「やってくれるやないか――石破 志雄ッ……ヒシケイジ!!」
馬群最後方、オルフェーヴルを駆る生添 賢治は、石破 志雄の捨て身の戦術に気づいた瞬間、声をあげていた。
理解、理解できるッ――
ケイジの大逃げは、本来ボクたちのケイジ対策の選択肢に入っていた戦術や。
例えるなら、カーブ、スライダー、フォーク、シンカー、シュートと全方向の変化球を投げられる剛腕ピッチャーが全力でストレートを投げてきただけの話!!
だが、相手がメジャーリーガーなら、こっちも実力はメジャーの世界最高峰!!
本来なら、オルフェーヴルという名打者ならアウトになる前に“最終直線で捉えらえる”はず――
そう考えればケイジの大逃げなんぞ、隠し玉でもなんでもない!!
だが、それはヒシケイジの“全力ストレート”が俺達が知る、普段の“全力ストレート”と同じ物であることが前提の話!!
果たしてヒシケイジの全力が俺達が想像しうる全力と、どれだけ逸脱しているのか!?
ハッキリ言って、分からん――まったく、分からん。
“男子三日会わざれば、刮目してみよ!!”
十月から今日までオルフェーヴルの二、三倍以上の調教をこなした馬の身に、俺達が知らない二週間の間に何が起きていたとしても――もう驚かん。
ハッキリ言って最後の方まで、ヒシケイジを見てきたボクですら混乱させられている。
事前情報が少ない他の陣営は――
このケイジが作る無茶なハイペースによーいドンで対応しなければならない。
特にある程度先行勢は乗るしかない!!
後方で待つ馬も、本来よりも早く前に出ることを強いられる。
この展開になった時点で、ヒシケイジの有利はある程度揺るがないものになった。
「嫌でも荒れるで、このレース……!!」
だが、オルフェーヴルと生添 賢治はこの不利も不利な状況でも確かに口の端に笑みを浮かべていた。
◇◆◇
2012年12月22日
有馬記念はヒシケイジの大逃げという、大波乱から幕を開けた。
内回りの第四コーナーを、快速でヒシケイジは駆け抜ける。
コーナーに体を傾け、内ラチのスレスレを駆け抜けていく。
後方の馬は二頭、うち一頭だけが影が重なるほどの背後を追ってくる。
真冬、冬至の中山競馬場、午後三時とはいえ冷え切った空気を裂き、豪駿が前に前に駆け抜けていく。
『最初の正面スタンド前、オルフェーヴル騎乗の生添言っていました』
そうして一周目、冬の中山競馬場のスタンドの熱狂が真っ先に直線に飛び込んだヒシケイジを迎える。
熱狂、歓喜――ヒシケイジほど今の競馬で先頭が似合う馬は居ない。
「パパ、ママ――ヒシケイジ、先頭だよ!!」
少女の目に映るのは、二年前と変わらない先頭スタンド前に飛び込んでくるヒシケイジの姿であった。
「来たぞっ、ケイジが来た来たッ――めちゃくちゃ前行ってね!? 大逃げって奴じゃん」
「早ッ、ペース持つのかよ!! ケイジが引っ張るとやっぱレース速いなァ……」
「オルフェーヴルなら大丈夫……最後方、二十馬身差、ひっくり返したもんなぁ」
「前、そっか……前は待ってたもんな、今日はガチで逃げる理由がある」
「ムホホホホホ、大逃げ!! 大逃げか!! 今日はこう来たかァ~~~~~!!」
競馬ファンたちが驚きの声を上げる中で、ヒシケイジは背後にヴィルシーナを感じながら――
遠くに消えるスタンドの声に心を震わせていた。
それは、ただ只管に集中して、己の肉体で理想の走りを表現していく歓喜であった。
まるで自分自身がギリシャ神話の彫像そのものと化したかのような肉体的躍動を体感すること――
それを人々に見せつけることが、今俺が走る意味。
そして、今、その躍動のままゴールまで駆け抜ける勝利を掴むことが俺が走る理由となっている。
『この最初の正面スタンド前が鍵なんだ、勝負なんだ』
体は軽い。
トモがまるで空を駆けているかのように俺を前に運んでいく。
極限まで意識が引き延ばされる集中状態で、俺は全開の有酸素運動を続ける。
前へ走れ――楽しみながら走れ――相棒をのせて、俺の肉体よ奔れ。
「おやっさん。ギョロ……マジでやる気なんですよね?」
「ああ、ゴーサインはオーナーからも出てる。坂を上ったあたりから――使う気だ」
「ええ、ヒシケイジも覚悟しているでしょう。彼も本当に頭がいい馬です。オルフェーヴルとは切れ味勝負で勝てないからこそ――石破 志雄の奇策に逆らわず、ハミを取っているんです……この中山の舞台で勝利するために」
ただ祈るようにヒシケイジを見つめる厩務員の土井の横で、老将「早山」と門田調教師が全てを理解していた。
ヒシケイジという競走馬が、今――己の競争人生を賭けてオルフェーヴルに勝とうとしている。
“果たしてここまでの、無茶をして何になるのか――”
競争の舞台に立たない愚者の戯言を自分たちが口にして意味がないことは分かっている。
勝ち抜けば――手のひらに収まる勝利の栄光を知っているからこそ。
勝っても負けても、次がない終わりだからこそ。
前代未聞の無茶をする理由がヒシケイジにはあった。
「それでも――ギョロ、無茶だよ……つらいっすよ……信じてもキツイっすよ……」
「土井、シロートみたいなセリフは止めろ。漢の覚悟だ!! これがヤツの花道なんだ……」
「ええ、ええ――だからこそ、見守るしかない――見届けるしかないんです!! ヒシケイジの」
「ケイジ、そろそろ行くぞ!!」
ああ、分かった――
『それは豪駿ヒシケイジの鞍上石破も分かっている、悠々先頭、逃げていく』
パァンーー!!
