音楽と君に、私は導かれた。

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音の鳴る方へ

 体操着の袖を伸ばし、額をぬぐえば、湿った感触。

 最後の一人の叫び声と同時に決着がついたドッジボール。校舎の正面に掲げられた時計の針は、三時間目が終わる約七分前を指していた。着替える時間もあるから、今日は早めに終わっておこうか、と先生の機転の利いた粋な計らいに、先生に対する好感度も青天井だ。

 他のクラスへの配慮で、いつもよりも小さな声でおわりの挨拶。頭を上げると同時に、男子が図ったように校舎の方向へ小走りして行く。

 

 廊下では静かにね、という先生の言葉も、ハナを切った男の子はもう忘れているんだろう。あいつらに巻き込まれませんように、なんて零す友達に思わず笑みも零れる。

 静かにしていよう、なんて意識があると余計に周囲の音は耳につく。上履きを吐き替える音でさえ、いつもより大きく聞こえる。それと負けないくらいに、ボリュームは小さいながら、四方八方からの話し声がよく響く。

 少しくらいなら大丈夫かな。今度はこっちから話しかけてみる。

 

 

「なんか、悪いことしてるみたい」

 

 

 やむことのない、悪戯心混じりの話し声。廊下を踏みしめる上履きの音。教室のドア越しに響く、チョークが黒板を叩く音。その奥から、ふと飛び込んでくる。

 

 ──────。

 

 随分と籠っているのに、はっきりわかる。教室への帰り道を辿っていくと、それは近くなる。

 耳に入る、その音色が大きくなるにつれて、周りの声は小さくなっているのに気が付いた。みんな、この音に聴き入っているんだ。それは、私も。

 

 二階へと上がる階段。その奥にある音楽室。教室とは逆方向にあるその場所に、男子たちを中心にクラスメイトが群がっていた。

 先頭集団の数人が、中からバレないよう、扉の陰に姿を隠して音楽室の様子を伺っている。隣にいたはずの友達を置いてきぼりに、自分が音楽室に向かっていると、自分で気が付いたのも同じタイミングだった。

 人だかりの奥から、中を見ようとつま先立ちで必死になった時。先頭集団のうちの一人、やんちゃな男子もまた、ゆっくりと扉を開けようと試みていた。

 幅にして数㎝。扉に阻まれていた音色が、隙間を縫うように漏れ出していく。

 

 ダメだとはわかっていた。けれど、鮮明な音色を聴いた瞬間、心の奥底から湧き出て止まらない好奇心が、ダメだと言い聞かせる心を流していっちゃって。

 クラスメイトの波をかき分け、堂々とガラス窓から覗き込む男子の肩を借り、奥に広がる世界を覗き込む。

 

 教卓側のいつも決まって先生が座る席。先生の姿はそこにない。代わりにいたのは、私と同じくらいの体格をした男の子。

 大人サイズの椅子には不格好。小学生が抱えるには、明らかにオーバーサイズなギター。

 集められる限りの視線と意識を受け止め、堂々と操る。

 

 同級生の羨望の目に囲まれ、楽しそうに笑っている横顔が一瞬見え……視界いっぱいに誰かの後頭部が広がる。

 完全に気を取られていて気が付かなかった。音楽室の扉の前は、私が来た時よりも沢山のクラスメイトで定員オーバー。俺も、私もと、みんなが一目見ようと先頭の景色を覗きに来る。

 私も、もうちょっと。なんとか、もう、少し。背伸びしてみれば……もう少しだけ。

 

 

「うわっ、やべえっ!」

 

 

 バレた! という解散の掛け声を合図に、最前線を死守していた男子が一斉に後ろを振り向く。焦る男子の目と、その後ろからこっちを睨みつける先生の吊り上がった目。それぞれと自分の目が、交錯する。

 逃げの一色に流されるまま、気が付けば、私は足音も話し声も気にすることなく階段を駆け上がる。息を切らして教室に駆け込むと、友達が呆れた様子で、もう着替え終わっている。

 当然、給食の時間の前には、先生からのお説教が前菜としてついてくる羽目になった。

 

 

 いい加減、上級生としてしてしっかりと、なんて先生の口癖にもすっかりと慣れてしまった。

 帰りの会も終わったし、いつもどおりで友達と家に帰ろう。今日は遊ぶ予定もない。六時からは、毎週見ているアニメがある。うん、決まり。

 私ばっかりな脳内会議に幕をかけて、二歩先を歩くピンクのランドセルに追いつかなきゃと少し速足。

 ピンクの横に、一定のリズムで揺れるくまさん柄の給食袋。あっ、と足が止まる。給食袋、教室において来ちゃった。

 

 ピシャっと音をわざとたてながら、脳内の会議室に笑顔のママが入ってきた。笑顔なのに、笑顔じゃない。

 涼しくなってきたはずなのに、額に汗が。

 

 

「わたしっ、給食袋おいてきちゃったかも!」

 

 

 じゃあねと手を振りながら帰り道を逆戻り。友達は楽しそうに笑っていた。

 今、取りに帰ればうっかりさんで済む話だけど、家に帰れば会議室にいるママが目の前に現れることになる。

 前に授業参観のプリントを教室にずっと置き忘れた時、笑顔がひっくり返って、ママは鬼になっていた。それだけは回避しなければ。ママは怒鳴ったりすることはないけれど、怒るとちゃんと怖い。

