あの日、京都某所で起こっていたかもしれない話を好き放題に捏造しています。
4周年ではスピンオフを題材にしてしまったので、今回は映画単体だけを観ていれば読める作品を目指しました。
映画『HELLO WORLD』の二次創作です。(映画公開5周年記念)
映画本編の登場人物はほぼ出てきません。苦手な方はくれぐれもご注意ください。
How shall we find the concord of this discord?
(この不調和をどう調和させるというのだろう?)
(一)
鈍い地響きと共に、視界全体が不意に暗転した。
一瞬、思考がフリーズする。
うわ、停電か、と脳が認識した次の一秒にはもう非常灯がパパッと点いて、コントロールルーム全体を赤い光で照らし出す。目の前の大型ディスプレイは停電なんてどこ吹く風で、
うん、大丈夫だ。作業内容は消えていない。
直前まで僕が集中して打ち込んでいたプログラムコードは、変わらずそこに在る。書きかけの変数名の先端で、カーソルが点滅している。
その行だけは最後まで書き上げてから、手癖でセーブする。
眼鏡を外してかたわらに置く。一気に世界が低画質になり、緊張がほどける。目頭を指で軽く押さえ、ふぅ、と大きく息を吐く。
この端末は、
二〇二〇年にサービスインしてから早七年、僕が参画するクロニクル京都事業の提供する情報サービスは、もはや京都市民にとっても不可欠なインフラとなっている。京都市はいまや、神奈川出身の僕が若干引くくらいの先進的情報特区だ。中核であるこのアルタラセンターにも、自家発電装置とUPSはもちろん備えられている。バックエンドとなるアルタラ本体と主要な保守用機材は、商用電力供給が絶たれても七十二時間は単独で稼働できる。
だから、慌てる必要はない。
とはいえ、これは面倒なことになったな、と気が滅入る。よりによって僕がシフトの日に、停電が起こるとは。
アルタラの保守・運用も僕らセンター職員の大事な職務の一つだ。交代制のシフトが月に一、二回程度回ってくる。といっても、稼働七年目となってはすっかり惰性のルーチンワークだ。平常時なら異常の有無を監視し続けるだけで十分だし、多少のエラーがあってもマニュアルに沿って対処すれば済む。
ただ、こういう大きめのインシデントが起こると、やることが一気に増える。ババを引いた、というやつだ。
しかも。
今回に限ってはそれだけでは済まない。悪条件が、なんと三つも重なっている。ババのトリプルコンボだ。
ひとつ。土曜日であること。
ふたつ。夜の十一時過ぎであること。
みっつ。
他の職員達は夕方から連れ立って京都府下最大規模の花火大会に出払ってしまった。つまり、増援はほぼ期待できない。花火自体はとっくに終わっているだろうが、
まったく、誰だよ、こんな日にシフト入れたの。
——僕だ、とすかさずセルフツッコミを入れてしまう。
誰もが避けたがる今夜のシフトをわざわざ買って出たのは、他ならぬこの僕自身なのだ。
だって、宇治川花火大会なんて。
金輪際思い出したくもない、人生の黒歴史なのだから。
二〇二四年、三年前の宇治川花火大会。そこから逃げ続けた結果が、このザマだ。
「ああ、くそ。最悪だ」
思わず口をついて出る。
■
「あのさ、ちょっと変な話するね。……私さ、実家戻ることになっちゃって。来週から、ずっと」
一瞬、思考がフリーズした。
祭りの喧噪が、急に遠くなった。
えっ、と間抜けな声を発した僕の隣で、宇治川にたゆたう浮舟の灯りを眺めながら、彼女は続けた。「ちょっと母親がさ、倒れちゃってね」
僕の顔をちらりと見た彼女は慌てて付け加える。
「あ、違うの、全然深刻なやつとかじゃないから! 心配しないで。でもお母さん、一人暮らしだからさ……。どうせ今の仕事フルリモートだし。京都にいなくてもできちゃうしさ」
話が頭に入ってこない。こんなタイミングで、彼女の浴衣の柄とピアスがお揃いだったことに気づく。
華奢な手が巾着バッグの紐を固く握り締めている。桜の花を
夜風が彼女の後れ毛を撫でた。火薬の匂いの奥に、かすかにいつものラベンダー系の香りがした。
「……だからね、あの、本当に申し訳ないんだけど、みんなにどんだけ謝っても謝りきれないのはわかってるんだけど、えっと」
彼女は少し言い淀んだ。あどけなさの残る顔立ちが、ほんのわずかに歪んだ。
続く言葉の予想はとっくについていた。聞きたくなかった。
「バンド、辞めることにしたんだ」
ごめんね、と心底申し訳なさそうに言う彼女の小さな声に重なるように、ひゅう、と甲高い音が鋭く上空を切り裂いた。彼女の背後の夜空を、ひときわ長い光の尾がどこまでも昇っていく。束の間の静寂に続いて本日最大の尺玉が、鮮やかな大輪の花を天高く
彼女の言葉が脳を上滑りしていく。やっとのことで絞り出した「そっか……」という最悪な返しは、続くスターマインの爆音にたちまちかき消された。雅な色彩が絶え間なく宵闇を焦がし、無数の破裂音が宇治の山々に反響する。僕はただ茫然と立ち尽くすほかなかった。
二〇二四年七月六日、土曜日。
第四回宇治川花火大会は、今まさにクライマックスを迎えようとしていた。
学生時代から惰性で続けていたコピーバンドに脱退者が出て、代わりにバンマスが連れてきたギターボーカルが、彼女だった。
帰りの方向が同じで、笑いのツボが同じで、映画の趣味が同じで、すごく感性が近いなと思える人だった。一方で僕とはまるで違ってひたむきで、我慢強くて、いつも自分より他人を優先してしまう人だった。
気にならなかったといえば嘘になる。だけど僕はそれ以上の行動に出なかった。色恋沙汰で崩壊したバンドの噂話は枚挙に
一方で僕らのバンドには、オリジナル曲というちょっとした夢があった。きっかけは彼女の「いつかやりたいよね」という他愛もない雑談だったけど、キーボード担当で多少の心得のある僕は独断で作業を開始していた。夏の間に簡単なバンドスコアとデモ音源を作ってから、みんなに見せて練り上げていくつもりだった。
そこに僕はひそかに自分のエゴを詰め込んだ。
完全に彼女への〝当て書き〟だった。彼女の声質とテクニックを熟慮しつつ、彼女のはにかんだ笑顔と、内に秘めた芯の強さと、本番で見せる度胸を思い浮かべながら、夜な夜なDAWと格闘した。彼女の好きそうなコードを打ち込み、リズムを刻み、フレーズを練った。バレないように細心の注意を払ってはいたけど、僕にとっては彼女のための曲だった。
彼女の夢を最高の形で叶えたい、そんな風に思っていた。
スコアの推敲はタブレットより紙と鉛筆派なので、コード譜のプリントアウトは常に持ち歩いていた。だからあの時も、リュックの中から出すことはできたはずだ。
作りかけではあっても、彼女に見せることはできたはずだ。
しかし僕は、それをしなかった。
まだ完成してないし。Bメロも納得行ってないし。ていうか当て書きなんて言ったらドン引きされそうだし。
……いや、彼女がバンドを抜けてしまうのなら。
もうこの曲に、存在意義はないわけだし。
急激に正気を取り戻した。すべてがものすごく恥ずかしくなった。
