「スタートしました、十八頭揃いました――メイクデビュー福島」
ヒシケイジは、ぐんと加速する。
相棒、石破志雄の指示のまま、悠々と葦毛の馬体が加速していく。
ただ、彼を信じて進む。
ヒシケイジは石破志雄と共に熟して来た練習通りに独特の広いストライドで芝を蹴る。
「まず、出ていくのは四番ヒシケイジ、好スタートを切って一気に向かいます」
地鳴りと共に、ぐんぐんと体が前に出ていく。
想えば、ここ二カ月。
幾度か行った斜行制御のための高速調教以外は――
ひたすらに、ひたすらに、鞍上に相棒をのせてキャンターで走る。走って、走って、走り続ける日々だった。
『二番手は十二番サマーサルサ、三番手以降殺到して十六番オペラフォンテン、四番手にショウナンバーズ、ディックハレルヤ」
まるでロードワークの日々だった。
だが、おかげで、随分と――相棒の呼吸が分かってきた気がする。
ヒシケイジはぐんぐんと、ペースを上げ、他の馬を置き去りに伸びていく。
本来のサラブレッドであれば、苦しくなるほどハイペースの有酸素運動である。
「以下、コスモセクシーのグループが続いて最後尾にマイネルリープ、フジマサエンパイヤ、セラーナが最後尾――』
だが、生まれながらのステイヤー。
人間としての向上心を持って調教を受けてきたヒシケイジにとっては――
この程度の運動強度では、最高の瞬間すらやってこない。
体に感じるのは、コーナーに差し掛かった体にかかる遠心力。
そして、熱狂――会場にいる誰もが、今自分に注目している。
『第一コーナーに入ったヒシケイジ、ぐんぐんと飛ばします。レースはヒシケイジのペース、後方は六馬身、七馬身、八馬身……』
向こう正面に入って、後方の足音は随分と遠くなった。
石破志雄は変わらず、ヒシケイジを一定の時計で走らせていく。
「ヒシケイジ、変わらず行くぞ」
ああ、相棒――お前のために今はひたすら走る。
石破志雄の考えるレースに、全力で従う。
人々の夢を背負って、馬として、相棒のために、全力を出し切る。
なるほど、これが、レースか――自分にも、少しわかった気がする。
「十二番、サマーサルサが単独二番手の位置、だが、一杯一杯。向こう正面、既に900メートル切っている、ヒシケイジ、悠々と逃げていく」
そう感じる、ヒシケイジの思想は、決して正しいものではないかもしれない。
けれど、今この二歳、メイクデビューの場に限っては――その思想は一つの答えに違いなかった。
「大逃げのヒシケイジ、残り600メートルの標識、後方とは2,3、4秒差……』
歓声がどこか遠く聞こえる、後ろには誰もやってこない。
かつて、雪の日。
2008年、12月、有馬記念の日。
綾部オーナーと出会った日と同じ状況――だが、あの日と今日は全く違う。
俺の上には、石破志雄がいる。
この会場にいるすべての人間が、自分を見ている。
いいぞ、見ろ。
俺を見ろ――俺たちを見ろ。
見せてやる。見せつけてやる。
だからもっと、ヒシケイジに夢を見ろ――
かくしてヒシケイジの心が、人並みの承認欲求で揺れる中――
福島競馬のスタンドは、ヒシケイジの快走に反比例にするように、どよめきに包まれていた。
「おやっさん、ギョロ、強すぎませんか?」
「結局斜行癖は完全に治ったわけじゃねえが……逆張りした奴ら共が泡拭いてやがる、爽快だぜ」
厩務員の土井と、調教師「早山」はお通夜ムードが多めなスタンドで彼らの行く末を見守っていた。
ヒシケイジの時計はレコード級ではないが、ペースは既にクラシック級の実力と言って差し支えない。
自分たちが育てた馬は、役者が違う。
クラシック戦線、その錦の舞台に立てるだけの度量を、確かに持っているのだと雄弁に語るように走っていく。
『さぁ逃げる逃げる。ヒシケイジ、第三コーナーのカーブに入ります』
