……また来たのか」

 

 誰に聞かせるでもなく、ゼーリエはそう呟いた。

 

 そして、ほんのわずかに目を細める。

 

「次は、もう少しまともに来い」

 

 それは死者への弔いではなかった。

 

 再会を信じる言葉でもなかった。

 

 ただ、あの女がまた別の顔で現れることを、ゼーリエがもう当然のように受け入れてしまった証だった。

 

第四章 一歩

 

 第四の人生で、彼女は人間だった。

 

 名を、クラウディアと言った。

 

 ヒンメルの死から七百六年前に生まれ、六十一年を生きた。

 

 大きな都市の貴族の娘で、銀の髪と紫の瞳を持っていた。

 

 またしても顔が良かった。

 

 もう慣れていた。

 

 この人生で、クラウディアは最初から決めていた。

 

 火力では勝てない。

 魔力量でも勝てない。

 技の数でも勝てない。

 

 ならば、勝利条件を変える。

 

 ゼーリエを殺す必要はない。

 

 戦闘不能にする必要もない。

 

 まずは、ゼーリエを動かす。

 

 そのために必要なのは、強い魔法ではなかった。

 

 くだらない魔法だった。

 

 クラウディアは、戦場では役に立たない魔法を集めた。

 

 枯れた花の香りを再現する魔法。

 

 足音の方向を半歩ずらす魔法。

 

 水面に映る月を揺らさずに歩く魔法。

 

 紙に書いた文字を、少しだけ読みやすく整える魔法。

 

 どれも、普通の魔法使いなら一笑に付す。

 

 戦争では使えない。

 魔族討伐では役に立たない。

 

 だが、クラウディアはそれらを対ゼーリエ用に組み直した。

 

 体系名を、

 

 価値なき魔法を決闘に組み込む術式群。

 ヴェルロス。

 

 とした。

 

 ゼーリエは、無駄な魔法を好まない。

 

 いや、好まないというより、価値を認めない。

 

 だが、魔法はイメージの世界だ。

 

 価値がないと切り捨てたものが、ほんの一瞬だけ判断の外に置かれることがある。

 

 クラウディアはそこを狙った。

 

 ただし、魔力反応は変えない。

 

 変えられない。

 

 ゼーリエには、どうせ分かる。

 

 ならば、分かることを前提に動けばいい。

 

 六十一歳の時、彼女はゼーリエに挑んだ。

 

 ゼーリエは、クラウディアを見た瞬間に言った。

 

「今度は人間か」

 

 クラウディアは微笑んだ。

 

「はい。育ちがいいので、礼儀もいいですよ」

 

「減らず口は変わらんな」

 

「顔もいいでしょう?」

 

「そこは毎回だ」

 

 ゼーリエが当然のように言ったので、クラウディアは少しだけ笑った。

 

 覚えている。

 

 全部。

 

 人間だった自分も。

 エルフだった自分も。

 魔族だった自分も。

 

 ゼーリエは覚えている。

 

 魔力反応が同じだから。

 

 それは、クラウディアにとって嬉しいことだった。

 

 同時に、どうしようもなく不利なことでもあった。

 

 ゼーリエは自分の動きを読む。

 

 魔法の癖も、攻めの性格も、敗北した時の判断も。

 

 だから、クラウディアは真正面から勝つことを諦めた。

 

 戦いの中で、クラウディアは枯れた花の香りを再現した。

 

 前世、魔族の女が消えた荒野に咲いていた花の香り。

 

 ゼーリエが覚えている保証はなかった。

 

 だが、覚えていた。

 

 ほんの一瞬、ゼーリエの視線が揺れた。

 

 そこへ、クラウディアはモントナーデルを撃った。

 

 ゼーリエは避けた。

 

 一歩だけ。

 

 クラウディアは笑った。

 

「動きましたね」

 

 ゼーリエは不機嫌そうだった。

 

「くだらん」

 

「でも、効きました」

 

「一度だけだ」

 

「一度で十分です」

 

 クラウディアは、ゼーリエに近づけなかった。

 

 魔法も身体も、やはり届かなかった。

 

 だが、初めてゼーリエを一歩動かした。

 

 その直後、クラウディアは敗北した。

 

 死因は、ゼーリエの魔力圧を正面から受けたことによる内臓破裂。

 

 即死ではなかった。

 

 だから、彼女は最後に言えた。

 

「次は、手を使わせます」

 

 ゼーリエは黙っていた。

 

 それが答えだった。

 

第五章 手を使わせるまで

 

 第五の人生で、彼女はエルフとして生まれた。

 

 名を、リュシェルと言った。

 

 ヒンメルの死から六百三十八年前。

 

 クラウディアの死から七年後のことだった。

 

 彼女は四百二十二年を生きた。

 

 この時代にも、ゼーリエはいた。

 

 だが、すぐには挑まなかった。

 

 リュシェルは、長い時間を使い、結界魔法を学び直した。

 