 

 本日二度目の登校。サッカー部の掛け声が響くグラウンドを横目に、こそこそと通り抜け、下駄箱を前にスリッパを履きなおす。

 下校時間を過ぎた廊下は、当然さっきよりも静か。自分の足音が、廊下の壁を反響してよく響く。一歩ずつ増えていく孤独感を抱えながら、教室のある二階に上がる階段へ。

 

 

「────あっ」

 

 

 足が止まる。

 体育の後と同じ。

 

 学校じゃほとんど聞こえてくることがない、その音色。テレビの音楽番組や、車の中で流れる音楽くらいでしか聴くことのないその音色。随分と籠っているが、一歩ずつ確かなものに変わる。

 

 二階に上がる階段の奥にある音楽室。やっぱり、ここから。

 足跡を消して、扉越しに響く、自然と染みていくみたいな音。

 扉のガラス窓部分を避けるように体を合わせる。

 見えないように。見えませんように。

 バレないように。バレませんように。

 

 変わる様子はない。恐る恐ると、覗き込んでみた。

 また、あの子。今度は、広い音楽室で一人っきり。

 跳ねるように腕を振り、体はゆらゆらと椅子の上で揺れている。周りの目も気にすることなく、口角は真上を向いていて……多分、堂々と見ててもバレないんじゃないかな。

 

 

「ぁっぷ……!」

 

 

 

 視界はいっぱいの君をとらえたまま、視界の外から細くて大きな人差し指が口を紡がせる。

 

 

「しー。大きい声出したら、気付かれちゃうわよ」

 

 

 反射的に飛び出しかけた声を飲み込み、漏れ出ないように両手で蓋。少し空気が漏れ出てしまったけれど、あの子は怪しむ様子すらない。

 

 口元を押えたまま、ゆっくりと後ろを振り向く。いつもより柔らかい表情をしていた音楽の先生が、微笑みながら左手の指を立てていた。

 気が付かなかった。後ろに立たれていたなんて。私、そんなに夢中になってたんだ。

 

 

「ご、ごめんなさい」

「謝ることないじゃないわよ。先生と一緒。ほんのちょっと、覗き見してただけだから。先生も仲間に入れてくれる?」

 

 

 でも、もう少し隠れようね。そう付け足して、先生も同じように体を横に向ける。私も頷きながら真似してみる。

 もう一回、覗き込んで。耳を澄まして。

 

 扉越しに籠ったままの音色は、昼間に聞いた時とは少し違う。同じ場所を何度も繰り返したり、短いフレーズを何回も繰り返したり。

 かと思えば、全く違う曲調を弾きだして、結局もう一回繰り返してたフレーズに戻ってきたり。

 楽しそうに笑ってみたり、しかめっ面をしてみたり。急に目を瞑って真上を向いたと思えば、納得したように首を縦に振り、また笑ってる。それも、多めの独り言を添えて。

 

 飽きることのない、ドタバタ劇。ギターの演奏を聴いている感想として正解かはわからないけど、私は、そんな劇の虜になっていた。

 ハッとして意識が戻るきっかけになったのは、秘密だよと呟く先生の声。

 

 

「決まって火曜と木曜と金曜日。彼ね、授業が終わったら音楽室の鍵を借りに来るの」

 

 

 そろそろ彩ちゃんも帰りなさい。彼も帰る頃合いだから。

 いつもとは少し違う先生。でも、最初から最後まで先生は先生だった。

 紅く色づく紅葉を見るたびに思い出す。あの時の先生の下がった目尻に、柔らかい微笑み。ガラス越しの君の姿を。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 週に三日。新しい楽しみが増えた。

 何かと理由をつけて、帰りの会が終わっても教室に残って、それから帰路に向かう。

 今日は筆箱、昨日は水筒、一昨日は体操服。毎日毎日、違うものを忘れちゃったと理由をつけて、来た道を戻る。

 そうして今日も、ほんの少しだけ後ろを気にしながらライブ会場の裏側へ。

 音が近づくたびに歩幅を大きく、そうしてゆっくりと廊下を踏む。

 昨日とおんなじ練習するのかな。それとも、全く違う、新しいフレーズ? そんな楽しみも次第に増えて、バレたらダメってことすら忘れてたんだと思う。

 

 

「あ」

 

 

 目が合う。

 直ぐにバレた。今度こそ声が出た。

 先生に秘密のライブの存在を教えてもらってから、多分、五回も経っていない。一週間は経ってた。

 

 油断してた。好奇心にかまけて、今までは覗き込む程度で収まっていたのが、いつの間にかガラス窓にぴったりと張り付いていた。

 私の視線に気が付き、ものすごい勢いで振り向いた時の驚きに満ちた顔。滑らかに少しずつ血の気が引いていく顔色。気が付いてからここまでの一連、一生忘れない気がする。きっと、私も似たような感じだったと思うから。

 

 目が合ってから二十秒。顔色以外、動かないまま。

 

 

「なに見てんの」

「ふぇっ!?」

 

 

 均衡が破れる。

 彼からの当然の問いに、止まっていた頭が音を立ててフル回転し始める。脳内会議場もぐちゃぐちゃだ。

 

 どうしよう。逃げるか、謝るか。

 いきなりの究極の選択を迫られ、今度は自分から考えるのを放棄し始める。具体的には、答えを出さないままに、あたふたしていた。文字通り、顔と手だけがばたばた動くだけ。

 ぐるぐると回る頭の中が少しずつ減速し始め、整理のつかない状況も落ち着いてくる。ゆっくりと、いろいろと飲み込めてきた。

 

 私、窓越しからのぞき見。お相手にバレる。今。うん、よし。なんにもよくない!