直後、石破 志雄の鞭が俺の体に入った直後――
「パパ、ママ、見て!! ケイジが飛んだ!!」
観客の目の前を駆け抜けているヒシケイジがあろうことか、スパートを駆けるかのように飛翔した。
ぐんと――飛び出したヒシケイジが中山の坂を上っていく。
「噓ォ!! ここで飛んで最後まで行けるのかよ!!」
「わかんないよ!! それが分かるのは、石破 志雄だけだって……」
「は、アハハ……ケイジ、ミスだぜ、これはオルフェーヴルの勝ちで決まりだって」
「あ~~、でもケイジなら……やれんじゃね? 今までだって無茶はしただろあの豪駿……」
「ムホホホホホ!! それより危惧するべきは!! スパートのままコーナーを曲がれるか!!」
『正面スタンド前、大勢のお客さんの前、各馬西日を浴びながら、豪駿は前、暴君は後ろからの競馬!!』
ヒシケイジは、馬群の先頭で、最もインコースで動揺と歓声を浴びながら驀進していく。
俺がたどり着いた真なる理想の走り、それは有酸素運動のまま飛翔のように飛ぶスパートだ――。
前に、前に――前に駆け抜けろ。
ヒシケイジの肉体が、躍動する。
最高の舞台で今、自分が走っている――その事実だけが、ヒシケイジを高揚させていた。
『冬の中山をケイジが逃げる、その後ろシンデレラガール、ヴィルシーナがぴったりとマーク、そこから五馬身は離れてルルーシュ!!』
石破 志雄がヒシケイジの手綱を絞る――見えてくるのは次のコーナー!!
斜度なんて、気にしない――楽しめ、楽しみながら――駆け抜ける俺についてこれるものなら付いてこい!!
『今年の牝馬の顔、メイショウマンボ、ロゴタイプ!!』
ヒシケイジは速度を維持するかのように、正面スタンドを抜け出してコーナーに侵入する。
急激な遠心力が体にかかる中でも、この“飛翔”を維持したまま――
俺は向こう正面にでる理由がある。
このテンションを維持する理由がある!
『エイシンフラッシュ、ジェンティルドンナ、ゴールドシップがソト付けて、後方一馬身フェノーメノ』
既に隊列は、ケイジが作った怒涛のペースの通り、大逃げの影響で長く長く伸びている。
この状況を縮めて末脚勝負にするような、展開にしては本末転倒だ。
『ソトから一六番のトーセンジョーダン打田 博士、ジャスタウェイは芝田 慶福』
俺の肉体が躍動し、坂を駆けのぼる中でも景色は変わらぬ速さで消えていく――
ヒシケイジの肉体は、フローによる集中が生み出す驚異的なバランス感覚によってかろうじて転倒という“破綻”を回避していた。
『ウチに四番ウインバリアシオン、キズナ、ソトからトーセンラー』
だが、俺は、俺自身は――
この走りが上り坂を登る間のわずかな間の維持することが叶う“奇跡”であることを理解していた。
来るぞ、来るぞ、登りは終わって――下りが來る。
(相棒、頼むぞ――任せたぞ――!!)
「ヒシケイジ、気にするな――そのまま走れ!!」
坂の上、ヒシケイジが辿り着いた時に相棒が口を開く。
その瞬間、遠心力が生み出す破綻を回避するように――相棒が体を内ラチに入れる。
『オルフェーヴルは後ろから四頭目、その背後にヒシテンケイ、ギュスターヴクライ、最後方はショウナンマイティ』
その瞬間、すべての観客が――石破 志雄の軽業に固唾を飲んだ。
飛翔するヒシケイジは、圧倒的加速を残したまま、みるみるうちに向こう正面へと駆けこんでいく。
『今最初の1000mを58秒2で通過、明らかに速め!』
第二関門通過――
ヒシケイジの飛翔が止まらない中、レースは向こう正面を往く中盤へと移行した。
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明日も1800投稿予定です。