 防ぐためではない。

 

 ゼーリエの魔法の「内側」に入るためだった。

 

 この人生で作った魔法は、

 

 結界の縫い目を探す魔法。

 ナートズーヘン。

 

 結界そのものを破る魔法ではない。

 

 結界が張られた時、どうしても生まれる魔力の縫い目を探す魔法である。

 

 理論上は優れていた。

 

 だが、ゼーリエの結界に縫い目はほとんどなかった。

 

 それでも彼女は挑んだ。

 

 四百年以上の時間をかけて、リュシェルはゼーリエの前へ立った。

 

 この時、ゼーリエはすでに退屈そうな顔ではなかった。

 

 呆れた顔だった。

 

「またエルフか」

 

「長い時間が使えるので」

 

「使ったところで届かん」

 

「今日は、あなたに手を使わせます」

 

「言うようになったな」

 

 戦いは静かに始まった。

 

 リュシェルは攻めなかった。

 

 読むことに徹した。

 

 ナハトレム。

 ラグランツ。

 ナートズーヘン。

 ヴェルロス。

 エルベストラ。

 

 過去の人生で得た魔法を、エルフの精密さで繋ぎ合わせる。

 

 だが、魔力反応は常に同じだ。

 

 ゼーリエは見抜く。

 

 どれだけ魔法を重ねても、どれだけ戦い方を変えても、その奥の反応だけは変わらない。

 

「相変わらず、分かりやすい魔力だ」

 

 ゼーリエが言った。

 

「隠せませんから」

 

「隠せないものを隠そうとしないのは、少しはましだ」

 

「褒めています?」

 

「評価を下げなかっただけだ」

 

 ゼーリエの魔法は相変わらず理不尽だった。

 

 魔法を防ぐより先に、防ぐという発想そのものを潰される。

 

 避けるより先に、避ける場所を奪われる。

 

 攻めるより先に、攻める意思を読まれる。

 

 それでも、リュシェルは耐えた。

 

 耐えて、耐えて、耐えて。

 

 最後に、自分の魔法をゼーリエの結界の表面へ滑り込ませた。

 

 身体には届かない。

 

 服にも、髪にも、肌にも届かない。

 

 ただ、ゼーリエの周囲にある魔力の層を、ほんのわずかに歪ませた。

 

 ゼーリエの右手が動いた。

 

 それだけで、リュシェルの魔法は消えた。

 

 だが、手は動いた。

 

 リュシェルは笑った。

 

「使いましたね、手」

 

 ゼーリエは不愉快そうに言った。

 

「くだらん勝ち誇り方だ」

 

「今の私には、これで十分です」

 

「身体には届いていない」

 

「分かっています」

 

 リュシェルは血を吐きながら笑う。

 

「次は、もっと近くへ」

 

 死因は、ナートズーヘンで無理にゼーリエの結界を読もうとして、自分の魔力が逆流したことによる脳の焼損。

 

 得たものは、結界魔法への理解。

 

 そして、ゼーリエに初めて手を使わせた記憶だった。

 

第六章 挑めなかった人生

 

 第六の人生で、彼女は魔族として生まれた。

 

 ヒンメルの死から二百九年前。

 

 この時の彼女は、人間を殺さずに魔族社会で生きることに失敗した。

 

 魔族から見ても、彼女は異物だった。

 

 同族から警戒され、人間からは当然のように憎まれた。

 

 ゼーリエに挑む前に、別の魔族との戦いで重傷を負った。

 

 それでも行った。

 

 ゼーリエの前に立った。

 

 戦えたのは、三十秒だけだった。

 

 それでも、ゼーリエは彼女を見て言った。

 

「なんだ、お前か」

 

 その言葉は、殺意を消すものではなかった。

 

 魔族を殺すための魔力が、しつこい挑戦者を試すための魔力へ変わるだけだ。

 

 この人生でも、彼女はゼーリエに触れられなかった。

 

 距離は詰めた。

 魔法も届きかけた。

 だが、身体には届かない。

 

 死因は、ゼーリエの対魔族用術式による肉体消滅。

 

 だが、この人生で彼女は理解した。

 

 魔族の固有魔法は、感情ではなく執着から生まれる。

 

 ならば自分の固有魔法は、ゼーリエに勝つという執着そのものなのだと。

 

 死んだのは、ヒンメルの死から八十七年前。

 

 次の転生は、五年後だった。

 

 第七の人生で、彼女は人間だった。

 

 名を、リーゼロッテと言った。

 

 ヒンメルの死から八十二年前に生まれた人間である。

 

 この人生で、時代はようやく原作本編へ近づいた。

 

 勇者ヒンメルたちが魔王を討つより、少し前の時代。

 

 リーゼロッテは、あえて歴史に関わらなかった。

 

 魔王に挑まなかった。

 勇者一行に接触しなかった。

 フリーレンにも会わなかった。

 

