涼しい風の吹く早朝から、この大学街は徐々に騒がしくなっていく。
朝の講義のために移動する学生たちや、彼らに朝食を売る屋台。街に漂う香ばしい匂いと、交差点に立つ交通警官の笛の音。
「……平和なものだ」
ノヴァーク博士がちらりとみた新聞の一面には銀幕女優の醜聞の話題があった。彼女が物心ついて新聞を読み始めた頃には毎日のように質の悪い紙に疑わしい戦果が書かれていたのだ。それに比べれば、なんとも良い時代である。
ただ、世情と彼女の個人的事情は必ずしも関連してはいなかった。
「……開いている?」
ノヴァーク博士が計数研究所となる建物の扉を開けようと鍵を差し込むまでもなく、換気のためか少しだけ扉は開けられていた。
さきほど鍵を借りてきたばかりであるというのに、とため息を吐いて彼女は上着に鍵束を入れて昨日教え子となるケレメンと話した部屋へ向かった。
「あ、おはようございます」
そこにいたのは椅子をひっくり返して脚に何か細工をしているケレメンだった。
「鍵はどうしたんだ?」
「合鍵を作っているんですよ、毎回大学本部まで行くのは大変で」
防犯の問題を考えて一応建物の責任者であるノヴァーク博士はため息を吐いたが、別にここにはそう盗めるようなものもないなと頭を切り替えた。
「……ところで、今は何を?」
「きのう博士が座っていた時にどうも良くない感じだったので、少し長かった脚を削っていたんですよ」
彫刻刀とやすり、切屑を入れるための小さな箱と硝子管に
「そういう細工もできるのか」
「かなりなんでもやらされたんですよ、楽しいのでいいのですが」
そう言ってケレメンは椅子をもとに戻し、軽く揺らすようにして
「どうぞ」
「……どうも」
勧められて腰を下ろしたノヴァーク博士は、かなり座り心地が良くなっていることに驚いた。
「だから君の椅子は良かったのか」
「どういうことです?」
「いや、気にしなくていい」
そう言って彼女はケレメンに真新しい本を渡した。
「これは?」
「前に渡したものよりも、たぶん君の得意なものだ」
表題は「機械による計算の実装」。ヤンカ・ノヴァークの教授資格審査論文であり、図の多さから製本が遅れて今日届いたばかりのものであった。
ひとまず全体の構成をつかもうと紙をめくるケレメンの手が、ある図で止まった。それは一種の配線図で、ケレメンの見慣れた自動電話交換機とどことなく似た縦横に整然と並ぶ配線が示されたものだった。
「これが、計算機械?」
「前に見せた記号的な模型よりももう少し実用を考えたものだよ、ただわかりやすさを重視したし本職の技師に監修を頼んだわけではないから、その方面から見れば無駄も多いだろうが」
ノヴァーク博士は紙に万年筆でさらさらと今後の計画を書いていた横で、ケレメンが論文を読み込んでいた。
「……想定していた方式とは、かなり異なりますね」
なんとか最後まで流し読みしたケレメンは、深く息を吐いて言った。
「そうかい?」
「
ケレメンはそう言って断続的に手を跳ねさせるように動かした。
大まかに言ってしまえば、それは短時間だけ電流が流れる脈のような信号を表していた。例えばこの方式で6を表現するのであれば、断続的に接続と切断を六回繰り返して六つの「脈」を作ることになる。ノヴァーク博士の設計はまた別で、6を表現するために三本の配線を用意し、このうち二本を通電させるものだった。
「……昨日、新聞の半分を読めないと言ってなかったか?」
さらりと海外の計算機械の話を持ち出したケレメンに、ノヴァーク博士は訝しんだ。
「単語は辞書を引けばいいですし、技術用語であればそこまで難しくありませんよ。それに図面は言葉よりも雄弁です」
「ああそうか、理論がないだけで実践はいろいろなところにあるのか……」
「知らなかったんですか?」
半ば呆れ交じりにケレメンは言ったが、ノヴァーク博士はそれに反論することもなく小さく頷いた。
「確かにこれは、いい機会かもしれないな。いや別に理学部の教授達がこれを理解していたとは思えないが……」
「どういうことです?」
ケレメンの質問に、ノヴァーク博士は姿勢を正した。
「改めて書類と雇用条件を確認しただけだ。一般的に、教授資格審査で最優等として評価されると終身職を得られる」
「らしいですね」
ケレメンにとって、それはかなり遠い世界の話だった。まずケレメン自体が教授資格どころか博士号を取れるかどうかも怪しく、かつ彼が多く手を貸していて馴染みの深い理学部所属の研究者や技師たちは教授資格を持っていたとしても事実上無給で働くしかない状態であった。
これについて、はっきりと言ってしまえばノヴァーク博士やその指導教官であるヘルブランド教授が異常なだけである。理学部は比較的若い年齢での教授資格取得が多いが、史学などの方では四十代になって教授資格を手にすることも珍しくなかった。
そして理学部であっても、三十代で教授資格を取ることができれば帝冠諸邦のどこかには職があるし、そこで十年か少し経験を積めば順当に行くなら終身職を得ることができる、というのが一般的であった。二十代で教授資格を手にするのは、若い才能が突出しやすい理学部でさえ珍しかったのである。
「ただ、私の場合は少し微妙でね。この終身職というのは今のところ計数研究所がある限り、という条件付きなのだよ」
「……そして、計数研究所はいつまであるんですか?」
「来年度予算までは確保されているようだ、それ以降は実績次第とのこと」
「何かを作る必要がある、と」
「我々の場合には計算機を、だな」
「……あと二年で、ですか」
ケレメンにとって、それは大事業と呼ぶべきものだった。ただ、先例がないわけではない。しばらく前に読んだ科学雑誌で、飛行機の発明家たちが今座っている場所と同じような作業場で、後に世界を変えた発明を行ったことを知識としては知っていた。
「予算審議のためには一年半と言ったところだろう。まあ私だけでよければ適当に数学の問題でも解けばなんとかなるかもしれないが、研究所となるとな……」
ケレメンはこの人物なら未解決問題を三つか四つ解いて無理矢理に実績を作りそうだな、などとそれなりに失礼なことを考えていた。ただ、だからこそ技術面については自分の果たす役割が大きくなるだろうことに期待してもいた。
そして、それだけの期間があれば自分が学士論文を書いて卒業できるだろうという見込みもあった。別にノヴァーク博士と心中するつもりもなく、熱電子管の数が少ない単純な模型程度であれば作ってもいいだろうという判断だった。
「予算については熱電子管を五万本というのは無理だったが、二、三千なら行けそうだ」
「それは市場価格で、ですか?」
「メウッチ社の広告で見た時の値段だ」
「ああ、あそこの」
メウッチ社は当時の熱電子管を含む電信用部品市場で最大手の企業であった。品質は悪くなく、価格も抑えられており、特性にも癖が少ないということでケレメンもしばしば教材用に使っていた製品である。
「それならここにもいくつか在庫はあります。ここに書かれている部品のうち、一つを作ってみますよ。そう難しくはないでしょうし」
ケレメンはそう言って、回路の一つを指で示した。