 ガラス越しの彼の顔色も気が付けば血の気を取り戻し、むしろ私を心配してる様子。扉一枚を挟んでいては聞こえないくらいの音量でしか声が出ない。

 思わず出た愛想笑いすら、何にもならなかった。手も振ってみたらなんとかなるかな……

 

 

「ギター、見たいの?」

 

 

 飛んできた問いの答えを考えるフェーズをすっ飛ばし、頭を一度縦に振る。

 何もなかったふりをして後ずさるとか、言い訳をするとか、頷いた後に頭の中に選択肢が溢れ出してきたけど、見たいものは仕方がなかった。

 

 

「…………とりあえず、教室入ったら?」

 

 

 ギターを弾くためのヤツを指に挟んだまま、こちらに向かって手招きしてくる。覗きをしていた手前、申し訳なさがものすごく背中に張り付いてるんだけど、それはそれとして彼の好意を無下にすることも憚られる。それに、もっと近くで見てみたい。

 一旦後ろを見渡す。うん、誰もいない。入るなら今のうち。

 勢いよく扉を開けて、体を室内にねじ込み、証拠隠滅。勢いよく閉める。この間、わずか二秒。よし、これなら絶対にバレない……あれ、なんか引いてる?

 

 

「すげーな。お前」

「わっ、私?」

「お前しかいないよ」

 

 

 目を細めながら、ケタケタ笑ってくる。なんで笑われているんだろう。バレないように入っただけなのに。

 

 扉越しじゃない、初めての対面。

 クラスにいたらモテるんだろうなぁという顔立ち。少し明るめな黒髪。くりくりとしたライトパープルの瞳が、どこか人懐っこさを感じさせる。座ってるうえに、大きなギターを抱えてるからわかりにくかったけど、私と体の大きさもそんなに変わらなさそう。そんなに私と学年も遠くないのかな。

 同級生だったら嬉しいけど、今までに彼を見た記憶はないし。お兄さんって感じもしないけど、私よりも年下という感じもしない。うーん、正直わかんないや。

 

 三秒、顔を見合わせて、急に納得したような声を上げる。ビクっと体が跳ね上がると、ごめんごめんと追撃が入った。

 

 

「おまえさ、確か泣き虫の」

「えっ、いつ……あ~!」

「けっこー前だけど、校庭で転んで泣いてたでしょ。そうだよね?」

 

 

 記憶を辿って、探って、声で照らし合わせる。泣き虫というワードでぴたりと当て嵌まった。

 

 横顔だけだと、思い出せなかった。正面から見ても、思い出せなかった。確かあの時は、涙をいっぱいに抱えて前もよく見えなかったから。

 だから、声を聴いて思い出したんだ。

 潤んだ視界の先から伸びる手。大丈夫と、心配をするような声色。大した怪我をしてないのを確認して、泣き虫だなぁとちょっと呆れ気味で。確かに、確かに覚えている。

 あの時、ありがとうって言えてたっけ。

 

 

「それで、いつから覗いてたの」

 

 

 眠ってた記憶を引っ張り出して懐かしんでいたはずが、現実に引き戻すみたいに首根っこを掴まれた。脳内を駆け回ってたはずの血液が、我先にと一気に逃げていく。

 そうだった。私は覗き。この子は覗かれていた側。どう考えても、この子が好感を持って話しかけにきているわけないじゃん!

 

 

「ごめんなさい!」

「違うって! 怒ってないよ。気になるだけ」

 

 

 悪いことをしたら、頭を下げてごめんなさい。昔からのパパとの約束。

 頭を上げてと少し早口な彼に答えて頭を上げる。

 ギターを握ったまま、椅子から落ちそうな角度で身を乗り出してこちらを覗き込んでいた。びびった~と大きく息をついて座りなおす。パパ、約束を守ったらいいことあったよ。

 

 

「先週……より、前から……かな」

 

 

 音楽の先生にここを教えて貰ったのは、まだ今月の事。あの時よりも、少し涼しくなった。

 具体的な答えが出ないことに、少し不満か。ちょっぴり眉間にしわを寄せ、う~んと唸り声をあげだす。やっぱり、怒られるかも……なんて身構えてると、あっけらかんとした声色でまぁいいやと続きが出てきた。

 

 

「じゃあさ。覗くくらいなら、これからは堂々と入ってこればいいよ」

「……良いの?」

「聴いてくれる人がいる方が、おれは好きだし」

 

 

 間髪入れずに、言葉を吐いた。

 

 

「なんか、カッコイイじゃん」

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 続いても、数か月の関係だと思っていた。

 殆ど接点がなかった男の子。しかも、話を聞けば一個下の年下。三年生だから、ギリギリ下級生。名前すら、まだ知りやしない。

 私と彼を繋ぎとめるのは、この関係だけ。

 

 

「お邪魔しまーす……」

「いらっしゃいませー」

 

 

 秋を越え、冬空に凍る。

 初めて、名前を知った。

 愛に北斗七星の斗で、愛斗くん。

 同じ部屋に入るようになって、彼は私の前で歌を歌わなくなった。自分から招き入れてくれたのに、歌を歌うのは恥ずかしいみたい。

 