 それは彼らの物語であり、自分の戦場ではないと知っていたからだ。

 

 彼女の戦場は、常に一つ。

 

 ゼーリエの前。

 

 だが、この人生で彼女はゼーリエに挑めなかった。

 

 魔法の研究に深入りしすぎたのである。

 

 人を殺す魔法。

 後に人類が解析し、一般攻撃魔法として扱うことになる魔法。

 

 ゾルトラーク。

 

 その噂を聞いたリーゼロッテは、戦闘ではなく研究に時間を使った。

 

 ゼーリエにゾルトラークで勝つことはできない。

 

 それは分かっていた。

 

 だが、ゾルトラークと、それに対応して発展する防御魔法の思想は、彼女に必要だった。

 

 全身を覆わない。

 必要な面だけを展開する。

 魔力を節約し、攻撃の瞬間だけ防ぐ。

 

 その考え方は、いつか必ずゼーリエへ近づくために使える。

 

 リーゼロッテは六十五歳で死んだ。

 

 死因は、ゾルトラーク系魔法の解析中に自分の魔力を使い果たしたことによる魔力枯渇。

 

 ゼーリエには挑めなかった。

 

 だが、挑めなかった人生にも意味はあった。

 

 死んだのは、ヒンメルの死から十七年前。

 

 世界は過去へ戻らない。

 

 彼女は、次の未来に生まれる。

 

第七章 ヒンメルの死後

 

 第八の人生で、彼女は再び魔族だった。

 

 ヒンメルの死から十六年前に生まれた。

 

 つまり、魔王が討たれ、勇者ヒンメルが老いていく時代を、魔族として生きることになった。

 

 彼女は歴史を変えなかった。

 

 ヒンメルを殺そうとする魔族にも加わらなかった。

 

 魔王軍の残党にも近づかなかった。

 

 それをすれば原作の歴史が壊れるからではない。

 

 自分の目的に不要だったからだ。

 

 彼女の目的は、魔王ではない。

 

 ヒンメルでもない。

 

 フリーレンでもない。

 

 ゼーリエである。

 

 ヒンメルが死んだ。

 

 世界が変わった。

 

 フリーレンは、人を知るための旅へ出た。

 

 それでも彼女は、ゼーリエを探した。

 

 そして、ヒンメルの死から四年後。

 

 二十歳になった魔族の女は、ゼーリエの前に現れた。

 

 この時、ゼーリエは彼女を見た瞬間に魔法を撃たなかった。

 

 もちろん、殺意は出た。

 

 目の前にいるのは魔族だったからだ。

 

 だが、魔法が放たれる寸前、ゼーリエの目がわずかに細まった。

 

 魔力反応で気づいたのだ。

 

 このしつこい魂の持ち主に。

 

 魔族の女は、両手を上げて笑う。

 

「お久しぶりです」

 

 ゼーリエは数秒だけ黙った。

 

 そして、心底面倒くさそうに息を吐いた。

 

「……なんだ、お前か」

 

 殺意が、完全には消えないまま、少しだけ形を変えた。

 

 魔族を殺すための魔力から、しつこい挑戦者を試すための魔力へ。

 

「魔族で来るなと言ったはずだ」

 

「生まれは選べませんので」

 

「なら、せめて私の前に出る前に死んで選び直せ」

 

「相変わらずひどいですね」

 

 ゼーリエは鼻で笑った。

 

「相変わらずなのはお前だ」

 

 その人生でも、彼女は負けた。

 

 だが、今回は違った。

 

 彼女はゼーリエの目前まで到達した。

 

 魔法ではない。

 

 肉体で、だ。

 

 魔族の身体能力。

 過去世の魔法。

 ゾルトラーク系防御思想。

 くだらない生活魔法の応用。

 ゼーレンシュリフトに刻まれた死因の記録。

 

 すべてを使って、あと半歩まで迫った。

 

 けれど、届かなかった。

 

 ゼーリエの身体には、まだ触れられない。

 

 魔力反応が同じだから、ゼーリエには読まれる。

 

 最後にどう動くか。

 どの瞬間に無理をするか。

 どこで死を踏み越えようとするか。

 

 ゼーリエには分かってしまう。

 

 彼女の指先がゼーリエの肌に触れる寸前、魂に刻まれた過去世の記録が一斉に噴き出した。

 

 ゼーレンシュリフトの過剰展開。

 

 死の記憶。

 痛み。

 敗北。

 魔族の本能。

 人間の焦り。

 エルフの長い沈黙。

 

 それらが、現在の彼女の魂の輪郭を押し潰した。

 

 死因は、魂の輪郭崩壊。

 

 魔族の女は崩れながら笑った。

 

「あと、半歩でした」

 

 ゼーリエは黙っていた。

 

「次は、触れます」

 

「……」

 

「だから、待っていてください」

 

 ゼーリエは不愉快そうに目を細める。

 

「誰が待つか」

 

