2012年、秋、ロンシャン競馬場。
今年の凱旋門賞は、波乱なく定石通りのレース運びとなった。
『前半、どう力を抜いて行くかこれがレースの一つのポイントです』
ヒシケイジは相棒である石破志雄を信じて力を貯める。
残念だが、考え抜きのレースじゃオルフェーヴルには勝てないと分かっている。
自分の得意分野はよくわかっている。
この場にいるどの馬よりも有酸素運動を継続する能力。
スタミナと根性で一秒でも長くトップスピードを維持するレースに持ち込まなければ――
奴には、オルフェーヴルに勝つことはできない。
『さぁ、これから高低差10m、長く緩やかな坂を上って行きます――』
馬群が坂路を駆け上がる。
凱旋門賞、全然ついていける。
ペース自体は俺自身が作ってきた去年の宝塚記念や有馬記念と大差ない。
ロンシャンの芝は粗いが、パワーのあるヒシケイジには寧ろ相性がいい。
だから、ゆっくりと――肉体のギアを上げつつ位置取りを維持し続けられる。
「まだまだ、これからだ、焦らずキープしろ」
分かったぜ、相棒――
石破の言葉に、ヒシケイジは呼吸を整えた。
忘れてはいけない。
自分の上に乗る白地に青線の勝負服、相棒の石破 志雄は必ず何かをカマしてくれる。
今するべきことは、石破 志雄の策を不発にしないため――
好位置を付けたまま、世界最高峰のレースについて行きながら脚を貯めることだ。
『オルフェーヴルは現在後ろから二頭目、クリストファー・ソロモンは後ろから二頭目を選択しました。先頭はマスターストローク、そして二番手の位置は、ミハイルグリンカが立っています……さらには三番手、ロビンフッド』
ヒシケイジは、ロンシャンの坂道を怒涛のように疾走する。
既に隊列は、長い坂道を上る中でぐっと縦に伸びていた。
『冬支度を始めた木々の脇を抜けて一八頭が駆け抜けていきます』
石破志雄がヒシケイジの手綱を絞る。
他の馬のコースを遮らないように、抜け出せる位置、それでいてできる限り短いコースを取る。
『オルフェーヴルは後ろから二頭目です そして中団の位置取りですが内の方から黄色い帽子のグレートヘヴンズ……』
坂の頂上で再び一段となった馬群の先に待つのは、ロンシャンの急な下り坂だ――
ヒシケイジの位置取りはベスト、前のフォワ賞のような失敗はしない。
『さらには、青い帽子、日本のヒシケイジ、セントニコラスアビーが続いています』
「まだキープだ、ヒシケイジ」
『さぁ一番……坂の頂上、10mの一番高い所を上り切って急な下り坂が待っています』
ヒシケイジ以外の馬も坂道による加速で、一気に競馬が動く。
ヒシケイジも自らの体をバネのように弾ませる。
そうして、ぐんぐんと、体を前へ前へと送り出すようにストライドして大地を蹴る。
血統的にスタミナを重視しているとはいえ――
ヒシケイジはスピードもまた、世界屈指と呼ばれるにはふさわしいものだった。
『先頭はマスターストローク一馬身半のリード、そして二番手にロビンフッド、三番手の位置からミハイルグリンカ……』
(うおお、俺はついていける、ついていけているぞ、相棒――!!)
