2010年春、縦横無尽の斜行癖が露呈し鞍上の定まらないヒシケイジのもとに、美浦トレーニングセンターより悩める癖馬の専門家「石破志雄」が招聘される。
見事ヒシケイジの斜行癖を制御し、人間的にも成長する石破という比翼連理の相棒と共に、ついにヒシケイジのメイクデビューが幕を開けるのであった。
「ぶふ~」
新品のミニラジオの陽気なメロディーが車内に響くなか、ヒシケイジを乗せた馬運車は東名高速を北に驀進していた。
昨日の昼前に滋賀の栗東で馬運車に運び込まれたとき、土井さんは気が気じゃない様子だったが――
ヒシケイジは昨日の夜に美浦トレーニングセンターに到着して、ごろ寝で一泊。
今もまた、静かに揺れる暗い車内の中で、ラジオに集中したまま心地よいリラックスすることができていた。
最近気づいたことだが、自分は旅行に行くとき、ちゃんと気にせず寝ることができるタイプらしい。
馬になって二年と約半年、競走馬としての戦いも本格的に始まる中、これは思いがけないアドバンテージに違いない。
きっとこれから日本全国、いろいろな場所で走る機会も増えることだろう――
けれど、不思議と心配する気持ちはない。
日々の練習に関しては「早山」のおやっさんがいる。
食事に関しては「土井」さんがいるから心配はない。
何より、相棒が居れば、競馬に関しては心配することなどない。
そう思うと、なんだか普段より安心して――振動と共に、ウトウトと眠気が襲ってくる。
まるでアニメで夕暮れの電車に乗って、寝こけてしまうような展開だ。
ただ、一点違うことがあるとすれば、今が早朝という点だ。
朝に電車で寝こけてしまっったら――きっと学校には、遅刻してしまうだろう。
それは――それで、いいかもしれない。
「おーい、ギョロ、大丈夫かぁ?」
「ブヒ……」
そう思いながら、馬らしく幾度か立ち寝を繰り返しているうちに、ヒシケイジは土井さんの声と共に馬運車のハッチが開いたことに気づいた。
「めっちゃ寝てたみたいだけど、ギョロは……図太い性格してんなぁ」
「ブヒヒヒヒ」
土井さんの心配そうな声と共に、寝ぼけまなこの馬体に鞭を打ち、とぼとぼと車内を出る。
青い空が高く、栗東に比べると幾分涼しい気もするが――見知らぬ土地に立っている。
ヒシケイジはその事実だけで、ワクワクで心臓が高鳴るのを感じていた。
◆◇◆
“可能な限り早く、最も長い距離の初戦が望ましい。”
2010年、6月の末。
そんな綾部オーナーの鶴の一声に、老将「早山」と鞍上「石破志雄」は、奇策とも呼べる福島競馬場をヒシケイジのメイクデビュー先に選んだ。
美浦所属であり石破志雄の騎乗経験がおおい福島競馬場へと向かったほうが、かえって都合がいいとは早山のおやっさんの談。
よくわからないが、馬であるヒシケイジに選択権はない。
綾部オーナーが行けと言って早山のおやっさんがOKを出せば、石破志雄はNOとは言わない。
というわけで遥々来たぜ、福島。
でも、福島ってどこだ?
