ヒシケイジ、再起する。
2013年10月6日。
パリ・ロンシャンの凱旋門賞で俺は、負けた。
負けてしまった。
ヒシケイジは確かにあの日、凱旋門賞で二着を取るという快挙を達成しながらも、オルフェーヴルとの競争に敗北していた。
最終直線、100m地点で追い付かれての五馬身差で二着。
だが誰が見ても、ヒシケイジとその鞍上である石破 志雄に一片のミスを見つけることは出来なかった。
凱旋門賞に至る手続き、陣営の努力、当日の走行、騎乗――
そのすべてに至るまで、ヒシケイジは例年であれば確実に勝利するであろう条件を整えていた。
社会の評価は――ただ、ひたすらにオルフェーヴルが強かったという事実を結論とした。
あの場に居る、一頭のサラブレッド「ヒシケイジ」を除いては。
あの日、凱旋門賞で敗北したヒシケイジは石破 志雄と言葉を交わすこともなく厩舎へと戻った。
明るく声をかけてくれた土居さんの言葉はよく覚えていない。
俺は馬房の中で、寝藁に寝転んで――ただ、只管に眠りに付いた。
きっと全開で走った故の疲労だと、思っていた。
なんとなく、その日から意識が飛ぶことが増えた。
眠っているのか、起きているの変わらない――
気づけば俺は日本に戻ってきて、もしゃもしゃと飼い葉を食べていた。
アレだけ好きだったラジオを聞くこともなく――
俺は、ノーザンファーム信楽で体を休めながら、馬房の傍、自然の中で寝転がる生活を送っていた。
(こんなことをしていていいのか――)
秋の高い空を見上げても、答えは出ない。
本当はもっと気概を出して、自主的に練習した方がいいんじゃないのか。
これがマンガなら、敗北した主人公はまた負けないように修行するのが筋だ。
ならば、自分から負けにいった奴は、負けたあとどうするのが正解なのだろう。
俺は、凱旋門賞で負けた。
いや、正しくは――負けに行ったと言って過言ではない。
大阪杯を勝って、俺はこの世界に生まれた意味にもう一度向き合わなければならなくなった。
春古馬三冠を勝って、俺は自分が誰かが喜ぶために走る馬なんだと理解して、同じ考えを他の馬にも持ってほしくなった。
俺が俺であるうちに、俺は伝えたかった。
俺がこの世界に産まれた証拠を、誰かに残したかった。
でもそれは――勝つために走る、競争という世界で生かすには余りにも甘い考えだった。
少しでも頭があったら分かるはずだ――オルフェーヴル、ゴールドシップ、ジャスタウェイ――
今G1を走る優駿は、多くが俺より才能のある血を受け継いで走っている。
アイツらと一緒に走って、アイツらが何かを掴んでしまえば――
足りないところを頭と努力で補う俺が負けるのは当たり前だ。
だが現実は、そう甘くはない。
誰もが俺より強い馬になってくれるなら良かった。
全てのレースに負けても、俺の生きた意味が多くの馬に伝わるならそれで良かった。
誰にも俺の生まれた意味が伝わらなければ良かった。
たった一頭、俺が自分以外に世界を持てないとしても、俺が全てのレースに勝てるならそれで良かった。
現実は非常だ。
俺は俺が生きた意味を多くの人に伝えることなく、レースに負けた――負けたのだ。
(生きている意味なんて、果たして俺にあるのだろうか――)
幾ら自分に問いかけたとしても、自分の中でその答えが出ることはなかった。
時はただ過ぎていき――気づけば、十月の夕陽は沈み、秋の肌寒さに耐えられない俺は厩舎で横になっていた。
◆◇◆
そうして、俺は夢を見た。
高い高い入道雲がそびえる。
青い青いターフの上を俺は走っている。
幾度となくその光景を見た俺は、分かってしまった。
(ああ、これで、終わりにしていいんだ――)
このまま駆け抜けていれば、俺は全てを終わりにすることが出来る。
約束は果たされるという実感があった。
失敗したからと言って、不貞腐れる必要はない。
才能がなかったなら、それで終わりにすればいい。
次産まれる時は、また、ゲームをたくさん遊んで暮らそう。
食べたいものを食べて、辛くない体でぐっすりと寐ればいい。
また、アニメをみるのもいい。
大好きだった小説を読めばいい。
勉強して、成ることが出来なかった普通の大人として過ごせばいい。
それも――悪くない。そういう大人になるのも、悪くはない……
そうして――俺はどこまでも吸い込まれるような空の元で、ただ只管に思うがままに走った。
走って、走って、走った。
走っていく中で普段なら晴れやかになっていく気持ちがどんどんと――
俺の中で渦を巻いていた。
(何がいけなかった?)
