帝立大学理学部を休学中のユージェフ・ケレメンにとって、新しい環境はあまり期待の持てないものであった。
彼は決して天才と呼ばれるような人物ではなかった。中等学校の成績は平均より僅かに上、帝立大学の合格もかろうじてという状態であった。
しかし彼は実験、特に機械と電気の分野においては高い能力を持っていた。それを見抜いたのが当時帝立大学で入門的な物理学講座を持っていたエクスナーである。
父の死によって大学の学費を捻出することが難しくなると、ケレメンはエクスナーの紹介によって近隣の郵便局の技術職員として働くことになる。後に彼が関わることになる様々な電気機械について、彼はここで学ぶことができた。
また、当時の郵便局長はケレメンを帝立大学への出向者として扱ったため、大学内の様々な機械や通信装置の修理の担当者として彼は雇われることになった。当時電信は国営事業となっており、郵便局員以外が触れてはならない通信機器は多かった。そのため、彼は大学内で非常に重宝されていた。
しかし、そのような労働はケレメンから勉学の時間を更に奪うものであった。彼は大学へ休学申請を出し、金銭的に厳しい状況の中でエクスナーの技術助手としても働いた。
エクスナーは体調の悪化により故郷へ戻ることを考えていたが、そうした場合にはケレメンが後ろ盾をなくし、大学で学ぶことができなくなってしまう可能性があった。
そのために彼は一計を案じたのである。自分が任されていた建物を新設の研究所のために使うようにし、ケレメンがそこの学生となるように計らったのだ。その所長となったのは、ちょうど「機械による計算の実装」によって教授資格を帝立大学設立史上最年少で得た才媛、ヤンカ・ノヴァークである。
この提案はノヴァーク博士が所属していた理学部の教授会議においても快く受け入れられた。彼女は「機械による計算の実装」の執筆にあたって指導教官であるヘルブランド教授と強く対立しており、有り体に言えば彼らはノヴァーク博士を追い出したがっていたのである。
ただ、そのような事情を詳しく伝えられていないユージェフ・ケレメンにとって、それは恩師から唐突に郵便局での仕事を辞めて知らない人物のもとで研究をしろ、と言われたに等しいものであった。
手続きの問題もあり、エクスナーはケレメンに詳しい事情を説明するべく電話で連絡を取ろうと思ったのであるが、それがノヴァーク博士が不機嫌に取った電話であった。
結果として、ケレメンは自身の作業場で見知らぬ女性が過ごしているという状態に出くわしたわけである。なにかの間違いであると彼が考えるのも、妥当なことであった。
しばらく他の部屋に避難したケレメンは、彼女について心当たりがないことを確認してから、エクスナーへの客人ではないかと結論付けた。彼の弟子の中には帝冠諸邦で初めて女性として物理学の博士号を取得したエリーゼ・スタインドラーのような人物もいた。
扉の隙間から彼は部屋を覗き込み、ちょうど彼女が論文を読み終わった時を見計らって部屋に入った。
「あの、エクスナー先生に何か御用でしょうか」
「いや、むしろ私は彼が用のある人物を探してるようだが……君は?」
「ユージェフ・ケレメンと申します」
「ああ、なるほど」
彼女はすぐに合点がいき、彼を自分の椅子に座るよう促した。
「先ほどエクスナーから電話があってね、君に伝えたいことがあるそうだ。あとあの電鈴の音はどうにかならないのかね?」
「他の部屋で作業をしているときでも聞こえるように特製のものをつけているのです、すみません」
そのような会話をしながら、ノヴァーク博士は眼の前の人物を観察していた。
髭は丁寧に剃られており、作業用の固く汚れた上着と工具の入っている前掛けを脱いだ下には清潔な中着があった。少なくとも粗野な人物ではないことを読み取った彼女は、ひとまずの情報共有を始めた。
「……なるほど、つまりあなたが僕の指導教官になるわけですか」
ケレメンは新しくできた研究所が、恩師が退職前に残した自分への贈り物らしいという可能性をようやく飲み込むことができた。
「どうやら、そういうことらしい」
ただ、そう語る彼女をケレメンは信用するべきか悩んでいた。もちろん自分と同じぐらいの年頃の女性が教授資格を持っている事自体もあまり信じられることではなかったが、それをわざわざ問わない程度には彼にも良識があった。
「計数研究所内での人員や雇用については私に権限があるはずだ、君が学生として卒業できる程度の額は出せるはずだ。それで構わないかね?」
「ええ、もちろんですが……」
「あとそうだ、全く期待しているわけではないが、君はこれが読めるかね?」
彼女はそう言って、手に持っていた論文を彼に投げるように渡した。
「……これは?」
「表紙の文字ぐらいは読めるだろう」
「『
「中身はどれぐらい理解できる?」
ぱらぱらと彼がめくると、そこには数式のようで数式には思えないものが羅列されていた。
「何ですかこれは」
「表題を見たまえ、組合せ論理だ」
「これが
ケレメンの知る論理学と言えば、散々暗記させられた三段論法の一覧のようなものであった。
例えばケレメンは人間であり、人間は死ぬべき定めにあるなら、ケレメンは死ぬべき定めにある。あるいは全ての人間は不死なる存在ではなく、全ての不死なる存在は怪物であるとしたら、怪物ではない人間がいる。こういった二つの前提から一つの結論を得る手法が、当時古典となりつつあった論理学の一つである三段論法である。
その一方でこのような論理を記号化や代数学の導入によって数学に組み込もうとしている人々もおり、彼らによってあらゆる論理的操作を記号的処理の組合せによって行う方法が確立されつつあった。
「ああ、その水準か……」
ノヴァーク博士は白髪を掻いた。
「……悪かったですね、暗記が下手だったせいで中等学校でも論理学の成績は良くなくて」
「は?」
彼女はケレメンの言葉を聞いて、彼の前で初めて呆けた顔をした。
「だって二十通り近い組み合わせを覚えないといけなかったわけですから」
「論理は記憶ではない、いや確かに最低限の知識は必要かもしれないが、それはむしろ操作と呼ぶべきものだ」
「それはたぶん、博士がそれを理解しているからですよ」
ケレメンはそう言って、視線を落とした。
「そんなことはない、人間は何も理解などしていないし、それでも計算はできる。計算機の歯車も自らが回転する意味を理解することはないだろうが、それでも論理は働くのだよ」
席を蹴るようにして立ち上がってずいと顔を近づけたノヴァーク博士に、ケレメンは思わず椅子を引いて身体を遠ざけた。