感想も励みになっております。
2010年8月、晴れ晴れとした日本晴れの中――ヒシケイジは高原の空気を吸っていた。
ヒシケイジと信楽ノーザンファームという栗東から40kmほどの場所にある新設の「外厩」との相性は悪くなかった。
エアコン生活も悪くない。
春ほど食は太くはないが、毎日10kgは飼い葉を食べ、今も青草をもしゃもしゃと喰らっている。
勿論、休養にも余念はない。
7月上旬にはコズミも引き、昼の放牧の間、ひたすらに分からせ合いに興じるだけの気楽な日々でリハビリも進めた。
だが、たまに見に来る早山のおっちゃんと、厩務員の土井さんの表情は余り明るくはなかった。
ヒシ陣営の夏戦線は、決して順調というわけではないらしい。
その分、彼らが自分にかける期待は今以上に高まっていくはずだ。
次のレース、失敗はできない。だからこそ今は休んで青草を食う。
今以上に体が育てば、それだけ他の馬とのアドバンテージも広がり来年のクラシックが有利になる。
「ふ~」
周囲に馬の多い放牧地とはいえ、ヒシケイジに絡む馬は決して多くはない。
一か月強繰り返してきた分からせ合いのお陰で、ボス馬というほどではないが、群れの中心としての地位を確立していた。
だが、逆に馬の社会の中で上に立つということはそれ相応に、周囲の馬に気を配る必要があるということでもある。
ヒシケイジはご近所付き合いといえど、仕事は仕事だと思い、一応ぼんやりと周囲を見渡す。
すると、放牧地の脇で、見知らぬ一頭の馬が何故か群れから逃げていることに気づく。
細い栗毛の牡馬であり、馬体からは若々しさを感じるから多分同世代なのだろう。
デコの流星が印象的で、ちょっと面長だが覚えやすい顔だ。もう、覚えたぞ。
信楽ノーザンファームは馬の移り変わりは激しいとはいえ、群れと馴染めない馬はそう多くはない。
そういうヤツが出た時に手助けしてやるのも、群れでの仕事の一環だ。
というか、馬達から逃げながらも、一定の距離から群れを眺めるのを繰り返している。
なんだコイツ、めんどくさいヤツだな~というのが、正直な印象だ。
傍目から見たら内気君だが、このオープンしたての信楽ノーザンファームにいるということは馬主からも期待されているのだろう。
何はともあれ、助けてやらなければならない。
(怖がるなよ~、)
ヒシケイジがゆっくりと近づくと、相手も同じだけ下がっていく。
歩き出しがワンテンポ遅いコズミが出ている歩き方を見るに、直前のレースの興奮がまだ残っているのだろう。
【こわい~、やめて~】
みたいな視線を向けられても、根気強くアプローチするのがコツだ。
ゆっくりとゆっくりと近づき、表情や耳で敵意がないことアピールしていく。
すると相手も、分かってくれたのか後退するのを辞めて、その場に立ち止まってくれた。
臆病だが、素直な奴だ。
ヒシケイジはそのまま、彼に交流の証として首を撫で、軽く毛を繕ってやることにした。
一歩踏み込んだ行為であったが、相手は思ったよりも抵抗しない。
気づけば反応も【やさし~、すき~】みたいなものへと変わっていく。
なんというか、子供っぽい性格のやつだ。
あれか、社会性がありすぎて、相手の顔色を窺ってしまうタイプか。
(じゃあ、精々、群れに馴染めるようにしてやるか)
ヒシケイジは、彼がすっかり安心したところで、群れの傍に連れていく。
ボス馬の傍に位置を作った後、群れの先頭でキャンターのペースで走ってやる。
「……?」
すると馬上に競走馬としての習性か調教の成果か、誰も乗っていないのに群れの中でチラホラと走りについてくる馬が現れる。
こうしたかけっこを共にすることで、馬同士仲良くなるのだとヒシケイジは経験上しっていた。
