圧縮着火機関の騒音を背に、乗合自動車から降りたケレメンは薄く青空が覗く、とはいえ大半が灰色の空を見上げた。
「ええと、会場は……」
いつもよりは上品な外套に身を包んだノヴァーク博士は、荒い紙の地図を広げて道を確認した。資金に余裕があれば辻待ち自動車を使うのだろうが、吝嗇な二人は微妙に駅から離れた場所にある会場まで大型の乗合自動車を使うことにためらいはなかった。それがたとえ動力機関が騒がしく、振動も酷く、その上遅かったとしても。
「今いるのはここですよね」
「会場はあちら、か」
ケレメンが頷くと、ノヴァーク博士は地図を畳んで懐にしまい、歩き始めた。
「しかし、なんていうか海外の街といっても案外変わらないものですね……」
並ぶ屋台や新しい建物の並ぶ町並みを見ながら、ケレメンは呟いた。
「どことだい?」
「僕の故郷であったり、あるいは帝立大学のあたりとかです」
「……なるほど、確かにここの建物の多くは二十年前に破壊されているからね」
そう言いながら、ノヴァーク博士は少し歩幅を狭めて自分の少し後ろにいるケレメンと隣になるよう調整をした。
「ああ、だからですか」
「それと、このあたりはかつてのレヒスカのあたりだ。君の地元も近いだろう?」
「……そういえば、そうでしたね」
ケレメンは頭の中でこのあたりの地図を思い浮かべていた。この地域は幾度かに渡って東の人民主義国、北西の大党国、そして南西の帝冠諸邦へと分割され、戦前の時点で地図より消え失せていたレキスカ連邦の版図であった場所に相違なかった。
「……ケレメン君、別に専門家であるべきだとは思わないがそれぐらいの知識は持つべきじゃないかね?」
「今どきはあまり歴史もやらないんですよ、民族主義的だのなんだので」
ケレメンは息を吐いた。戦後に明らかになった大陸各地での民族殺戮は、それまでの民族主義的運動を一気に冷まさせ、そして逆方向へ進ませるのに十分な衝撃を与えた。その結果もあって戦前からあったレキスカ独立運動なども完全に国際的に違法化され、地域文化以上のものを知る機会は今の若者に失われて久しい。
「馬鹿馬鹿しい、目を背ければ過去を変えられるわけでもないだろうに」
「それで数百万人が殺されたんです、神経質にもなりますよ」
「否定はしないし、私も犠牲者は悼むとも。ただ、
「……博士はもしかして、分離主義の同調者ですか?」
「より中立的には民族主義と呼ぶべきだし、私は帝冠派だよ。それを誰が戴くか、あるいは戴かないかは気にしないがね」
「やはりそれなりに危ない思想じゃないですか……」
そんな会話をしながら、二人は秋風の吹く道を進んでいった。周囲を見ると同じ方向に進む身なりの良い紳士たちが多いあたり、道は間違っていないようだった。
「ところで、シェーンフィンケル教授との待ち合わせはどうなっていましたっけ?」
「昨日電報が来てたよ。
「ありがたいですね」
「あくまで学術的研究の範囲で、とのことらしいが。一応は重要部署というのもあって、あまり積極的な交流はしたくないのかもしれないね」
ノヴァーク博士はそこまで言って足を止めた。止まるのが遅れたケレメンは中年の守衛が制するように伸ばした腕にぶつかった。
『失礼、紳士さん。招待状はお持ちかな?』
少し慌てたケレメンには余裕がなかったが、ため息を吐きながらノヴァーク博士はその守衛が民間の警備員や警官ではなく軍憲兵らしいこと、そして年齢からして従軍者の可能性もあることを徽章から感づいていた。
『ええと、あの……そこにいる淑女が持っています』
ケレメンは少し拙いながらも守衛に返した。
『すまないね、彼は私の学生だ』
そう言って間に入って招待状を見せるノヴァーク博士に、守衛は冷たい目を向けた。しかし二十代もまだ半ばだろうという二人の男女がいて、そして女性の方が研究所の所長であるという人物であるという記述にも驚きの感情を出さない程度には、守衛は仕事に徹していた。
『……失礼にはなりますが、帝冠諸邦側での身分証明書を』
『これでいいかい?』
ノヴァーク博士は軽く手を振り、手の中に旅券と大学からの証明書を広げた。
『……問題ありません。どうぞ』
少し時間をかけて確認を終えた守衛は、半歩下がり二人に道を譲った。
『良い警備をありがとう。同志の職務への忠誠への敬意と、これからの仕事での幸運を』
そう丁寧に言ってから礼をしたノヴァーク博士は、少し上機嫌な早足で展示会場の奥へと進んだ。
「……何があったんですか?」
駆け足で追うケレメンからの質問に、ノヴァーク博士は小さな笑みを浮かべた。
「いや、疑り深い相手を打ち負かすのはいつでも楽しいものだよ」
「性格が悪いですね」
「それは心外だな、舌打ち一つもせず、丁寧な対応をした私に落ち度があってたまるものか。もちろん相手にも大きな失態はないから引き分けではあるがね」
これが貴族の対応というものか、とケレメンは息を吐いた。庶民の生まれである自分にはこういったやり取りができる日は来ないだろうと思い、そして来ないでくれと願うしかなかった。
「それで、聞き取れたかい?」
「本当にかろうじて、です。少し集中を切らせば聞き取れなくなります」
「そんなものだよ」
そう言いながら、二人は鉄と油の匂いがする展示会場を歩いていった。終戦後に作られた国威発揚のための側面もある建築物は、人民主義に基づく現実的建築と古典主義を折衷させたようなものになっていた。
「それにしても、農業機械が多いね」
ノヴァーク博士の言うように、展示内容の多くは農業機械や食料品生産に関連したものだった。もちろん人民主義国の工業製品や機械を幅広く扱っている展示会であったが、「
「動力装置は確か多くが大党国から実施権を得て生産しているものだと聞きます。それでもまだ精度の問題はあるとか」
「あのあたりは難しいとは聞くよ。我が国でさえ、国産自動車は散々な出来だ」
「ここに来る時に乗った乗合自動車の動力装置はたぶん人民主義国のものですね、帝冠諸邦の車に引けを取らない乗り心地でしたから」
そう言い合って二人は笑い、そして息を吐いた。
二人は帝立大学という、帝冠諸邦でもそれなりに力を注がれている大学の一つの関係者である。帝冠諸邦は理論分野では歴史に裏打ちされた権威によって未だ世界各地から才能を集めることに成功しているものの、産業面ではあまり芳しいものではないことはよくわかっていた。
「さて、
「改造を前提に売ってくれるものかね」
「けっこう柔軟ですよ、あの手の機械は現地改造も珍しくないので」
そう話し合いながら、二人は奥の方の展示室へと向かった。