「まずは基本的な動作から確認しよう。ところで、これは発振のためのものでいいかね?」
木の板に取り付けられていた熱電子管を指しながらノヴァーク博士が聞く。
「ええ、調整すれば周波数も変えられますよ」
「いや、それは今はいい」
そう言ってノヴァーク博士が電鍵を律動的に押すと、それに合わせて繋げられた
「ええと、それで
「気をつけてくださいよ、素手で触れるには危ない電圧が流れています」
「さっき君は素手でも平気でやっていたじゃないか」
「どう流れているかを知っているからですよ、慣れない人が電気修理をしようとして心臓をやられたなんて話はよく聞くでしょう」
「……そうだな」
ノヴァーク博士は黙って一歩下がり、ケレメンが電話のために回路を組み替えるのを見た。
「
「ある種の規格化ですよ、連携がしやすいようにしてあるので新しい部品を作る必要が少なくなりますし、もしあったとしても既存の設計を流用できます」
「面白い設計思想だな……」
そうしているうちに電話の模型が作られ、ケレメンはノヴァーク博士に
「……これは、何か言えばいいのかい?」
「お好きにどうぞ」
冷めたような目を向けるケレメンに、ノヴァーク博士は諧謔のわからないやつだなとため息を吐いた。
「リビュア大陸の北東端、海へと高地広がる一角にて、かつて大陸の中心より流れるネイロス川が砂漠と草原を貫き狭く細長い谷を切り拓いていた。その水は毎年氾濫し、泥を積もらせながら次第に耕作地を作っていった」
「なんですかそれ」
「私が子供の頃に読んでいた歴史書の冒頭の一節だ」
つまらなさそうにノヴァーク博士は言い、
「ところで、この電鍵と
「ええ、まあ」
「頼めるか?」
質問にケレメンは一つ頷き、配線を切り替えた。
「離散式通信と連続式通信の違いは、外乱に強いかどうかにある」
「ああ、
小さく頷くノヴァーク博士。
「こういうふうに話していても、問題なく発信音が聞こえる。適切な回路があれば、これをもっとはっきりとした信号に変換することは容易だろう?」
そう言って、ノヴァーク博士は
「……その分、回線が無駄になるわけですよね」
「無駄、というのは?」
ノヴァーク博士に聞かれ、ケレメンは
「離散的な方式では、ここの線には流れるか、あるいは流れないかになります。連続的であればそれは電流の正負含めたものになるわけですよ」
「しかしその分、歪みを受けやすい。完全な状態で声を伝えることはできないし、だからこそ長距離では電話ではなく電信が用いられるだろう?」
「……高速の計算のような場合であっても、そのような事が起こると?」
「これは理論側の話なのだがね、ニクヴィストという研究者がそのあたりを模型にしている。外乱の影響が大きければ大きいほど、伝えられる
「ああ、そういえば聞いたことはありますね……」
ケレメンは少し恥ずかしそうに俯いた。
「別に全てを覚えている必要はないさ、何なら私か君のどちらかさえ理解していればいい。ただ、基礎的な部分の知見は相互に共有しておくべきだろう?」
それは彼女なりの慰めであるのだろう、と思いケレメンは顔を上げた。
「それに、離散的であることには別の利点もある。拡張が容易なことだ」
「……そうですかね?」
「連続式の計算機で一桁詳しい精度を求める場合を考えてみたまえ。それに比べれば、一桁分を追加で計算する回路を加える手間はそこまでではない」
「入力や出力の精度のみならず内部機構の問題もありますね。摩耗や熱膨張が絡むこともあるでしょうし、そう言われれば離散的であることの無駄というのは、ある意味では意味を絞るための対価とも言えるでしょうか?」
「その通り」
ノヴァーク博士はケレメンの答えに満足そうに頷いた。
「ええと、それで離散的なものにするべきだ、というのは納得しました。次の質問をしてもよろしいですか?」
「いくらでもしてくれたまえ」
「そういう計算機械は、どれほど需要があるのですか?」
「それを技術者が言うのかね?」
驚いたノヴァーク博士に、ケレメンはまだ飲み込めないようだった。
「……なるほど、相手の知的基盤を自分と同様と見做すのは今回の場合私の悪癖になる、か」
呟いた後、彼女は立ち上がって白墨を持った。
「物理学、天文学、建築工学、軍事学。あらゆる方面で膨大な計算が必要になっている。それぞれに専門の機械が設計され、あるいは多くの計算手が駆り出されている。多くの近似式が作られてはいるものの、それらは決定的な解決策ではない」
「速度こそが求められている、ですか」
「違うね、速度
「それは、どんな数学の問題でも解けるということですか?」
「……違うが?」
ノヴァーク博士とケレメンはしばらく黙って顔を見合わせた。
「万能って言いましたよね?」
「あー……」
ノヴァーク博士は口を手で覆った。
「申し訳ない、専門用語を使ってしまった。そうか、君は解けない数学の問題が存在すると既に証明されていることを知らなかったのか、かなり有名だと思ったのだが……」
「そんなことがあるのですか?」
ケレメンにとって、それは数学者らしからぬ言葉に聞こえた。挑戦が続いているものの未だ解けないということはあるだろうし、多くの数学者が諦めてしまった問題もあるのは想像ができた。
しかしそれらはいつか解かれる可能性が残っているものであり、ノヴァーク博士のような天才であっても「解けない」などと断じることができる問題があるとは思えなかったのだ。
「ある。……私の指導教官であったヘルブランド教授がそれを証明したのだよ。先程渡した私の論文は、その応用を含んでいる」
ケレメンは作業机の上に置いてあった論文の表題を改めて確認した。「計算機械の等価性と限界」という文の中にある「限界」という単語が、それを意味しているのだろうと推察するのは決して難しいことではなかった。