夕方5時。薄暗くなり始めた街の片隅にある古びた駄菓子屋。その店先に置かれた木製のベンチに、高校三年生の大倉正恭は項垂れて座っていた。
「進路調査の用紙、どうやって埋めればいいんだ……。」
彼の頭を占領しているのは、1週間前に配られた進路調査の紙だった。締切は明日。帰り際、担任のマエケンにこう言われたばかりだった。
「おい、大倉。お前だけだぞ、まだ進路調査を出していないのは。明日が締切だ。早く書けよ。」
それを思い出した正恭は、くそでかいため息をついた。この1週間、何も考えなかったわけではない。正恭には夢があった。昔から人を笑わせる「芸人」になりたかったのだ。幼い頃に観たM1グランプリでの漫才コンビに心を奪われた。それ以来、彼の夢は変わっていない。
ただ、夢を追う勇気が足りなかった。
「明日までだよな……いや、今しかない!」
正恭は立ち上がるとスマホを取り出し、家族専用のグループラインにメッセージを送る。
『今日、進路について話があります。』
送信されたその画面を眺めたあと、急に顔を上げて走り出した。
「今日こそ俺は芸人になるって言うぞぉおおおお!」
叫びながら家へと向かう正恭の顔は、どこか晴れやかだった。
夜8時。家の食卓は、どこか重い空気に包まれていた。
「正恭、あんた夕方にあんなLINEしてくるからビックリしたわよ。」
母親の言葉に、正恭は曖昧な相槌を返すだけだった。自分で話す場を設けたものの、いざ言おうとすると気まずさに押しつぶされそうになる。箸を動かす手がやたらと早くなるばかりだった。
「正恭。」
父親の亮太が口を開いた。
「お前の進路のことだが、大学に進学してサラリーマンになれ。前からずっと言ってきたことだが、それが一番だ。」
ビールを一気に飲み干した亮太の言葉は、いつものように冷静だった。
「父さんの気持ちは分かってるよ。」
正恭は小さく返事をした。亮太は昔から正恭に良い大学へ進学し、安定した職に就くことを期待していた。それを知っているからこそ、正恭はこれまで一度も「芸人になりたい」という自分の夢を話せなかった。
でも、今しかない。
「でも、父さん……僕は小さい頃から芸人になりたかったんだ。」
心臓が張り裂けそうになりながらも、正恭は言葉を紡ぐ。
「だから、進路調査には進学せず、芸人の養成所に入ると書くよ。夢を追いたいんだ。」
家族の反応を見るために顔を上げた。母親は泣いていたが、どこか安堵の表情も混じっている。父親の顔はみるみる赤くなり、ついには机を叩きながら立ち上がった。
「ふざけるな!夢なんて馬鹿げたことを追いかけて、どうするつもりだ!」
父親は怒りの中に悔しさを滲ませた表情で、母親の方を振り返る。
「母さん、気分が悪い。もう寝る。」
そう言い残して、亮太は寝室へ消えていった。
正恭も立ち上がり、玄関の方へ向かった。
「正恭!どこに行くの?」
母親の心配そうな声に振り返りもせず、正恭は家を飛び出した。
夜の冷たい空気が肌に刺さる。それでも、正恭は走り続けた。