帝冠諸邦の計算屋   作:小沼高希

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0d003: 計数研究所 3

引っ張り出された黒板の前で、ノヴァーク博士は積まれた箱の奥から取り出されて数年ぶりに外気に触れた白墨を撫でるように触れていた。

 

ケレメンの目からすると、それは本来若い少女が恋人からもらった宝石か何かを愛でている時にするような仕草にも感じられたが、もう少し冷たくて、もう少し知的興奮の混ざったものであった。

 

「ケレメン君は私の学生になるわけだ、すなわち私の研究対象──計算機械について、最低限の知識を持って貰う必要がある」

 

「はい先生」

 

「なんだね」

 

「計算機械って……こう、歯車のやつとか、機械式積分装置みたいなものですよね?」

 

ケレメンが脳裏に思い浮かべていたのは桁ごとのレバーを上下させて数字を設定しハンドルを回すような機械と、一部の数学的計算に使われる特注の装置であった。

 

「私の言うこれは、それらとはまた別だ。もちろんこれも計算(サーミータシュ)のための機構ではあるが、むしろやっていることは計数(サーモラーラーシュ)に近いと考えてもらっていい」

 

「具体的には、どういう形なのですか?」

 

「形、形か……」

 

そう言って、彼女はここに来るに当たって持ってきていた鞄の中から小冊子を取り出した。表題は「計算機械の等価性と限界」。

 

「これは?」

 

「私の博士論文だ。一冊君に進呈しよう」

 

「……ありがとうございます」

 

「あと十冊ほどあるから、そう貴重なものでもない。これに一応、私がひとまず作った計算機械の構成図がある。付録の二番だ」

 

ケレメンがその場所を開くと、書いてあったのは記号の羅列だった。見慣れない形式の文字が並び、それらが意味をなしているとすら到底思えないような有り様だった。

 

おそらく何かの場合分けによって何か──JとBとあるのは右方向(Jobbra)左方向(Balra)だろうか──を切り替えているのだろうというところまではわかったが、それ以上の記号については見ただけでは把握できなかった。

 

「これが……?」

 

「略記号も多くてね。とはいえ全部展開すると相当な量になるから仕方のないところはある。もう少し操作を単純にしたものも作れなくもないんだが、そうすると無駄な手順が増える」

 

「これで例えば……掛け算であるとか、あるいは積分ができるんですか?」

 

「可能だ」

 

そう自信有りげに言うノヴァーク博士を、ケレメンは訝しげな目で見た。

 

「さて、君から向けられた疑いを私が晴らす方法は二つありそうだ。一つは帰納的な方法、もう一つは演繹的な方法」

 

「どういうことですか?」

 

「私が示したような機械をより単純にしたものを実際に示し、それから徐々に発展させていくのが帰納的な方法。そうではなく、この最終的な機械の構成を具体的に追うのが演繹的な方法だ」

 

「……僕は一応技師なので、言い換えを試みてもいいでしょうか」

 

「どうぞ」

 

そう言われて、少しだけケレメンは口を閉じて黒板を見た。

 

「僕は今、動作がよくわからない機械の図面を渡されたような形なわけです。あなたが提案した二つの手法は、似たような動作をするがより単純な機械の説明をするか、それとも図面内にある一つ一つの部品の説明をするか、ということでよいでしょうか?」

 

「良い」

 

満足そうな顔でノヴァーク教授は小さく頷く。

 

「前者でお願いします。とはいえ僕にはこれがそもそもどう動くかも、どういう部品から成り立っているかも見当がつきませんのでどちらもあまり変わらないような気はしますが」

 

「なるほど」

 

そう言って彼女はケレメンに白墨を渡した。

 

「38と42の積を求めてくれ。計算にはこの黒板を使ってほしい」

 

「……構いませんが」

 

38

x42

----

76

152

----

1596

 

「遅くないかい?」

 

呆れたようにノヴァーク博士は言う。

 

「そこまでですか?」

 

「なぜ最初に答えを書かなかった?」

 

「二桁同士の計算をそんな瞬時にはできないからですよ」

 

「私はできる」

 

「89掛ける76」

 

「6764」

 

驚いた表情をケレメンがすると、ノヴァーク博士は満足そうに白墨を彼から受け取った。

 

「とはいえ、私も十桁同士となるとさすがに暗算ではもう少し時間がかかる」

 

もっと驚いた表情をケレメンがしたが、黒板に向かっていたノヴァーク博士はそれを見ることができなかった。

 

「君はこの計算をする時、いくつかの段階を追ったはずだ。まず最初に計算の前提となる数字を書き、区切りの横線を引いた。なぜだか言語化できるか?」

 

「……ずっとは、覚えていられないから」

 

「その通り。人間の思考状態には限界がある。脳の容積が有限である以上それは数え上げることが可能だ。故に、人間のある時点での思考状態というのは、その記憶も含めて有限に過ぎない」

 

「……そうですかね?」

 

「無限という言葉は安易に使うものではない。とはいえこれについてはまた後で語ることもあるだろう。先程の計算でも、君が使っていたのは計算の手順と繰り上がりの数字だけだ」

 

「計算に使った、という意味ではそうですね」

 

納得するケレメンに、ノヴァーク博士は話を続ける。

 

「そして人間が一度に注意を向けることができる範囲も有限だ。幸い、今回の問題は一桁同士の数字の積を求め、それに繰り上がりの分の数字を足すことさえできればいい」

 

「それと、あとは最後の加算ですか」

 

「その調子だ。では、改めて作用について整理してみよう──黒板に初期状態が与えられた。君は特定の手順に従って処理を行い、脳内に数を記憶しながら、黒板に数を書いた。そしてそれを繰り返し、最終的に答えを得た」

 

「……抽象化すれば、そうなりますね」

 

「ただ、もう少し抽象化はできるだろう。例えば繰り上がりの数字を黒板に書いていれば、行数は増えるが覚えておくべきことはもっと少なくて済む。掛け算の暗算でさえ、どこかに表を置くなり、あるいは丁寧に加算をして計算していけばいい」

 

「そんなことをしていては、時間がかかりすぎませんか?」

 

その質問を聞いて、ノヴァーク博士は顔を輝かせた。

 

「問題はそこだよ。もしここで瞬時に計算を行うことができたとしたら?秒に千回の計算ができるなら、多少計算が増えることは問題にならない」

 

「そんなものが……」

 

そこまで言って、ケレメンはそれがたかだか毎秒千周数(チークロ)に過ぎない事に気がついた。無線放送で用いられる周波数は、その千倍である。

 

「……まさか、熱電子管(ヴァルヴォラ・テルモヨーニカ)に計算をさせるのですか?」

 

「さすが技師だ」

 

ノヴァーク博士は目をぱちりとさせて、小さく言った。

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