ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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誤脱報告、感想ありがとうございます。

必要な部分までネームを組んで消化していたら、超長くなりました。
カケがあったので修正しました(1850)


2013冬、決戦!!有馬記念(中:2/4)

 十二月十二日――

 

 ヒシケイジは肌寒い栗東トレーニングセンターの坂路コースへの道を、土井さんに曳かれて機嫌よく歩いていた。

 

 その日、俺のモチベーションは語るまでもなく最高潮となっていた。

 俺がオルフェーヴルが立つ楽しみながら没入するフロー“本気LV3”に突入することができたのは、つい先週の事だ。

 

 だがそれは、今俺自身が慢心していいということには決してならない。

 むしろ、危機感を持って調教に臨まなければ――と、新たに決意を固めなければ、ならない切迫した状況であった。

 

 正直前回のオルフェーヴルとのたたき合いにおいて、俺が本気LV3に侵入することができたのは、歯車がかみ合ったおかげの偶然の産物もいいところであった。

 

 あの日、十二月五日に突入した“本気LV3”は、全力でオルフェーヴルと己の理想に挑戦したからこそ、最後の一ハロンにたどり着いた集中状態である。

 

 つまり、今実戦で使ったとしても、発動が最後の一ハロンでは意味がない。

 それでは、最終直線の間“本気LV3”を出し続けられるオルフェーヴルに追いつかれるのがオチである。

 

 なんだかんだ相棒や、早山のおやっさん、生添騎手からは称賛された走りだったが、ここで俺自身が満足していては本末転倒だ。

 

 今日は平日――木曜日、追い切り調教の日である。

 有馬記念まで残り少ない追い切りの機会を無駄にするわけにはいかない。

 

 そんな、強い決意を胸に、俺が栗東トレーニングセンターの坂路コースにたどり着いたとき――そこには既に生添騎手とオルフェーヴル、そしてトーセンジョーダン、生枝調教師といった生枝厩舎の面々が揃っていた。

 

 それだけ見れば、ここ最近続いていた追い切り調教と大差ない光景であるが――遠目から見ても分かるほど、今日の生枝厩舎の面々は気合が入っていた。

 その日のオルフェーヴルとトーセンジョーダンは二頭とも、目に見えてわかるほどピカピカに磨き上げられ、生添騎手とトーセンジョーダンにのる調教助手は、騎乗用のジャケットではなく、黒字に赤が映えるサンデーレーシングの勝負服を身にまとっている。

 

「お、みいや。あれが豪駿ヒシケイジや……知っとるやろ、こいつが誰がも認める君の好きなオルフェーヴルのライバル――正真正銘の日本二強やで」

 

「すごい……ケイジ、本物だ……」

 

 そんな気合の入った生添 賢治が膝に土を付くことも厭わずにしゃがみ込み――大人たちの中心に居る、まだ小学校にも行っていないような子供に目線を合わせて、俺を紹介している。

 

 子供用のジャンパーを着こみ、鼻にチューブを通した子供が両親に体を支えられながら、“あの日の俺と同じような”希望に満ちた視線を俺とオルフェーヴルに向けていた。

 

「早山先生、騎手クラブから話は届いていましたが――快く受けて頂いてありがとうございます。本来ならもっと早く来れるはずだったのですが、容体が急変する中で、何としても一目見たいと言伝を頂いておりました」

「なぁに、構わないさ……大人の夢、裏切るのが俺たちの仕事だ。子供の夢くらい叶えてやらな仏さまにバチが当たるってもんよ。こういうこたぁ、慣れてる。さ、おいちゃんの馬、あとでもう一頭来るからな……」

 

 生枝調教師が普段のカリスマっぷりを潜めて、腰低く早山のおやっさんに頭を下げる。

 おやっさん自身は子供をまるで自分の孫のように甘やかし俺に近づけるように抱きかかえた。

 

「ほら、ケイジは噛まん……いいこやから、撫でておやり――」

 

 俺はまだ小さい子供の手が鼻を撫でるのを受け入れながら、優しく目を潜める。

 

「スゴイ……ほんとに真っ白だ……」

 

 近づいてみれば嫌でもわかる。

 目の前にいるこの子はもう長くはない。

 

 それでも――

 オルフェーヴルや俺に逢うためにこの子は必死に生きてきたんだ。

 

 あの日の俺のように――

 そうして、俺は目の前の小さな命に思いをはせる。

 