「でも、覚えていてくれるでしょう?」

 

 魔族の女は消えた。

 

 死体は残らない。

 

 けれどゼーリエは、その場にしばらく立っていた。

 

 何度も殺した。

 

 何度も見送った。

 

 何度も、別の顔で現れた。

 

 だが、まだ一度も触れられてはいない。

 

 身体には届いていない。

 

 ゼーリエは、誰に聞かせるでもなく呟いた。

 

「……次は、どう来る」

 

 その声に、退屈はなかった。

 

第八章 レイア

 

 第九の人生で、彼女はレイアとして生まれた。

 

 ヒンメルの死から五年後。

 

 人間だった。

 

 銀白の髪。

 薄紫の瞳。

 

 また、顔が良かった。

 

 もう疑問にすら思わなかった。

 

 たぶん、魂の形が肉体に影響しているのだ。

 

 ゼーレンシュリフトによって何度も同じ核を持ち越しているせいで、種族が変わっても、肉体の輪郭に似た傾向が出る。

 

 整った女の姿。

 

 それが、自分の魂の癖なのだろう。

 

 レイアが生まれた時、魔王はすでに討たれていた。

 

 勇者ヒンメルはすでに死んでいた。

 

 フリーレンというエルフの魔法使いは、勇者の死後に再び旅へ出ている。

 

 人類の魔法は大きく変わっていた。

 

 ゾルトラークは一般攻撃魔法として扱われ、防御魔法はそれに対応する形で洗練されている。

 

 飛行魔法も広まっている。

 

 一級魔法使いという制度もある。

 

 そして、その最終面接にはゼーリエがいる。

 

 レイアは、この時代に生まれた意味を理解した。

 

 今回は、ただ挑むだけではない。

 

 勝つ。

 

 ただし、ゼーリエを倒すのではない。

 

 ゼーリエの身体に触れる。

 

 それだけでいい。

 

 それだけで、過去八度の人生で一度も果たせなかった到達になる。

 

 イリゼは魔法すら見てもらえなかった。

 エルネは魔法を視線で追わせた。

 名もなき魔族は、あと指一本で止められた。

 クラウディアは一歩動かした。

 リュシェルは手を使わせた。

 リーゼロッテは挑むことすらできなかった。

 最後の魔族は、あと半歩で魂が崩れた。

 

 そして今。

 

 レイアは、全部を持っている。

 

 ゼーレンシュリフトは、死んだ人生を記録する魔法だった。

 

 ならば、その記録を戦闘中に参照すればいい。

 

 そうして生まれた応用魔法が、

 

 敗北の記憶を積み上げる魔法。

 ニーデルクラフト。

 

 未来視ではない。

 

 予知でもない。

 

 ただ、ゼーリエに負け続けた記憶を参照する魔法。

 

 この角度から魔力が来れば、一度目の自分は死んだ。

 この間合いに入れば、二度目の自分は腕を失った。

 この速度で踏み込めば、三度目の自分は指一本手前で砕かれた。

 この沈黙の後には、四度目の自分が内臓を破裂させられた。

 この結界の歪みを読もうとすれば、五度目の自分は脳を焼いた。

 この半歩を無理に越えれば、八度目の自分は魂を崩した。

 

 負けの記憶を、地図にする。

 

 死因を、道標にする。

 

 その魔法は、ゼーリエ以外にはほとんど意味がない。

 

 だが、ゼーリエだけには刺さる。

 

 レイアはもう一つ、最後のための魔法を作った。

 

 ただし、それはゼーリエの目を欺く魔法ではない。

 

 魔力反応を隠す魔法でもない。

 

 過去世の反応に偽装する魔法でもない。

 

 そんなことはできないし、してはいけない。

 

 ゼーリエが自分を見抜く理由は、魔力反応が同じだからだ。

 

 それを壊せば、自分とゼーリエの間に積み上がったものまで壊れる。

 

 だからレイアは、魔力反応を変えないまま勝つ魔法を作った。

 

 返される力を道に変える魔法。

 ヴェークシュリット。

 

 相手の魔法に逆らわない。

 

 弾かれる力。

 押し返される力。

 遮られる力。

 

 その全てをほんの少しだけ受け流し、自分の最後の一歩の足場に変える魔法。

 

 攻撃ではない。

 

 防御でもない。

 

 逃走でもない。

 

 相手の拒絶を、前へ進むための道に変える魔法。

 

 ゼーリエの魔法を読む必要はない。

 

 読むべきは、自分がこれまでどう拒まれてきたか。

 

 どこで殺され、どこで砕かれ、どこで止められたか。

 

 そして、ゼーリエが自分の変わらない魔力反応を見た時、どういう拒絶を選ぶのか。

 

 それだけだった。

 

第九章 一級魔法使い試験

 

 レイアが二十四歳の時。

 

 つまり、ヒンメルの死から二十九年後。

 

 彼女は魔法都市オイサーストへ向かった。

 

