ある朝、暁古城の眠りを妨げる魔力風が室内を駆け巡った。
何事かと飛び起きる古城の胸に飛び込んできたのは、ご近所さんとよく似た顔の少女だった。

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暁家のお嬢さんが家出をしたようです

 暁古城は、高校生でありながら世界最強の吸血鬼第四真祖でもある。

 そんな体質が故か、今まで数々に事件に否応なく巻き込まれ、その解決に貢献してきた。不老不死の肉体ながらも命懸けの闘争を繰り返してきた古城は、肉体面のみならず、経歴に於いても人間離れしてしまっているのだ。

 とはいえ、古城も元はただの人間だ。

 多少、体質のせいで朝に弱くなったとはいえ、妹にそれを気付かれないように配慮する生活を続けてきたために、吸血鬼ながら一般生徒と同じく朝起きて学校に行くという生活を送っている。

 新年が明けたばかりのある朝。古城が珍しく早々に目が醒めたのは、すぐ傍に膨大な魔力を感じたからであった。

「な、なんだ!?」

 普段身近に感じることのない魔力が、室内に渦巻いた。

 驚いて身体を起こした古城の胸に、何か大きな物体が落下した。

「ぐほぉ……!?」

 ボスン、とそれは古城の胸に収まった。魔力の旋風は、消失し、数秒前まで渦巻いていた膨大な魔力が嘘のように消え去った。

「な、なんだったんだ……?」

 夢でも見ていたのかというくらい唐突に発生し、唐突に消えた怪現象に古城は呆然とした。

 それから、自分の胸元に何かが飛び込んできたことを今更ながらに思い出して、古城は胸元に視線を落とした。

「い゛ッ!?」

 そして、古城は上ずった声を出して、仰け反った。

 古城に圧し掛かるようにして、一人の少女が横たわっていたからだ。

 それに続いて、床に紺色のボストンバッグが落ちた。古城の持ち物ではない。おそらくは、この少女のものだ。

「いったー。萌葱ちゃんってば、乱暴……」

 もぞもぞと動いた少女は、額を押さえて身体を起こした。ホットパンツに無地のタンクトップという軽装は、新春には肌寒そうに見えるが、南国の絃神島ではいたって普通の格好といえるだろう。

