0d001: 計数研究所 1
教授資格を帝立大学設立史上最年少、帝冠諸邦の中で見ても異例とも言える若さで手にしたヤンカ・ノヴァーク博士にとって、新しい職場であるはずの場所は自分の能力に対する不当な扱いにほかならなかった。
「……ここが、研究所だと?」
乱れた長い白髪を手で掻きむしりながら、女性の平均よりは少し高い上背のある彼女はその建物を見た。
それは、最優等の教授資格取得者に保証されるべき終身職の教授がいるべき場所ではないように思われた。黒ずんだ煉瓦の壁には蔦が絡み、窓には合板が貼られている。見るからに古めかしい建物であり、戦前からあることは間違いないように思われた。教室や講堂というよりも、倉庫と呼んだほうが適切だろうというものだった。
「だれかいないのかね!」
彼女は踏み出して黒い木の扉を叩いたが、誰も返事をすることはなかった。
「勝手に入らせてもらうぞ!」
苛立ち交じりにノヴァーク博士は叫び、鍵のかかっていなかった扉を軋む音とともに開けた。
しかし黴と埃の匂いを覚悟していた彼女は、意外にも清潔な廊下に驚いた。木の床は軋むこともなく、壁は経年劣化によって色褪せておりひび割れも見られたが、整理されているようであった。
建物は大きないくつかの部屋を持つ一階と、より小さな部屋からなる二階で構成されていた。空いている部屋は少なく、大抵は本や雑誌、木箱、あるいは何らかの装置が置かれていた。
とはいえ、彼女の観察眼はこの建物のなかなか興味深い点に気がついていた。雑多に置かれている様々な機材にはほとんど埃が積もっておらず、定期的に清掃がされていることが伺えた。多くの木箱や棚に積まれた本についても、ひどく劣化しているということはなかった。
ふと目に入った映像蛍光管は木の板に固定されており、おそらくは教材として保管されているのだろうと推察できた。もちろん単純にまた使う機会があるかもしれないからと放置されているとおぼしき真空吸引機もあったが、それらも悪くない状態であるように見えた。
「誰かが使っているのか?」
本来、この建物は本日付で彼女が所長として任命された「計数研究所」に引き渡されているはずであった。物置にしては綺麗であるが、研究施設にしては人が動いている形跡がない、と訝しみながらノヴァーク博士は一通りの部屋を見終わった。
ひとまず彼女は自分の居場所を椅子と机が置かれ、天井には鉄骨が走る一番清潔そうな一階の部屋に定めた。そこで鞄から出した最近手に入れた数学の論文を椅子に座って読んでいると、部屋の中にけたたましい電鈴音が響いた。
「なんだ!?」
細い身体を跳ねさせ、周囲を見渡すとその音が近くの電話機から来ていることはすぐに分かった。
「はい、こちら所長のノヴァーク」
受話器を取り、彼女はぶっきらぼうにつぶやく。
「あれ、ヨーシュカ君ではない?」
受話器の向こうから聞こえてきたのは、少し驚いた老紳士然とした声であった。
「間違えているようだ、かけ直したまえ」
そう言って、ノヴァーク博士は受話器を投げつけるように置いた。
「まったく……」
落ち着いた思索の時間を乱されたという苛立ちから舌打ち交じりに彼女が改めて論文を手に取ろうとすると、また電鈴が鳴った。
「計数研究所だ!」
「そちらにヨーシュカ……ユージェフ・ケレメンという技師は、今いないかね?」
相手の声色に少し落ち着きを取り戻した彼女は、改めて部屋を見渡した。
椅子の近くにある机のそばには工具箱や配線道具が置かれているところを見るに、ここは大学付きの技師か誰かの休憩所だったのであろう。たしかにここからは街中にある大学の建物との行き来はしやすく、なにかに対応するのであれば悪くない場所であっただろうとノヴァーク博士は考えた。
となると、先程まで座っていた椅子はその人物の指定席だと考えるのが妥当だ。先程までの興奮はすっと止み、彼女は落ち着いた、教授資格を持った人物にふさわしい重々しさとともに口を開いた。
「少なくともここにはいないな。私は日没までここにいるだろうから、もしやってくれば連絡差し上げよう」
「すまないね」
「構わないさ。ああ、それと名前をお伺いしたい。誰からの連絡かわからなければ不便だろう」
彼女は指を自身の少しだけ癖のある白髪に絡めながら聞いた。
「エクスナーと言えば、彼にはわかるはずだ」
「……っ」
ノヴァーク博士にとって、その姓は知らないものではなかった。戦前の科学界の重鎮であった彼の名前は、その弟子たちからの愛憎相半ばする評価とともに語られていた。
「ヤンカ・ノヴァーク博士、就任おめでとう。ヨーシュカ君を頼んだ。機会があれば、私もそちらに伺うことになるだろう」
そう言って電話は切れ、彼女は受話器を持ったまましばらく動けずにいた。
「……一体、なんなんだここは」
彼女はその後少し他の部屋を見て使われていない椅子を発見し、それを持ってきて先程の電話があった部屋に戻ってきた。
先程まで座っていた椅子より少し硬いことを恨めしく思いながら、彼女は座って先程の電話の主について考えていた。
エクスナー
当時注目を集めていた
しかし彼は実験物理学者としての側面が強く、扱っている現象が工学的にどう役立つかについての興味をほとんど持たなかった。彼がかつて大学の物理学研究室室長だった頃、電波や熱電子管を対象としていた研究者を「物理学の精神と反している」と批判し、一部を退職に追い込んでいる。そのために戦後の帝冠諸邦は電気工学分野において遅れを取っていると語られるのも、なるほどおかしな話ではなかった。
ただ、そのような人物が自分のことを──それも口にしていない名前まで知っていたのかについては、彼女が少し考えても様々な可能性があったために特定することはできなかった。
そのような思索をしながら、並行して組合せ論理と呼ばれる分野の論文を読んでいた彼女は部屋の扉が開く音とともに目を上げた。
彼女と同じ年齢、すなわち「大陸戦」の始まった年に生まれた二十五歳の青年がそこにいた。ノヴァーク博士と並ぶと少し背の高い彼こそが、後に彼女とともに計算機械史に名を残す技師──ユージェフ・ケレメンであった。
「……間違えました」
黒い油で汚れた服を来ていたケレメン技師は、部屋で優雅に紙をめくっていた白髪の見知らぬ女性に驚き、そして小走りで去っていった。
「……そうか」
ただ、彼がケレメンだと知らない彼女は、また視線を論文に戻すのだった。