危なかった。僕は調子に乗りすぎていた。いつもアレンジをやたら褒めてくれたのも、何かと市内プチ観光に呼んでくれてたのも、バンドの潤滑油以上の意味はない。そんなこと、わかってたはずだ。今日だってそうだ。いい歳して一人で舞い上がって。誘われたのが昨日って時点で気づくべきだった。急に実家帰りが決まって、最後に京都の夏らしい体験をしておきたくなったんだろ。都合がつく暇人が僕だけだったってことじゃん。勘違いするな。そんなわけないんだよ。
何が当て書きだよ。恥を知れよ。
僕はひたすら混乱していた。混乱しながら、そんなことを考えた。
心のフェーダーを下げた。
そこから先の記憶は曖昧だ。どんな会話を交わしたのかまるで覚えていない。思い出せるのはただ、長い沈黙の果てに視線を逸らした彼女の横顔と、気まずさを振り払うような彼女のテンション、そして雑踏の中に消えていくターコイズブルーの背中に映える白い帯だけだ。
数日後、
彼女の脱退はバンドにとっては結構な痛手で、代わりのメンバーも見つからず、程なくしてバンド自体も解散した。
僕も仕事が忙しくなり、バンドは過去の思い出となって、意識にも昇らなくなった。
季節は秋になっていた。地下鉄
誰を探そうとしたのか、を自覚した途端、唐突に何かが頬を伝い落ちた。無意識にぼろぼろと泣いていることに僕は狼狽した。追い打ちを掛けるように、それまで考えもしなかった問いが浮上して、僕の心の奥のやわらかい部分を刺した。
なぜ、あの時、譜面を彼女に渡さなかったんだろう。
あまりに遅すぎる後悔だった。
もちろん、あの場で彼女の決断を覆すことは不可能だったし、バンドの解散も必然だった。たとえ譜面を見せたところで、僕らがそれを演奏する機会はなかっただろう。
ただの自己満足なのはわかっている。彼女だって譜面を渡されても困惑したに違いない。
それでも。
その譜面には、僕らの二年間がすべて詰まっていた。万の言葉を尽くしても足りない思いが込められていた。
せめて、感謝と、敬意と、ただ幸せを願う気持ちと。
そのくらいは、最後に伝えておくべきだったんじゃないのか。
そして何より、オリジナル曲は、彼女のささやかな夢だった。
あのコード譜は。
僕があの状況で渡すことができた、
それなのに。
彼女に餞別どころか、さよならすら僕はまともに言えなかった。
人生に〝もし〟はない。過去を書き換えることはできない。
たとえ人生を何周したって、きっと僕は同じ過ちを繰り返すのだろう。僕はそういうタイプの人間だ。こうやって嫌なことに蓋をして、思い出さないようにして、一生、逃げ続けて生きていくのだろう。
■
何やってんだよ。たかが、そんなことで。シフト中だろ。
自己嫌悪を追い払うように首を振って眼鏡を掛ける。視界の情報量が一気に膨れ上がって、くだらない感傷を押し流す。明瞭になった意識で、今やるべきことを再認識する。
停電自体は、アルタラセンターでは別に珍しいことではない。悪天候による瞬低は時々あるし、年に一度の法定設備点検時には自家発とUPSのお世話になる。だから、ひとまずはマニュアル通りの作業となる。
壁面の巨大スクリーンに視線を走らせ、表示を一つ一つチェックしていく。特に問題は見当たらない。絶対零度もナノ
よし、アルタラには異状なし。
まずは一安心だ。当面は復電を待つことになる。停電発生からここまでは……およそ三分か。まだ復電しないということはそこそこ大規模な停電なのかもしれない。珍しいな。
さっきの休憩で外の空気を吸いに出たとき、遠雷が聞こえたのを思い出す。西の空に垂れ込めた雲の底がぴかり、ぴかりと光っていた。湿度が肌にまとわりつき、雨の前の特有の匂いが鼻をついて、これは降るな、と五感でわかった。こういうのを
——いや、そんなことはどうでもいいだろ。そう、雷だ。この停電もきっと落雷のせいだろう。市内の他の区域も停電しているのだろうか? 雨の様子はどうだ?
スマホを取り出し、
〝圏外〟の文字が目に入る。
おいおい、携帯まで障害かよ? 基地局にでも落雷したんだろうか。機内モードをオンオフしても状況は変わらない。停電プラス通信障害とは。……かなりひどいな。Wi−Fiも有線も所外につながらない。どこかの部屋のルータが落ちてるんだろう。なんでUPSにつなげてないんだよ。
しょうがない。あいつを叩き起こすか。
あいつというのは今日のもう一人の当番、
ラボから下りてこないところを見ると、停電に気づかないままソファで寝てるに違いない。電話もチャットもWizも使えないなら、直接行くしかない。
念のためスクリーンを再度一瞥し、小一時間は無人で放置しても問題ないと判断してから、やおら立ち上がる。暗がりの段差に留意しつつ、コントロールルームの出口に向かう。木の在室札を一応ひっくり返し、自動ドアを手動で開けて通路に出る。空調が停止しているせいか、いやに蒸し暑い。エレベータも止まっているようだ。
仕方なく、非常灯に照らされた階段を地下四階からひたすら上がっていく。ああ、最悪だな、もう。
まったく、宇治川花火大会の日ってのは、いつもろくなことが起こらない。
地下二階のがらんとした見学フロアに出る。
一角にあるガラス張りの共用ラボの扉を手でこじ開け、足を踏み入れる。毎日ガラス越しに見学者の好奇の視線に晒されて、内々で〝動物園〟なんて呼ばれている部屋だ。研究者というけったいな生き物の動態展示は、あれはあれで結構な人気があるらしい。うちの群れの
いつだったか、見学ツアーの気の毒な男子高校生がそれを見せられて、幻滅と軽蔑を足して二で割ったような顔をしていたのが忘れられない。彼の将来の進路を狭めていないことを祈るしかない。
幸い、というべきか、土曜の夜の動物園には当然ながら見学者はいない。
そして、群れの若きホープ、増渕の姿も見えない。ぐるりと見渡してみても、赤い非常灯に照らされた部屋はもぬけの殻だ。自家発に繋がった数台の端末だけが白い光を発している。
「おーい」
スマホのライトを点けて、大きく振ってみる。
「増渕ー? いないのか?」
僕の声がうつろに響く。
机の上には、分解中のドローンと電子部品が転がっている。ハンダごてがコンセントに刺しっぱなしだ。ハンダの焼けた匂いがかすかに鼻をつく。直前まで作業をしていたのかもしれない。
嗅覚が封印していた記憶を呼び覚ます。ハンダ付けを覚えたのもバンドだった。あの頃の僕は、刺しっぱなしにして彼女に怒られる側だった。
——プルースト効果を恨みながら、大きく溜め息をつく。
「まったく、席を外すなら抜けよな。……おーい」
コンセントからプラグを抜いてから再度、室内を念入りに見回してみる。トイレだろうか。もしや、どこかの部屋に閉じ込められているのか。案外、自動ドアが手で開けられるのを知らないのかもしれないな。
どちらにしても、と僕は考える。何しろ土曜の深夜だ。他部署や府庁エリアまで含めても、この建物に僕と増渕以外の職員がいる可能性はかなり低い。だが一階にある警備員の詰所なら、確実に人がいるはずだ。協力を仰いだほうがよいかもしれない。部屋の物理鍵も持っているだろうし、こういう時の対処法も把握していそうだ。