ヒシケイジは遠心力に膨れ上がる体を抑えながら、ポジションを維持する。
我慢だ、競馬は我慢。勝利に逸る心を我慢すると、周囲の景色が後方に嫌に早く流れていく。
やっぱり、石破志雄は、俺の相棒は競馬が上手い――
今、ヒシケイジの体を支えるのは、鞍上と日本に残して来た陣営への信頼だった。
自分の背に跨る相棒が、誰よりも自分を信じている。
だからこそ今、自分が頑張らないわけにはいかない。
『さぁ第二コーナーの坂の下りです 先頭マスターストローク、リードが二馬身半から二馬身あります』
ヒシケイジは地面が爆発するような轟音と共に、三コーナーに差し掛かる。
中段、中央、位置取りは完璧だ――足の回転数を上げ、加速するサラブレッド達に追走する。
先行したマスターストロークはどうせ失速する。
目の前の馬群は広がるが、目の前の空間は埋まらないことは分かっている。
まだ焦って前に行く必要はない。
だが、悠長にしていても――オルフェーヴルの追い切りに勝利を攫われる展開になる。
『さぁ各馬がフォルスストレートに掛かってきました』
坂は終わり、直線が広がる。
狭い直線、他の馬は我慢して待っている。
『ロンシャン名物のフォルスストレート』
ヒシケイジは、完全に自分のレースが出来ていた。
スタミナは、まだいくらでも残っている。
疲労の色が見える馬も多い――全然出し抜ける。
断言する――あのオルフェーヴル以外は勝負にならないだろう。
『オルフェーヴルは我慢している』
(でも、これじゃ足りない)
ヒシケイジは、嫌でも全てを理解していた。
オルフェーヴルは今日に向けて、120%の力を取り戻してきた。
脳裏に浮かぶのは敗北の恐怖。
恐ろしい。自分の後ろから迫るあの馬が怖い――負けるのは、やっぱり怖い。
ヒシケイジは、その場でのたうち回りそうな恐怖を抑えながら――一心に、祈った。
『ソロモンはまだ我慢させています』
相棒――どうするんだ!!
「ケイジ、行くぞ――」
その時――
ピシャリと、音を立てて――石破 志雄の手綱がしなった。
瞬間、ヒシケイジの脳裏に目の前の光景が開けたような閃光が奔った。
「行けッ!! 行けッ!! ヒシケイジ!!」
相棒が相棒が俺を信じてくれる。
ヒシケイジの脳裏に溢れたのは、今まで感じたことない感情だった。
相棒が掛け声と共に鞭をはたく。
ビシバシと、ヒシケイジを鼓舞するような猛打が飛ぶ。
痛くない――けれど、伝わるのは、刺激だけじゃない。
それは、石破 志雄の抱いている覚悟そのものであった。
俺は知っている。
共に競馬場という戦場で、幾度のレースを共にしたからこそ――今、相棒が誰よりも自分を信じていることを知っている。
だからこそ、ヒシケイジは自らの意志で、肉体の限界を凌駕する「挑戦」を決意する。
競走馬としての本能、人間の意志――そのすべてを、このレースを勝つために“集中”させるのだ。
ヒシケイジはトモの筋肉を、ただひたすらに躍動させ、銀色の蹄鉄で芝と地面を踏みしめる。
まるで大地から湧き出るエネルギーを吸収するかのように、ヒシケイジは奔る。
ランボルギーニやランドクルーザーと例えられた馬体が、みるみるうちに馬群の前に出る。
『おおっと、ここでヒシケイジぃ~~~~~、明らかにスパートをかけて前に出たァ!!』
相棒のことを信じているからこそ、一切の躊躇は要らない。
今ここで、先に進めと言われたから――今この瞬間を俺は信じる。
「行け、行け、もっとだ、もっと行け!! お前の『全力』の先に行け!!」
相棒の声が聞こえる――今この瞬間に、することは一つだ。
魂を振るわせて、ただ、脚を全力で回し続けることだ。
ああ、いいぞ、相棒、前へ行こう――!!
前へ行け、前へ――前へ出ろ!!
前へ、前へ、前へ、前へ!!
前へ、前へ、前へ、前へ!!
『先頭はヒシケイジィ!? オルフェーヴルは後ろから二,四頭目』
「いいぞッ、ケイジ!! 後は、お前が思うよう走れ!!」
石破志雄の声色が、徐々に笑みを含んでいく。
ヒシケイジでなければ自棄同然の、前代未聞の早仕掛けは成功した。
ステイヤーとして世に生まれ、逃げ馬として一世を風靡したスタミナへの信頼。
前日の雨によって創り出された、レースを減速させる不良馬場。
ノーマークから来る馬群全体の混乱。
全力疾走時にヨレるクセの土壇場での解消。
この凱旋門賞の大舞台で、すべてのピースがそろう。。
石破志雄はそれを信じて、ただ腕を振るい、ヒシケイジはそれに答えたのだ。
ついに――最終直線が見えてきた。
泣いても笑っても、ゴールまでは残り533m。
この一世一代の賭けに、勝利の女神はほほ笑むのか――
俺に鞍上で笑いながら、自らの起こした波乱の果てに勝利が降ってくることを信じていた。