この問題についてどう説明するべきかノヴァーク博士が悩んでいると、小さな鐘の音が外から聞こえてきた。
「……っと」
ノヴァーク博士は上着に手を入れ、懐中時計を取り出す。時間は日没まで間もない頃であった。
「君はいつも夕食をどうしている?」
彼女は時計を戻しながらケレメンに聞いた。
「たいていは大学の食堂ですよ、あまり高いものは食べられませんけど」
一般的に、帝冠諸邦では昼食が一番量のあるものであり、夕食がそれに次ぐ。ただし貧乏な学生にとっては腹いっぱい食べることは難しく、生活のために食費を削るのは珍しいことではなかった。
大学の食堂であれば割引を受けて食べることができるため、学生たちにとっては救いとなっていた。この費用が皇帝の名前で出されていることもあって、昼食の献立表に肉類が乗る日は「神よ帝冠の下に平和と栄光あらしめたまえ」と国歌の合唱が起こるほど、帝立大学の学生にとっておそらく最も国家への忠誠心が高い日となっていた。
なおこの合唱には帝冠諸邦の外から来た学生も加わることも多く、諸国の協調と平和を象徴する光景であると当時の知識人には語られていた。ただ実際のところ似たような光景は他国の大学においても見られたし、帝立大学の学生も肉が腹いっぱい食べれるとなれば人民主義国の「輝かしき連帯よ」を歌うことも厭わなかったであろう。
「……まあ、私は君の担当教官になったんだ。一回ぐらいは奢るべきだろう」
「そういうものなのですか?」
ケレメンもかつて恩師であるエクスナーにたびたびご馳走になったことがあるが、かつてのエクスナーは見どころがある学生を家に招くことも珍しくなかったと知っているため、彼の個人的な好意であると思っていたのだ。
「一応は低級教授と同じ給与体系になる研究所の所長になるわけだからな、ただの私講師よりはいい給料を貰える」
「……なるほど」
そう言いながらケレメンは外行き用に使っている袖なしの上着に腕を通し、ノヴァーク博士の後から扉をくぐって鍵をかけた。
帝立大学のある街は夏でもそこまで暑くなることはなく、麦の刈り入れが終わるような時期であっても長袖は珍しいものではなかった。とはいえ、これには袖のない襟なしの肌着が当時は広く浸透していなかったのもある。
ノヴァーク博士の後ろを歩きながら、ケレメンはその揺れる白い髪に視線を落としていた。艶はなく、手入れがされている気配もない。貴種の象徴として永らく知られていたこの顕性の遺伝形質も、彼女にとっては特に重要なものではないのだろう、と彼は考えた。
「どこへ向かうのですか?」
「私の行きつけの場所だ、別に高いわけではないから遠慮はしなくていい」
「……お気遣い感謝します」
奢られる側の身である以上、ケレメンからは特に言えることはなかった。白い高圧水銀街灯が照らす大通りから逸れ、より赤みのかかった白熱電灯がつきはじめる区域へとノヴァーク博士は足を進めた。
「……ここのあたりは、あまり来たことがありませんね」
「私の住んでいる場所がこのあたりでね」
夜なのではっきりとケレメンにわかったわけではなかったが、きちんと清掃されている町並みからは住むのに向いた比較的落ち着いた場所なのだろう、と察せられた。
「ここだ、ここ」
ノヴァーク博士が足を止めた建物は
「夕食をだらだらと食べながら新聞を読むには向いていてね。好きなものを頼むといい」
「……それでは」
そう言って注文をしたケレメンは、室内の静かな雰囲気が少しだけ気に入った。大学近くの
小説を読んでいるのは学生だろうか。何か素描をしている紳士もいる。互いにあまり関わりを持とうともせず、接客をする人物も無駄な会話をせず、それでいて丁寧に腸詰めの入った具の多めの煮物を出した。ケレメンにとって、ちょっとしたご馳走とも言えるものである。
「ここは店主の趣味で色々と新聞を取っていてね、あまりしっかりと目は通せないが」
そう言って席を立っていたノヴァーク博士は十近い紙束を既に珈琲が来ていた机の上に置いた。
「……色々ありますね」
国内の日刊上流紙に統一都市同盟の経済紙、大党国の労働者向けのものもあれば民主共和国の過激な見出しが踊る左派紙もあった。そう思えば保守的な地元紙もある他、独特の文字で綴られる人民主義国の新聞まで揃えられていた。
当時の帝冠諸邦では「体制変革的」、あるいは「民族主義的」と見做された文書が曖昧な基準の下で検閲を受けることが珍しくなかったことを考えると、これだけの国外の新聞を集めるのは容易ではないだろう、とケレメンにも推察できた。その上、全ての新聞の日付は今日のものだった。
「読みたければ取ってもいいぞ」
「……読めるものが半分もないのですが」
ケレメンは最低限大学に通う知識人として題字を見ればどの国のものかぐらいはわかったし、少ない知識と中等学校時代にやらされた古語の授業のお陰でどのような主題が扱われているかぐらいまでは把握できた。ただ、それ以上は困難であった。
「そうか」
ばさりばさりと紙を広げて時折注意深く読んでいるノヴァーク博士の目の動きは、おそらくどの言語でも同じように理解できるのだろうとケレメンに思わせた。
「……どうすれば、そのようになれるのでしょうか?」
「半分は才能。半分は生まれ」
「同じものでは?」
「良い家庭で育つことができた。努力が有意義なものとなる環境があったから才能が活かされたにすぎない」
静かにノヴァーク博士は呟いた。
「……貴族、ですか」
「一応は、な。とはいえ別に名のある家ではない。両親とも髪は白いものではなかったし、家に歴史があるわけでもない」
帝冠諸邦において、貴族は地主とほぼ同義であった時代もあった。この当時の統計に基づけば千人に四十七人が貴族の家の出身であり、その幅も帝冠を戴く一族から小作人すら持てないような辺境の一家までとかなり広いものであった。この中であればノヴァーク家は後者に近い。
「だから普段は家名を名乗らないわけですか」
少なくない貴族が名前の前に形容詞形成接尾辞のついた地名を名乗るのであるが、ノヴァーク博士はそれをしていなかった。それどころか、二つある名前も普段は一つ削っていたのである。
「書類への署名が面倒だ」
「そんな理由で……」
「それにもう戦後も長い。議会では貴族の特権階級を廃止しようと革新派が躍起になっているし、大陸でこの制度を残しているのも我が国だけだ」
「博士は廃止賛成派なのですか?」
帝冠諸邦において貴族の特権は削られ続けていた。貴族院の人数制限と女性議員の許可、終身制年金の廃止などは、ただでさえ士官として出兵して死者の多かった貴族勢力の影響力を確実に削ぐものであった。
「正直興味がなくてね、最低限追ってはいるが」
それ以降黙って新聞を読み進めるノヴァーク博士から目を離し、ケレメンは少し冷めてしまった腸詰めを口に運んだ。