幻の塔が詠う悲しみの詩を静かな雨が包み込む……
第二次世界大戦の始め、ドイツが本土防空の為に創った巨大な要塞「高射砲塔」

 時が経ち、人も、時代も、街も、流れ過ぎて、やがて忘れ去られ……

 そんな街角である日、一人の少女が立ち止まる

 囁く様な、かすかな声に呼び止められて

 霧の様な、涙の様な雨の中で……


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高射砲塔の少女

 

『忘れないで……』

 

『どうか、忘れないで……』

 

 煙る様な霧雨。その静かな雨音にさえ掻き消されそうな声。

 

 小さな小さな声。

 

 「誰……?」

 

 見上げた私の眼に、一つ塔の幻が見えました。

 

 今はそこにない筈の塔の幻が……

 

 かつて、彼女を間近に見た人は、それが大都市ベルリンの中の公園ティアーガルデンから空に向かって突き出した巨人の拳の様だった、と語っていました。

 

 あの時代、世界を相手に戦いを挑んだ塔の創造主ナチスそのものの姿だった、と。

 

 だけど、私には、それはまるで青空に憧れていくら手を伸ばしても届かない、人間の切ない願いの様に見えました。

 

 ベルリンを空襲から守る為ナチスが建設した巨大な要塞。

 

 【FLAK TURM (高射砲塔)】

 

 彼女が建てられたのは一九四〇年。

 

『聞いて……』

 

『どうか聞いて下さい。ゆりあが生きた、あの遠い日の物語を……』

 

 ……それは今から七〇年以上も昔の物語になります。

 

 一九三九年に始まった戦争でポーランド、ベルギー、オランダ、フランス……とヨーロッパ諸国を席巻したドイツは、海を隔てたイギリスと銃火を交える事になりました。

 

 ヒトラーはロンドンを爆撃で火の海にする一方、自国の防衛には絶対の自信を持っていました。

 

 ヨーロッパの空は既にドイツ空軍が支配しており、主要な都市にはたくさんの高射砲も配備していたので、イギリスの爆撃機が侵入する事は出来ないと思っていたのです。

 

 ところが……ロンドンに落ちた爆弾の数には及ばないものの、夜の闇を掻い潜ってベルリンやハンブルクに勇敢なイギリス空軍の爆撃機が空襲に訪れました。

 

 被害は極々僅かなものでしたが、目論見が外れ自尊心を傷付けられたヒトラーは激怒します。

 

 徹底的な報復の爆撃を命じる一方、彼は第三帝国の都市を鉄壁の護りにする為の方策を立てさせました。

 

『人をいくら傷付けても平気なのに、自分達が傷付けられるのが許せないなんて』

 

『なんて身勝手で傲慢な考えなのでしょう』

 

『でもね』

 

『人は……人は“どんなに傷付けあっても、その繰り返しの中でしか気が付かない”の』

 

 一九四〇年九月。ヒトラーの命令を受け、D・F・ワムス博士の設計した巨大な要塞、高射砲塔の建設がこうして始まりました。

 

 爆撃に対する都市の防衛には一つ課題がありました。

 

 地上の陣地に設置された高射砲では、高層ビルや工場に邪魔されて思う様に砲撃出来ないのです。

 

 特に工業都市が多く、高層アパートのビルや工場の多いドイツの都市部では、高射砲の射界が妨げられて敵爆撃機に対して効果的な攻撃が出来ない事が多く、高射砲の陣地を都市の郊外に作る事が多かったのです。

 

しかし、それとて完全な解決方法ではありません。

 

 そこで、ワムス博士が考案したのは邪魔になる建物よりも高い高層ビルの様な砲台を作り、そこに高射砲陣地を据え付け、都市に近付く敵爆撃機へ集中砲火を浴びせようというものでした。

 

 やがて……ベルリン、ハンブルク、ウィーンに、まるでバベルの塔にも似た巨大な要塞が姿を現しました。

 

 長砲身の二連装一二八mm高射砲を四隅に四基、そしてそれらを囲む様に四連装の高射機関砲を十二台も備えた高射砲塔に人々は驚嘆し、宣伝相ゲッベルスはいずれドイツ中の都市がこの要塞によって護られ、ドイツの空を侵す事は誰も出来なくなるだろう、と誇らしげに宣言しました。

 

『そう、高慢で冷酷な人々の欲望を護る為に』

 

『その為に、ゆりあはこんな醜い姿で生まれちゃった……』

 

 彼女は、朽ち果てた十字架に縛り付けられた鎖を翳しました。

 

 彼女の身体を繋ぎ留める、血の色に錆び付いた鎖。

 

『これは、人の歴史が続く限り決して消えない残酷で恐ろしい罪業なの……あの時代のドイツ人がすべて負わされた十字架。そして、今でもそれは消えてない』

 

『畏怖以外の表情で見上げる人を、ゆりあは思い出せないの』

 

『それがとても寂しかったの』

 

『でもね……』

 

 彼女は遠い所を見る様な眼で静かに微笑みました。

 

『動く事の出来ないこの場所から、ゆりあは見たの』

 