 

「指先、冷たくないの?」

「冷たい。かじかんで、動かない」

「そうなんだ……」

 

 

 冷たい手を包むように両手を重ねる。

 寒空を耐えれば、お日様に照らされて、雪は溶けだす。

 部屋に入る前にドアの前で隠れていると、彼の歌が聴けることに気が付いた。一人になると、彼は上機嫌に歌を歌いだす。それは、ずっと変わらなかった。

 

 

「見てるだけで良いの?」

「え……いや……邪魔するのも、悪いなーって……」

「ふーん」

 

 

 春の鳴き声が聞こえる。愛斗くんも、私と同じ上級生だ。

 びっくりなことに、いつの間にか半年が経っていた。ダラダラというよりも、本当に気が付けば半年。

 

 普段の彼は、どちらかというと、普通の男の子。友達と楽しそうに校庭で遊ぶけど、特別騒がしい子ではない。私と普段話すときも、表情豊かな訳でもなかった。

 不思議なことに、ギターを握るだけでそれが豹変する。

 言葉遣いや性格が変わるわけじゃない。例えるなら、ギターを弾きだすと何かスイッチが入るみたいな感じ。

 陽気に歌いだしたり、しとやかに体を揺らしたり、足を弾ませたり、頭を振ったり、とにかく表情がせわしなく変わる。まるで、日替わりのルーレットを見ている感じ。

 覗き見しているときからずっと変わらず、そんな様子にも惹かれていた訳だけど、扉を介さない同じ空間で見ていると、一層豊かに感じた。

 様子がおかしくなる、と言われるのもわかるけど、私はそれが好きだった。だって、楽しそうだったから。一緒にいるだけで、面白かったから。

 

 放課後だけの関係では、収まらなくなってくる。休み時間になって、校庭で愛斗くんを見つけると、ついつい向かって走り出すようになった。三回に一回くらい転んじゃって、泣いちゃって。その度に呆れ半分、焦り半分で保健室までついてきてくれて。

 

 

「転ぶくらいなら、こっちに向かって走るなよ」

「えへへ……なんか、年下の友達って嬉しくて……」

「じゃあコケるのはやめてくれ……」

「次は大丈夫だから!」

 

 

 膝にくっついた大きな絆創膏と、少し腫れて赤くなっているであろう私の目元を交互に見て、彼はまた心配そうな顔をする。大丈夫と私が言うたびに、顔つきが暗くなっていく気がする。大丈夫って言ってるのに。

 

 

「大丈夫に信用価値が無さすぎる」

「なんでさー!」

「数えきれないほどコケられてるんだから当たり前だろうが! 怪我してんのはおめぇだ!」

「痛くないもん!」

 

 

 強い口調で怒鳴るのに、目は全く怒っていない。愛斗くんが怒る時はずっとこう。

 結んだだけの糸のような関係は、次第に肉付き始めている。距離が近づくだけ、関係も深くなる。

 

 

「来たよー!」

「ん」

「ねぇ、()()()()!」

 

 

 初めてそう読んだ時、彼の表情はころころと変わった。

 確認、疑問、疑問、もう一度、確認。

 

 

「何、それ」

「今ね、クラスで流行ってるんだ! あだ名で呼びあうの」

「それで、おれが()()()()と」

「うん。愛斗くんだから、マーくん!」

「…………なんか……まぁ……良いんじゃない」

 

 

 疑問、思考、確認、思考、思考。最後の表情は、諦めだった。ぐるぐるとルーレットみたいに回って、最後の結果が諦めって言うのは納得がいかない。

 納得はいかないが、彼の中ではそういうことになったらしい。どれだけ詰めても詰めても、結果は変わらなかった。好きにしなよ、で、はいおわり。だから意地になって、マーくんと呼び続けることにした。

 

 桜も散って、温かさも度を越して。

 隣にいるのが、当たり前になったのも、いつ頃からなのか覚えていない。

 

 

「おれ、彩の歌を聞いてみたい」

 

 

 いつもみたいに、私はいいよと断る。

 それでも、その日は引き下がらなくて。いつもと違って、まっすぐと私の目を見つめて離さない。

 どうしてと聞いてみても、気になるというだけ。マーくんの方が上手と言っても、彩の歌が聞いてみたいというだけ。

 

 私も、歌うのが嫌いなわけじゃない。ただ、お母さんや妹の前以外で歌う経験がないだけ。

 画面に流れる憧れのアイドルの真似をして、くるりと回り踊って歌うことはあれど、それはリビングと自分の部屋だけの話。

 要するに、恥ずかしい。

 

 彼から私に何かをしてほしいなんて言うのは珍しい。あっても、怪我するなら走るのやめろとかそれくらい。

 まだ、目を離してくれない。彼から私に何かを求めてくれる。恥ずかしさ一色だった私の心が、少しずつ求められる喜びに染められていた。

 

 

「…………噛んでも、笑わない?」

「納得いかなきゃ、もっかいやればいいよ」

 

 

 何言ってんだよって顔をされても。

 結構、勇気を出して言ったつもりなんだけどなぁ。

 

 

「じゃあ……今、流行ってるアイドルグループの曲、わかる?」

 

 

 ランドセルから自由帳を取り出して、破った紙に曲名をいくつか書く。それを受け取ると、黙って彼はギターと一緒に持って帰った。

 