悠々と、颯爽と、ヒシケイジは最後のコーナーを駆け抜けていく。
傍目から見れば、馬なりに走っているように見えるほど、石破志雄はヒシケイジに無理させず力を出し切らせていた。
「流石は、ヒシケイジぃ!! 門田君、石破君は、うまくやってるね!!」
「そうですね。調教通りに順当に一勝をもぎ取れている……悪いですが、石破君には少し、妬けますね」
馬主席で他のオーナーが顔を真っ青にする中、ご機嫌の綾部オーナーは門田調教師と沸き立っていた。
ヒシケイジを見る綾部の瞳には、自分でも確信するほどに夢の灯が灯っていた。
綾部オーナーの脳裏に、初めてヒシケイジと出会った時の光景が去来する。
今日の走りは2008年の冬、初めて見た走りとは違う堅実な走りだ。
けれど、堅実な競馬を覚えたヒシケイジは――他の馬の追従を許されぬほどに、これほど、これほどまでに強いのだ。
これからさらにぐんぐんと成長し、クラシック戦線までたどり着ければ――
日本ダービー、取れるかもしれない。
綾部がそんな想像が現実のものだと思えるほどに、ヒシケイジは彼に夢を見せていた。
ヒシケイジがいれば、勝てる。
あの頂が取れるのだ。
『圧倒的な速度で逃げる、逃げる。最終直線にはいってケイジが逃げる』
ヒシケイジは、強い馬である。
その事実を競馬場にいるすべての人間が実感したのは、ヒシケイジが第三コーナーを曲がり切り最終直線へと入ったときであった。
どよめきが中心であったスタンドも、ヒシケイジが一切速度を落とさずに正面へと帰ってくると話が変わってくる。
大逃げ出来るほどのスタミナがある。何より早い。
それどころか、最終直線に入ってから石破志雄が初めて手綱を扱き、どこか余裕そうに駆け抜けていたヒシケイジがぐっと加速する。
どこにその余力があるのか、陣営の人間以外が目を疑うような光景。
事前の情報を信じてヒシケイジを軸に据えていた人々の歓喜の声。
逆張りで軸から外して自棄になった人々の怒号。
今日、福島競馬場に集まったありとあらゆる人間の感情を混ぜ込んで、スタンドはメイクデビューとは思えないほどの声で沸き立っていた。
『後方、差が開いていく、サマーサルサ失速、二番手、一番ヒラボクインパクト。変わらず四秒差のセーフティリード』
ヒシケイジはその歓声と罵声を一心に浴びながら、石破志雄の指示に合わせて力を抜いてゴールを駆け抜ける。
自分自身、これ以上なく確信する完全な勝利であった。
『メイクデビューから圧倒的な大逃げを見せつけた、ヒシケイジ。今悠々とゴールイン』
そうだ、俺はレースに勝ったのだ。
ああ、勝った、勝った。
面白かった。
ただ、全力で走り抜いただけなのに、なんでこんなに面白いのか分からない。
結果だけ見れば、ただ、走っただけで競った気はまったくしないのだが――
石破志雄という相棒と共に手に入れた勝利となれば話は変わってくる。
「ま……いい走りだったよ」
相棒の声を聴いて、ヒシケイジは高揚した意識を徐々に落ち着ける。
そうか、良い走りができていたか――相棒から見ても、そう見えたのか。
『二番手争いは、一番ヒラボクインパクト、5番ショウナンバーズ、ミススパイダー……」
事実、今日の勝ち時計は1:47.8、上がり3ハロン33.6。
大逃げの結果生まれた高速レースであったとしても、ヒシケイジは確実に後続を置き去りにしていた。
「でもまだ一勝、気は抜くなよ」
相も変わらず石破志雄は安堵するヒシケイジを引き締めるように言葉を続ける。
だが、一見厳しい言葉に反して、その声色は明らかに喜びが滲み出ていた。
そんな彼の表情に、ヒシケイジは相棒の努力が報われたようで、なんだか少し嬉しくなったのであった。
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明日も1800投稿予定です。