 一級魔法使い試験を受けるためである。

 

 受付で名を書いた時、周囲の魔法使いたちが一瞬だけ彼女を見た。

 

 顔が良すぎたからではない。

 

 魔力の底が見えなかったからだ。

 

 隠している。

 

 それは分かる。

 

 だが、普通の魔力制限ではない。

 

 畳んでいる。

 

 何枚もの布を折り重ねるように、いくつもの人生を一つの魔力反応の奥にしまい込んでいる。

 

 レイアは、一級試験の受験者たちの中でも目立った。

 

 だが、彼女は誰かと競うためにここへ来たわけではない。

 

 ゼーリエの前に立つために来た。

 

 第一次試験。

 

 グローブ盆地。

 

 目的は、隕鉄鳥を捕獲すること。

 

 受験者は三人一組に分けられた。

 

 レイアの組には、オルウェンという中年の防御魔法使いと、ミルカという若い探索魔法使いがいた。

 

 どちらも腕は悪くない。

 

 だが、隕鉄鳥を捕まえるには魔力の扱いが少し荒かった。

 

 隕鉄鳥は魔力に敏感だ。

 

 下手に強い魔法を使えば逃げる。

 

 だから、レイアは二人に言った。

 

「私がやります。お二人は周囲の警戒を」

 

 オルウェンは眉をひそめる。

 

「一人で捕まえるつもりか」

 

「捕まえるだけなら」

 

「随分な自信だな」

 

「自信ではなく、経験です」

 

 ミルカが不思議そうに首を傾げた。

 

「隕鉄鳥を捕まえたことがあるの?」

 

「似たようなものなら、何度か」

 

 嘘ではない。

 

 魔族として生きていた時、魔力に敏感な魔物を避けて何度も旅をした。

 

 エルフとして生きていた時、百年単位で気配を沈める訓練をした。

 

 人間として戦場を渡った時、魔力を節約しながら敵を欺いた。

 

 全部、経験だった。

 

 レイアは魔力を消した。

 

 ただし、魔力反応そのものを変えたわけではない。

 

 完全に消すこともできない。

 

 だから、自然に混ぜた。

 

 草の揺れ。

 水辺の湿度。

 風の流れ。

 

 その中に、自分の魔力を薄く広げる。

 

 使ったのは、昔覚えたくだらない魔法だった。

 

 小鳥が安心する巣の匂いを再現する魔法。

 

 戦闘では役に立たない。

 

 だが、隕鉄鳥には効いた。

 

 レイアは罠を仕掛け、匂いを薄く広げ、魔力を盆地の風へ溶かした。

 

 隕鉄鳥は警戒した。

 

 何度も逃げた。

 

 それでも最後には、ほんの一瞬だけ籠を安全圏だと誤認した。

 

 捕獲。

 

 オルウェンは呆然としていた。

 

「今のは……何の魔法だ」

 

「小鳥を安心させる魔法です」

 

「そんな魔法で試験を突破したのか」

 

「魔法は使い方ですから」

 

 レイアは籠の中の隕鉄鳥を見下ろした。

 

 派手な戦闘はない。

 

 奪い合いもない。

 

 だが、それでいい。

 

 レイアの目的は、一次試験で名を上げることではない。

 

 ゼーリエの前に立つことだ。

 

 第二次試験。

 

 零落の王墓。

 

 迷宮攻略。

 

 ここで、レイアは初めて本気に近い魔法を見せることになった。

 

 迷宮の奥で、複製体が現れたからだ。

 

 レイア自身の複製体。

 

 銀白の髪。

 薄紫の瞳。

 同じ顔。

 同じ魔力。

 

 そして、同じ魔力反応。

 

 だが、レイアはそれを見て、少しだけ笑った。

 

「あなたは、私のどこまでを写せていますか?」

 

 複製体は答えない。

 

 杖を構える。

 

 その構えは、現在のレイアのものだった。

 

 つまり、浅い。

 

 レイアは理解した。

 

 この複製体は、現在の肉体と現在の魔力は写せる。

 

 魔力反応も写せる。

 

 だが、ゼーレンシュリフトが魂に刻んだ死因までは写せない。

 

 自分が何度ゼーリエに殺されたかまでは、知らない。

 

 ならば、負ける理由がない。

 

 複製体がゾルトラークを撃った。

 

 速い。

 

 正確。

 

 現代魔法としては十分に高水準。

 

 レイアは防御魔法を最小限だけ展開し、逸らす。

 

 次に、複製体が飛行魔法で距離を取る。

 

 レイアは追わない。

 

 指先でニーデルクラフトを起動する。

 

 背後に、過去の自分たちの感覚が重なる。

 

 イリゼなら焦って撃つ。

 エルネなら観察する。

 魔族の自分なら、魔力の匂いで本体を探る。

 クラウディアなら、小細工を混ぜる。

 リュシェルなら、結界の綻びを見る。

 リーゼロッテなら、現代防御魔法の薄い面を使う。

 

