「パパ、ママ!! ヒシケイジが――ヒシケイジが!!」
最終直線――少女の目の前で、ヒシケイジの後方でオルフェーヴルとヴィルシーナの順位が入れ替わる。
残り100m、すべてを燃やし尽くしたヴィルシーナの目の前で――
ヒシケイジは確かに飛んでいた。
その日、会場に集まった全ての競馬ファンは、確かにヒシケイジの飛翔を目撃していた。
一完歩が長い長いストライド、その理想形をヒシケイジは確かに体現していた。
その走りを見ていた少女の目から涙が零れて、手元のぬいぐるみがそれを受け止めた。
理由は分からないが、ヒシケイジのその飛翔は――言葉なく人の心を打つ走りであった。
『差が詰まる!! オルフェーヴル迫る!!』
「なんだろう……俺、泣けてくるよ」
「馬鹿野郎、所詮、レースだぞ……」
「レースだって何だっていい、オルフェ来いッオルフェ来いッ」
「いいぞ、ウインバリアシオン上がってこいッ!! お前!! やるんだろッ!」
その日、その瞬間――
中山競馬場に来たすべての人々の心を――
ライブビューイングへと集った人々の心を――
豪駿の最後を見届けようとテレビを付けた人々の心を――確かにヒシケイジは打った。
人々の心を揺らす理想の走りで逃げるのは、理想と夢の結晶、ヒシケイジ。
それを追うように迫るのは日本競馬の苦心と努力の結実、オルフェーヴル。
『マージンはない!! ヒシケイジ粘る!!』
――パシィ!!
理想と現実が相対する中、相棒はただ無言で鞭を振るう。
俺の視界にはオルフェーヴルの馬体が見える。
外から駆け抜けてきたオルフェーヴルはまるで、嘗ての感情を取り戻したかのように――
ただただ只管に、俺に勝つために前へと駆けだし――全力を以って俺に打ち勝とうとしている。
最高で、最低の気分だ――
そう思えるのは――きっと俺が今この瞬間に本気で勝ちたいと思っているからだ。
『横二頭が並ぶ!!』
苦しい、楽しい、そんな気持ちの先にゴールが見える。
前に出ろ――たった一歩でもいい。
前に出るんだ。
俺はゾーン状態で噴き出した、アドレナリンとエンドルフィンの力を借りて――
引き延ばされた意識の中で、一歩、また一歩と飛んでいく。
俺は勝つ――勝ちたい――!!
勝ちたい――今許されるなら、俺は勝ちたい!!
今、全力で走るオルフェーヴルより――
誰かの思いを背負う生添騎手より――
俺のために勝とうとしてくれている相棒のために――
もっともっと強い思いで、俺は勝つ!!
勝ちたい、勝ちたい――勝ちたい、勝ちたい、勝ちたいッ!!
勝つために――積み重ねてきた全ての日々を翼に変えて、俺はあと一歩を前に踏み出す。
『もう一度!! ケイジが伸びる!! ヒシケイジが抜けだした!!』
それは、冷静になって、映像を見返せば―-
ヒシケイジの方が少しだけ、調教量が多く、ほんの少しだけスタミナが多かった。
そう判断される“事実”に過ぎない。
ただ、その瞬間、ありとあらゆる願いを背負い続けてきていた分――
一歩、たった一歩だけ、ヒシケイジはオルフェーヴルよりも先を飛んでいた。
『オルフェ来い!! ケイジ先頭か!? どっちだ!? どっちだ!?』
(勝つ、勝つ、勝つ、勝つ、勝つ――ッ!!)
俺は勝つ――!! 絶対に勝つ!!
こうやれば勝てるじゃない、今この場所で本気を出して勝つ!!
ああ、本当に最高の時間だ。
競走馬に産まれたからには、走って勝ってこそ意味がある。
けれど、俺には――相棒と走る理由があった。
多くの馬と走らなければ、この場所には立っていなかった。
そうか、今この瞬間――ゴール板を踏み抜いて俺は全てが分かったような気がした。
『この接戦!! 激戦!! これだ! これだ! 目に焼き付けよ!!』
すべて、すべてだ。
きっと、俺が生きる意味は――言葉じゃ伝えきれない、すべてにあったんだ。
情けない答えだけど――
きっと、俺が走るってことのためにしてきたすべてが――
勝つためにしてきたことのすべてが――
生きてきたことのすべてに――
意味がないようで、多分、意味があったような気がする。
『これが日本二強だぁああああああああああぁぁぁーーーーーーーーーーーっ!!』
そうして俺は、確実に一歩先んじてオルフェーヴルより先にゴール板を踏み抜いた歓喜を表現するように叫んで――。
(うわああああああああああぁぁぁぁぁァァァーーーーーーーーっ!!)