 古城自身も幾度か体験した転移魔術の類でこの部屋に跳んできたようだが、この格好を見るに島の住人であろうか。

 様々な疑問が脳裏に浮かぶものの、古城はそれ以上を考える事ができなかった。

 顔を上げた少女にあまりにも見覚えがあったからだった。

「え、お前、姫柊!?」

「え、古城君!?」

 超至近距離で互いに視線を絡ませる。

 古城を『古城君』と呼ぶ人物は極少数だ。そして、姫柊雪菜はその極少数には該当しない。とすると、この少女は誰なのか。

「えぇ、嘘っ、なんで古城君がいるの!? 失敗!?」

 古城が何か言う前に、少女は飛び上がってベッドから床に降り、古城から距離を取った。顔はどことなく蒼白になっているようにも見える。

「いや、何が失敗なのか分からないが、お前はこの前の姫柊のそっくりさんでいいんだよな?」

 と、古城は相手を刺激しないように努めて冷静に話しかけた。

「え……そういう古城君は、彩海学園の古城君?」

「それ以外の誰がいるんだ……?」

 彼女の中に複数人の古城がいるとでもいうのか。少女の問いに内心で首を傾げつつも肯定する。

 すると、少女はほっとしたように膝に手を突いて前かがみになった。

「ああ~、びっくりした。てっきり、転移先間違って古城君の部屋に入っちゃったんだとばかり……また、ママに殺されちゃうよ」

「ここは俺の部屋だぞ」

「え、ああ、うん、そうじゃなくて。でも、なんでここに来たんだろう……?」

 古城の前で少女はぶつぶつと言いながら首を傾げている。

「なんでって、それは俺が聞きたいんだが」

 古城は、目の前の雪菜によく似た少女に対してどのように声をかけるべきか判然とせず戸惑っていた。

「とりあえず、なんて呼べばいい?」

 古城は会話の端緒を掴むべく、名を尋ねる事にした。以前、不可思議な力を持つ竜型の魔獣と交戦した際には共闘した仲だが、彼女は旧姓姫柊としか名乗らなかった。

「姫柊でいいですよ。下の名前は、訳あって言えないので。すみません」

「事情があるって事か」

「まあ、そんな感じで。ところで、今日はマ……雪菜さんは?」

「あいつなら、今は島の外だ。定期健診だかで呼び出されてたよ」

 なんでも吸血鬼の傍で監視役をする者は、定期的に吸血鬼になっていないかどうかを検査するのだそうだ。それで、雪菜は数日前から島を離れていた。

 さらには、古城の妹である凪沙もまた本土に帰省しているので家にはいない。本当に久しぶりに、古城は一人で生活しているのであった。

「そうですか。それはよかったです。今は、あの人と会いたくないので」

 後半は、ささやきとなってよく聞こえなかった。

「とにかく、あー、……姫柊。お前は何者で、どうしてここに来たんだ?」

「そうですね。突然、お邪魔しちゃいましたし、ちゃんと説明しなければなりませんね」

 と、言って、雪菜によく似た姫柊はその場に正座した。

「えーと、ですね。話せば本当に長くなるのですが、家出しました」

「短えよ、つか、なんだ家出って」

「そのままの意味で。ママが許しがたい事をしたので、抗議の家出です」

 何か事情を抱えているのかと思えば、特別な事が何一つない、女子中学生の家出事件だった。今まで、古城の家に飛び込んでくる者は何かしらの事件に巻き込まれた者ばかりだったので、むしろ普通過ぎて新鮮だった。

「それが、どうしてこの部屋に飛び込んでくる事になるんだよ」

「どこに逃げても見つかるのなら、遠く離れた地に逃げようと思って。も、えぇと、友だちが実験的に作った転移装置を使ってジャンプしたんです。以前の魔獣の件もあって、古城君にお礼もしたいと思っていたので、せっかくならこの近くに来ようと。それが、まさか古城君の部屋になるとは。本当はこの近くの公園だったはずなんですけどね……」

 頭を掻いた姫柊がすみませんでした、と頭を下げた。

「まあ、それはいいんだ。じゃあ、別に敵に追われていて危ないって事はないんだな?」

「はい、来るとしたらママですけど。たぶん、ここには追って来れないはずですし」

「そうかい」

 古城はげんなりして脱力する。

 早朝に派手な目覚ましを喰らったと思えばその原因は家出娘のタックルだったと。本当にただそれだけだというのだから、警戒して損をした。

「あ、こんな時にアレなんですけど、この前ご迷惑をおかけしたお礼です」

 姫柊は床に落ちたボストンバッグから四角い包みを取り出した。お歳暮などでよく見るあの箱だ。

「つまらないものですが、わたしの友人の家が経営しているお菓子屋さんのものです」

「おお、そうか。悪いな」

 ちょうど、家に貯蔵していた菓子が切れていたので、古城は機嫌よく姫柊が渡してきたものを受け取った。

「わたしがここに来た時に使った転移術式は、もともと身体しか送れなかったんですけど、友だちの苦心の末に荷物もある程度転送できるようになったんです」

 ドヤァ、と姫柊と呼ぶにはあまりにも立派な胸を張る姫柊。

 どうしても、そこに違和感を覚えてしまう古城はそそくさとベッドから降りて、姫柊から渡された包みを机の上に置いた。

「ところで、姫柊。お前、家出してるって言ったな。宿とかどうするんだ?」

「あー……まあ、行った先でどうにかなるかと思ってました。さらに言えば、内心では古城君にどうにかしてもらおうかと」

「俺頼みかよっ!? 家出するにも計画性ってあるだろっ!?」

「家出に計画性も何もないよ! 衝動的に飛び出したんだもん!」

 衝動的と言いながらも、古城へのお礼はきちんと持ってきているあたり、どこまで本気なのか。ただ、彼女が家庭でのトラブルから家を飛び出したという件は、嘘ではなさそうだ。