よし、行ってみるか。ついでに外の状況も確認してこよう。最悪でも、隣の京都府警の建物には誰かしらいるだろう。
ガラスの動物園を出て、見学者コースに沿う形で一階に向かう。
アルタラの見学スペースを足早に通り抜けつつ、巨大な球体を横目で一瞥する。見たところは何の異状もない。内部の健全性はさっきスクリーンで確認したばかりだ。アルタラは、何も変わらず涼しい顔で、そこに在り続けている。
だけど。
照明がいつもと違うせいだろうか。その白い巨大な球体は何だかやたらと禍々しく見えて、僕は思わず目を逸らして先を急いだ。
(二)
階段を一階まで昇り切ると顔から汗が滴り落ち、眼鏡が曇った。空調が切れて淀んだ空気が、蒸し暑さに拍車を掛けている。
一階から上は京都府庁の管轄なのであまり馴染みがない。ええと、警備員室はたしか、給湯室の隣だったかな。
レトロな回廊をぐるりと回ってそちらに向かう。
警備員室のドアは開いている。だが、嫌な予感がする。人の気配がしない。部屋を覗き込んで、声を掛ける。
「あのう、すいませーん」
やっぱり、誰もいない。監視カメラの映像がずらりと並んだディスプレイが、静かに光っているだけだ。
参ったな。こういう時にスマホが使えないのは地味につらい。巡回中なら、ここで帰りを待つべきか? あるいは、正門脇の保安室に——
視界の端で、何かが動いた。
反射的にそちらに顔を向ける。
アーチ型の白い柱が、暗い空間を額縁のように切り抜いている。奥から吹いてくる不快な湿度を
その幹の横に、男性が
ここから十メートルは離れているだろうか。黒っぽい上下に身を包んだ人影が、こちらに背中を向けていた。猫背気味だが、かなり身長が高い。
——警備員だ!
見るなりそう直感した。
こんなところにいたのか。ああ。良かった。
その姿は本当に頼もしく感じられた。濃紺の機動服に白手袋と黒い安全靴、建物からの光を受けてくっきりと浮かび上がる背中の反射ベストは、セキュリティを司る者のたしかな象徴だった。
ようやく生きた人間に会えて、僕は心から安堵した。馬鹿馬鹿しい想像だとはわかっているけど、何だかこの世界から僕以外の人間がすべて消え去ってしまったような気すらしていたからだ。それくらい、館内には人の気配が感じられなかった。まぁ、土曜の深夜なんてそんなもんか。
これで何とかなるだろう。まずは停電や通信障害の状況を訊いてから、一緒に増渕を探してもらおう。インシデントレポートは増渕の奴に書いてもらうか。そうだ、この停電でトイレが使えるのか訊かなければ。安心したら急に尿意を催してきた。もしも使えなかったら悲惨きわまりない。
中庭への降り口に足を踏み出す。雨は小降りになっている。
「……あのう!」
警備員の背中に向けて、声を張り上げたその時だった。
突如、枝垂れ桜から、季節外れの桜吹雪が
ように見えた。
目をしばたたいてから、もう一度大きく見開く。眼前の光景を理解しようとする。
桜吹雪はカラフルにきらめきながら嵐のように舞い踊り、あっという間に僕の視界を音もなく覆い尽くす。
……いや、違う。これは。
桜吹雪、じゃない。
よく見ると警備員が、手袋を木の幹に押し付けている。手袋に触れられた部分が、たちまち格子のような色とりどりの小さなブロックに変化する。ブロックはそのまま光りながら空中に拡散し、夜の闇に溶けていく。消える。消滅する。沸騰する泡のように、桜の木が分解されて〝無〟に還っていく。桜吹雪のように見えたのは、物質がその実体を失ってただのブロックに還元される瞬間の、最後の輝きなのだった。
その男は、
異様に長く垂れ下がった腕。あるべき所にない首。人ならざる動き。
「ひ」
僕は声にならない声を上げる。全身が総毛立つ。なんだ。なんだこいつは。人間じゃない。いや、この世の存在じゃない。見てはいけないものだ。直感でわかる。何を。何をやっているんだ。こいつは一体何を。
枝垂れ桜を構成していた最後の一片が極彩色にひときわ明るく輝いて、それからはらりと虚空に消えた。
桜の木の最期を見届けた猫背が。ゆっくりと。
本当にゆっくりと、こちらを振り向く。
今すぐここから逃げ出したいのに。
僕はそこから目が離せない。
取り憑かれたかのように、僕は
そこには。
肩より低い異様な位置に配置された、白い狐の面があり。
その中央には。
巨大な卵黄のような、黄色く丸い第三の眼がこちらをぎょろりと
その無機質な瞳の奥には、何の意思もなかった。ただのプロセスだけがあった。
そして、そいつの
ALLTALE HOMEOSTATIC SYSTEM
散々見飽きたロゴ。僕の仕事道具。
ようやく、僕はすべてを悟った。
狐の面の男の正体を。
この世界の在り方を。
そして。
僕とこの世界の運命を。
次の瞬間、本能的に、僕は脱兎のごとく逃げ出していた。
* * *
京都府庁旧本館一階の長い回廊を、全力で走りながら考える。考える。必死で考える。
この世界は。僕が今、生きているこの世界は。恐らくアルタラ内の記録世界だ。僕はアルタラに記録された、ただのデータだ。
そんな馬鹿な、と思う。そんな荒唐無稽な話があるものか。だが、もう一人の自分が、それに反論する。アルタラを日々扱い、その振る舞いを熟知しているからこそ、この仮説を支持する論拠はいくらでも思いついてしまう。
あの狐の面の男は、アルタラのシステムファイルだ。恐らく、自動修復システムの類だろう。内部ではまさかあんな見た目になるとは想像すらしてなかったが、まぁ、そういうものなのだろう。
回廊の
小さな扉の隙間からそっと外界を窺う。カラフルなブロックがまたもや空に散っていくのがちらりと見えて、慌てて扉を閉めた。かなり遠くで別の狐面の男が数体うろついているのも視認できた。狐面の男は複数いたのか、と戦慄するが、そもそも自動修復システムのプロセスはフォークでどんどん増える設計なのを思い出して、頭を抱えたくなった。
今は外に逃げるのは危険だ。方針を変更して、地下二階のラボにひとまず撤退しようと決意する。
所詮、奴らから逃げられないことはわかっている。でも、少しでも時間を稼ぎたい。頭を冷やして考えたい。
階段を一段飛ばしで駆け降りつつ、さらに頭を回転させる。
この世界がデータであることについては、僕は別にそれほど驚いていない。アルタラが現実の完全な複写であるなら、僕らは両者を区別できない。データだろうと実体だろうと、本質的には何も変わらないし、何も困らない。
問題は、不可視のはずの狐面の男達が、僕から丸見えなことだ。あれはセーフモード特有の挙動だった気がする。普通の状態じゃない。ユーザ空間から隠蔽されているはずのシステムファイルが見えていることで、図らずもここが記録の世界であることを示す
しかも、奴らは中庭の枝垂れ桜を消した。
誤りを訂正したんじゃない。あるべきものを、消去した。
あったものを、ないように。
自動修復システムがそんなイレギュラーな動作をするケースを、僕はただ一つしか知らない。
——この世界は、
なぜそう断言できるかって?