『ラストラン、有終の美、飾ったのは――』
直後――オルフェーヴルがみるみる外側を駆け抜けていくなか、ヒシケイジは限界を超えた。
すべての力を使い切った体から力を抜けて、体勢が崩れていくのを感じていた。
『ああ、ヒシケイジが!! よろけている……大丈夫か!?』
いけない――せめて、相棒が傷つかないように――
背中と地面が平行になるように、体を芝に滑らせようとして倒れなければいけない。
もう脚は無事じゃあ済まないだろう。
どうせ俺は、もうレースを走らない。
俺の体はもうどうなってもいい――加速した思考が、はじき出した最前の策だ――
(ごめん、皆、ごめん、土井さん、おやっさん……オーナー、社長……)
そうして、俺が自分を投げ捨ててでも、一番大切なものを守ろうとしたとき――
こちらに駈け寄った、一頭の競走馬が崩れる俺の胴を支え、かろうじて俺の体にかかるはずだった速度を殺した。
『オルフェーヴルが支える……石破騎手が下馬していきます』
「あかんで、あかん!! ヒシケイジ――お前はまだ生きなアカンのや!!」
かろうじて、立っているだけの自分の視界に――
涙目でこちらを見つめるオルフェーヴルと既に泣いている生添騎手の姿が見える。
相棒は、幸い――俺が倒れる前になんとか俺の鞍上から降りることが出来たらしい。
ああ、よかった――
相棒に怪我がなくて、本当によかった。
俺は折角だからオルフェーヴルの体を借りるように体重を預けて、その場にターフの上に寝転んだ。
『共に支えあうように、ケイジ……今ゆっくりと、体を横たえました』
ああ――いい匂いだ。
目をつぶれば、あの日の、ただ走るのが楽しかった子供のころの芝の匂いと変わらない。
ああ――でも、流石に疲れてしまった。
全力のスパートを、アレだけの時間続けたおかげで、脚がズキズキと痛む。
混じった冬の空気――
喧噪が、何処かと奥に消えていく――
脳内物質がかろうじて体の痛みを消し、俺の意識が消えるのを待っているのだろう。
『石破志雄、縋りつく。ヒシケイジ、まだ息はしています……』
「ケイジ……すまん。俺もお前もバカだったな」
ああ、でも――相棒が何かを言おうとしている。
「お前なら、大丈夫だって思ってた」
なんだよ――相棒、俺は大丈夫だ。
ただ、ちょっと疲れただけだ――
『タイムは2分28秒.1……!! 文句なしのレコード!!』
「おい、ジョークだっていうなら……笑えねぇよ……」
心配するなよ――これくらい、どうってことないんだ。
『ヒシケイジ、すべてを出し切ったGⅠ九勝!!』
「ケイジ、本当にありがとよ……」
バカ、そんな御礼なんて言うな――
そんなのまるで、永遠のお別れみたいじゃないか――
『有馬記念の頂に至ったのは――ヒシケイジ……』
その偉業に歓声は一切、上がらなかった。
ただ只管にターフを駆け抜けたヒシケイジという愛するべき一頭の馬が、ターフに倒れている。
この事実を、誰もが受け止めることが出来なかった。
『オルフェーヴル、ケイジに寄り添ったまま動きません……』
まてまてまて――ちょっと寝てるだけなのに、皆大げさすぎる。
俺にとっては、別に、このくらいなんてことはないんだ。
オルフェーヴル、お前も分かってるだろう。
だったら、何か一言くらい言ってくれ……
『ノーサイド、レースが終わったら――ノーサイドです』
まったく、しょうがないな……
アニメみたいに――本当に、馬使いが荒い奴らだ。
俺は、なんとか瞳を開き――嘶くように体を起こす。
『おお、ヒシケイジ――立つのか!! ヒシケイジ!! 立てるのか!! 立て、立って!! 行け!!』
「馬鹿野郎が――」
相棒が俺に跨ったのを見て、俺はすっと立ち上がる。
少しふらふらと、してしまうのはこの際仕方ない。
「あーもー、心臓に悪いわ……せやけど石破クン――ほんま、ええ馬に巡り合えたなぁ」
「はい!!」
俺は共に立ち上がったオルフェーヴルに体を支えてもらいながら――
相棒と生添騎手が深く握手を交わした姿を見た。
(ケイジ!! ケイジ!! ケイジ!! ケイジ!! ケイジ!! ケイジ!! ケイジ!!)
(イシバ!! イシバ!! イシバ!! イシバ!! イシバ!! イシバ!! イシバ!!)
(オルフェ!! オルフェ!! オルフェ!! オルフェ!! オルフェ!! オルフェ!!)
(イケゾエ!! イケゾエ!! イケゾエ!! イケゾエ!! イケゾエ!! イケゾエ!!)
「場内、割れんばかりの大歓声が日本二強の健闘名声を称えています――有馬記念、奇跡的なレースでした。一着七番ヒシケイジ。二着三番オルフェーヴル、三着に四番ウインバリアシオンが入りました」
その日、有馬記念は日本二強の連対という結果を持って確かに幕を閉じた――
この日、ヒシケイジが打ち立てたレコードは、2024年現在をもってしても更新されてはいない。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。