 その気持ちが、オルフェーヴルにも通じていたのか。

 あるいは、オルフェーヴルにも思うことがあったからなのだろうか。

 

 普段は俺以外の馬が触ろうとしても嫌がるオルフェーヴルは、生添騎手に抱きかかえられた子供が体に触れようとしても、一切暴れることなく好きなようにさせていた。

 

「ハハハ、皆そろい踏みなようですね」

「すみません、お土産を探して、テンケイ曳いてくるのにてこずりました」

 

 少年とオルフェーヴルが触れ合う中、少し遅れてヒシテンケイと門田調教師、俺の相棒である石破 志雄は少し遅れてこの場に現れた。

 

 二人が身にまとうのは、共に白地に青の勝負服。

 まるでこれからGⅠレースが始まるかのような、覇気をその身にまとわせながらも、相棒は脇に小さな子供用の勝負服を抱えている。

 

「これ、お土産にどうぞ」

「コラッ、石破クン。この子はボクとオルフェのファンなんやから、お手つきはやめてね!!」

 

 今まさに、少年の前で――

 普段テレビで見て、憧れていた二人のスターの明け透けなやりとりが繰り広げられていた。

 

 普段通りクールな相棒が、頭を下げる両親にお土産を手渡し――

 いつも通りのフランクさで、生添騎手が突っ込みを入れる。

 

 嘘じゃない。

 本物に、二人はライバルで、レース以外では先輩と後輩で友達なんだ!!

 

「すごい!! 競馬王子――本物だ!! 生添騎手、ありがとう!!」

 

 石破 志雄、生添 賢治。

 今や両者ともに、今を煌めく売れっ子ジョッキーだ。

 普段テレビごしに見つめるしかできない、憧れのスターの競演に少年はたまらず歓声と、心からの感謝を口にした。

 

「まだや、ボク――まだ礼を言うのは早ぁい!! ケイジィ!!、テンジ~ン!! 今日はマジバトルや!! この子のためや、マジで追ったるからな!!」

 

「いいですよ、その挑戦。受けて立ちます」

「ハハハ!! うちのテンケイのためにそこまでしてくれるとは、感無量ですね!!」

 

 そうして、俺たちは――オルフェーヴルに夢を託した小さな命に恥じないような、本気の追い切り調教を開始した。

 

 その日、その場に集まった四頭は、誰もが認める一流の四頭であった。

 

 春古馬三冠、変幻自在の郷駿ヒシケイジ。

 七代目三冠馬、凱旋門賞馬オルフェーヴル。

 秋の天皇賞レコード、復活の2000m最速馬トーセンジョーダン。

 菊花賞一着、奇跡の再演ヒシテンケイ。

 

 俺は栗東トレーニングセンターで考えうる有数の環境で追い切りの先頭を担う。

 背後の馬も、応援の声も関係なく――俺は馬群の先頭を走って理想を追う。

 

 今日のターフで、先週より、昨日より俺は理想の走りに近づいていく。

 ワンテンポ、一完歩――俺より前を往く、その幻影を俺は追っていく。

 

 俺は俺のために走る。

 俺は相棒と勝つために走る。

 

 残り三ハロン、俺の走りは理想の自分に追いつく。

 俺が勝つために、なしうるすべてを表現すれば、アップデートされた理想に追いつくことは難しくはない。

 

 楽しめ、この状況を楽しめ――

 本気で、楽しんで――坂路を駆けあがる俺のトモが、確かに地面にエネルギーを伝えながら爆発するが如き加速を生み出す。

 

 駆けあがれ、俺の体――

 既に体の辛さはどこかへと消えて、先週と同じ領域に俺が立った瞬間――

 

「頑張れ、頑張れ――オルフェーヴル!!」

 

 残り二ハロン。

 

 俺の背後から、圧倒的な加速で二頭の馬が迫ってきていた。

 

 距離適性最適――

 コンディション最良であれば正真正銘中距離最速、トーセンジョーダン!!

 

 そして、今日という今日の日に――

 全力で、楽しんで、全力で、本気を出して駆け抜けるオルフェーヴル!!