福岡ってどっちだっけ――そんなことを考えながら、ヒシケイジは各種身体検査を受け、白と青の馬具を身にまとい、とことこと、パドックの上を周回していた。
パドックの柵周りには多くの人が詰めかけ、自分を見ているということは分かる。
「ギョロ、すげー注目されててよかったな!!」
「ブヒヒヒヒ……」
「あの馬、笑ってる」「まさか、そう見えるだけさ」
「アレが、上がり三ハロン35.9秒……? 怪物って聞いたけど……」
「すげー風格、ライスシャワーみたい」
ぐるぐると土井さんに曳かれてパドックを歩く間、自分に向けられた視線に視線を返す。
理由は分からないが、注目されるというのは悪い気がしない。
「うわあ、葦毛」「なんか不気味ね」
「パパ、あのお馬さん怖い……」「そうだな~、でも馬券は買いだな~」
ギョロギョロと目を見開きながら葦毛の胴が長く、すらりとした体型を見せつけるように歩くと、失礼なことだが度々悲鳴が上がる。
なんと失礼な――と思いながらも、悠々とアピールすることに終始する。
そう、最近気づいたが、自分は意外にも注目されることに不安は感じない性格らしい。
注目されて嬉しいなんて、主人公みたいだなと思いつつ――
パドックで鞍上に石破志雄を乗せて、土井の声援を受けつつも、別れつつ本馬場へと入場した。
「ヒシケイジ、ビビんなよ」
そして、ヒシケイジは生まれて初めて熱狂というものを知った。
人だ、会場のスタンドに人が溢れている。
彼らが皆、芝のコースを見渡すように、こちらを見ているのが肌で分かる。
きっとこの会場には、綾部オーナーが、門田さんがいるかもしれない。
おやっさんも、土井さんもどこかでこのレースを見ているのだろう。
もしかしたら、生まれたころ良くしてくれた田辺さんも見ているかもしれない。
彼らが見ているにしても、此処は余りにも人が多い。
生前ヒシケイジは一度に百名以上が集まる場所に行ったことがなかった。
だから今、遠めに見える人間がどれだけの人数であるか――正直、分かりようがない。
果たして一体どれだけの人がいるのだろう。
嘗てテレビの中でみた光景くらいの人が、この場所に集まっている。
先ほどまでパドックを見ていた人とは、明らかに数が違う―――
何より、人が一人一人持つ熱量が違う。
熱狂、肌を伝って感じるほどビリビリと貫くような圧力。
「おい、馬鹿。お前がビビるようなタマかよ……しゃんとしろ」
その圧力に、少し足を止めそうになって、石破志雄が手綱を引き、ヒシケイジは慌てて首を振る。
場内から、少しどよめきが起こる。
いけない、集中だ。
自分の役目を思い出せ。
楽しみだ――勝ったらきっとみんなが喜ぶ。
そして、勝って勝って勝ち続ければ――きっと。
普段通り走ればいい。
日本ダービーに、一歩近づく。
自らの生きた意味を見出すことが出来るに違いない。
綾部オーナー、早山のおっちゃん、土井さん。
そして、相棒と自分自身のために勝つのだと気を引き締める。
鞍上の石破志雄がため息をつくのが聞こえたが、気にしない。
周囲を見れば、自分と同じようにビビってた馬ばっかりだ。
【人多くない……】や【うるさいよ……】
のような泣き言じみた唸り声さえ聞こえてくる。
だったら、こっちが普段のコンディションのまま走れば十分勝ちをもぎ取れるはずだ。
『ヒシケイジ、四番、480kg…………一番人気』
液晶画面に表示されたオッズ1.8倍。
集中を取り戻したヒシケイジはその数字を見ることはなかった。
事前のオッズ1.5倍に対して、当日彼を見た人間が抱いた先入観。
零細血統への不信感、入れ込みのような仕草。
鞍上に癖馬担当「石破志雄」を寮の垣根を越えて招聘しているという事実が、彼への正当な評価に陰を刺した形になる。
「先に言っておくけど、今日は……アピールだけだからな。俺の言うことを精々聞け」
石破志雄の言葉の意味を理解しつつも、ヒシケイジは数日ぶりのかけっこを悠々と楽しんだ。
返し馬の間、石破志雄は長めに取った鐙の芝の感触を確かめながら、わざと馬なりにヒシケイジを走らせる。
「ま、負ける要素ないから、斜行以外なら何してもいい。今日は『競馬』を感じろ」
斜行以外なら、というのがなんとなく癇に障るが――
他の馬が、自分たちを追い抜く中で、ヒシケイジは力を抜いて綺麗に地面を蹴る。
正直、相棒のことだ。
きっと何か、考えがあるのだろう。
ならば自分はそれに乗っかればいい。
時間はゆるゆると過ぎていきー―出走5分前。
返し馬を終え、ゲートに誘導される間になって、ヒシケイジは本当に考えることが無くなっていた。
『福島競馬場五レースは、メイクデビュー福島、出走は十八頭です』
ヒシケイジはスタッフに曳かれながら、驚くほど集中した意識のまま、ゲートの中に滑り込む。
『多くのファンが見守る前でのゲートイン。既に真夏の強い日差しがコースを照らしています』
『収まって、全馬がゲートイン』
「おい、馬鹿。今日は馬鹿らしく仕掛けるぞ」
すべての馬がゲートに入り、周囲には一瞬の静寂。
ヒシケイジの耳に、石破志雄の指令が届いた。
直後――ガコンと音が鳴り、ゲートが開きヒシケイジが飛び出してぐんぐんと芝生を蹴って伸びていく。
かくして、2010年6月27日。
この日、人々は、葦毛の豪駿の予想以上の実力を目の当たりにするのであった。
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