今日で100話らしいです。
お付き合いいただきありがとうございます。
2013年10月6日。
ロンシャン競馬場、凱旋門賞のターフの先頭をヒシケイジが駆け抜けていく。
『ウチの方を回ってゴーイングサムウェア、さらに先行態勢になったペンライパビリオンです』
芝を踏みつけるたび、意識が研ぎ澄まされるような感覚の中で、一歩一歩坂を登って行く。
息を深く吸って、速筋に無理を掛けず、自分のペースを守る。
心は軽やかに、相棒である石破 志雄を信じて俺は力を貯めていく。
自分の得意分野は、嫌というほど分からされてきた。
トップスピードはどうやっても、エイシンフラッシュには届かない。
単純なスタミナなら、きっとゴールドシップやフェノーメノの方が上かもしれない。
加速するパワーという意味なら、オルフェーヴルに届いているはずがない。
だから俺は根性と頭を使ったレースをするしかない。
持ちうるすべてが超一流でなくても、最も一秒でも長く、最高のパフォーマンスを発揮するしかない。
『あと、ウチウチをついてはこのあたり、ピンクの帽子はフリントシャーがついています』
だから俺は今日も残り700mで全力を出せるように――
俺はペースをキープしながら、今日のレースも走っていく。
今日の凱旋門賞は、テンの取り合いをする馬が居なかった。
なら俺が、凱旋門賞のペースを作ってやる。
ロンシャンの芝と俺の脚は相性がいい。
重馬場ならば重馬場なほど、俺の脚は相対的に機能する。
『フリントシャー、さらにソトを回ってはアルカジームあたりか、あるいはオリバー・パールが駆るアンテロもつけています』
石破 志雄がヒシケイジの手綱を絞る。
どの馬よりも早く、最も前、最も内側を往く。
明らかに斜度が上がった坂をものともせずに往く。
誰が見ても分かる白き豪駿の独壇場であった。
『さあ、ヒシケイジは先頭最ウチ、オルフェーヴルは中団よりも少し後ろのソト目を回っています』
ヒシケイジと同じターフを走る競走馬とジョッキーは、ヒシケイジの脚が終盤まで残らないことを期待していた。
正しくは、そう期待するしかなかった。
ヒシケイジという競走馬は、例えるならすべての成績に「優」が付く馬だった。
たった一つヒシケイジに勝る点があったとしても、残りの全てが劣ることは変わらない。
『うちの方、同じような勝負服はピリカです』
そんな馬が前にいる。
悠々と、余裕そうに、レースとはこんなに簡単なのだと、背中が嘲笑っている。
レース映像は何度か見た。
大逃げをしていないということは、今日もフォルスストレートから抜け出す気だ。
(果たしてヒシケイジを止められるのか――)
『高低差10mの坂の上り、そして下るところで急カーブ右に曲がっていきます』
既に隊列は、ケイジが作った怒涛のペースの通り、長い坂道を上る中でぐっと縦に伸びていた。
「下り坂、テンは気にするな。脚は残せるか」
坂の上、ヒシケイジが辿り着いた時に相棒が口を開く。
分かったぜ――前に出る馬がいるようなら譲ってやってもいい。
だがそれは――他の馬が、俺の巡行ペースに追い付けたらの話だ!!
俺は別に手を抜いているつもりもない。
フローに入ったまま、脚を貯めることが出来る限界のペースで挑戦し続けている。
『ここが一つの難所です』
ヒシケイジは坂を駆け下る。
脚を使うというより重力に任せて落ちるように、加速する。
踊るように自らの体をバネのように弾ませる。
そうして、ぐんぐんと、体を前へ前へと送り出すようにストライドして大地を蹴る。
『非常にトリッキーと言われるロンシャン名物の、この上りから下り、さあここの下りが一番急です』
筋肉が呼応し――風が、俺を撫でていく。
景色がどんどんと後方に流れながら、前方にカーブが迫る。
未だ、ヒシケイジの視界には他の馬は一頭も映らない。
並み居る列強、世界屈指の馬ですら、今の豪駿と競り合うリスクに釣り合わない。
『カーブをしながら急カーブ……その急カーブ、急傾斜――』
(うおお、今年も大丈夫だ!! もう四度目だからな、相棒――!!)