 

 先週の追い切り調教は、まるでお遊びの“かけっこ”だったというように――

 今日のオルフェーヴルは本気で、俺を追うために本気で脚を使っていた。

 

 感じる。

 騎手の本気は――馬に伝わる。

 

「いいぞ、あの子に見せたれや――これが本気のオルフェーヴル!!」

「ケイジいい機会だ!! お前が掴んだ境地を見せてやれ!!」

 

 残り一ハロン。

 

 俺は必死に、全力を出して逃げていく。

 迫る二頭、最強×最強のプレッシャーを跳ね返しながら俺はひたすらに、この状況を楽しんでいた。

 

 馬が本気で走るのに、本番のプレッシャーなんていらない。

 最高速度で走るための、良馬場なんて必要ない。

 

 沢山の歓声は、あってもいい――

 けれど、本気で走るためにはたった一人の応援があればいい。

 

「みさらせ、ゴラァ!! ケイジに負けるオルフェーヴルやあらへんで!!」

 

 やはり、俺の予測は正しかった。

 結論として、俺とオルフェーヴルが決着をつけるのに200mは長すぎた。

 

「クソッ、もう一回、もう一回だ!!」

 

 俺は残り100mラインでオルフェーヴルに抜かれた。

 頑張って追いかけてみたものの、正直追いつくイメージはない。

 

 あと、50mくらいでトーセンジョーダンにも抜かれた。

 正直俺の脚はまだマイルでも行けると思っていたが、本気を出した栗東のボスは最強すぎる。

 

 尊敬に値するが――この馬、有馬記念に来るらしい。

 今からそれを考えると、胃が痛い。

 

 わかっていた。

 いや、わかってはいたが――

 

 現実として、これは、俺の才能の限界であった。

 よーいドンの勝負では、俺はスピードでは敵わない。

 

「ハハハ!! 石破くん、逸る気持ちは抑えなければいけない!! 今日の追い切り調教にはもう二頭、来ることになっているんだ」

 

『ククク、ケイちゃん先輩よォ……ゴルシ様は悲しいぜ、まさかケイちゃん先輩が俺以外に膝をつくようなマネをしているとはな!!』

 

 だが、今は俺には残酷な現実に逃避する暇はなかった。

 門田調教師が石破 志雄を制した直後――

 

 坂路コースの入り口に立つ俺の耳に、聴きなれた洗い鼻息が聞こえてきた。

 

「わあああああぁぁぁーーーーーーっ、ゴールドシップ、ジャスタウェイ!!」

 

 俺が新世代のニューヒーローの姿を見て、声を上げてはしゃぐ子供の声につられて、視線を上げれば、そこにいたのは菅生厩舎の面々であった。

 

 主戦ではないが慣れた調教助手を鞍上に乗せた二頭は、レース前を思わせる満艦飾の如き仕上がりで俺たちの前に立っていた。

 

「おや……菅生調教師、ごきげんよう」

「おいおい、またうるさい大人が増えやがったぜ」

「皆の衆、栗東で人情を語るなら……この菅生、忘れてもらったら困ります!! ヒシケイジ道場の先約は、ワイら菅生厩舎でありました。二走目はワイらも加えてもらってよろしいですか?」

 

 こうなれば、やることは一つ。

 既にこの場にいる全員が、覚悟を胸に秘めていた。

 

『おいおいおいおい、ケイちゃん先輩――普段の余裕はどうしたよ!! スカした顔で前を行くお前が夢見せなきゃ、どうするんだ? 俺様にいわせりゃ、オルフェーヴルには愛嬌が足りねぇ!! トーセンジョーダンにはプレッシャーが足りねぇ!! ヒシテンケイにはカリスマが足りねぇ!! ジャスタウェイ、お前は影が薄い!! 全てを兼ね備えるゴルシ様だが、今回限りで譲ってやるぜ』

 

 競走馬にまたがる騎手たちが意識を集中し――

 馬たちは、言葉なく淡々と予定された位置に付いて扶助を待つ。

 

「勿論、断る理由はありません。未来の最強馬であれば役者に不足はありません」

「ごめんな。おいちゃんたちで盛り上がって――」

 

 悪いことは言わない。

 

 目の前の少年一人、夢を見せられない三下は――

 次走、秋のグランプリの出走は、辞退した方が身のためだ。

 

「ううん、信じてる!! オルフェーヴルなら絶対かつもん!!」

 

 言ったな――

 

「いいぞ少年。よく言ったァ――オルフェーヴル、二本目や!!」

『ケイちゃん先輩、漢を見せな!! 普段通り全力で走り続けろよ!!』

 

 言ったな――

 

 ヒシテンケイがのんきに鼻息を荒く吐き、モチベーションたっぷりに門田さんを見つめる。

 

 ジャスタウェイが仕方ないなといった具合にこちらを見つめ――

 トーセンジョーダンが、いつになくやる気で足元を確かめる。

 

 ゴールドシップが今か今かと敵意を俺たちに向ける中――

 オルフェーヴルは、その光景を見ていつになく上機嫌で笑う。

 

 俺は――ヒシケイジは、それを見ながら最前列を駆けだした。

 

「行くぞ!! オルフェーヴルから逃げ切るんだ、ヒシケイジ!!」

 

 残り六ハロン――

 

――パシィ!!