 少女の口調や細かい仕草に(なぎさ)の影を感じながらも、古城はため息をついて言った。

「じゃあ、うちに泊まっていくか?」

 姫柊は目を瞬かせて、

「いいんですか?」

「仕方ねえだろ。お前、中学生なんだろ? ホテルで一人ってわけにも行かないだろうしな」

 本当ならば親に連絡を取るべきなのだろうが、友だちに頼んで転移させてもらったというからには、向こうも彼女の居場所は掴んでいるはずだ。何かあれば、こちらに人なり連絡なりが来るだろう。

「古城君って、昔から人が好いんですね」

「?」

 奇妙な言い回しに古城は姫柊を見る。だが、彼女は特に言葉を続ける事もなく古城のベッドに腰掛けた。

「古城君、やっぱりモテるんじゃないですか?」

「俺が? そんなわけないだろ」

「へ……?」

 姫柊は、にやついていた顔をポカンとさせる。

「え、じゃあマ、……雪菜さんと付き合ってたりは?」

「な、なんでそうなるんだよ……? アイツは、ただの妹の同級生だよ。あ、いや、獅子王機関の事を知ってるんだったな」

 古城はこの姫柊が雪菜とその所属組織について知っていた事を思い出した。相手が事情を知らないのであれば、秘密組織である獅子王機関の事を説明するわけにもいかないが、どういうわけかそのあたりの事情を知っているこの姫柊ならば問題ないだろう。

「監視者、ですよね」

 案の定、雪菜と古城の関係を知っていた。

 世界最強の吸血鬼である第四真祖を監視するために獅子王機関から送り込まれてきた剣巫。それが姫柊雪菜であった。

「そうだ。……それだけだぞ」

「えぇー……」

 落胆したような、それでいて信じられないモノを見る目で彼女は古城を見る。

「なんだよ」

「だって、この前血を吸ってたじゃないですか。あれは何なんですか?」

「あれは緊急事態だっただろう。この前も言ったとおり、俺は緊急事態でしか吸血してない!」

 緊急事態の数が、たったの半年の間にいくつあったのかと思うと数えたくもない。吸血行為は、仲間を守るためだったり、命の危険であったりとその時に必要だったからしただけだ。

「わたしのママは、中学生で吸血なんてとんでもない。パパとは結婚するまで手も繋がなかったなんて言ってましたけどね」

「それは、まあ各ご家庭でいろいろあるんだろう」

 それでも結婚するまで手を繋ぐ事もなかったというのは、相手の男に同情する。

「結局、嘘だってバレましたけど」

「嘘だったのか」

「実際は中学生の頃からバンバン吸血させてたんです。自分の事は棚に上げて……ほんと、いやらしい人。そうやってパパを篭絡したんです」

 会話の流れからすると、母親が人間で父親が吸血鬼という事だろうか。生まれながらの完全な吸血鬼は、両親のどちらかが吸血鬼であればいい。不死の呪いは、言ってみれば優性遺伝のようなものなのだ。

「ところで、姫柊はいつまで家出してるつもりなんだ?」

「えぇと、ここにいられるのも長くて二日くらいですから、明日には帰らないといけませんね。あ゛あ゛~帰りたくないぃ~」

 姫柊は、古城の布団の上に倒れるように寝転がるとそのままゴロゴロと転がって悶絶する。

 衝動的に飛び出したというのだから、改まって母親に顔を合わせるのがつらいのだろう。両親と険悪な雰囲気になった事がない上に、そもそも極端な放任主義で育った古城には、実感として理解する事は難しい。

 しかし、雪菜とよく似た少女が家出した挙句にこうして駄駄を捏ねているのは見ていて新鮮だったりもする。

 空腹に腹が鳴って、古城はようやく昨夜から何も口にしていない事を思い出した。

「とりあえず朝食にするか」

「朝? あ、そうか、朝なんだ。てっきり、こっちも夜だとばかり」

「お前、いったいどこから転移してきたんだ……?」

 転移魔術の類は、空間を超越して移動する高位の魔術だ。しかし、その性質上、朝発動して気が付けば夜になっていたという事はない。あるとすれば地球を半周するくらい遠くからの転移のみだ。だが、そうなるとこの姫柊は島に密入国した事になる。