ヒシケイジの肉体が、遠心力に歪みながらもコーナーでギリギリの円弧を描く。
競馬は我慢だった。今はもう、この苦しい状況を楽しみ続けている自分がいる。
『ここをまず何なく各馬とも、制しなければなりません』
柵までの距離、残り5cm。
内ラチのギリギリを踏み抜いて――遊ぶように駆け抜けよう。
相棒も慣れた姿勢で、俺を扶助しながら俺を勝たせるために頑張ってくれている。
どうせなら苦しいよりも、楽しい競馬がいい。
勝つために、楽しむ。
それが、俺が今日まで生きてきてたどり着いた一つの境地だった。
『先頭豪駿ヒシケイジ、二番手四番のジョシュアツリー、三番手に十二番のオコバンゴ』
焦りはない。余裕の走りのまま、先行する。
俺は今になって気づいた。
ああ、競馬は、走ることは、どうしてこんなに楽しいのだろうか――
辛いレース、苦しいレースは、たくさんあった。
どうしてもっと、この楽しさに浸らなかったのだろう。
「いいぞ、ケイジ!! 予定通りだ!!」
だが、俺に後悔している暇なんてない。
今この瞬間から、もっと俺は楽しみ続ければいい。
そうだ――相棒、ここまでは完全に予定通りだ。
もうレースは、佳境だ。
『ヒシケイジの石破 志雄が悠々。赤い帽子オルフェーヴルは後ろから五頭目から六頭目』
ヒシケイジは地面が爆発するような轟音と共に、三コーナーに差し掛かる。
馬群の伸び切った先頭――足の回転数はそのままに、ヒシケイジはゆっくりと期待を高めていく。
もう、スパートの準備はすべて整った。
700m、フォルスストレートの中間から速度を付ける。
そうして、最後の直線で――今日も俺は追い付くんだ。
今も、視界の先に見えているオレンジ色のぼやけた道の先に、今日も一頭馬が駆け抜けている。
『三四コーナー中間から、一見直線に見えますが、実はフォルスストレート』
坂は終わり、直線が広がる。
俺の脚は完全に残っている。
『つまりの偽りの直線と言われるところ。四コーナーカーブ、ここでまだ仕掛けてはならない』
理想の中の俺は、その瞬間、ぐんとトモに力を入れて――
『その常識をヒシケイジ、今日も覆すか!!』
ああ、理想の俺が、幸せそうに飛ぶように駆け抜ける。
楽しそうに、自由に、奔放に世界の全てが自分の物かのように信じて駆け抜けていく。
俺は今日も、あの走りに追いつけるだろうか。
俺の楽しさを、このターフは受け入れてくれるのか――
分からない、それでも――
俺が走らない理由にはならない。
そう考えて一歩、また一歩、コースの先頭を走る俺の脚が、躍る心のままに風を切る。
そうだ、今日も、俺はあの理想に打ち勝つために走ろう。
追い付いて、追い抜こう!!
高い高い、入道雲の浮かぶあの夢のようなターフの前を往く、最高の一歩先に追いつくために奔ろう!!
俺は、今この瞬間――自らの心に
さぁ、前に、前に歩を進めよう。
瞳は決意と共に、揺らめく炎が煌めくような覚悟を宿す。
ターフを踏みしめる脚から、
追いつけ――俺の前に飛ぶ
その理想の走りに、今日も追い付くように――俺は、今日も、飛ぼう!! 飛ぶように走ろう!!
(相棒――!!)
その時――
ピシャリと、音を立てて――石破 志雄の手綱がしなる。
五回しか使えない、相棒の奥の手が振るわれた直後――
ヒシケイジの脳裏に光を越え、まるで虹のような輝きが奔った。
「行けッ!! 行けッ!! ヒシケイジ!!」
『さぁ、ヒシケイジ、飛び出した!! ケイジ飛んだ!! ケイジ飛んだ!!!』
さぁ、集中しろ――ヒシケイジ、地面を蹴り、脚を出す。
極限まで意識が引き延ばされる中で、ヒシケイジは唯々只管に脚を前に出す。
ヒシケイジはトモの筋肉を、ひたすらに躍動させ、銀色の蹄鉄で芝と地面を踏みしめる。
リズムは相棒が作ってくれる、だから俺は、ただ理想の通りに躍動すればいい。
『今年も凱旋門賞、ヒシケイジが魅せるのか』
「いいぞ、そのまま――コーナーが來る!! 曲がるぞ!!」
相棒の声に俺は躊躇せず、俺は加速しながらコーナーに突進していく。
まるでカタパルトのようにかかる荷重を、相棒が内側に曲乗りするような姿勢で逃していく。
結果として俺の体は、スパートの速度をそのままに最終直線へと駆け抜けていく。
ああ、もうこれなら――
俺がするべきことは一つ、相棒を信じて、ただ、脚を全力で回していこう!!
ああ、いいぞ、相棒、前へ行こう――!!
前へ行け、前へ――前へ出ろ!!
前へ、前へ、前へ、前へ!!
前へ、前へ、前へ、前へ!!
あの理想の走りよりも――前に行くんだ。
観客席から、歓声が聞こえてくる。
常識を己の力で覆す豪駿ヒシケイジ、その馬のスペックを完全に引き出し得る騎手、石破 志雄。
時代の中で、一人と一頭、比翼連理は揃ってしまった。
その事実を、今、パリ・ロンシャンに集った人々は己の目で理解してしまった。
(まあああぁぁぁぁぁぁぇえええええええぇぇえええええええええええええーーーーーーーーっ!!)
そうして、多くの馬と騎手が、逃げるヒシケイジに絶望し――
観客たちが立ち上がり、豪駿の快走に拍手と歓声を送る中――
『さあオルフェーヴル、中団から少しずつ押し上げてくる!!』
たった一人と一頭だけは、己の内に秘めた熱と共にありありと目の前の事実を受け止めていた。
……
…………
「なぁ、オルフェーヴル。ボク、お前の考えてることが……分かるわ」
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。