2012年10月7日。
泣いても笑っても、今日こそが年に一度の凱旋門賞。
雲の目立つ青い空に秋の西日が射す頃、ロンシャン競馬場に集まった人々の熱狂はピークに達していた。
世界最強クラスの十八頭がゲート前に集う中、日本の二強と呼ばれる葦毛の牡馬であるヒシケイジは自分でも驚くほど集中していた。
昨晩、雨がじっとりとしみ込み黒々と湿った大地と芝生は、去年のダービーを思い出させる不良馬場だった。
ヒシケイジが地面をのし、のしと踏みしめるたび――
水を含んだ黒土が、故郷の日高町の夏を思わせる重たい香りを漂わせている。
だがここは、日本ではない。
フランスの、競馬を志す者は誰もが夢に見るロンシャン競馬場であった。
(走り続けていたら、とんでもない場所に来てしまった――)
ヒシケイジはまるで漫画だなと思いながら、ブヒヒヒと下品な笑いを浮かべた。
目線を上げれば曇の目立つ青い空。
耳を澄ませれば、歓声には、確かに耳慣れない言葉が混じっている。
でも思い返してみれば、メイクデビュー福島、芙蓉ステークス、朝日杯フューチュリティステークス。
皐月賞、日本ダービー、宝塚記念、菊花賞、有馬記念、今年の天皇賞、宝塚記念、フォワ賞――
熱狂、興奮、怒号、期待――歓声は何処だって変わらず自分の背を押してくれている。
(変わらない、今日もやることは一緒だ)
前日しっかりと眠れたヒシケイジは、瞼を閉じて息を吸って吐く。
今の自分に気負う気持ちは一切ない。
はっきり言って、今日は物凄く調子がよかった。
頭絡を引かれながら一歩一歩芝生を踏みしめるたび、落ち着きながらもワクワクが勝り心臓が高鳴っていく。
そうだ、この気持ちだ。
冷静にワクワクして生きていけば、自分は自分でいられる――
競走馬に転生してからこの自由に動く競走馬の体で、頂点に立つために費やした毎日の積み重ねをすべて出せる。
そうすれば、今日こそは――アイツに、オルフェーヴルとの勝負に勝てる気がする。
俺はオルフェーヴルに勝たなければいけない。
何としても今のアイツには負けられない。
オルフェーヴルは漫画で例えるなら、終生のライバルだ。
全力で競い合ってきた“目標”だった。
オルフェーヴル、アイツは好きだ。
大切な栗東の仲間だ。走りで尊敬もできる。
何度も負けてきたから分かる。
アイツの土俵じゃ勝てない。
でも今は違う――アイツが本調子じゃないことを、俺は気づいている。
『オルフェーヴルさえ、いなければ』
調教の早山(はやま)先生も、世話してくれる土井(どい)さん――
自分を誰よりも信じてくれている“相棒”が悩む日々も今日までだ。
(そうだよ、相棒――頼んだぜ )
ヒシケイジは目を閉じて、背に乗る石破志雄を意識した。
自分の背に乗る重みを感じて、匂いで“相棒”の存在を意識する。
だが――白地に青線の勝負服、いつだって冷静な“相棒”である石破志雄。
その冷静で、クレバーはずの“相棒”が、握りしめる手綱に、明らかに力が籠っていた。
どうした? 石破志雄、緊張してるのか? お前らしくもない――
いつもあんなに頼りになる“相棒”が、こんなに心を乱すなんて初めてのことだった。
でも、しょうがないとも思う――この場にいる日本人は石破志雄ただ一人だ。
オルフェーヴルの上にも――いけすかないアイツが跨っている。
負けられないだろ、生添と一緒じゃないオルフェーヴルなんて……
ヒシケイジは、大きく息を吸い込みながら、八番のゲートに収まった。
鞍上の石破志雄は、まだ少し緊張しているようだった。
まったくしょうがないヤツだ。
他の馬はまだゲートに収まっていないことを見計らって――目を開き、耳を後ろに寝かせ睨み付けてやる。
俺の目を見ろ石破志雄。
典型的なディクタスアイ、三白眼のいかつい視線が鞍上の相棒に突き刺さる。
「なんだ。ケイジ、その顔――馬鹿にしやがって」
石破志雄は、自分の緊張に気づいたのか、子供っぽく気恥ずかしそうに笑った。