 一週間。彼は音楽室に姿を現さなかった。

 だから家に行った。何か怒らせたのかもと思って、もしかして、好きじゃない曲だったのかもとか色々考えてしまって。

 慌てた様子で玄関から出てきた彼は、また困り眉を作って私を上げてくれた。落ち着くまでと部屋のベッドに座らせ、いつもみたいにギターと、歌も聞かせてくれた。私を帰した後、お母さんからはとっても怒られたらしい。次の日に音楽室に行ったら、暗くて古い歌ばっかり歌ってた。

 

 案の定、私の早とちり。折角私に歌わせるんだからと、家で沢山ギターの練習をしてくれていたみたい。人に言った手前、自分は完璧にしないとってずっと言ってた。

 実際、彼の演奏は完璧だったと思う。問題は、私がその演奏自体を完璧かどうか判断できるだけの知識がなかったこと。もう一つ、自分の歌に精一杯すぎて、彼の演奏に意識を1㎜も割いていなかったこと。

 

 

「緊張してないときの歌を聞きたい。伴奏をよく聞いて、やってみようよ」

 

 

 でも、彼は怒らなかった。自分は私の為に何日も練習に費やして、挙句迷惑もかけられ、最終的に私が全く上手く歌を歌えなくても。

 

 何度も繰り返す。回数を重ねるたびに体から力が抜けて、ギターの音が耳に入るようになった。

 メトロノームの使い方を初めて知った。なんだか、歌が上手になった気がする。

 一週間もすると、彼の前で歌うことが当たり前に変わって、緊張なんかしなくなっていた。

 伴奏とずれることも無く、カチリと全部が噛み合う。初めて噛まずに最後まで歌えた。

 

 

「来た!」

「やったーっ!」

 

 

 歌い終わった瞬間のあの鼓動。底の方から感動が湧きあがり、伴奏が終わって目が合う。考えるよりも先に体が動いて、彼の手を取りに走った。

 

 

「すげぇ! やっぱり! 彩は歌上手いよ!」

 

 

 ギターを置いて、手を取り二人で跳ねまわる。

 教室で二人きり。きっと奇妙な光景なんだろう。

 間違いなかったと叫びながら、満面の笑みを見せる。

 

 

「おれ、彩の歌いっちばん好きだわ!」

 

 

 その一言が、私に突き刺さった。

 君のその言葉と顔が、脳裏に焼き付く音が聞こえてくる。

 それはきっと、私の夢が芽生えた瞬間だったんだ。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 また一つ、また一つと思い出が増える。

 熱も増して、過ぎて夏休み。

 

 長期の休みに入ると、当然学校が閉まる。

 代わりに、彼の家に毎日のように遊びに行くようになった。遊びに行くってだけだと、ちょっと嫌そうな顔をするから、ギターを練習しに来たという理由をくっつけて。すぐに指が痛くなっちゃうから、長くは続かなかったけど……

 プールにも行った。ただでは当然動いてくれなさそうだったから、私の練習に付き合ってと引きずった。水着に着替えてプールに入った途端、表情が一変して鬼コーチになる。年下ということを忘れるくらい、色々と叩き込まれた。

 夏休みにも誘った。友達に会うと気まずいと嫌がる君の手を無理やり引っ張って、出店を回ったのも大事な思い出。

 どういう訳か、お泊りもした。一回だけだけど。家だと目が悪くなるからってダメと言われても、毛布の中に二人で隠れてゲームだってしちゃった。

 

 去年とは全く違うひと夏。去年よりも想い出がたくさんできた。

 けれど、結局は彼のギターを近くで聞くのが一番好きだった。

 私の前で歌も歌ってくれるようになった。

 

 

「彩が歌ってくれたんだから、おれもやるよ」

 

 

 自信なさげだけど、私の為に歌ってくれるようになった。

 私はというと……彼の家ではまた恥ずかしくなって、歌うことはあんまりなかったけど……

 夏が終わりに向かう頃、学校に行けば、また同じ日々。

 

 もう一度、秋が来る。私と彼の身長が、最近同じくらいになった気がする。

 

 もう一度、冬が来る。学校だと寒いからって、彼の家によく行くようになる。

 

 もう一度、春が来る。彼のギターを学校で聴くことは、ほぼほぼ無くなった。その代わり、毎日のように彼の家に行くようになった。

 

 学年が上がって、私もついに最上級生。クラスが変わる度に、新しくクラスメイトになった女の子から決まって聞かれることがある。

 

 

「五年になった浅尾と付き合ってるって本当?」

 

 

 放課後になると、音楽室で丸山と浅尾が二人きりでいるという噂は、噂を飛び越えた話になっていた。よくよく考えなくても、一年近く同じ場所で同じようなことをやっていたんだから、話が広がるのも当然だ。

 

 新しい子と話す機会ができるその度に、愛斗くんとは友達だよって私は返すけど、結局みんなは信じない。最初から聞かなければいいのに、なんて思うけど、みんな全く同じような行動をとるから、そういうものだと思い込むことにした。マーくんも、全く同じことを言ってたし、それで良かった。

 