『花売りの小さな女の子。いつも不機嫌な顔で、だけど雨の日も風の日も新聞を配達する小父さん。日向ぼっこしながら毎日を過ごすお婆ちゃん。悪戯ばかりしてるやんちゃな男の子』

 

『どんな歪んだ時代でも、罪のない、弱い人達は居るの。自分を守る術を持たないまま、ただ毎日を誠実に生きている人達』

 

『生まれる時代を選べない、弱く、儚い人達』

 

 彼女の眼は慈しむ様に優しい光をたたえていました。

 

 きっと彼女は、あの日、あの時代にベルリンの街角で日常を送っていた名もない人々を温かく見守っていたのでしょう。

 

『ゆりあは、これから先の生きてゆく理由を見つけたの』

 

『この人達の儚い日常を守ろう』

 

『鳥の様に自由に空を羽ばたく事の出来ない私と同じ様に、この地から離れる事の出来ない、愛すべき人々の平和を── 』

 

『だけど……』

 

 彼女の淡い微笑みは消えました。

 

 アメリカの参戦、独ソ戦の始まり。

 

 戦争が続くにつれドイツは世界中の国々を敵にして戦う、破滅への道を歩んでいきました。

 

 当初は勝利を重ねた戦況も、苦戦から敗勢、そして破局へと次第に移り変わってゆきました。

 

 余りにもたくさんの敵との戦いに疲れ切ったドイツ空軍は、次第に空の戦場から追い落とされてゆきます。

 

 それと同時に、ドイツ国内の各都市は凄まじい爆撃の嵐に晒される様になりました。

 

 西からはアメリカとイギリスの爆撃機の大編隊が、しまいには東からもソ連の爆撃機が押し寄せる様になったのです。

 

 空を圧して襲い来る敵の爆撃機。蹴散らされた友軍戦闘機に代わって高射砲陣地は、彼等を嵐の様な砲火で迎え撃ちました。

 

 中でも高射砲塔は、その強固な防御力と凄まじい火力で敵に恐れられました。

 

 彼女は雨の様に降り注ぐ爆弾をものともせず、敵の航空機を次から次へと撃ち落したのです。

 

『ランカスター、ハリーファックス、スターリング、モスキート、ムスタング、フライングフォートレス……この街をありとあらゆる鉄の鳥が襲ったわ』

 

『だけど、ゆりあがいくら撃ち落そうと、爆撃は決してやまなかった……』

 

『憎悪をますます滾らせ、彼等は減るどころかまるで空を黒く覆い尽くす程に増えていった……』

 

 彼女は枷の付いた手で顔を覆いました。

 

『ゆりあの力だけではもう、あの空を覆い尽くす悪魔の様な敵機を打ち払う事は出来なかったの』

 

『ゆりあの愛した街は次第に傷つき、壊れ、崩れていっちゃった……』

 

 昼間はアメリカ空軍が、夜になるとイギリス空軍が千機を越える機数で来襲します。

 

 そして、 文字通り昼夜を分かたぬ激しい爆撃でドイツの主要都市を痛めつけました。

 

 高射砲塔が嵐の様に吼え、幾ら敵を撃ち落しても防ぎようがありませんでした。

 

 また、連合軍の戦術は力で押し切るだけはありませんでした。

 

 ジャミングと呼ばれる装置でドイツの迎撃機を誘導するレーダーを妨害したり、精密な爆撃を可能にしたノルデン照準器を開発し戦場へ投入する等、巧妙な作戦でドイツ軍を翻弄し、科学技術で圧倒しました。

 

 人々は死と隣り合わせの空襲下の生活に傷付き、疲れ、次第に生きる希望をなくしてゆきました。

 

 ただ一人、ヒトラーだけが奇跡を信じて国民を鼓舞しましたが、ドイツはまるで波に晒された砂の城の様に崩れてゆきました。

 

 傷付いた国民を顧みない狂気の独裁者の下で、数え切れない人々の血が流れました。

 

 ドイツ国内の空襲犠牲者は在独外人や捕虜を含めておおよそ三〇万人以上、負傷者は約七八万人、家屋を焼失した人は七五〇万人と戦後の調査で報告されています。

 

 米英の空軍も無傷では済みませんでした。爆撃機だけで大戦中二万二千機余りを失い、一三万人に及ぶ若者達の生命が空に散ったのです。

 

『毎日の様な爆撃に建物は崩れ、街路樹は焼け、人々は叫び、駆け巡り、次々に焼け死んでいったの』

 

『ティアーガルデンにさえずる鳥の歌声は絶えてしまった。もう子供達のはしゃぐ声も、花売りのかわいい声も聞こえなくなっちゃった』

 

『ゆりあの大好きだった人達、ゆりあが守りたかった者達は、みんなみんな死んじゃった……』

 

 一九四五年四月。

 

 塔が建設されて五年後。

 

 長い戦いの果て。瀕死のドイツに遂に最後の時が訪れました。

 

 死の都と化したベルリンが、ソ連軍に完全包囲されたのです。

 

