「七枚目の図面になるね」
本棚から本が溢れつつ部屋で、ノヴァーク博士はケレメンから受け取った紙を広げて全体の情報の流れに目を通していた。
「熱電子管の電圧を落とすと、それだけ長く保つ事がわかったんですよ。これならもう少し大きな規模で作っても、実用的な故障率で済みます」
「それは何より」
「それと
「もっと率直に言いたまえ」
「お前が表に出ろ、などと指導教官に言えるほど僕は恐れ知らずではないのです」
「恐れるべきはただ真理の奥深さのみ、だよ」
ケレメンはそういう事するから理学部の主流派から疎まれたのではないでしょうか、という言葉が出かけたがそこまで言うと発言した方の品性が疑われるように思い、口をつぐんだ。
「それと、私の方もそれなりに苦労はしているんだよ」
そう言ってノヴァーク博士は紙の束をケレメンに渡した。
「……これは?」
「試験用の計算過程だ。流体力学、構造力学、天文学、整数論のあたりが中心となっている」
「……なんで計算機械がないのに試算ができているのか、ということは無視しておきましょうか」
「電子数値計算機はただ高速なだけさ、質的には手作業も計算機械も違いがないというあたりは理論で散々やっただろう」
「……そうでしたね」
やはり多額の予算をかけて計算機械を作るよりも、どうにかしてノヴァーク博士をもう一人作り出せないものかということをケレメンは考えながら数式の並ぶ紙を見た。
「このあたりを実際に計算できることを示せば、興味を持ってくれそうな研究者はいるでしょうね」
「君から見てもそう思うかい?」
「機械式積分装置の設置をやったことがあります。あれは確か民主共和国からの輸入品でしたが」
「あの手の精密機械は大党国の得意分野だと思っていたのだが」
少し驚いたようにノヴァーク博士は言った。
「理論分野となると、民主共和国のほうがそのあたりの注力が強いそうです」
「研究のための研究を求める、特権階級のための知の城塞というわけか」
「ここだってそうですよ。世界で熱電子管による計算機械なんてものを作ろうとしているのは僕たちだけかもしれませんが」
「……それが少し、意外な点ではあるんだよ」
そう言ってノヴァーク博士は席から立ち上がった。
「大党国はこの手の技術を得意としているだろうし、電子部品であっても統一都市同盟に準ずる生産能力を持っているはずだ。それに、この種の積分計算は必要だろうし」
「どのあたりで、ですか?」
ケレメンは頭の中で技術分野を思い浮かべていた。動力機械のあたりの設計で使えなくはないだろうが、あの分野はそもそも数式をどう立てるかで一苦労する分野だ。それならば実際に作ってしまったほうが早いことも多いだろう。
「……君の父上は、鉄道砲の技師だったと言っていたな」
「ええ」
「弾道学については、どれほど知識がある?」
「ほとんどありませんよ、父だって砲を直接触っていたわけではないですし、砲を動かす人だって実際には手元の表を見て、それに合わせて数字を決めていただけです」
「では、その表はどうやって作られる?地平線の向こうの標的を狙うことも可能な鉄道砲ともなれば、わずかな誤差でも大きな差異を生むはずだ」
「普通は実験などでしょうけど……計算で求めることができるのですか?」
ケレメンの質問に、ノヴァーク博士は大きく頷いた。
「空気抵抗と風による影響は大きいが、それ以外にも砲弾の形状や高度による気圧の差、あるいは温度による影響なども加味する必要がある。実際は因子の多くは線形近似されるだろうが、それでも膨大な計算が必要だ」
「微分方程式を解く、ということでしょうか?」
ケレメンにとって、その分野はあまり好きになれないものだった。ある時点とその一瞬先の時点での変化を表したものが微分であるが、その情報から全体の構造を導くのが微分方程式を解くことに相当する。
そして、単純に見える式であっても解くことは困難なことが多いのはよくわかっていた。円柱の形をした金属棒を熱した時にどのように熱が伝わるかを知りたいだけなのに、正負を交代させながら二つの階乗で分母が増えていく奇妙な関数を相手にすることになるのだ。
「いや、一手一手やっていく。単純に差分を足すだけでは誤差が大きくなるが、補正の方法がいくつかあってね。このあたりは天文学の研究を持ってきたのだが、かなりこのあたりは面白いものがありそうだ」
楽しそうな声色で言うノヴァーク博士に、ケレメンは息を吐いた。呆れというより、楽しみながらやっているノヴァーク博士と比べて自分の担当している分野の進捗の無さへの嘆きというほうが適切なものだった。
「……それで、大党国が弾道学研究のために計算機械を作っていると?」
「あくまで可能性ではあるがね。なにせ私の調べた範囲では、この手の試みが不自然なほどにされていない」
「軍機にしてると?再軍備は条約で禁止されているはずですし、査察も毎年行われていますよ」
かつて東西から挟まれ、大陸中央の帝冠諸邦という荷物を抱えてもなお五年間の戦争をやってのけた国家を恐れないものはなかった。戦争に多くを注ぎ込んだ結果多くを失い、その反動として結束主義に基づく大党国という体制に切り替わった際、当然ながら各国が危惧したのは次の「大陸戦」の勃発であった。
とはいえ条約で規制されている火砲や兵員数については、今のところ問題ないとされている。悲しいかな、帝冠諸邦は他国と比べ兵装技術が劣るとされているために他国より一回り多い軍量の保持が許されていた。
「条約の規制外は色々あるのさ。飛翔体を用いたり、超兵器の開発をしたりという噂は絶えない。我が国ももう少し、そういうことをしてもいいと思うがね」
「個人的には外に向かって銃を突きつけるより皇帝の軍が銃口を臣民に向けるか、あるいは国内で互いに銃を向け合う可能性のほうが怖いのですが」
「……それもそうだ」
嫌な話になってしまったな、と思ったケレメンは下がって自分の席に座り、思考を切り替えるべく手元の紙で数式がどのように処理されているかをゆっくりと追っていった。