 

 全開走行が始まって、相棒のステッキが入った直後――

 俺は意識だけが飛び出したかのように、フローへと突入していた。

 

 理想の自分が見える。

 さっきの走りよりも、もう少し近づいた理想の自分を俺は追う。

 

「スゴイ、ケイジ……!!」

 

 最高だ。

 

 俺の体はどんどんと、ボルテージが上がる様に躍動していく。

 

 残り五ハロン――

 

『ケイちゃん先輩、お前に勝つためにこの秋、俺は2か月の休養を受け入れたその理由は一つだァ……!! ケイちゃん先輩に勝つため、来年世界最強になるために、俺はァ、更なるレベルアップを果たすために休んだのだ!!』

 

 後方から、一頭の馬が激走してくる。

 

「ゴールドシップ、速い速いぃーーーーー!!」

 

 言わなくても分かる。

 黄金の浮沈艦、八代目三冠馬ゴールドシップ。

 

 俺の開花と隆盛に迫ったお前は俺がやりたいことを分かってくれている。

 

 残り四ハロン――迫る残り700m――!!

 ゴールドシップが俺の影を追う中、準備は整った。

 

「行くぞ、ケイジ!!」

 

――パシィ!!

 

 残り三ハロン半、俺は700mで真の全力を発揮していた。

 

 走馬灯のように迫りくるのは、今までの辛かった思い出。

 ひたすらに楽しかった、走り続ける日々――

 

 生まれてから今まで感じた希望を伝えるように――

 俺は、立ちはだかる現実の壁を破壊するように――

 

 理想の自分を追い越して、その領域に到達していた。

 

 引き延ばされた思考、得も言われぬ高揚感。

 辛さは全て後方に飛び去っていき、周囲の景色だけが前に流れていく。

 

 脳内にあふれ出すエンドルフィンに従い、肉体のギアが一段、一段とかみ合う。

 上に、上に――ひたすらに己の体と意識をより高い場所へと押し上げる。

 

 俺の体が思うが儘に動く。

 本気の集中状態よりも、ずっと――ずっと自由に動く。

 

「スゴイ!! すごいよ――皆速い!!」

 

 残り三ハロン!!

 

 わかるぜ、他の馬がスパートをかける。

 

 ワンテンポ遅れて、調教助手を無視して狂ったように迫るゴールドシップ。

 スタミナとの折り合いをつけて迫るジャスタウェイとトーセンジョーダン。

 

 ヒシテンケイのドッカンターボに火がついて――

 

「いくで、オルフェーヴル!!」

 

 脚を残したオルフェーヴルが、再び全力で加速する。

 

 残り二ハロン――

 

 すべての意識が遠くに消えていく。

 これがラストランになったとしてもかまわない。

 

 俺は勝ちたい!!

 今日、この日を勝ちたい!!

 

 その意志が、俺の脚を震わせて直、加速させる。

 走れ――奔れ――俺の全力はこれからだ――!! 

 

――パァン!! パァン!! パァン!! パァン!!

 

 残り一ハロン――!!

 

 オルフェーヴルの影はまだ、俺に追いついてはいない。

 先んじて加速したゴールドシップと、俺はたたき合いながら残り100m現れる刺客に負けない様に驀進していく。

 

 来る――トーセンジョーダン、ジャスタウェイ――

 二頭の優駿が先ほどよりも明らかに覇気ある“全力”で迫ってくる。

 

 逃げろ、逃げろ逃げろ!!

 今の俺に出来る事は、理想に任せて坂道を飛ぶことであった。

 

 頑張れ!! 生きる喜びを表現するように、俺の体よ飛ぶんだ!!

 

 

――パァン!! パァン!! パァン!! パァン!!

 

 残り100m、確かに俺は感じている。

 背後に迫る、圧倒的な圧力――!!

 

 徐々に迫る他の馬だけではなく、奴が、オルフェーヴルが来ている!!