 姫柊は、特に自分の出身地を語ろうとせず、適当にお茶を濁した。古城も、彼女が無害だと感じていたので、これといった追及もしなかった。

「古城君、いつも朝はパンだけなんですか?」

 その後、朝食を摂ったのであるが、家主である古城が朝食を面倒がってハムを乗せたトーストを齧っただけだった。

「あー、いや普段は凪沙が作ってくれるんだ。今はアイツは本土にいるからな」

「料理できないんでしたっけ」

「できるぞ。ただ、凪沙のほうが上手いってだけでな」

 加えて言えば、面倒くさい。特に朝に古城は朝食をがっつりと頂く必要性を感じないし、用意されているのならまだしも、敢えて自分で作って食べようなどとは思わなかったのである。

 食後、古城はテレビを眺めていた。 

 冬休みの真っ只中だ。つい最近、大きな事件を一つ解決したばかりなので、心身ともに休まねばならないという建前を掲げて課題にも手をつけていない。やる気も、特にない。後回しにするのは人間だけの特権ではないのだ。

 そして、姫柊はこの家に滞在するからにはと食器洗いと麦茶の準備を平行して行っていた。

「古城君、お皿拭く布とか食器乾燥機とかないの?」

「ああ、うちでは使ってないからそのまま水切り籠に入れといてくれればいい」

「はーい」

 ガシャガシャと音がする。姫柊が、洗った皿を水切り籠に並べている音だ。それから手を拭いて戻ってきた姫柊は、テーブルに肘を付いてぼうっとテレビを眺めている古城の反対側に座って、テーブルの上に放り出されていたチラシに目を向けた。