だって、そのへんをかつてコーディングしたのは僕だからだ。
要件定義は完全に千古先生や徐先輩の成果だけれど、ソースコードレベルの実装は僕の頭に焼き付いている。
いやいやいやいや。いくらなんでも。リカバリーって。
思わず立ち止まる。両手で頭を抱える。そのまま天を仰ぐ。
「……そんなのありかよ!!」
行き場のないツッコミが暗い踊り場に虚しく響く。はぁ、と特大の溜息を腹の底から吐き出し、このギャグみたいな状況をひとまず受容することにして、勝ち目のない逃走を僕は再開する。
* * *
やっとのことでガラス張りのラボの前まで戻ってくる。躊躇なく中に飛び込む。ドアを閉め、ロックを掛け、その前に机でバリケードを作る。意味はない。ただの気休めだ。ゾンビ映画のショッピングモールで誰もがやるやつだ。
白く輝くディスプレイの群れにほっとする。ここは僕のホームだ。建物全体を満たしているあの赤い非常灯の光は、どこか精神衛生上良くない気がする。
まだ心臓がバクバクしている。汗だくの
ふらふらとソファに向かうと、部屋の隅の実験用フリーザーが目に入った。少しでも涼を求めたい本能と、もうどうとでもなれという諦観から、僕はためらうことなく現代の
電源は切れていたが中はまだひんやりとしている。流れ出す冷気にしばらく顔を晒すと、少し生き返った気分になった。高価な試薬や中身不明のアンプルをかき分けてみると、なんと奥から霜だらけの棒アイスが数本発掘された。徐先輩の目を奇跡的にやり過ごして、数年は熟成されたものと思われる。誰だ、アイスなんか入れたの。だが今となっては天の配剤だ。
そういえば今年は
スチールの書棚からアルタラの設計仕様書を取り出し、くたびれたソファにどっかりと腰を下ろす。
「ああ、くそ」
本日何度目かの悪態をつく。
うんと乱暴にいえばリカバリーとは、アルタラから記録を取り出してハードを〝ゆらぎ〟の状態に戻し、データを修復して再びアルタラへと戻す一連の作業の総称だ。
もっとも僕らは、千古先生も含めて、実際にリカバリーを本番環境で実施したことはない。いわば最終手段、万事休すとなった際の最後の命綱だし、下手すると復旧には年単位の時間がかかるから、そうそう簡単に実行できても困るのだ。
その第一フェーズは、領域ごとの記録連結を
目の前の机の上に、分解されたドローンが転がっている。増渕の作業の痕跡だ。
恐らく増渕は——逃げたのでも閉じ込められているのでもない。システムとの連結を解除されているのだろう。
「……最悪だな」
思わず独りごちる。記録の連結が絶たれると、相互干渉ができなくなる。他の記録から不可知の状態になるのだ。
その仕様の
もしかすると増渕はこの建物の中をうろうろしているのかもしれない。だが、僕には感知しようがない。増渕だけじゃない。恐らく僕自身も、本来の警備員も、そして京都市民達もきっと、互いに見えない状態になっているんじゃないだろうか。
停電と通信障害に加え、周囲の人間が忽然と消えて、世界に一人ぼっちで置き去りにされる……控えめに言っても地獄だが、今はこれ以上、考えないようにしよう。僕にはどうしようもない。
二本目のアイス(チョコ)の包装に手をかける。記録の剥離の次は、何が起こるんだっけ。
「記録連結を剥離したら、
かつてリカバリー手順の読み合わせで聞いた、千古先生の声が脳裏に再生される。
連結が解除された記録を量子記録ビットの形に還元し、〝ふるい〟と呼ばれるアルゴリズムで均して、外部に取り出せる状態にするのがこの第二フェーズになる。
狐面の男が枝垂れ桜の木をカラフルなブロックに分解していたのは、〝ふるい〟の
一向に復旧しない停電も通信障害も、送電網や基地局がやられたせいかもしれない、と考えて背筋が凍る。これほど自家発電のありがたさが身に沁みたことはない。
三本目のアイス(宇治抹茶)は、もうかなり解けていて棒がぐらぐらしている。小豆入りだ。水無月に一番近いかもしれないな、とくだらないことを考えつつ、大口でかぶりつきながらページを
データを均したあとは、記録を外部に取り出す作業になる。この世界でそれがどのように見えるのか、僕には想像もつかない。
ただし、確実に言えることがひとつある。
量子データであるアルタラの記録を取り出すには精密な観測が必要になる。だが観測の精度を上げるほど、元のデータに影響を与えてしまう。元のデータは必ず変質し、失われる。
つまり、リカバリーの過程で、この世界の
京都の街が消え、自然が消え、人々が消える。もちろん僕も消える。
僕は、死ぬのだ。
まぁ、しょうがない、と思う。
この部屋に狐面の男達が踏み込んでくるのも時間の問題だろうが、悪あがきしたところで、ただのデータでしかない僕には抗いようがない。電気が来ている部屋でアイスを食べながら死ねるなら、相当幸せな部類だろう。そう悪い人生でもなかったのかもしれない。
せめて、最期が苦しくないことを祈るしかない。
実家の家族や親戚も、そして彼女も、京都にいなくて本当に幸いだったと思う。アルタラの記録範囲は京都一円の事象だけだからだ。京都に滞在している間だけ、彼らは記録される。そういうものだ。
今この瞬間、記録のどこにも彼らは存在しないはずだ。だけど、だからこそ、こんな地獄絵図を見ずに済む。せめてもの救いだ。
いや。待てよ。
問題は、その先だ。
僕は死ぬ。世界は消える。
そして。
再構築される。
リカバリーされた二周目のアルタラに、再びデータが戻される。クロニクル京都事業が開始された二〇二〇年以降の記録が、もう一度アクティベートされる。
その世界で僕は、人生を繰り返す。
僕は、再び——同じ過ちを犯すのだ。
二周目の世界で、宇治川の花火をバックに、彼女はあの台詞を口にするのだろう。
それを聞いた二周目の僕はきっと——いや、百パーセント確実に、同じ
くだらないプライドと躊躇に
たとえ人生を何周しようと、ただの
現実世界でしくじったクソみたいな自分を僕は恨む。あの黒歴史はそっくりそのまま繰り返される。そのたびに僕は深い後悔と自己嫌悪に襲われ、周囲の人間を逆恨みし、自分の性格と境遇を呪い、親の育て方や出身校にまで根拠のないヘイトを向ける。そんな目を背けたくなるような愚行すら、寸分の狂いもなく再現される。
宇治川花火大会だけじゃない。
この七年間のすべての失敗、すべての後悔が永遠にループする。
消し去りたいあらゆる間違いが、リカバリーのたびに何度でも復活する。そして毎回、暗闇と孤独の中で、僕はすべてを呪いながらじわじわと苦しんで死ぬのだ。
なんという無間地獄だろう。
悔しい。
いくらなんでも、悔しすぎる。
自分が消えることが、じゃない。過ちが永遠に再生されることが、だ。
むしろ、きれいさっぱり消し去ってくれたほうが、どれほど良かったか。
「くそっ」
アイスの棒に手をかけ、力を込める。棒が音を立てて折れる。
誰だよ、リカバリーをこんな設計にしたの。
——その問いはブーメランとなって僕の脳天に突き刺さる。
いや、正確にいえば基本概念や基盤技術は千古先生や徐先輩によるものだ。だが、カーネル部分の実装は僕だ。
自業自得。因果応報。身から出た錆。自分の蒔いた種。お前が始めた物語。
……あれ?