 全開走行700m、俺は確かにすべてを出し切って走っている。

 

 しっかりと三ハロン半――本来出し切れる力を全て発揮して

 前に、前に前に、前に前に前に――!!

 

 …………

 

 ……

 

「すごーーーーーーーーーーーい!!」

 

 そうして、本気を出し続けたままゴールした俺たちを迎えた少年は此処に来た時よりも、ずっと精気にあふれる表情に戻ってきた。

 勝った、負けたは――分からない。

 

 だが、少なくとも、俺たちに走った意味はあったらしい。

 

「っしゃおらァ!! 危なかったけどクビ差だ、コラァ!!」

「クソッ……ケイジ……」

 

「オルフェーヴルも、ヒシケイジも、トーセンジョーダンも、ゴールドシップも、ジャスタウェイも、ヒシテンケイも、皆、皆すごかった!!」

 

 だが、目的はまだ――まだ果たせていない。

 俺の走りは、まだオルフェーヴルに届き切っていなかった。

 

『やべっ……今年走ったどのレースよりも、この六ハロンがつらかったわ……ケイちゃん先輩負けたんか……よく見えなかったけど、俺たちは追いつけなかった……クソッあと二週間、コソ練しなきゃかよ……』

 

 だが、まだ時間はある。

 

 そうだ当日まで二週間もある。

 あと二週間もある。

 

 これが全力? そうだ、今の全力だ。

 今の全力なら――絶対に改善できる。

 

「今日だけは負けられんと思ってたが――約束や、キミとボクと約束や、このすげえ走りを次の有馬記念でも、必ず見せてやるからな――!!」

「俺も負けられない。ヒシケイジの走り、もっと鋭くして」

 

 勝どきを上げる生添騎手とオルフェーヴルに俺はその日、復讐を誓う。

 

 これがマンガじゃない。

 だからこそ、俺は絶対にオルフェーヴルに勝つと、心に誓った。

 

 アイディアはなんとなく――閃いていた。

 どうやら相棒も、考えていることは同じようだった。

 

◆◇◆

 

 そうして、十二月十九日。

 ヒシ陣営である早山厩舎、門田厩舎の最終追い切りは、普段のように他の厩舎の馬を入れず、ヒシケイジとヒシテンケイの二頭のみで行うこととなった。

 俺の鞍上には今、石破 志雄が、ヒシテンケイの鞍上には宝塚記念からの主戦騎手となった、ワンダー龍神が座っている。

 

 この日、ぱらぱらと雪がちらつく曇り空の栗東トレーニングセンターのウッドチップコースには、早山のおやっさんと門田調教師のほかに、ヒシコンツェルンから綾部オーナー、雅秀社長が姿を見せていた。

 

 そして二頭と二人を見守る綾部 雅一郎オーナーが、杖を突いたまま祈る様な姿勢で俺たちを見つめている。

 彼が座る車椅子を押すのは、綾部 雅秀社長――彼が神妙な面持ちをしている理由は言うまでもない。

 

「私は、本当はケイジを有馬記念で走らせるのは、反対だったんだよ」

 

 綾部オーナーは、俺が見ても分かるほどその体から精気を失っていた。

 先週、俺たちが走りを見せたあの子供よりもさらに、深い深い死の気配が七十を超えるオーナーの老体に忍び寄っている。

 

「あの凱旋門賞で負けて、ケイジが意気消沈をしていると聞いて――私は後悔した。ケイジは本当は走るのが好きなのか、私の中で分からなくなってしまった」

 

 曰く、十月凱旋門賞で俺が負けてからこの調子だったらしい。

 ヒシテンケイが菊花賞で勝ったと聞かされるまではもっと酷かったという――

 

「だって――ケイジに走れって言ったのは、私なんだ。私たちが期待をするから、ケイジは今まで走ってくれていた」

 

 そんな彼が、今日――白い息を吐きながらこの場に立っている理由は一つだ。

 

「ケイジは無理をしていたのでは、そう思うと私はケイジがラストランなど走らなくても、生きているだけで幸せだと――そう思っていたよ」 

 

 俺と相棒が社長に約束した、有馬記念に勝つための走りは完全に完成していた。

 

「けれど、それは違うんだね。ヒシケイジ――お前は今、走る意味と走る理由その両方を理解した顔をしている。やれるんだね」

 

 その言葉を聞いた、オーナーは少しずつ表情に不敵な笑みを浮かべていく。

 骨と皮だけになった体を、爛々と輝く意志だけが満ちていくように――彼は、俺たちに夢を託していた。

 