 その全てを踏み台にして、レイアは一歩だけ進んだ。

 

 使った魔法は、

 

 足音の方向を半歩ずらす魔法。

 

 複製体の視線が、一瞬だけ右へ流れる。

 

 その隙に、レイアは左から懐に入った。

 

 額に指を当てる。

 

「私は、私にだけは負けません」

 

 複製体は崩れた。

 

 見ていた受験者たちは、何が起きたのか分からなかった。

 

 オルウェンが乾いた声で言った。

 

「……お前、本当に一級を受ける側か?」

 

 レイアは肩をすくめる。

 

「まだ受かっていませんから」

 

「そういう意味じゃない」

 

「なら、まだ挑戦者です」

 

 そう。

 

 まだ挑戦者だ。

 

 ゼーリエに届くまでは。

 

第十章 初めて届く

 

 そして、第三次試験。

 

 ゼーリエによる面接。

 

 受験者が一人ずつ呼ばれていく。

 

 合格。

 不合格。

 

 ゼーリエは、ほとんど直感で選んでいるように見える。

 

 だが、レイアには分かる。

 

 あれは気まぐれではない。

 

 ゼーリエは見ている。

 

 魔力。

 才覚。

 野心。

 自分を一級魔法使いだと想像できるか。

 自分が魔法使いとしてどこへ向かうのか。

 そして、ゼーリエ自身を前にして、心が折れるかどうか。

 

 受験者が減っていく。

 

 廊下に残る者の呼吸が重くなる。

 

 レイアは、静かに自分の手を見下ろしていた。

 

 この手で触れる。

 

 魔法ではなく。

 

 攻撃でもなく。

 

 ただ、触れる。

 

 それだけのことが、どれほど遠かったか。

 

 やがて、レイアの名が呼ばれた。

 

 扉を開ける。

 

 黄金の魔法使いがいた。

 

 何度も見た顔。

 何度も殺された相手。

 何度も届かなかった頂。

 

 ゼーリエは椅子に腰かけていた。

 

 杖など持っていない。

 

 そんなものが必要な魔法使いではない。

 

 小さな身体で、退屈そうに、けれどこちらを見た瞬間だけ、表情を変えた。

 

「……なんだ、お前か」

 

 レイアは深く礼をした。

 

「お久しぶりです、ゼーリエ」

 

「今度は人間か」

 

「はい。今回は正式に試験を受けに来ました」

 

「魔力反応は相変わらずだな」

 

「変えられませんので」

 

「変えられたら、お前だと分からん」

 

「だから、変えません」

 

 ゼーリエは少しだけ目を細めた。

 

「何をしに来た」

 

「勝ちに来ました」

 

 部屋の空気が変わった。

 

 ゼーリエの魔力が、ゆっくりと濃くなる。

 

 外の試験官たちには分からない。

 

 だが、レイアには分かる。

 

 これは殺意ではない。

 

 興味だ。

 

 ゼーリエは、楽しんでいる。

 

「条件は?」

 

 ゼーリエが問う。

 

 レイアは答えた。

 

「私が、あなたの身体に触れれば私の勝ち。あなたが私を戦闘不能にすれば、あなたの勝ち」

 

 ゼーリエの目が細くなる。

 

「身体に触れる、だと?」

 

「はい」

 

「ずいぶん控えめな条件だな」

 

「私には、これが一番遠かったので」

 

 レイアは静かに言った。

 

「私は、まだ一度もあなたに触れたことがありません」

 

 イリゼは、魔法すら見てもらえずに死んだ。

 エルネは、魔法を視線で追わせるところまでだった。

 魔族の爪は、あと指一本で砕かれた。

 クラウディアは、一歩動かしただけ。

 リュシェルは、手を使わせただけ。

 八度目は、あと半歩で魂が崩れた。

 

 一度も届いていない。

 

 一度も触れられていない。

 

 だからこそ、今日の勝利条件はそれでいい。

 

 ゼーリエは、しばらく黙っていた。

 

 やがて、椅子から立ち上がる。

 

「いいだろう」

 

 ゼーリエは腕を組んだ。

 

 杖はない。

 構えもない。

 

 ただ、そこに立っているだけだった。

 

 それだけで、世界の中心にいるようだった。

 

「始めろ」

 

 レイアは即座にニーデルクラフトを起動した。

 

 過去の死因が、背後に並ぶ。

 

 心臓消失。

 魔力回路炭化。

 魔力核破壊。

 内臓破裂。

 脳焼損。

 肉体消滅。

 魔力枯渇。

 魂の輪郭崩壊。

 

 全てが警告になる。

 

 ゼーリエの魔力が動いた。

 

 レイアは防がない。

 

 防げないことを知っている。

 

 だから、死んだ場所を避ける。

 

 一歩目。

 

 イリゼが死んだ角度を外す。

 

 二歩目。

 