 力尽きたドイツ軍に、もはや彼等を押し留める力はなく、人々は砲火に追われて廃墟の中を必死に逃げ惑いました。

 

 しかし、どこにも逃げ場はなく……

 

 高射砲塔の最後の戦いは、空に向けられたものではありませんでした。

 

 瓦礫の街と化したベルリンへ突入したソ連軍に追い詰められた市民や兵士達を庇い、敵戦車と砲火を交えたのです。

 

 高射砲塔は、防空壕、病院、倉庫としての機能も持ち合わせていました。

 

逃げ場を失った市民を一万五千人近く収容する事が出来たのです。

 

 塔の頂上に備え付けられた高射砲や機関砲は、地上との戦いを考えて作られた物ではありませんでしたが、塔に近付くソ連軍を攻撃する事は出来ました。

 

 巨大な塔は敵にとって格好の標的でしたが、分厚いコンクリートで出来た彼女の身体はソ連軍の嵐の様な砲火に最後まで耐え抜いたのです。

 

 高射砲塔は敵の攻撃から多くの人々を救いました。

 

 しかし、彼女が救ったのは、数え切れない程の犠牲者から見れば、ほんの一握りの僅かな人々でしかありませんでした。

 

 業火の中で、多くの人々が折り重なる様に倒れ、息絶えていったのです。

 

 歪んだ時代を、その血で、その生命で贖う様に……

 

 四月三〇日、第三帝国総統 アドルフ・ヒトラー自殺。

 

 五月六日、ドイツ第三帝国 米英ソに対し無条件降伏。

 

 砲火が止み、戦争が終わった時、高射砲塔はベルリンの廃墟の中で傷付きながらも聳え立っていました。

 

 まるで、巨大な墓標の様に……

 

『多くの人々が忘却の彼方へと忘れ去られ……ゆりあの街は、今度は戦後に始まった冷戦の舞台となりました』

 

『生きるだけで精一杯の人達は、もう誰も振り返らない』

 

『ゆりあも取り壊される事になったの』

 

『だけど……』

 

 戦後、高射砲塔はナチスの遺した「負の遺産」として、何度か取り壊しが試みられました。

 

 しかし、硬いペトンで覆った彼女の身体は壊すのがとても困難でした。

 

 戦後復興と都市再建が始まる中で、高射砲塔を普通に取り壊して撤去するには莫大な費用がかかる事が分かり、ベルリンの再建に携わる人達の頭を悩ませる問題となりました。

 

 そこで、強力な火薬による爆破が試みられます。

 

 復興を急ぐ気持ちもありましたが、ナチスの忌まわしい記憶を思い起こさせる建造物を、いつまでも残しておく訳には行かなかったのです。

 

『“あの時代が遺した不吉な遺産。忌まわしい悪魔の置き去り子”』

 

『そんな眼でゆりあは見られる様になったの』

 

『何故、ゆりあは生まれたの?』

 

『誰の為に……何の為に……』

 

 ウィーンに建てられた高射砲塔のうち幾つかは水族館や倉庫群として使われましたが、その他の高射砲塔は順次爆破され、取り壊されていきました。

 

 ベルリンの高射砲塔も何度か爆破が試みられてはその頑丈さ故に失敗しましたが、三年近くの歳月と何十トンものTNT火薬を使って漸く破壊されたのでした。

 

 彼女が取り壊された跡地には勿論 記念碑が建てられる事もなく、時代の移り変わりと共に、人々の記憶から次第に忘れ去られてゆきました。

 

 しかし、あの時代の愚かしさと人々の哀しみ、憎しみ、痛み、涙を背負った巨大な塔は今も消える事なくナチスの影さす場所に立ち続けています……

 

『あの時代に倒れた人達の記憶、消せない過去の十字架を背負って、ゆりあは……』

 

『ゆりあは、まだ、此処に……』

 

 私が気がつくと、いつのまにか雨は止んでいました。

 

 次第に霧も消えてゆきました。

 

 もしかしたら……あの雨は、あの遠い日々に消え去っていった人々の涙だったのかも知れません。

 

 血の鎖に繋がれた彼女の哀しい姿も、ベルリンの空に溶ける様に消えてゆきます。

 

 雨上がりの路上を若い人達が明るい顔で行き来い始めました。

 

 楽しそうな笑顔とお喋り。彼等は此処に何があったのかさえ、きっと知らないのでしょう。

 

 囁く様な、声なき声で語りかける彼女に誰一人気付く事なく通り過ぎてゆきます。

 

 そして、それが彼女を見た最後でした。

 

 それでも……私は時折、あの街で見た幻を心に思い浮かべるのです。

 

 彼女はきっと今もあの場所でただ一人、歌う様に語りかけているのでしょう。

 

 誰も振り返らない、あの街の中で……

 

 私の様にいつか誰かが立ち止まり、気付いてくれる事を信じて、涙の様な雨の中で……

 

 幾度も、幾度も……移ろいゆく時代のざわめきにかき消されながら……

 

『忘れないで……』

 

『どうか、忘れないで……』

 

『消えていったあの遠い日を……』

 

『消えていった人達の、あの涙を……』

 

 


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