「はい、共に走ることでそれはテンケイにも伝わると思います。リュージ騎手、ご協力お願いします」

「馬が没入する段階的なフロー……確かにテンケイがその領域に入っている実感はありますがね――仕組みも聞いて分かったつもりですが……出来るかどうかは、博打ですよ」

 

 二か月、俺たちはこの日のために挑戦を続けて来た。

 他の誰が何と言おうと、今、俺たちは俺たちの中で走る理由を貫徹させていた。

 

(そのうえで、テンケイ。お前が此処に至れるかは――運になってしまった)

 

「石破騎手。それだけの啖呵を切ったからには――見せてくれると信じている」

「ハハハ、雅秀社長、ご安心ください。彼は此処二週間、僕がつきっきりで特訓しましたからね」

「ま、石破志雄は嘘はつきません。やってくれるか?」

 

 雅秀社長が、しっかりと場を締めたところで門田調教師が相棒を持ち上げ早山のおやっさんがGOサインを出す。

 

 準備はすべて整ったように見えた。

 

「その前に――」

 

 だが、来るべき瞬間を迎えた俺たちには、まだやるべきことが一つ残っていた。

 

「なにかね、石破騎手――」

「公式的に提出する最終追い切りのタイムとして一周目、軽く流すことを許可してください」

 

 本来であれば、決して多くの意図を含まない提案で会った。

 だが、この瞬間――この場にいたヒシケイジを良く知る人間は皆が石破 志雄が何をしたいかを直感的に理解した。

 

「いいだろう、石破騎手、君の提案を許可する」

「いいね――いいね、いいねッ!! 面白くなってきた――可能なんだね? 石破くんがそういうからには!! 出来るんだね!!」

「わかった、一周目のタイムを取る。お前がそう判断したなら、二周目でやれ……」

「すみません、リュージです。良く分からないんですがね、これ、一周目は馬なりで行くってことでいいですかね?」

 

 社長の眼鏡が輝き、オーナーが一層わきわきと、瞳を輝かせる。

 その光景を見ながら早山のおやっさんは、溜息をつきながら時計を取り出し、テンケイの主戦のリュージ騎手が一人だけはてなマークを頭上に浮かべていた。

 

「はい、身内なのでバラしますが……このネタ、タイムに残すと色々バレます。なので一発、記録が残らない様に見せる必要があるんです」

「なるほどね、イイですよ。運が良ければテンケイもそのネタ、使えるようになるんでしょう? こいつ、菊花賞の頃とはいい意味で別の馬になってて楽しいです。陣営の判断を、俺は疑いませんよ」

 

 相棒とリュージが拳を合わせる。

 騎手同士、折り合いがついたところで、俺と相棒の現役最後の最終追い切りが淡々と始まった。

 

 馬なりに走る両馬を、雅秀社長はできるだけ冷静な視線で見つめていた。

 

 ヒシケイジ、あの日、宝塚記念を三歳馬として勝ち抜いた日から、私は父の所有馬である彼を追い続けてきた。

 凱旋門賞、GⅠ八冠、既に世代最強、日本競馬史に残る活躍をしている彼が、リスクを冒してまで走る理由が私には分からない。

 

「本当に、一周目は淡々と走るねぇ――テンケイの方がやる気があるくらいだ」

「そりゃ馬なりですからな。ケイジも大人になりました」

「ハハハ、テンケイはまだ若いです。むしろレースに積極的になっていること、そちらを評価していただきたい」

 

 一周目の追切は、文字通り淡々と楽に楽にヒシケイジは駆け抜けていた。

 いい意味で力が抜けた悪くない走りだ。

 

 10点満点で言えば9点。

 いや、あれロスのないステイヤーの走りをしているのだから10点、限りなく10に近い9点――

 

「時計、大丈夫ですか」

「ああ、テンケイはいけそうか」

「こっちは気にせず、いっちゃってくださいよ」

「じゃあ、行きますよ――」

 

 ああ、見せてくれ。

 願わくば、私が想像した以上の、走りで――

 

 あ……

 

 ああ……

 

「スゴイッ、すごいよォ!! ケイジぃいいいぃーーーーーーー!! これならオルフェーヴルにも勝てるッ!!」

「なん、だとッ!! ケイジのポテンシャル的に、出来る可能性は考えていた、考えていたが――!!」

 

 追い切り二週周目、残り三ハロン時点、私の目の前で父が立ち上がっていた。

 気力が衰え、一時は死を待つばかりであると言われていた父が――父が――目の前の光景に驚き、立ち上がっている!!