「はあ~。まだチラシの電子化とかしないんですねぇ」

「チラシの電子化?」

「あ、いえ。なんか、電子化すればいちいち配んなくてもいいのにって思っただけです」

「電子化してもスパムメールと見分けがつかないんじゃないか」

「ああ、なるほど。そういう問題もあったのか」

 まるで、初めてチラシを見たとでも言うように、姫柊はチラシを眺めている。

 なんとなく、古城は初めて雪菜をホームセンターに連れて行った時を思い返した。

「なんかお前って、外見だけじゃなくて行動もどこか姫柊に似てるよな」

 と、古城は特に何も考えず、感じたままを口走った。

 しかし、これに固まったのはこちらの姫柊だった。

「な、そ、そんな。わたしがあの人と似てる……?」

「なんで、そんなショック受けてんだよ?」

「あぁ、いえ別に。ちなみにどんなところが似てると思ったんですか?」

「勘? なんか、初めて見たって感じになってるところがさ。いや、チラシを初めて見るってのもおかしいけどよ」

 どこの家庭にでもある折込チラシを初めて見る不思議なものとでもいうように眺めていた姫柊に、どうしてもかつての雪菜を重ねてしまう。

「姫柊もなんと言うか浮世離れしてるっていうのか、世間知らずなところがあったからな」

「わたしはちゃんと地に足つけてますよ」

 拗ねたような顔をして、姫柊はチラシを纏めて折りたたむ。

「ところで、あの人が世間知らずってどんな事があったんですか?」

 しかし、機嫌を損ねたわけではなかったようで、姫柊は興味津々といった様子で古城に尋ねてきた。

「ゴルフクラブ」

「はい?」

「俺と初めて会った日にな、ホームセンターに行ったんだ。そこに売ってたゴルフクラブを見て、アイツは撲殺用の鈍器だと勘違いをした」

「さすがに冗談ですよね」

「お前は、ゴルフクラブが何か分かっているのか?」

「そりゃ常識……マジですか……?」

 姫柊は唖然として絶句する。

 ゴルフクラブを武器だと勘違いをする。そんなものは、小学生でもありえない。古城が冗談を言っているわけではないと理解した姫柊は、我慢できずに噴き出した。

「あっははははははははっ。ありえ、ありえないっ。はっ、ひあ、はひ、あ、ごほっ、おえっ」

 姫柊は、笑いすぎて咽た。

 咳き込みながらも、笑いが漏れ出ている。

「わ、たしを、笑い死にさせる気ですか……?」

「そんなつもりで言ったわけじゃねえよ」

 古城自身、うっかり口が滑ったとは思っていた。人の失敗をあまり公言する性質ではないので、すぐに反省する。

 目尻に涙を浮かべた姫柊は、深呼吸をして息を整えている。

「うん?」

 と、姫柊は何かに反応してテレビに目を向けた。

 テレビには、最近よく見かけるようになったアニメショップのCMが流れていた。

「ちょ、ちょ、これ、古城君。何、その店。ここにできるんですか!?」

 そして、姫柊は異様な食いつきを見せた。

「ああ、この店な。年末に絃神島に進出したんだとよ。こういうのが好きなヤツが興奮して語ってたわ」

 古城自身は、そこまで深く二次元に踏み込んでいない。健全な男子高校生である彼は、当然のように漫画もアニメも見るがそれだけだ。目にする漫画は少年誌で連載されているものが数点という程度である。

 よって、最近になって出現したという専門店には大して興味もないのであった。

「そりゃ、興奮もしますよ! 専門店なんですよ!」

「いや、そうだけどよ……」

 立ち上がって力説する姫柊に、古城は若干引きながら対応する。

「サブカルチャーは心の平穏を保つのに必要不可欠! 毎日毎日勉強勉強勉強、そんな地獄の中でわたしを支える光に相違ありません!」

「おう、そうか。ずいぶんと、厳しい家庭環境なんだな」

「そうです。そうなんです! あの勉強ママゴンが、わたしの楽しみを奪っていく……。わたしの秘蔵のお宝本を、まさか眷獣で燃やすなんて……!」

 光を失った瞳でぶつぶつと恨み言を呟く姫柊。母親との確執は、サブカルチャーを巡ってのものだったようだ。

「要するに、漫画を読む時間があるなら勉強しなさい系の母親なのか?」

「それに近いですね。まあ、雁字搦めじゃないですけど、ただ特定の分野に対しては憎しみに近いものを抱いているらしく、それには過剰反応するんです」

「で、お前はその特定の分野が好きだったと?」

「いや、わたしはそこまで腐ってないんですけどね。嗜む程度で」

「はあ?」

「ああ、こっちの事です」

 姫柊は、頭を掻きつつ視線を逸らす。何か、踏み込まれたくない領域をうっかり口に出した。そんな雰囲気だ。

「まあ、いいか。この店、多分今日営業してるぞ。行ってくれば?」

「いいんですか、そんな。家出娘の分際が、そんなところに行って!?」

「それを判断するのは俺じゃないだろ」

「やったー! さすが、古城君。分かる男!」

 飛び上がった姫柊は、喜びのあまりに古城に抱きついた。

 

 

 そして、なぜか古城までが一緒につき合わされているというのは、どういうことか。

 今までの人生の中で、これほど多くの漫画が積み上げられている店に来たことはない。BGMは妙に甲高い声の歌手が、よく分からない内容の歌を歌っている。

 想像以上に人が多く、店は大繁盛といった様相であった。

「うっひょー。これが、噂に聞く……おお!? これは黒バス!? 往年のバスケ漫画じゃないですか、しかも初回限定DVD付きですって!? 買い、と。ああっ。まさか、同人誌コーナーまで!? なんという品揃え。規制が入ってる現代の島ではアリエナイ!」