膝の上に広げた仕様書に目を落とす。
僕が設計したロジック。僕が書いたコード。
その意味するところを僕は反芻する。
点と線が繋がる。
脳内に電撃が走る。
自問する。じっくり考えている時間はない。勢いよく立ち上がる。ソファのスプリングが悲鳴を上げる。
なにか、書くもの。
机の上のペン立てから油性ペンをむんずと掴む。壁に貼られた研究成果のポスターを引っ剥がすと四隅のマグネットが弾け飛んだ。ポスターの裏側の白い面を上にして床の上に広げ、模造紙代わりにする。
巨大な即席ワークスペースの出来上がりだ。
広げた紙の前に膝を突く。
まるで画仙紙に
まっさらな平面に、ひとり僕は対峙する。
(三)
丸めたポスターを抱えて、正門から
雨は激しさを増している。広い街路には誰もいない。幸い、狐面の男達も見当たらない。ただ異様な空気だけが渦巻いている。どこか遠くから、くぐもったサイレンのような音が風に乗って聞こえてくる。
街灯も信号機も消えている。真夜中なのに周囲が仄明るい。見上げると、空一面を禍々しい赤いオーロラが覆い尽くしている。その一角、天頂付近に、ぽっかりと真っ黒な穴が空いている。街のあちこちから無数の瓦礫が浮かび上がり、色とりどりのブロックに還元されながら穴に吸い込まれていくのが見える。
想像以上の惨状に、思わず足がすくむ。
あの穴が何なのか、僕にはわかってしまう。
あれは、読み出しプロセスだ。
量子記録データをアルタラの〝外〟に取り出すための穴だ。
で、あるならば。
僕は穴をしかと見据えながら、小脇に抱えていたポスターを広げ、その裏側に書き殴った文字列を天にかざす。
両腕を空に向かって突き出し、穴に紙を見せ付けるようにしながら、あらん限りの声で叫ぶ。
「これを読め!」
あの穴が、アルタラの記録を読み出して外部に取り出しているのなら。
僕はそのプロセスに。
センター外部に対してはプルーラ製の堅牢なセキュリティを誇るアルタラシステムも、内部には特段の対策はなされていない。
まして、
普段ならそんな出来の悪い冗談みたいなことは絶対に起こらない。
だが、リカバリーの時だけは、話は別だ。
自動修復システムが監視を停止し。
記録に沿わない事象が存在可能になり。
クローズドだった世界に
〝内部〟から〝外部〟へのデータ入力が発生して。
さらに、すべてに気づいた
——ちょっと考えれば、そこに内在する脆弱性なんていくらだって思いつける。
特定のコードを仕込んだ入力を
これは、単なるアルタラ上の記録の改竄とはわけが違う。
アルタラ稼働時には、全事象の記録はメモリ上に展開されている。仮に、メモリ上の記録を自由に改竄できる魔法みたいなデバイスがあったとしても、自動修復システム——つまり狐面の男達によるメモリスクラブと量子誤り検出・訂正符号がただちに修復してしまうはずだ。
だが、このインジェクション攻撃が書き換えるのは、メモリ上で稼働中の記録じゃない。リカバリーの際に外部にダンプされて保存される、データベースの源泉そのものだ。この世界の〝外〟で書き換えられたデータは、リカバリー後にアルタラにそのままロードされて再び動き出す。
世界が、
メモリ上の異状だけを監視している自動修復システムにとっては、完全にスコープ外の出来事だ。改竄箇所の修復はおろか、検知すらできない。
「さあ読め! 読めよ!」
馬鹿みたいに連呼しながら、空に渦巻くオーロラを睨み付ける。
頭上に掲げたポスターを無数の雨粒が叩き付ける。眼鏡越しの視界は水滴でぼやけ、目にも口にも容赦なく雨が入り込む。
ずぶ濡れの白い上着を翻して、天に向かって全力で僕は宣言する。
広げた紙に書かれているのは、設計者しか知り得ない量子記録の操作コード。アルタラに
これは、世界の在り方に気づいてしまった〝ただのデータ〟による、ささやかな抵抗だ。
現実世界のクソみたいな自分自身に対する叛逆だ。
もうすぐ世界も自分もこのまま消えて、ただのゆらぎに戻るのだろう。だけど僕なら、そこにわずかな痕跡を刻みつけることができる。
持てるすべてを込めたコードを。
全身全霊で頭上の穴に突きつけて。
僕は、ひとつの賭けに出る。
まるで僕の宣言に呼応するかのように、ぐらりと世界が傾き始める。いきなりつんのめりかけて、慌てて足を踏ん張る。釜座通が下り坂になる。重力がおかしい。三半規管が猛烈な違和感を訴えて酔いそうになる。
地面の傾斜は次第にきつくなっていく。前方に滑り落ちそうになり、横っ飛びしてガードレールにしがみつく。肘に鋭い痛みが走るが、気にしている余裕はない。
京都の街が、折り畳まれようとしている。
世界が歪んでいく。ケヤキ並木の張り出した枝の合間、空があるはずの空間に、なぜか
空間がさらに曲率を増して、ガードレールにぶら下がる格好になる。振り落とされないように街路樹の蔦に腕を絡ませ、植え込みに片足を突っ込んで体をなんとか固定する。バキバキと小枝の折れる音がして、草と土の匂いが充満する。体のすぐ横を、病院前に停まっていた車が空に吸い込まれていく。
重力ベクトルが完全に反転している。世界がさかさまになり、あらゆるものが空に落ちていく。
いつの間にかポスターの紙もどこかに飛んでいってしまったのに気づく。でもまぁ、さっきのできっと読み込まれただろう。それにすべての物は最終的にあの穴に落ちる。その際にも必ず読み出しプロセスを通るから、問題はないはずだ。
見渡す限り、末法の世もかくやという光景が広がっている。
真っ赤に染まった空をアクロバティックな姿勢で見おろしながら、最期まで僕は自分勝手な奴だったな、とあらためて痛感する。
僕なら世界を書き換えられる。そう気づいて、油性ペンを振りかざした僕の脳裏に反射的に浮かんだのは。
あの晩、雑踏に消えていく彼女の後ろ姿だった。
世界平和でもなければ、人々の幸せでもなく。
僕はただ。
ちゃんと、彼女に。
あの譜面を渡したいと思った。
どこまでも自己中でどこまでもわがままな僕は、いまわの
やり直したいことならもっと他にいくらでもあっただろうに。
なのに、なんで、こんな。
取るに足らないことを。
まるで脈なしの相手に作りかけのスコアを渡すだけなんていう。
自己満足の塊でしかないことを。
とっくの昔に、自分の中で終わらせたはずのことを。