 

 そして普段なら冷静沈着、騎士のような男と評せる門田調教師が明らかに動揺し目の前の光景にくぎ付けになっていた。

 

 それは、冷静であるはずの私も一緒だった。

 目の前で巻き起こる衝撃的な光景に手が震え、反射的に震える手を握り締める。

 

 なんだ、なんだあの馬は――!!

 あんな常識外の走りが可能なのか!?

 

 いや、出来る――ヒシケイジという馬の本格化が始まったタイミングは何時だ。

 報告では、あの凱旋門賞での限界突破の後に、ヒシケイジは楽しむことで“本気”になると記されていた。

 

「こんな、こんな!! あり得るのか!?」

 

 綾部 雅秀は、その日――ここ十数年で比肩する日がないほどに狼狽していた。

 

「合格だ……ッ!! 文句なしだ!! ヒシケイジ……!!」

 

◆◇◆

 

 かくして、2013年12月22日。

 返し馬を終えた優駿たちが一頭、また一頭とスタート地点に集まっていた。

 

 ゲートの前に集まる馬は、騎手は、皆無言で今日のレースへと集中していた。

 自身の馬が駆る馬が豪駿と暴君に劣っているなど、万に一つも考えられない。

 

 だが――この二頭は、この有馬記念という場で必ず何かをしでかすという確信があった。

 

『さぁ、スターターが登り、生演奏のファンファーレとなります』

 

 馬たちがゲートの前で集会する中――

 ヒシケイジは静かに中山競馬場に集まった人々の熱狂を感じ取っていた。

 

「ケイジ、やべぇ待ちきれねぇ……」

「いや、もう始まるんだって……落ち着けないのは俺も一緒だけどさぁ……」

「オルフェーヴル、頼むぜ、俺の二十万、持っていけ……!!」

「持っていったらダメじゃない!? それフラグってやつ?」

 

 初めて、俺が競馬場で走ったあの日から変わらない。

 日本でも、フランスでも変わらなかったあの最高の瞬間が――

 

 これで最後だとは思いたくはない。

 

 だからこそ――

 今走る意味を見つけた今、走る理由を知った今――

 

 俺はこの瞬間を、全力で楽しむ気でいた。

 

「ムホホホホホ!! もうどうにでもなれ――!!」

 

 沸き上がる。

 ファンファーレと共に手拍子で沸き上がる人々の声が、俺たちを押し立てる。

 さぁ、走れ――走れ、俺たちの夢を乗せて走るんだ。

 

 ああ、いいぜ――連れて行ってやる。

 俺が、お前たちの夢を、エゴを全部巻き込んでゴールまで運んでやる。

 

『お聞きください。これが、18万6596名の大歓声です。そして全国20会場20万名の声も届いています』

 

 そうして、ファンファーレが終わった後――

 俺たちは、スタッフに先導され、すっとゲートの中に納まった。

 

『ヒシケイジ、既にゲートに収まっています』

 

 一頭、一頭――

 世代の名馬がゲートに納まる中で、俺は耳を後ろに立てる。

 

 先ほどから黙っている相棒の意志は、集中しきっているのか――

 内に秘めたエネルギーを漏らすことなく、一点の曇りなく、正直そこにいないかのように沈みこんでいた。

 

『岡辺さん、安東さんにスタートを待ちながら一言ずつ伺います』

 

 頼むぜ相棒、幾ら騎手として成長したとはいえ――俺と相棒は一心同体だ。

 

「悪い。ケイジ――集中してた」

「ブヒ!!」

 

『いろんな展開が、これ予想できるかと思うのですがどんな流れをこう、期待というか、予期なさっていますか?』

 

「ハッキリ言うが、雅秀社長への発言はマイクパフォーマンスだ」

「ブヒ……」

「お前の本気は未知数だ――オルフェーヴルやテンケイ抜きでどう動くか分からん」

「ブヒン」

 

 そうして、普段通り口を開いた相棒は――やっぱり普段通りの相棒であった。

 むしろ安心するくらい普段通りで、俺は安心してしまった。

 

『まず、前半大分速いペースになっていくんじゃないかなと思います』

 

「だから――何があっても、楽しめ」

「ブヒ!!」

「そうだ上手くいっても、行かなくても――楽しんでりゃ、あとからどうにかなる」

「ブヒヒヒヒ!!」

 

