帝冠諸邦の計算屋   作:小沼高希

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0d009: 計数研究所 9

「……大丈夫かい?」

 

ふらついて扉を開けたケレメンに、ノヴァーク博士は印字機(シュライプマシーナ)から手を離して声をかけた。この頃には作業空間と思考空間の切り分けがなされていて、二階の一室がノヴァーク博士とたまに来るケレメンのために片付けられていた。

 

「あまり芳しくは、ないですね」

 

ケレメンが取り組んでいるのはある論理方程式を形にしたものであった。それだけであれば、そう難しいわけではない。

 

$$U_{\mathrm{f}} = I \cdot C + \overline{C} \cdot U_{\mathrm{c}}$$

 

論理学に長けた読者向けに説明しておくと、項はそれぞれ0と1の値を持つ。そして積については一般的な数学と一致するが、扱う数字が0と1しかないために和については1+1が1と定義される。また、$\overline{X}$ は $(1-X)$ を意味するとする。あるいは、$X$ が1であれば0に、0であれば1にするとしてもよい。

 

そして、$I$ は入力(イングレッソ)、$C$ は周期(チークロ)、$U_{\mathrm{c}}$ は現在の出力(ウシータ・クレンテ)、$U_{\mathrm{f}}$ は未来の出力(ウシータ・フトゥラ)をそれぞれ表している。なお、これらの表記は電子工学分野の先行研究に基づいて統一都市同盟の言語が用いられている。

 

こうやってみれば、比較的簡単な算数の問題となる。例えば今の時点での入力 $I$ が1、周期 $C$ が1、出力 $U$ が0であるとすると、

 

$$\begin{eqnarray}U_{\mathrm{f}} &=& I \cdot C + \overline{C} \cdot U_{\mathrm{c}}\\&=& 1 \cdot 1 + \overline{1} \cdot 0\\&=& 1 \cdot 1 + 0 \cdot 0\\&=& 1 + 0\\&=& 1\end{eqnarray}$$

 

と次の瞬間の出力を求めることができるのである。

 

これはある種の門番のようなものだ、とノヴァーク博士はケレメンに語った。本来静的な論理素子からなる回路に文字通りに命を吹き込む脈動となるのが周期(チークロ)に相当する信号となる。計算が落ち着くまでは──すなわち $C$ が0の間は──門は閉ざされ、その奥にある変化は反映されない──第一項は常に0となり、第二項を支配するのは $U_{\mathrm{c}}$、すなわち現在の出力となる。

 

一方で一度門が開けば、その奥で行われていた計算が表に出てくる。第一項を支配するのは $I$、すなわち現在の出力となり、第二項は常に0となる。これはある種の記憶に相当する事を行う回路であり、ノヴァーク博士の目指す計算機械の基幹要素の一つであった。

 

「進捗と説明を、ゆっくりでいいから聞かせてもらおうか」

 

ケレメン用の机の上にある様々な本や書き置きを見ながらノヴァーク博士は言った。それなりに古い郵便局内の資料や統一都市同盟の技術報告、そして辞書と散らかった紙はケレメンの混乱を表しているようだった。

 

「……ノヴァーク博士の構築した理論では、三つの論理素子が存在します」

 

選言(ヴェル)連言(エト)否定(ノン)だな」

 

和に相当する選言(ヴェル)、積に相当する連言(エト)、そして値の反転に相当する否定(ノン)。厳密に言えば選言(ヴェル)連言(エト)はどちらかがあれば否定(ノン)との組み合わせを用いて代替できるのだが、煩雑になるために両方とも残されていた。

 

選言(ヴェル)連言(エト)については、入力を適切な負の電位と並列に繋いで抵抗値を調節すれば実現できます。抵抗値の制御が難しいときは、必要に応じて二極管を挟んで電流が逆に流れないようにすれば問題ないかと。熱電子管は否定(ノン)に相当する機能を持ちます」

 

「そこまでは一応わかるよ」

 

ここで熱電子管(ヴァルヴォラ・テルモヨーニカ)という電気部品について少し説明をしておこう。これは硝子管か、あるいはまだ当時は珍しかったが金属管の中を文字通りに真空にして、そこに細々とした部品を詰めた機構である。

 

ケレメンが採用したのは三極管と呼ばれる種類のもので、これは単純な無線機の増幅などに広く用いられるものであった。安価であったし、市場に多く出回っているので数を揃えるのも容易だろうという判断だった。

 

()極管と言っても管の中に入っている金属部品は大きく分けて()つ、管の中から伸びる配線がつながった端子の数は()つである。部品は同心円状になっており、内側からタンタラム製の繊条(フィラメント)、板状の陰極(カトド)、網状の格子極(グリーヤ)、そしてまた板状の陽極(アノド)となる。

 

繊条(フィラメント)は専用の電源に二本の電線で繋がっており、通電によって熱とぼんやりとした橙色の光を生む。これによって温められた陰極(カトド)からは電子が陽極(アノド)に向けて飛び出すが、この量を格子極(グリーヤ)の電位で調整するのが熱電子管の基本原理である。

 

格子極(グリーヤ)の電位が正の場合、負の電荷を持つ電子が格子極(グリーヤ)で遮られることなく多くの電子が陰極(カトド)から陽極(アノド)まで移動することになる。これによって回路に電流が流れ、陽極(アノド) に繋がった抵抗器(レジストレ)が電圧降下を生む。結果として陰極(カトド)側を基準とすれば、格子極(グリーヤ)の電位を上げることで陽極(アノド)の電位を下げることになるのだ。

 

仮に電位の高い状態を1、低い状態を0とみなすのであればこの過程で入力の0が1に変化したことになる。逆もまた然りだ。これはちょうど、論理演算における $\overline{X}$ や値の反転に相当する否定(ノン)に相当することになる。もちろん、実際はもっと複雑であるがそれは割愛させてもらおう。

 

「ただ、理論上そうなることと実際の回路でどうなるかは別です。素子の入出力は離散的でも、内部はどうしても連続的な性質を持つので」

 

「……問題はそこか?」

 

ノヴァーク博士はケレメンから渡されていた熱電子管の特性図を見て言った。

 

「それだけじゃないですけどね、回路の後半部分で対称性の高い機構があるのですが、この部分で熱電子管の相性がどうも発生するようで」

 

二重の反転を重ねた信号を元の熱電子管に送ることで状態を維持する機構は、この種の装置の経験のあるケレメンにとっても決して容易なものではなかった。類似の回路の抵抗器(レジストレ)蓄電器(コンデンサトレ)の値を参考に作ってはみたものの、一筋縄では解決しなかった。

 

更に入力と出力の電圧を揃えようとすればなおさらである。しかしこれがなければ装置を組み合わせることはできないため、熱電子管の特性に合わせて微妙な調整を重ねる必要があったのだ。なにより、単純な増幅ならまだしも論理素子として使うには公称特性の範囲は広すぎたのである。

 

「相性、ね」

 

「実際は電気特性なのでしょうが、それを分析する機材は今なくて」

 

「作成か購入には?」

 

「作れはしますがしばらくかかりそうです、基本的には映像蛍光管を使えばいいのですが工作は必要になりますね」

 

「今後、あの機構は大量に必要になる。かなり時間がかかりそうだな……」

 

ノヴァーク博士は今後の計画の見通しの立たなさに息を吐いた。

 

「ひとまず一つはできましたがね」

 

「それを先に言いたまえ」

 

椅子を蹴るように立ってケレメンの脇を抜けていったノヴァーク博士の背中を見て、ケレメンも少し駆け足で彼女の後を追った。

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