 異様にテンションを上げている姫柊は目を輝かせて店内を物色している。

 買い物籠にはすでにいくつもの漫画やフィギュアやゲームソフトが無造作に放り込まれていた。

「なあ、姫柊。そんなに買って大丈夫なのか? 結構高いんじゃないのか?」

 買い物籠には書籍だけでもすでに十冊を越えている。そこに、ゲームやフィギュアを加えているのだから、値段は跳ね上がっている事だろう。

「大丈夫です。家出ように軍資金を用意していましたから。古城君に追い出された時でもホテル暮らしができる程度には余裕があります」

「はあ、なるほどな」

「それにわたし、お小遣いは結構頂いてるんです。ママは堅物ですけど、こ……パパにお願いってすると大体くれます」

「お前の親父、駄駄甘じゃないか……」

 両手を合せて首を傾げる仕草をする姫柊に、古城はため息をつく。とはいえ、これだけ可愛い娘にお願いされたら、父親としては願いを叶えてやる他にないのかもしれない。

 古城も、凪沙にお願いされたら大体叶えてやるだろうし、彼の父親も凪沙には甘い。札束を積みかねないくらいに甘い。世の父親は、そんなものなのかもしれない。

「うちの地元にも来ないかなー、こういう店。コミケとか誘致すべきなんですよ。娯楽は活力の源だというのに」

「姫柊の地元にはこういう店がないんだな」

「うちのママが厳しくしちゃってるんです。権力の乱用ですよ」

 姫柊の母親は、サブカル面にあまり理解がないらしい。しかも、規制を作れるということは行政でもそれなり以上の立場にいる人間のようだ。

「特にプラトニックラブ系の同人はアウトですね。商業は大丈夫なんですけど」

「で、姫柊はひたすらそれを買い漁っているってことか」

「いやいや、わたしは別にそういう分野はちょろっとですって。広く浅くデスヨ」

 と、言いながらも姫柊の視線は一点に止まることなく数多の商品に移り続けている。

 ふらふらと店内を物色する姫柊。その後ろを古城は歩く。自分の知らないタイトルがたくさんある。暇な時にでも見てみるかと、古城は気になった漫画をいくつかピックアップした。

「あれ、姫柊さんじゃない?」

「うそ、意外。こういうのに興味あったんだ」

 吸血鬼の聴覚が、背後の雑踏の中からひそひそ声を拾った。

「もしかして、凪沙のお兄さんの影響かも」

「え、でも先輩はそこまでこっちに足を突っ込んでなかったような」

「じゃあ、姫柊さんの趣味」

「まさかの同好の士……」

「まじひくわー」

 古城は背中を氷塊が滑り落ちていく錯覚を味わった。

 背後で話をしているのは、間違いなく姫柊雪菜の同級生であろう。だが、古城の目の前にいるのは別の姫柊だ。姓が同じで顔立ちもよく似ているがまったくの別人。雪菜は本土にいるのだ。だが、同級生達はそのような事情は知らない。

 とんでもない誤解が広まっていくような気がした。

「まあ、いいか……」

 漫画が好きという程度。広まったところで大した問題にもならないだろう。雪菜も、猫なんチャラというキャラクターの愛好家だ。

 それから、姫柊は会計を済ませて一緒に店を出た。

 買い物袋に詰まった様々なアイテムをホクホク顔で抱える姫柊に、古城は尋ねた。

「なあ、お前の母親、そういうのが嫌いな人なんだろ?」

「そうですね」

「しかも、一部の同人、だったか。規制までしてるんだよな。条例かなんかで」

「まあ、そうなりますね」

「じゃあ、それ持って帰ったらダメなんじゃないか?」

 古城の疑問。彼女の母親が許さないだろうという事と、法で禁じられているのではないかという事である。

 問われた姫柊は、一瞬固まって考えを巡らせた後、いかにも悪そうな笑みを浮かべて言った。

「古城君……バレなきゃ犯罪じゃないんですよ」

「そうかい」

 いざとなっても問題になるのはこの姫柊なので、古城はこれ以上何かを言う事はなかった。

 それに、どうあってもこの娘は母親に叱られるパターンだなと。古城はこの時、確信していた。

 それから、古城と姫柊は時間を帰り道にクレープを購入し、公園によった。

「いやぁ、充実した一日でしたー」

「そりゃ、よかった。漫画買っただけだったけどな」

 日暮れ間近の公園にはちらほらと人影がある。子ども達は親に拾われて帰路につく時間帯だ。

「最近はテストばかりで缶詰だったので、これだけでもとてもいい収穫になりました」

 膝の上に乗せた袋を大切そうに抱える姫柊。

「じゃあ、これからどうする。夕飯には早いが」

「あぁ、それがそろそろ時間みたいで」

「何?」

 古城は隣の姫柊を見る。

「どうやら、この場にわたしを繋ぎとめていた術式が綻んでしまったらしいんです。初期設定にミスがあるみたいで」

「転移魔術が解ける? なんだそれ」

「特別製なもので。久しぶりに古城君と一緒に出歩けて楽しかったですよ」

 姫柊の身体から青い魔力光が零れる。

 古城の部屋にダイブしてきた時と同じ魔力だ。姫柊が使ったという新開発された技術は、まだまだ改良の余地があるようで、予定していた時間よりも滞在時間が大幅に短縮されてしまったというのだ。