 そうだな、相棒――

 俺たちは出来る限り準備をしてきた。

 

『はい、そんな中で、オルフェーヴルはどうか? 順調な枠入り、ゴールドシップはどうか?』

 

 頑張って組み立ててきた仕掛けが、成功することもあった。

 臨んだ結果に終わらなかったことも、当然あった。

 

『安東さんもぜひ一言』

 

 それでも、構わない。

 俺は今日、相棒と一緒に走ることができる。

 

『そうですね、やっぱりね僕はヒシケイジとゴールドシップがどのようにね競馬するか、すごく楽しみですね』

 

 楽しみだ――本当に、この競馬が俺は好きなんだ。

 

『今日がラストランのヒシケイジ、そしてゴールドシップは新たなパートナー、マイアーム騎手がどう乗るかというのも大変注目』

 

 ゲートの内に静寂が広がる。

 最後の一頭、トーセンジョーダンが収まり、ゲートに居るすべての馬が集中していく。

 

『大外枠に去年は、そのゴールドシップで優勝したトーセンジョーダン打田博士』

 

 全馬がゲートに納まり、一瞬の静寂!!

 

『さぁ、共に進もう、共に越えよう!!』

 

 ガタン――と音が鳴った直後、俺の瞳が輝きを宿したように輝き、肉体は明らかにどの馬よりも早くスピードに乗っていく。

 

『グランプリ有馬記念スタート!!』

 

 見る見るうちに俺の周囲から馬が消えていた。

 俺は加速、加速、加速して兎に角テンを取りに行く。

 

 さぁ、楽しい競馬の始まりだ。

 俺のトモは既に最高潮に至ったかのようにエネルギーを生み出し、十六頭すべての馬の先頭を駆け抜けていく。

 

『ヒシケイジ、良ーいスタートを切りました。オルフェーヴルのスタートはまずまずという所か、すぐ後ろに下げました、後ろから四頭目』

 

 俺は即座に後方に続く全ての馬を思考から消した。

 追いつくべきは目の前の俺の理想の走り、その一頭居ればいい。

 

『追っ付けていくのはゴールドシップ、後ろから二頭目。最後方はショウナンマイティです』

 

 後ろは気にしない。

 前に、前に、前に――ただひたすら前に駆けだす俺の背後に足音は確かに迫る。

 

 それでも、今は――今だけは――

 俺は誰のためでもなく、俺のためのレースを走っていく。

 

 この楽しさは、真剣な集中は――

 このテンを取って見つめる戦闘の景色が、あの高い高い入道雲の光景と重なった時――

 

『さぁ、追っ付けて葦毛の馬体、レオンマイアームとの新コンビ、ゴールドシップ上がっていく』

 

 俺の体に確かな啓示が、ほとばしる。

 走れ――ただ走れ、今はただあの理想の瞬間に追いつくように駆け抜けろ!!

 

『オルフェーヴルは後ろから三頭目の形になった生添 賢治』

 

 ああ、最高の気分だ――背後のプレッシャーが、一完歩先に進むたびに周囲から消えていく。

 

 今なら出来る。 

 この枠順なら走り切れる――

 

 馬として成長した今なら――

 多くのレースを走り切った今なら――

 楽しく本気を出すことを覚えた今なら――走り切れる!!

 

『さぁ、前に行くのはヒシケイジ、三番のヴィルシーナ、少し離れてメイショウマンボかという形』

 

 メイクデビュー福島でかましたような、大逃げをラストランでかましてやる。

 中山競馬場、有馬記念の2500mを“本気LV3”で走り続ける正真正銘のロングスパートも――今の俺に出来ないわけがない!!

 

『エイシンフラッシュ、ソトにゴールドシップはここ』

 

 ヒシケイジは中団の馬を突き放す一方的な加速と共に、馬群の先頭を邁進する。

 この時点で、俺の予測は確信へと変わる。

 

 本番に強い、俺の性格が功を奏した。

 この土壇場でヒシケイジは、完全なる“本気LV3”という未知なる領域に足を踏み入れていた。

 

『ロゴタイプ、キズナのソトに、オルフェーヴル!!』

 

 事態は最早、楽観できる状態を逸脱している。

 その事実を確かにこの場にいるすべての馬、すべての騎手は感じていた。

 

 2013年有馬記念――

 長く名レースとして語り継がれた激走の火蓋は、豪馬ヒシケイジの規格外の大逃げから切って落とされたのであった。




誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。
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