とはいえ、そもそも世界平和や人々の幸せなんてコーディングしようがないし、短時間で書けるコードには限界がある。
人間精神は情報密度の極致であって、
それがデータの世界に対して、具体的にどう作用するのかは、わからない。
決してグリッチ的な都合良い改変を好きに作れるわけではない。アルタラ内の量子記録の内部表現を、僕らは間接的にしか知り得ない。任意の場所に任意の値を書き込めても元の値はわからないから、空気が水に、光が音になっても文句は言えまい。せいぜい局所的なレンダリングが少し変化するとか、レイトレーシングがちょっとバグるとか、そのくらいだろう。
だから。
正直、これで何かが変わるとは思っていない。仮に理想的な条件が揃ったとしても、何かの〝きっかけ〟程度にしかならないだろう。リカバリー後の世界の自分に期待はできない。やっぱり譜面は渡せませんでした、がオチだろう。
それに当然ながら、リカバリー自体は阻止できない。どうあがいてもこの僕は死ぬし、この世界は終わる。
勢いでやってしまったけど、冷静になって考えると、ただの詰んだエンジニアの自暴自棄の奇行じゃん。
くそ、とことん馬鹿だな。笑えてくる。
それにしても、と空の穴をぼんやり見ながら思う。穴の先には何も見えない。システム的には読み出し用の
リカバリーするほどの障害を引き起こすって、一体何をやらかしたんだよ。
現実世界の、どこのどいつなんだよ。
さすがに自分ではないと信じたいが、優秀な同僚達がこんなヘマをやらかすとも思えないし、
いや、自分の書いたリカバリーのソースもひどいだろ、とセルフツッコミが発動する。あまりに乱暴すぎた、と壊れゆく世界を目の当たりにしながら思う。もっと
いずれにせよ、もし〝次〟があるなら。
もうちょっと穏やかにやってほしいものだ。
どれも思い出の地だ。バンドの中で
京都。
僕はこの千年の古都が好きだった。生まれ育った地にはない特別な空気があった。僕らはいろんなところへ行った。いろんなものを見て、いろんなことをやった。
この仕事に就いたのも、日々失われていくこの街の景色を、空も風も何もかも丸ごと記録しておきたかったからだった。まぁ、丸ごと記録してたからこそ、こんな状況になっているわけなのだけど。
空いた手でなんとか、ポケットからスマホを取り出してみる。気に入っていたターコイズブルーのカバーが知らぬ間に割れ、電池残量も一〇%を切っている。もうすぐただの文鎮と化すのだろうが、世界が終わるほうが早そうだ。
片手でフォトライブラリをタップする。三年前まで遡る。浮かれて撮った写真達がスクロールされていく。
一枚を開く。
圏外だからもう、低解像度でしか表示されない。リハの合間にこっそり撮った、僕らのギターボーカルの横顔。演奏中、斜め後ろの定位置からいつも見ていたその構図が、僕にとっての彼女の原風景だった。
粗い画像がさらにぼやける。視界全体が滲み、鼻の奥が痛む。
せめて眼鏡の水滴を拭きたいけれど、この体勢ではどうしようもない。
悔いのない人生なんて絵空事だ。結局最後まで、未練がましく後悔しながら死んでいく。僕はそういうタイプの人間だ。
十メートルほど離れている病院の建物がいよいよ解体され始めた。京都府庁の建物にもいつの間にか狐面の男がびっしりと取り付き、すでにかなりの部分が消え去っている。アルタラはどうなったんだろうか。シフトを放り投げて逃げた自分は管理者失格だ。最後に自動修復システムを停止すべきだっただろうか。千古先生ならそうしたかもしれないけど、もう、それも叶わない。後悔の種は尽きない。
このガードレールもとうとう気づかれたようだ。狐面の一体が街路樹を伝ってこちらに向かってくる。腕と脚もそろそろ限界だ。
もう、どうとでもなれ、と思う。手に込めていた力を緩める。
指先がガードレールから離れ、システムの当たり判定の対象外となる。
意外にも落下の不快感はなかった。ゆっくりと僕の体は、空の高みの穴へ向かって落ちていった。
□
「バンド、辞めることにしたんだ」
ごめんね、と心底申し訳なさそうに言う彼女の小さな声に重なるように、ひゅう、と甲高い音が鋭く上空を切り裂いた。彼女の背後の夜空を、ひときわ長い光の尾がどこまでも昇っていく。束の間の静寂に続いて本日最大の尺玉が、鮮やかな大輪の花を天高く
彼女の言葉が脳を上滑りしていく。やっとのことで絞り出した「そっか……」という最悪な返しは、続くスターマインの爆音にたちまちかき消された。雅な色彩が絶え間なく宵闇を焦がし、無数の破裂音が宇治の山々に反響する。僕はただ茫然と立ち尽くすほかなかった。
二〇二四年七月六日、土曜日。
第四回宇治川花火大会は、今まさにクライマックスを迎えようとしていた。
突如、彼女の背後から、季節外れの桜吹雪が昏い夜空へと舞い上がった。
ように見えた。
目をしばたたいてから、もう一度大きく見開く。眼前の光景を理解しようとする。
桜吹雪はカラフルにきらめきながら嵐のように舞い踊り、あっという間に僕の視界を音もなく覆い尽くす。
……いや、違う。これは。
桜吹雪、じゃない。
よく見ると周囲の山が、橋が、川が、建物が——たちまち格子のような色とりどりの小さなブロックに変化する。ブロックはそのまま光りながら空中に拡散し、夜の闇に溶けていく。消える。消滅する。沸騰する泡のように、周囲のあらゆる物体が分解されて〝無〟に還っていく。桜吹雪のように見えたのは、物質がその実体を失ってただのブロックに還元される瞬間の、最後の輝きなのだった。
あれだけ道にひしめいていた群衆がいつの間にかいなくなっている。彼女と僕だけが、転回する世界に立ち尽くしている。
彼女のターコイズブルーの浴衣の裾にもノイズが走り、表面にカラフルな
何なんだ、これは。
いったい何が起こっているのか、さっぱりわからない。
桜と花火とカラフルなブロックは渾然一体となりながら、RGBの花嵐となって僕らの周囲を激しく渦巻く。異様な赤いオーロラに照らされた彼女は、まったく異変に気づいていないように見える。何かを待つような視線で、フリーズした僕を見つめているだけだ。
もしかしたら、ブロックも桜吹雪もオーロラも。
僕だけに見えている幻覚か何かなのかもしれなかった。