「なんだ、じゃあここでお別れか」

「そうですね。残念です」

 クスリ、と姫柊が笑う。

「とりあえず、あれだ。母親とは仲良くしとけ」

「……まあ、古城君が言うなら」

 ムッとする姫柊は、これから帰って母親と対話する必要がある。もっとも、ここで購入したアイテムの類は、母親から死力を尽くして隠し通さねばならない代物なのだが。

「頑張ります」

「おう頑張れ」

 そして、魔力光が最高にまで高まった。旋風が落ち葉を吹き飛ばし、古城の視界を塞ぐ。

「じゃあね、古城君。次に会うのは六年後だね」

 そう言い残して、姫柊は忽然と姿を消したのだった。

 後には何も残らなかった。

 いろいろと引っ掻き回されたような気もするが、恨みに思う事はない。あの姫柊に頼られた時に、不思議と何の違和感もなく引き受けてしまったし、今の唐突の別れも寂しく思う事はなかった。

 残していった言葉が事実とすれば、六年後にはまた会えるのだという。

 どういう事か、今の古城には分からないけれども、納得できるような気もした。

 

 

 帰宅した古城を待っていたのは、半目で睨んでくる雪菜と凪沙であった。

「なんで、お前らがいるんだ? 帰ってくるのは、もう少し先じゃなかったか?」

「冬休みの宿題、向こうに持ってくの忘れたのがあって繰り上げて帰ってきたんだ」

 と凪沙は言う。しっかり者のはずだが、今回はミスを犯して慌てて島に帰ってきたのだ。

「わたしは検査が予定よりも早く終わったので、早々に戻ってきました」

「向こうでゆっくりすればよかったのに。久しぶりだろう、本土は」

「それはつまりわたしや凪沙ちゃんがいなければ、何かしら好からぬ事ができるからという事ですか?」

「なんでそうなるんだよ!?」

 古城が慌ててツッコミを入れる。しかし、凪沙が突き出してきた物を視界に入れて、古城は言葉を詰まらせる事となった。

「古城君、じゃあコレ何?」

 凪沙が両手で持っているのは、ボストンバッグだった。さっきまで一緒にいた姫柊の私物である。

「コレ中身女物の着替えだよ!? 古城君の部屋にあったんだけど!? 何、何? わたしがいない間に誰か連れ込んでたって事だよね!? どんな人? 美人? それとも可愛い系?」

「先輩……?」

 興味津々といった様子で詰め寄ってくる凪沙の後ろで黒い瞳をさらに暗くする雪菜が呟く。

「ち、ちくしょう、アイツ、とんでもないもん忘れていきやがって……!」

 古城は今更ながらに恨み言を呟くももう遅かった。

 渡すべき相手はおらず、目の前の二人にも説明できそうにない。

 どのように言い訳をするか。そのために、古城は必死になって頭を働かせるのであった。

 

 

 

 

 青白い光に包まれて、少女は本来いるべき場所に戻ってきた。

 時計を確認すると転移してから十分と経っていない。時間跳躍をしたのだから、過去でどれだけ過ごしても、その時の流れは影響しないのである。

 これでは家出にもならない。気分転換をしただけだ。それが、少し彼女にとっては不満だったが、姉の有意義な研究に付き合うのを条件にした脱出だったのだ。条件指定に関しては、文句は言わない。

 ただ、予定よりも早く時間切れとなった事に対して一言言ってから、彼女はこっそりと家に帰った。

 ここは、“暁の帝国(ライヒ・デア・モルゲンロート)”。かつて絃神島と呼ばれていた人工島は、今では日本から独立した、世界四番目の夜の帝国(ドミニオン)だ。面積は四国と同程度。しかし、科学技術に関しては世界でも最高水準にあり、電子産業が非常に盛んだ。

 その高級住宅街の一画に立つ、大きなマンションの最上階が、彼女の自宅である。

 誰の目にもつかないように慎重に事を運び、自室のドアを開けようとした時、不意に声をかけられた。

「どこに行ってたの零菜?」

「げぇ……ママ」

 傍から見れば、双子の姉妹にも見える。母親とするにはあまりにも若い。零菜がママと呼んだ人物は、すでに真っ当な人間ではないのだ。そのため、実年齢よりも若くいられる。十代後半か、二十代前半で成長を止めているのであろう。