「ふんふ~ん♪」
上機嫌なヒシケイジは、そのまま何頭かを引き連れて放牧地を駆ける。
さすがにこの信楽ノーザンファームや栗東トレーニングセンターで鍛えられた競走馬はすぐには振り切れない。
だが、テンポを変えてギャロップで逃げれば、馬なりに追ってくる連中が追い付くことはそうそうない。
少なくとも一昨年の冬から今年の夏、自分に追いつけた馬はゼロだった。
事実、軽いスパートをかけると、もう後方は引き離されて地響きは遠くに消えていく。
このまえのレース、それ以前も幾度も味わった先頭の景色と同じだ。
寂しさはあるが、これで元ぼっちの彼も群れに馴染めるだろう。
ヒシケイジが、安堵した直後――
【まって、まって――】
と、でも言いたげに、栗毛の影がぐっと迫ることに、ヒシケイジは気づいた。
他の馬が、駆け込む地響きは遠くから聞こえてくる――
つまり、たった一頭、その馬だけが自分の背後に追いすがっているのだ。
思考が一瞬混乱しながら、肉体は動く。
加速、馬としての本能が後方から迫る怪物的な圧力から逃げようと危険信号を発している。
可能な限り本気で逃げているのに、その馬は追ってくる。
振り切れないどころか、迫る足音は確実に迫ってくる。
そうか、分かったぞ。
目の前に迫る現実から目を背けることはできない。
誠に信じがたい事実であるが――
この馬は、自分よりも足が早いのだ。
【まって、まって――】
信じられるか、そんなことが――許されるのか?
ヒシケイジは自らのプライドと本能の赴くまま、彼から逃げることに尽力する。
前へ、前へ――加速する。
いつ以来か分からない全力疾走で放牧地の柵を回る。
追いすがる怪物から逃げる。
その瞬間、確かに自分の走りが壁を越える気がする。
ふと後方に意識を向けると、ヒシケイジは確かにヤツを振り切っていた。
いや、振り切りすぎていた。
気づかなくても群れはずっと後方におり、栗毛の馬は途中からペースを落としてとぼとぼと近づいてきた。
【おまえ、ともだち】
ヒシケイジはどっと疲れる感覚を味わいながら、すりすりと甘えてくる彼にいいようにされていた。
なんというか、今のやり取りがあったうえで気楽な奴だ。
顔も覚えたし、名前とか知っておいてもいいだろう。
なにより、同年代でまともにビビらずに付き合ってもらえるグルーミング仲間は作っておいて損はない――
にしても、こいつ本当に強かったな。
相棒抜きだと、レースで勝てるか怪しい奴だ。
きっとクラシック戦線に出てきたら、とんでもないライバルになるに違いない。
楽しみな反面、恐ろしさを感じるなんて、まるで漫画みたいな展開に、ワクワクが湧き上がる中――
その日の夜、ヒシケイジは久々に襲ってきたコズミに痛むトモに気遣うよう、藁の上に倒れてぐっすりと眠りに付くのであった。
◆◇◆
いなかのおかあさんへ。
きょうも、おつきさまがきれいです
きょうは、たのしいことありました。
じぶんより、ずっとはやいうまと、はしりました。
すごい、なかまができました。
ともだちにもなれたから、さびしくないよ。
「うひひひ」
「オルフェーヴル、上機嫌ですね」
「馴染めてなかったとはいえ、メイクデビューから気が立ってたし。生枝調教師も喜んでくれるね」
栗毛の暴君が、予定よりも早い復活を遂げる中――スタッフたちの安堵をよそに季節は過ぎていく。
駿馬ヒシケイジと暴君オルフェーヴル。
後の世で「日本の二強」と呼ばれた世代の対決の火ぶたは――
2010年10月、中山9R芙蓉ステークスという形で切って降ろされたのであった。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。