脳天が割れるように痛い。いよいよ僕の頭がおかしくなったのだろう。
長い沈黙の果てに、彼女が伏し目がちに視線を逸らした。タイムアウトという単語が根拠なく浮かんだ。
世界の終わりってきっとこんな風なんだろうな、と幻覚の中で思った。
彼女がバンドを辞める。
それは確かに僕にとって、一種の世界の終わりと同義だった。
世界が終わって僕が消える前に。
どうしてもやらなければならないことがある気がした。
やってもきっと後悔するし、やらなくてもきっと後悔する。僕はそういうタイプの人間だ。
でも、それならば。
どっちに進んでもどうせ後悔するんだとしたら。
やって後悔したほうがいい。
どこかで見たような気もする、荒れ狂うカラフルな光の渦が、生まれて初めて僕をそんな気分にさせた。
だって。
人生は、一度きりなのだから。
人生は、
百歩譲ってやり直せると仮定したところで、やり直した僕はもはや今の僕ではないわけで、その人生を僕が知るすべはない。僕にはこの人生しかない。
人生は、どこまでも
リュックから五線譜の束を取り出した。
「……あの、これ」
唐突に、何の脈絡もない話を切り出す。
「まだ全然途中だけど、その……ずっと、言ってたよな。オリジナル、いつかやりたいって」
声が震える。脳天がぐらぐらして、視界がぶれる。
やっぱり、めちゃくちゃ恥ずかしい。嫌われるかもしれない。僕は馬鹿だ。でも。
ここまで来たらもうやけくそだ。
「……ごめん。勝手に当て書きした」
彼女の目が大きく見開かれる。ラベンダーがふわりと香る。
「こんなの、今渡されても、困ると思うけど」
花嵐が加速度的に激しさを増してゆく。怒濤のブロックと桜の花が荒れ狂う猛吹雪となって僕らを包み込む。
幾千万の尺玉が次々と炸裂する。菊や牡丹や柳が空一面に溢れ、オーロラが猛烈な勢いで世界を塗り替える。
「餞別にできそうなもの、これくらいしかないから」
光と音と振動が世界を
震える手で、コード譜の束を突き出して。
彼女に向かって全力で僕は宣言する。
「——読んで、ほしいんだ。君に」
(なんか、前にもあったな。こういうの)
感謝と、敬意と、少しの恋慕と、ただ幸せを願う気持ちと。
あるいは、いつかどこかで、あり得たかもしれない後悔と逡巡と覚悟と。
持てるすべてを込めた
全身全霊で彼女の前に突きつけて。
僕は、ひとつの賭けに出る。
まるで僕の宣言に呼応するかのように、ぐらりと世界が傾き始める。
□
意識が明瞭な輪郭を得て、ゆっくりと目を開いた。
すでにカーテンの外は明るいようだ。どこかで雀の声もする。枕元のスマホに手を伸ばして画面を確認する。
二〇二七年七月四日、日曜日。午前五時四二分。
アラームより早く目が覚めたことに少し驚く。こんなにすっきりした目覚めは何年ぶりだろう。いつもは鉛のように重いまぶたも頭も、今朝は別人のように軽やかだ。
まるでたった今、自分と世界が作り出されて動き出したかのような、生まれたてのまっさらな朝だ。世界五分前仮説かよ。
冴えた頭とは対照的に、全身の筋肉には心地よい疲れがまだ残っている。昨晩は群衆にもみくちゃにされながら一年ぶりの宇治を随分歩いた。あいにくの雷雨予報で花火は直前に中止になってしまったけど、実際ちょっとした災害級の豪雨だったから、実行委員会の英断だったと思う。昼間には宇治橋の両端の茶屋で水無月の食べ比べもやったし、未踏だった周辺の観光名所もほぼコンプした。今年も少しはしゃぎすぎたかもしれない。だけど、後悔はしていない。
だって、宇治川花火大会なんて。
絶対にないがしろにできない、人生の記念日なのだから。
二〇二四年、三年前の宇治川花火大会。そこで賭けに出た結果、今の僕らがある。
今でも、ありありと思い出せる。
三年前のあの日、花火のクライマックスで、僕は実に不思議な幻覚を見た。花火と桜吹雪とオーロラが渦巻いていた、という話をすると決まって彼女に「何その欲張りセットみたいなの」と大笑いされるし、自分でも欲張りセットすぎると思う。
誰だよ、あんな幻覚をレンダリングしたの。
——その問いは今日もブーメランとなって僕の脳天に突き刺さる。
僕だ。
幻覚というものは僕の脳が生み出しているわけだから、自分の頭が相当イカれていたんだろう。あの日、僕は緊張と水分不足と酷暑で熱中症になり、悪い夢みたいなチープでサイケな幻覚を見た挙げ句、失神して救護ブースの世話になるという醜態を晒した。体が前に倒れる瞬間、舞い散る五線譜の向こうで、泣きそうな顔で僕の名前を何度も叫んでいた彼女の姿を今でもかすかに覚えている。
あの花火の数日後、彼女はひたすら僕の体調を心配しつつも
僕が倒れたことでオリジナル曲の存在は全メンバーの知るところとなり、大量のダメ出しと怒濤のアレンジの結果、見違えるようなクオリティになった。翌年、全員が再集結しての音合わせで、僕はこっそり泣いた。
その後も年に一度、宇治川花火大会の翌日曜日には集まってセッションすることにしている。ちょっとした同窓会みたいなものだ。そして前の晩には、彼女と花火大会をそぞろ歩くのが恒例になっている。もちろん水分補給と適度な休憩は欠かさないようにしている。
そんなわけで昨晩のアルタラセンターのシフトは、盆休み返上プラス焼肉と引き換えに後輩に担当してもらった。増渕もついていたはずだし、珍しく着信も一切来てないので無事に終わったんだろう。僕らに気を遣ってくれたのかもしれないけど。
おかげで久々に邪魔の入らない一晩を過ごせた。そのせいか、明け方に見た夢も結構長かったような覚えがある。雨の中でひたすら叫んでいたような気がする。何の修行だよ。
ベッドからそっと抜け出す。ゆうべの熱量が体の芯にまだ残っている。寝室のカーテンの隙間から外を覗く。
眼鏡を装着し、世界を高精細モードにする。雷雨に洗われた京都の大気は驚くほど澄んでいて、いつにも増して新世界が五分前に
ふと北東を見やると
あれっ、と思った。
虹というものは必ず、太陽と反対側にできる。夏の早朝のこの時間であれば、本来は西の方向に見えるはずだ。
誰だよ、ライティング、バグってるぞ。
三年前の幻覚もめちゃくちゃなレイトレーシングだったが、この虹も相当にひどい。