 一四年前までは姫柊雪菜と名乗っていた少女も、今ではスーツの似合う厳格な母親となっていた。

「それは……?」

 雪菜の視線がすい、と零菜の腕の中に移る。

「あ、いや、これは……」

「また何か買ってきたのね。しかも、そんなにたくさん」

「お、お小遣いの範囲なんだからいいでしょ!」

「あなたが、きちんと宿題に手をつけるのなら構わないの。けれど、それにばかり気を取られているのなら、お小遣いも含めて考え直さなければいけないでしょ」

「鬼だ、ここに鬼がいるよぅ」

 零菜は涙目になりつつも、雪菜の魔の手から買ってきた漫画類を守ろうと身構える。第四真祖の眷獣が使える上に、単純な殴り合いでも世界最高水準の元剣巫を相手にして、零菜が勝ちを拾える可能性は低い。

 ならば、脱兎の如く逃げるに限る。

「そこまでにしとけ。雪菜、零菜」

 そこにやってきたのは、古城だ。二〇年前とまったく容姿が変わっていないのは吸血鬼の不死性のためだ。それでも、声や空気に大人の渋みを感じる。皇帝として帝国を纏める立場にあるからか、高校生の頃の青臭さはすでにない。

「古城さん。お仕事は?」

「さっき終わったよ」

 驚く雪菜に優しく微笑みかけた古城は、次に零菜に視線を向けた。それから、目を細めて神妙な顔つきなった。

「なるほど。零菜、それ、いつまでも持ってても重いだろう。片付けてきなさい」

「は、はい! すぐに、古城君!」

 これ幸いと、零菜は自室に駆け込む。古城の許しが出たからには、雪菜は何も言えないのだ。

「あ、零菜。……もう、古城さんは零菜に甘すぎます」

「いいだろう、これくらい。それに、零菜も最近はテストばかりだったからな。息抜きしないと身体にも悪い。成績も悪いわけじゃないんだろう」

「それは、まあそうですが」

 中学生の時に、すでに高校卒業レベルの学力があった雪菜からすればまだまだと言ったところだが、至って普通の学力であった古城からすれば上々なのだ。零菜の成績は。

「じゃあ、俺は零菜に話があるから、雪菜はリビングでコーヒーでも飲んでてくれ」

「え、はい。分かりました。古城さんの分も用意しておきますからね」

「ああ、すぐに行く」

 そう言うと、雪菜はリビングに歩いていった。

 それから古城は一回自室に戻り、ある荷物を取ってきてから零菜の部屋のドアをノックする。

 この時、部屋の中にいた零菜は、にやにやとしながら本棚に漫画を収納していた。慌てて、表情を正して返事をする。

「古城君。さっきは、ありがと」

 入ってきた古城に、零菜はお礼を言った。

「せっかく買ったんだ。没収されるのは嫌だろう。ただ、きちんと勉強しないと、母さんを止められなくなるからな」

「うん、大丈夫」

 そう言いながら、零菜は漫画の包みを破く。

 以前見たことのあるタイトルに古城は懐かしさを覚えながら、零菜に声をかけた。

「ほら、零菜」

「はい?」

 振り返った零菜の胸に、大きな荷物が飛び込んだ。

 それは、ボストンバッグだった。ところどころに色褪せた部分があるが概ね状態は良好だ。

「え、あ! これって!」

「誰かさんの忘れ物だ。確かに返したぞ」

 古城はそれだけ言って、部屋から出て行った。

「え……?」

 零菜は驚きながらも、唖然として古城が出て行ったドアを見つめた。

 時間跳躍によって過去に戻ったのはいいが、まさかこの時代と連続していたとは。あるいは、零菜が時間跳躍する事も含めて歴史だったのか。

 二〇年前に置き忘れた荷物は、古城がしっかりと管理していたらしい。もしかしたら別れ際の『次に会うのは六年後』と言い残したのが古城の中に引っかかっていたのだろうか。

 この時代の古城が二〇年前のあの出来事をしっかりと覚えていたのは事実なようだ。

 零菜は急に気恥ずかしくなって、ボストンバッグに顔を埋めたのであった。



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