 奇妙な関係が始まってから、一年と半分。ついに、と言っても良いのか。代り映えするような新しい思い出も増えなくなった。

 毎日のルーティンとして、学校が終われば彼の家に行く。

 部屋に入ると、決まってベッドに腰を下ろす。彼のギターを聞きながら宿題をしたり、その日あったことを話してみたり、歌を歌ったり、そのまま寝ちゃったり。

 何かと理由を付けて、怪しまれない頻度で部屋を出る。少し時間を置くと、油断して彼は気持ちよく歌い始める。それを、マーくんのお母さんの二人で覗くのが好きだった。

 私と彼にとっての、当たり障りのないような日常が一つ一つと積みあがっていくだけ。

 そんな毎日が、本当に大事だった。

 

 五月、六月、七月、八月。

 桜が散って日が昇り、いつの間にか陽炎が揺れるようになっても変わらない。

 強いて言うなら、無言の時間が増えた。出会った最初の頃と同じくらい。心の内や場所は、全く違うけど。

 こんな毎日がずっと続いてほしかったし、私が中学に上がっても続くものだと思ってた。

 

 紅葉狩りの季節が始まったとニュースで言っていた日、パパの口から初めて、「異動」という言葉が出た。

 自分の事じゃないみたいで、やけに冷静だった。単語の前に付いた、「多分」という言葉だけをわざと選んで鵜飲みにしたんだと思う。冷静じゃなかったのかな。ううん。冷静になんか、なれなかったんだよね。

 

 

「お邪魔しまーす」

 

 

 いつもみたいに、マーくんのお母さんに挨拶をして彼の部屋へ。ノックをして扉を開ける。彼は無言のまま、私を一瞬見て、またギターを弾きだした。

 私は、何も言わずにいつも通り過ごすことにした。

 学校で六時間の授業を終えて、彼の家に行き、アコースティックギターの音色に乗せて、もう聴けなくなるのかなって、筆を走らせて。

 

 音色が、止まる。

 

 

「え……? ……あれ、なんで……あははっ! ご、ごめんね急に……」

 

 

 顔を上げると、彼が無言のまま、タオルで私の目元を拭いに来ていた。流れた涙は、自覚するだけでボロボロと大粒になり、止まる様子がない。

 目元を拭っても、落ち着こうとしても、泣かないようにしても。

 泣いても、泣いても、泣いても、止まらなかった。

 

 暖かいギターの音色を聴いて、頭によぎってしまった。

 いつも通りになったこの日常が、もう二度と手に入らないものになるのじゃないかと。

 そう思うだけで、零れて止まらない。

 長くて短い、一年と半分の日々を失うことに恐怖したのは、これが二度目。三度目は、きっと。

 

 パパもママも、私が地元を離れたがらないのはわかっていたんだと思う。リビングで笑う私の顔を見て、悲しさが溢れ出そうになったパパの顔を、ずっと忘れられない。いつも家では笑顔でいてくれたから。

「異動」は決まったわけじゃない。もしかしたら、無くなるかもしれない。

 本心からの言葉じゃないのは、私でもわかった。私が悲しむ顔を見たくなかったんだね。でも、私もパパの悲しむ顔は見たくない。結局、みんなの事を考えて、布団の中で泣いちゃったな。

 

 窓の外には、散りかけの紅葉が舞っている。そろそろ、冬が近づく季節だ。

 校庭では、いつも通りサッカー部の声が交差する。

 廊下を歩いて、君の音が聞こえる方へ。

 随分と、それっぽくなった彼の歌声を遮るように、扉を叩く。

 

 

「ん」

「マーくん、今日はこっちなんだね」

「まぁ、気分」

 

 

 音楽室の、一番教卓に近い先頭の席。いつも通りの、特等席。

 ギターの音色は、少し硬かった。彼の顔も変わらない。ずーっと、一緒。いつも通りじゃない、そんな演奏。

 

 

「ねぇ」

 

 

 ギターの音色は止まらないまま。

 自然なようで不自然に。話を切り出したのは、彼からだった。

 目を合わせようと試みても、彼はギターの細い部分に目を向けたまま。少し待っても、次の言葉は出てこない。

 

 

「パパがね、異動なんだって。私、来年の四月から東京に行くの」

 

 

 だから、私から切り返した。笑って、おちゃらけるように、困ったな~……って。

 

 

「中学に上がれば、学校も変わるし。それが県外までってだけだよ」

 

 

 思っていたのと、正直違う。

 そっけない態度に、少しムッとくる。目は、まだ合わせないまま。

 

 

「寂しく、ないの」

 

 

 沈黙を、ノスタルジーな音色だけが埋める。

 

 

「寂しいけど……会えなくなるわけじゃないから」

 

 

 彼の視線が、少しずつ上を向く。外には、薄着で少し肌寒そうなカエデの木が、吹かれている。

 

 

「おれ、彩の歌が好きだからさ。聴いてると、勇気が出る」

 

 

 始めて、目が合う。

 

 

「彩の前だと、なんか、おれも上手く歌える気がする」

 

 

 マーくんらしくない、へたっぴな作り笑い。

 

 

「別れの挨拶じゃないけど。また彩の歌を聴かせてくれるなら、また聴けるなら、それでいいかな」

 

 

 あぁ、強がっている。きっと、私の前では見せたくないんだ。

 

 

「どうすれば、聴かせられるかな」

 

 

 バカだなぁ。なんでこんなこと言っちゃうかな。自分がちょっぴり、嫌いになりそう。

 

 

「私、不器用だし、何にもうまくできないし」

 

 

 ちょっぴりじゃない。もっと嫌いになりそう。

 

 