 エルネが腕を失った射線を外す。

 

 三歩目。

 

 魔族の自分が指一本手前で止められた間合いを避ける。

 

 四歩目。

 

 クラウディアが内臓を破裂させられた圧の中心をずらす。

 

 五歩目。

 

 リュシェルが脳を焼いた結界の縫い目から目を逸らす。

 

 六歩目。

 

 八度目の自分が魂を崩した半歩を、まだ踏まない。

 

 それでも、レイアの頬が裂けた。

 

 肩の肉が焼けた。

 

 髪が散った。

 

 ゼーリエは強い。

 

 過去を積んでも、まだ届かない。

 

 だが、レイアは笑わなかった。

 

 笑えば死ぬ。

 

 ここからが本番だった。

 

 レイアはヴェルロスを展開する。

 

 枯れた花の香り。

 雪山の冷気。

 魔族の女が消えた荒野の砂。

 クラウディアが最後に見た血の色。

 リュシェルが聞いた結界の軋み。

 リーゼロッテが研究室で嗅いだ焦げた魔力の匂い。

 

 それらを、攻撃ではなく、記憶の入口として散らす。

 

 魔力反応は変えない。

 

 変えられない。

 

 ゼーリエは、目の前にいるのが誰なのか分かっている。

 

 だからこそ、効く。

 

 何度も殺した相手が、何度も見せたくだらない魔法を、また持ち込んできた。

 

 その事実に、ほんのわずかだけ意識が向く。

 

 ゼーリエの目が、微かに揺れた。

 

「また、くだらん魔法を」

 

「あなたが覚えているから効くんです」

 

「調子に乗るな」

 

 ゼーリエの魔法が変わる。

 

 遊びが消えた。

 

 今だ。

 

 レイアは踏み込んだ。

 

 ゾルトラークは撃たない。

 モントナーデルも撃たない。

 

 強い魔法では、ゼーリエに読まれる。

 

 魔力反応は同じ。

 

 動きの癖も、魔法の組み方も、ゼーリエは全部覚えている。

 

 ならば、覚えられていることを前提にするしかない。

 

 レイアはゼーリエへ向かって進む。

 

 ゼーリエの魔法が、拒絶するように空間を満たす。

 

 近づくな。

 

 触れるな。

 

 届くな。

 

 過去八度の人生で、何度も彼女を退けた圧力。

 

 レイアは、それに逆らわなかった。

 

 ヴェークシュリット。

 

 返される力を道に変える魔法。

 

 ゼーリエの拒絶に逆らうのではなく、その力の流れに一瞬だけ乗る。

 

 押し返されるなら、その反動を足場にする。

 弾かれるなら、弾かれる角度を半歩だけずらす。

 遮られるなら、遮りの表面を滑る。

 

 ゼーリエは、それを読んだ。

 

 読んだ上で、さらに魔法を重ねる。

 

 当然だ。

 

 ゼーリエに小細工は通じない。

 

 魔力反応が同じなのだから、レイアがどこで無理をするかも見える。

 

 過去の人生でそうだったように。

 

 最後の半歩。

 

 そこが死地だった。

 

 八度目の自分が、魂ごと崩れた場所。

 

 踏み込めば、また壊れる。

 

 ニーデルクラフトが警告を鳴らす。

 

 そこは死ぬ場所だ。

 そこは届かない場所だ。

 そこはゼーリエの領域だ。

 

 レイアは、それでも踏み込んだ。

 

 ただし、無理に越えたのではない。

 

 今までの全てを、足場にした。

 

 イリゼの焦りを、前へ出る力に。

 エルネの沈黙を、魔力制御に。

 魔族の本能を、死の匂いへの反射に。

 クラウディアの小細工を、視線のずれに。

 リュシェルの結界理解を、魔力の隙間に。

 リーゼロッテの現代防御思想を、薄い盾に。

 八度目の崩壊を、魂の限界線に。

 

 全部を踏んで、最後の半歩を越えた。

 

 ゼーリエの手が動く。

 

 速い。

 

 過去すべての死因が、一斉に叫ぶ。

 

 そこにいれば死ぬ。

 

 そこにいれば砕かれる。

 

 そこにいれば消える。

 

 レイアは、死ななかった。

 

 指先を伸ばす。

 

 魔法ではない。

 

 攻撃でもない。

 

 ただ、人間の手だった。

 

 その指先が、ゼーリエの手の甲に触れた。

 

 ほんの一瞬。

 

 触れただけだった。

 

 傷はない。

 血も流れない。

 派手な爆発もない。

 

 だが、確かに触れた。

 

 ゼーリエの身体に。

 

 過去八度の人生で、一度も届かなかった場所に。

 

 部屋が静まり返った。

 

 ゼーリエは動かない。

 

 レイアも動かない。

 

 指先に、ゼーリエの肌の冷たさが残っていた。

 

 レイアは息を吐く。

 

 膝が崩れそうになる。

 