もし本当に世界を五分前に作った奴がいたとしたらHELLO WORLDから出直して来いと言いたいところだが、じゃあお前はどうなんだよ、この手のポカミスをやったことないのか、ともう一人の自分がセルフツッコミを入れる。
駆け出しの頃にコーディングしたアルタラのリカバリープロセスが思い出される。やけに冴えた今朝の僕の頭は当時気づかなかった要改善点を大量に洗い出してきて、脳内に警告マークをいくつもポップアップさせる。僕も少しは成長したということだろうか。
ううむ。ちょっとリカバリーの全過程を総点検したほうが良いかもしれない。何しろ僕らは、千古先生も含めて、実際にリカバリーを本番環境で実施したことがない。できれば一生やりたくないが、だからこそ対策は万全にしておいたほうがいい。忙しくなりそうだ。なのに肝心の千古先生は最近、来月のオープンキャンパスに向けた豪華ファンサ準備に余念がない。純真無垢な高校生達をまた呆れさせるのだろう。まったく、心労には事欠かないな。
溜息と共に再び窓の外に目をやると、もう虹は消えていた。いつもの京都の街並みが広がっている。まぁ、虹に似た大気光学現象なんて、いくらでもあるしな——
そこまで考えたところで。
ようやく、気がついた。
頭の中で、どこか懐かしいようなメロディが流れ続けている。
どうやら、目覚めたときからずっと無意識に脳内リピートしていたみたいだ。こういう転調、こういう変拍子に僕は本当に弱い。いかにも僕が書きそうな、だけどまるで身に覚えのないコード進行。もちろん、あの当て書きの曲とも全然違う。何の曲だっけ。
——ああ、そうだ。夢の中で書いたコードだ。
雨に打たれながら、空に向かって掲げたコード譜だ。
(……コード譜? そうだったっけ?)
ふと、そんな疑問が頭をもたげる。コードはコードでも、プログラムコードだろ。なぜか、どこかでそんな声がする。書き殴ったのはアルタラのネイティブコードだったような記憶も、かすかにある。終わる世界で、白い大きな紙に油性ペンを振りかざして——
いや、そんなわけないよな、と思い直す。どうも記憶が混乱しているようだ。夢とはいえ、雨の中で空にアルタラのコードを掲げて叫ぶってどんな状況だよ。
やっぱり、あれはコード譜だった気がしてきた。三年前、僕はコード譜を彼女に突き出した。その記憶と昨晩の雷雨が混ざったとか、どうせそんなもんだろう。単純な奴だ。
それに僕の脳内で流れ続ける、まだ誰も知らない新しいこのコード自体が、きっと何よりの証拠だ。
……しかしこのコード、本当に僕が書いたのかよ。しかも夢の中で。
咄嗟に書いたにしては、結構、上出来じゃん。
夏の夜のはかない夢の詳細は、もはや思い出せない。
だけど、なんとなく。
あの時の気持ちを忘れてはいけない気がした。夢の中の僕は、どうしようもなく馬鹿で、自己中心的で、だけどとても真摯な思いに突き動かされていたような気がした。
僕にしか書けない、世界を書き換えるコード。
僕の
うん。僕らの次の新曲には、この進行を使おう。素直にそう思った。
五線紙と鉛筆を手に取り、ベッドの端に静かに腰掛ける。
まっさらな譜面を広げると僕は、記憶から消えないうちに鉛筆を走らせ始めた。
評価、感想・批評、お気に入り、ここすき、SNSシェアなど、頂けるとうれしいです! 本当に励みになります。
簡単なアンケート・感想フォーム作りました。全問任意なのでご協力頂けるとうれしいです。
https://forms.gle/E3GM8VYDLGAJNznb8
いつか満足できるレベルに達したら書こうと温めていたネタですが、永遠に達しそうにないのでもう書いてしまいました。
元ネタのひとつはこれです。これがやりたかった、に尽きます:
https://x.com/72kmpost/status/969411636422299648
アルタラがそんな仕様なわけないだろとは思うんですが、まあ元ネタが完全に一発ギャグなのでこの作品もある種の一発ギャグです。あるいは機械学習の敵対的サンプルみたいなものかもしれません。
IT、バンド関連、完全に素人です。おかしな描写があればご指摘ください。
またセンターモブの話かと言われそうですが、前回のが完全にその場の思いつきなだけで、こちらの方が古いです。花火パートは完全に後付けで、当初数行くらいのはずでした。学芸会ですみません。増渕は一応、映画本編で名札にあった名前です。
アレがどう作用したのかについては、映画本編の寄せ書きのカットとか、直実が無意識に貸出しカードと花びらを捏造してたのと似たようなものと思って頂ければ。『[映]アムリタ』的な解釈もありですw
実際はリカバリーと同時に開闢も起こってるので、相当カオスなことになったと思われます。虹もその副産物かもしれません。一連の話を月面の一行さんが気づいていたのかは謎です。
どこがハロワなのか、祝う気あるのかと怒られそうですが、これでも感謝と、敬意と、5周年を祝う気持ちは込めたつもりです。2024年7月6日は映画『HELLO WORLD』のトークイベントが池袋で数年ぶりに開催された日でした。あの祭りの記録(Re:cord)に代えて。
Pixivにも同時投稿しています:
https://www.pixiv.net/novel/show.php?id=23032273
PDF・EPUBダウンロードはこちら:
https://a-out.booth.pm/items/8163306
他にも『HELLO WORLD』の二次創作を書いています。だいぶ毛色が違いますが、よろしければ読んで頂けると幸いです。
・2027年7月2日20時57分24秒(3周年記念)
・「一条」さん
・エキセントリシティ(4周年記念)
・今日くらいは
・アルタラセンター26時
・本は買うだけでいい(6周年記念)
・二次小説(HELLO WORLD二次創作としても読める)
追記(2024/9/21):拙作と同日に公開されたやすきさんのハロワ5周年記念作品『オーバーライド』もぜひお読みください! 偶然にもすごいシンクロがありましてめちゃくちゃ驚きましたが、尊敬する書き手さんとベクトルが近い気がしてちょっと嬉しかったです。本当に素晴らしい作品なので、ぜひ読後感をオーバーライドして下さい。全力でお勧めします!