「自慢できること、ないからさ」

 

 

 笑い声も、なんだかうまく出ないや。

 手元で、右手と左手の指先が、くっついては離れる。

 それをただ、見つめるだけ。

 ギターの音色も、気が付けばゆっくりだ。

 音の隙間が広くなって、窓が揺れる音が少し響く。

 

 

「彩が凄いのは、俺が知ってる」

 

 

 でも、音色は止まらなかった。

 

 

「緊張しても、歌詞間違えても、噛んでも、最後まで諦めなかった」

 

 

 手元とは反比例して、早口に変わる。

 

 

「お前がそんなんだから、俺も歌う勇気が出た」

 

 

 必死な目つきが、私を捉えてる。

 

 

「俺がギターを弾きにいくよ」

 

 

 嘘つき、きっと、そんなことは思っていない。

 

 

「そうしたら、今までみたいに、俺の前で歌ってくれるじゃん」

 

 

 無理だってわかってるって、表情の奥までわかる。

 

 

「マーくんも、男の子なんだね。カッコつけで喋ることもあるんだ」

 

 

 動かなかった表情筋が、ころころと動き出す。驚きから、照れ、少し待って、決心したみたいに穏やか。

 

 

「彩が泣いてんの見るの、得意じゃないんだよ。心臓がキュッてする」

 

 

 ギターを弾く手が、止まりかける。

 

 

「笑っているお前が……」

 

 

 そう言うと、口を開けたまま観念したように外に目を逸らしてしまう。

 孤独感に凍えていた心が、暖かくなっていくのを感じる。

 

 続きの言葉が、彼の口から出ることはなかった。私も、それを聞くことはしなかった。聞かないとわからないことはたくさんあるけど、この続きは、聞かなくてもわかる気がしたから。

 来月からは、上着が離せないくらいに寒くなるらしい。身の凍える季節も、もうすぐそこだ。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 東京の秋は、あんまり地元と変わり映えしない。

 緑が少なくなるわけでもないし、暑かったと思えば、あっという間に寒くなる。

 

 今の環境に慣れるのに、そう時間はかからなかった。

 人と仲良くなるのが苦手なわけじゃない。小学校の友達が誰もいないって言うのは大きかったけど、夏休みを終える頃には、それなりにクラスでの関係性は出来上がっていた。

 それとは反比例するように、夏休みに入るまでに定期的に来ていた友達からの手紙は、夏休みに入るころにはもう来なくなっていた。

 寂しい気持ちも勿論あるけど、みんな後ろ向きに歩いているわけじゃない。むしろ、良いことだ。

 

 だんだんと難しくなる勉強に頭を抱え、放課後は友達と遊びに行くか、家で好きな動画やテレビを見る毎日。小学校の頃にはあまり感じなかった、暇という感情にも随分と慣れてしまった。

 

 三月の事は、今でも思い出せる。

 卒業式に参加するために、その日だけ帰ってきた。私も友達もみんなで大泣きしちゃって、卒業式の写真は全部大変なことになってしまっている。

 彼との会話は……あまり覚えていない。泣きじゃくる私を、とっくに追い抜いた背丈から頭を撫でて、それとなく慰めてくれる記憶。そのうち会えるって、なんて言っても、会う機会なんて実際無いし、私からあっちに戻る予定も、実のところはない。

 

 いつまでも引きずってたらダメだなぁ、なんて自分で言い聞かせてるけど、二年間染み付いた思い出というのは、案外落ちてはくれないもので。

 良かったことと言えば、歌が上手くなったかはわからないけど、自信をもって歌えるようになった気がする。カラオケに行くと、友達からの評判が良い。これも多分、染み付いたうちの一つ。

 

 のど飴を舐めながら家に帰ると、リビングでお母さんが妹となにやら盛り上がっていた。

 

 

「あら、おかえり。手洗ったらまたおいで。浅尾さんのお母さんから写真がいっぱい来てるの」

「お母さんから!?」

 

 

 手を洗わずに直行しそうになるのを食い止め、大急ぎで洗面台へ。タオルをぐしゃぐしゃにしながらを手を拭いてリビングに戻ると、机には十枚近くの写真が、扇上に並べられていた。

 

 

「この前、電話があったの。カメラの買い替えをしたら、沢山データが残ってたって。わざわざ写真にして送ってくれたのよ」

 

 

 嬉しそうに話すお母さんへの相槌も気持ち半分に、私の意識は手元の写真に向けられていた。

 写真の中には、あの時の私たちが残ったまま。

 

 プールへ行くと手を引く私と、心底乗り気じゃないマーくん。

 部屋でギターを弾く彼と、夏休みの宿題に追われる私。

 多分、泣き疲れて寝てしまった私を、困った顔をしてベッドに寝かせているマーくん。

 部屋で弾き語りを披露してくれるマーくんと、それを聴き入っている私。

 喧嘩をしたのか、むくれる私と、呆れた様子のマーくん。

 胡座をかいてギターを弾くマーくんの背中にもたれて、楽しそうな顔で歌ってる私。

 本当に、どの写真もあの時のまま。全部、全部、あの時のまま。

 

 

「おねーちゃん。また泣いてるの?」

「……ぇ。あ、あー! 本当! また泣いちゃったね! えへへ……」

 

 