何時だって甘いマスクで飄々と、レースに向かう俺の相棒が冷静じゃなきゃ、勝てるレースにも勝てるわけがない。
そうだ、石破志雄。“相棒”は、そうでなくっちゃ面白くない――
石破志雄が、前掲の姿勢を取り、耳元に寄る。
それは、ヒシケイジを宥めるための“おまじない”の合図だった。
「ケイジ、悪いけど……やっぱ、オルフェーヴルには普通の競馬じゃ勝てない」
ヒシケイジは瞼を閉じて、相棒の言葉を聞く。
ああ、分かってる――嫌というほど、理解してる。
「だから、馬鹿をやる。俺の指示に従え。シャコウは絶対にするなよ」
(ああ、相棒――言われなくても、わかってる)
「夢をかなえるぞ。ヒシケイジ」
ヒシケイジは相棒にもわかるようにと笑った。
握られた手網は、いつの間にか――彼の戦う意思だけを伝えている。
そうだ、それでいいんだ――俺は、相棒とみんなの「夢」をのせて、この場所にいる。
ゲートイン、一瞬の静寂。
ヒシケイジは前を向くと、一瞬の静寂が周囲を包む。
今日、2012年10月7日、この日を境に日本競馬の歴史が一つ。
止められない流れの中で、塗り替えられようとしていた。
◆◇◆
2012年、ロンシャン競馬場。
王者の背を、豪駿と呼ばれた彼は追い続けた。
名雄ディクタスから受け継いだステイヤーの血。
葦毛のシルバーコレクター。
オルフェーヴルさえいなければ、その言葉を此処で塗り替える。
父の奇跡を受け継いだ、日本初の凱旋門賞馬。
フロック(まぐれ)か、奇跡か。
ヒシケイジさえ、いなければ。
勝利だけが、歴史を塗りかえる。
「世界に名を刻め」
『抜けた、抜けたッッッ、ヒシケイジィ~~~~~~~~、リードは三馬身と開いた!!』
◆◇◆
「そしてご覧のオルフェーヴル、ゲートの中で大人しく待っています……ヒシケイジ、どっしりと構えて風格があります』
それは、ゲートインによって生まれた、一種の静寂。
だれもが固唾を飲む中――
『さぁまもなくゲートインが終わります」
パァーンと、号砲が鳴り響き、ガコンとゲートが開く。
各馬が一斉に飛び出す中、ヒシケイジは純白の矢のようにコースへと飛び出した。
張りきったトモから伝わった推進力が、流れるように地面へと伝わる。
『日本のホースマンの夢を乗せて今飛び出しました! 大歓声がブローニュの森に吸い込まれていきます』
いい、今日のゲートは、昨日までのどのゲートよりも理想的なスタートができた。
隣を駆け抜ける馬を余所に、最低限の消耗で相棒の指示通りの位置を取る。
『ヒシケイジ、ぐんと伸びる。オルフェーヴルも良いスタートを決めています』
ヒシケイジと石破志雄は周囲の息遣いを感じながら、冷静に状況を把握していく。
ヒシケイジという馬は、生まれながらの優等生であった。
人としての記憶を持っているからこそ、慢心せず頭と体を全力でつかって競馬をしてきた努力の馬だ。
父であるヒシミラクルから受け継いだディクタスの血統。
徹底的な調教によって生み出された生物としての強靭さ。
人としての思考と、馬としての体――
その二本の柱がヒシケイジを、世界に通じる日本の二強へと押し上げている。
『一番外の赤い帽子にご注目ください、日本のオルフェーヴル、さぁまずは先行争いです』
そんな自分の相棒である石破志雄の騎乗は冷静で、かつ丁寧だ。
位置取りのストレスを抑え、狙いを澄ませる競馬は彼が磨きに磨いた技術。
そこに大胆な二の矢を加える競馬を、石破はヒシケイジと共に定石として積み上げてきた。
『内からマスターストローク、そしてミアンドルが出て行って、さらにはキャメロットも出て行きました』
先頭は誰だ、アーネストヘミングウェイか?
よく見えないが――今は自分のペースを維持だ。
普段通りオルフェーヴルは見えない、アイツのことだ。馬群の後方で脚を貯めているだろう。
どうやら、ソロモンは乗れているらしい――いいだろう、オルフェーヴル、俺は待ってやる。
そして、今日こそはお前に勝つ。
今、ヒシケイジの瞳には、この場にいる誰よりも強い闘志の炎がみなぎっていた。