 それでも、立っていた。

 

「……届きました」

 

 ゼーリエは黙っていた。

 

 長い沈黙だった。

 

 それから、黄金の大魔法使いは小さく息を吐いた。

 

「合格だ」

 

 それは、一級魔法使い試験の合格通知だった。

 

 同時に、敗北の承認でもあった。

 

 レイアは、ようやく笑った。

 

 何度も死んだ。

 

 何度も負けた。

 

 人間として。

 エルフとして。

 魔族として。

 

 それでも、ようやく届いた。

 

「長かったです」

 

 レイアが言うと、ゼーリエは不機嫌そうに答えた。

 

「本当に長かったな」

 

「覚えていてくれたんですね」

 

「その魔力反応で、忘れろという方が無理だ」

 

「友人に言う言葉ではないですね」

 

「誰が友人だ」

 

「何度転生しても見分けて、魔族の時も殺すのを一瞬ためらって、今日まで全部覚えていた人です」

 

「黙れ」

 

 ゼーリエはそう言った。

 

 だが、殺意はなかった。

 

 レイアは笑った。

 

「次も勝ちます」

 

「次はない」

 

「ありますよ」

 

「人間はすぐ死ぬ」

 

「では、死ぬ前にもう一度来ます」

 

「……馬鹿だな、お前は」

 

「はい」

 

 レイアは、深く礼をした。

 

「あなたに届くために、何度も生まれてきましたから」

 

 ゼーリエは、ほんの少しだけ笑った。

 

「次は、その魔法は通じん」

 

「でしょうね」

 

「私に魔力反応を見せたまま、届く道を作ったな」

 

「隠せませんから」

 

「開き直るな」

 

「でも、あなたは私だと分かってくれたでしょう」

 

 ゼーリエは答えなかった。

 

 答えないことが、答えだった。

 

「二度目はない」

 

「なら、次はあなたがまだ知らない私で挑みます」

 

 ゼーリエは目を細めた。

 

 その顔には、不機嫌さと、悔しさと、わずかな期待が混じっていた。

 

「せいぜい長生きしろ」

 

 それは、ゼーリエにしては珍しい祝福だった。

 

 レイアはもう一度、深く頭を下げた。

 

 そして、部屋を出た。

 

終章 届いた指先

 

 廊下には、試験官の魔法使いが一人立っていた。

 

 彼はレイアの姿を見るなり、わずかに目を細めた。

 

 頬は裂けている。

 肩口の服は焼けている。

 銀白の髪はところどころ短く散っている。

 

 それでも、レイアは自分の足で立っていた。

 

「……合格、ですか」

 

 試験官が尋ねる。

 

 レイアは少しだけ考えてから、答えた。

 

「はい」

 

 声に、まだ震えが残っていた。

 

 緊張ではない。

 恐怖でもない。

 

 指先に残る感触のせいだった。

 

 ゼーリエの手の甲に、確かに触れた。

 

 過去八度の人生で一度も届かなかった場所に。

 

 試験官は、それ以上何も聞かなかった。

 

 ただ、静かに道を開ける。

 

 レイアは廊下を進んだ。

 

 建物の外へ出ると、冷たい風が頬の傷に触れた。

 

 そこでようやく、膝から力が抜けそうになった。

 

 けれど、倒れなかった。

 

 倒れるには、まだ早い。

 

 勝ったのだ。

 

 条件付きで。

 試験の場で。

 触れただけで。

 

 それでも、勝った。

 

 レイアは自分の右手を見下ろす。

 

 指先が、まだ震えていた。

 

「……届いた」

 

 小さく呟く。

 

 誰に聞かせるでもない。

 

 何度も死んだ。

 何度も負けた。

 何度も届かなかった。

 

 人間として。

 エルフとして。

 魔族として。

 

 それでも、ようやく届いた。

 

 その事実だけで、胸の奥が熱くなる。

 

 泣くつもりはなかった。

 

 だが、視界が少しだけ滲んだ。

 

 悔しさではない。

 

 痛みでもない。

 

 長すぎる敗北の果てに、初めて指先が届いたことへの、どうしようもない実感だった。

 

 その夜。

 

 レイアの宿の窓辺に、一枚の紙が置かれていた。

 

 差出人の名はない。

 

 だが、魔力の癖だけで分かった。

 

 紙には、短くこう書かれていた。

 

 ――次は触れさせん。

 

 レイアは声を出して笑った。

 

 そして、その下に返事を書く。

 

 ――次も届きます。

 

 紙は黄金の光に包まれ、消えた。

 

 遠く離れた場所で、ゼーリエはその返事を見て、不愉快そうに眉を寄せる。

 

 けれど、口元はほんのわずかに緩んでいた。

 

 長すぎる時間を生きる黄金の魔法使いに、また一つ予定ができた。

 

 次に、あの馬鹿が挑んでくる日。

 

 それを待つ理由ができた。


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