あの時のオルフェーヴルは俺の本気とも違う何かを感じた。
ピッチとストライドの差であると片付けるには乱暴すぎる。
オルフェーヴルは俺達に欠ける何かを持っていた。
それは俺や石破 志雄の持つスキルとは、また別の――何かを持っていた。
きっと集中してどうこうする――感情的な問題なんだ。
オルフェーヴルは俺から、フローと走りの楽しさを学んでいた。
あの、全開で喜びを明らかにするような走りは――どこまでも高まっていくような走りは――
きっと、俺が去年の凱旋門賞で気づいた深いフローの上で、さらに楽しもうと楽しもうとする走りだ。
名前を付けるなら“
肉体のポテンシャルを、引きだすように集中して走るLV1。
肉体のポテンシャルを、全力で発揮する状況や動作に集中して100%を引き出すLV2。
肉体のポテンシャルを、全力以上に発揮する精神状態の上で、精神的負荷を排除しながら全力で発揮する状況や動作に集中するLV3。
つまり――俺は、手にしていた勇者の剣と鎧と盾を、装備して別々に使うだけの馬鹿だった。
(本当は、もっとフローに掛け合わせて使えるはずの技術があったんじゃないか!?)
出来るのか? 俺に出来るのか?
俺はあの走りが出来るのか?
そんなの出来るに決まってる――ああ、なんて俺はバカだったんだ。
それが分かっていれば、もっともっと、俺は速くなったかもしれなかった。
(なのに、今、俺はもう終わるのか――負けて、ふてくされて、相棒を、厩舎の皆を、オーナーたちを、弟や、多くの馬を――俺に夢を遺してくれた人たちに何も残さずに行くのか――!!)
そう思った時、俺はその場に脚を止めていた。
風が俺の鬣と背中を撫でていく。
気づけば、それは巨大な馬の頭。馬頭観音の鼻から出た吐息だということに気づいた。
「ヒシケイジ……聞きましょう。あなたは、自らの生きた意味を見出すことができましたか?」
「俺は自分の生きた意味を見つけました――でも、それを果たしきれていません。まだ、生きる理由が残っています」
俺は自分を救ってくれた恩ある存在に向き直り――ただ、静かに我が儘を述べていた。
「よろしい――あなたならそういうと思っていましたよ」
馬頭観音の優しい言葉に、俺は瞳を閉じて思いを巡らす。
俺はまだ、本当に戦うべきレースが残っている。
負けたままでは終われない。
「いいでしょう。果たし切りましょう。ヒシケイジ――忘れないでください。生き物に生きる意味なんて、本来ありません。それを自らの手で――産み出すことに意味が――ありません。ですが、あなたは――生きています、誰よりも生きているんですよ――ヒシケイジ!!」
◆◇◆
ヒシケイジは翌日、目を覚ました。
秋晴れの空、十月十七日。
体の疲れは取れていた。
だから俺はただ喰った。
貪るように飼い葉を喰って、喰って喰った。
「ギョロ――大丈夫なんだな」
ああ、土井さん――大丈夫だ。
俺はもう、迷わない。
そうして、俺が飼い葉を喰って喰って死ぬほど喰ったあと――
厩舎に、久方ぶりに石破 志雄が訪ねてきた。
「ケイジ、走るぞ」
「ブヒ!!」
俺は、理由も聞かず――ただ、一頭の競走馬として彼と向き合った。
引け目も、負い目もある。
だが、ヒシケイジにとって、そんなことはもうどうでもよかった。
(勝ちたい――今はただ、勝つために走りたい――!! それが俺の生きる理由だ!!)
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明日も1800投稿予定です。