 心配そうな顔で見上げる妹に笑いかけ、鼻を思いきりかむ。

 私は家でもどこでも関係なく、よく泣く。いつものことって片付けても良いのに、毎回毎回心配してくれる。優しい子で、お姉ちゃんはとっても嬉しいよ。

 

 

「これ、彩宛じゃない?」

「え? ……メモ紙?」

 

 

 渡されたメモ紙には、何度も消しゴムで消された跡の上に、短く二言。

 

 

 『元気か? 無理すんなよ』

 

 

「……あははっ……! ……もう、短いよ」

 

 

 色んな考えが頭を巡る。

 わざわざメモ紙を使ってるところとか、二言だけにしては消しゴムで消した跡が広範囲だとか、結局走り書きなところとか。あぁ、色々あったんだなぁって思うと、自然と笑みが零れてくる。

 

 

「おねーちゃん。泣いて笑って、また泣いてるー。変なの~」

「ねっ。お姉ちゃん、ちょっと変になっちゃった」

 

 

 メモ紙を見つめるだけで、色んなことがわかる気がする。くしゃくしゃにしてしまわないように、優しく手で包み込んで、胸に当ててみる。マーくんからの、私への気持ち。こんなことしてるってバレたら、引かれちゃうかな。わかんないもんね。きっと、大丈夫。

 

 うん、そうだね。お姉さんなんだもん。中学生になったんだよ。私も、先に進まなくちゃ。

 君から貰ったものを。私も、誰かに渡せるように。

 

 大急ぎで二階に駆け上がり、ゴミ箱の奥に捨てられた冊子を掴み取る。今度は、しっかりと掴んだ。転ばないように、もう一度リビングへ。

 急に行動を起こした私に驚いたママは、心配の顔色に変わる。割り込むように、私はくしゃくしゃになってしまった表紙を目線いっぱいに広げて見せた。

 

 

「ねぇ、お母さん。お願いがあるんだ」

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 車のドアを開けると、湿度高めの熱気が全身を包んでくる。到着したスタジオに逃げ込むように、ちゃんと転ばないように車を飛び出した。

 ジリジリと照らしてくる紫外線に手の甲を被せ、目元を守る。日焼け止め、塗ってきて正解だったな。

 

 

「プロデューサーさんの会ってほしい人って、いったい誰の事なんでしょうかね」

「うーん。新しいスタッフさんとかじゃない? 本当だったら、今日レコーディングのはずだったし」

 

 

 皆に会って欲しい人がいるからと、プロデューサーさんからの、突然の連絡。レコーディングの予定をリスケしたかと思えば、そのままスタジオに行くよと車に詰め込まれることに。

 早すぎる展開に、正直眩暈がしそうだけど、Pastel*Palettesの活動が始まってからはずっとこんな感じだ。少しずつ、この忙しなさにも慣れてきた……と、思う。

 

 揺れる車内は、ガールズトークの舞台にはもってこい。みんなが思い思いの説を立ち上げる。会わせたい人がいるから、なんて理由を出した時点で、大盛り上がりは間違いなかった。

 新しいスタッフだとか、メンバーだとか。メンバーだとしたら、ギタリストでツインギター? って日菜ちゃんも、面白そうに笑っていた。そのあとには、新しいボーカルかもよ? なんてびっくりさせられたり。

 

 冷房の利いた廊下では、車内よりもトーンが落ちる。だけど、話は収まらない。

 先頭を歩く千聖ちゃんと麻弥ちゃんの後ろで、日菜ちゃんとイヴちゃんがずっと楽しそう。私はというと、あんまり喋りすぎると怒られちゃいそうだから、ちゃんと静かにしています。前に、仕事現場でははしゃぎすぎたらダメって、千聖ちゃんに注意されたばっかりだったからね。

 

 

「失礼します」

 

 

 指定されたスタジオの扉を千聖ちゃんが開ける。防音性能付きの扉が開くと、中からはエレキギターの音が私たちを包み込むように飛び込んできた。

 引き寄せられるように中を覗いてみると、既に楽しげな様子のスタッフさんがこっちに気が付いた。左手で口元を指を立て、右手で来い来いと招いている。

 慌てて頭を下げて、もう一度よく見てみる。ギターを弾いている人は、この部屋にはいない。

 

 やっぱりギタリストだ! と目を輝かせている日菜ちゃんにぐいぐいと手を引かれ、五人でぞろぞろと部屋に。機材に囲まれた室内をなんとなくで見渡す。一か所、録音スペースの中が見えるように、ガラス窓が設置されていた。ガラス越しに、茶髪にツーブロックヘアーの男の子の横顔が見える。

 この子が、私たちに会わせたい人。この感じ、なんだか知ってる気がした。

 懐かしい記憶と風景が、私の何処かを掠めていく。

 

 

「おう、じゃあいくぞー」

 

 

 ぶっきらぼうな声をスタッフさんがマイクに乗せると、ガラス越しの彼が嬉しそうに笑って見せた。

 こっちの様子を気にするそぶりなんか全く見せない。口角を真上に吊り上げ、ゆらゆらと体を揺らして、ギターの感触を確かめる。

 

 

『────っしゃ』

 

 

 3カウントに合わせるように、スピーカー越しに小さく合図の声。ギターを振り上げ、スピーカーからは飛び掛かるように音色が溢れ出す。

 

 ガラス窓一枚越しの、君との距離。

 

 跳ねるメロディに、音を楽しむ君の姿を。

 

 音の鳴る方へ、私は手を伸ばした。


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