ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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2010冬、ヒシケイジ、覚悟を決める。

 2010年11月、栗東トレーニングセンター、ウッドチップコース。

 

 その日もヒシケイジはヒシロイヤルとヒシパーフェクトを相手に、位置取りからスパートをかける練習を繰り返していた。

 鞍上に座った調教助手が石破をまねるように鞭を振るう中、ヒシケイジはウッドチップコースを駆けだしていく。

 

 一杯に走る前方の壁相手に、騎手に指示された場所でスパートをかける調教。

 初めて一日目は面食らったが、二度目からは別だ。

 

 この調教の目的はよくよくわかっている。

 

(逃げだけじゃ、勝てない。そうだろう――)

 

 そうだ――大逃げは、確かに俺の脚質にあっている。

 

 けれど、それだけじゃ勝てない。

 

 芙蓉ステークスの後、幾度も早山のおやっさんが、土井さんとオルフェーヴルの追い込みの速度に驚いていた。

 かろうじてレース前半でペースを創れていたからいいものの、次はないかもしれないらしい。

 

 いいぜ、だったら、別の勝ち方を探るまでだ。

 アニメでも漫画でも、勝ちに慢心して、大切な本番で負ける奴が一番カッコ悪い。

 

「おおっ、いいよいいよ!! ヒシケイジ!!」

 

 ヒシケイジは、最終直線に入ったところで溜めた脚を解放するようにぐっと加速する。

 平地を駆け抜けるスプリンターがするような加速は、あの、無酸素運動中の最高の瞬間レベルではないとはいえ――

 

 古馬であるはずのヒシロイヤルとヒシパーフェクトが一杯に走る傍を、ヒシケイジは悠々と抜け、目の前から馬が消える。

 あの日のオルフェーヴルほどじゃないが、悪くないスパートだ。

 

 これを適切なタイミングで出せれば、クラシックでも俺は確実に通用する。

 そう感じるほどの直線だった。

 

「は~~~~、気持ちいい~~~~!!」

「おい、馬鹿!! その前に報告だろ報告!!」

 

 我ながら完璧な走りを見せたところで、早山のおやっさんが血相を変えて駆け寄ってきていた。

 そうだ、これは調教である。ヒシケイジは天狗になりかけていた自分を恥じながらおやっさんに視線を向ける。

 

「いや~、いい走りですよ、ヒシケイジ……前ほど、ヨレないし――精神的に成長してるんですかね?」

「ま、そう記録には残しておくさ、おめぇさん的にヒシケイジの脚質はどう思うね」

「あ~、逃げから、差しまで、なんでも行けそうですけどねぇ……?」

「そこは、ハッキリするのがお前の仕事だ、ドアホ!!」

 

(ああ、そこまで言わなくても……)

 

「ま、石破志雄ならお前さんを一番強く乗ってくれるはずさ――」

 

 涙目でとぼとぼ帰っていく調教助手を背に、おやっさんがヒシケイジの肩を叩いた。

 今、老いた男からは今年の春、不意の斜行をかました時とは正反対の期待のまなざしが、今、ヒシケイジに向けられている。

 

(早山のおやっさん、ああ、朝日杯でも俺は絶対、オルフェーヴルに勝つ――!!)

 

 かくして、強い覚悟を抱いたヒシケイジであったのだが――

 覚悟を越える非常な現実が、その日、ヒシケイジへと襲い掛かった。

 

◇◆◇

 

 2010年11月13日。

 ヒシケイジは、早山厩舎で土井さんが用意してくれた飼い葉をもしゃつきながらラジオを聞いていた。

 

 今日は第46回京王杯2歳ステークス。

 朝日杯前に行われるレースの中で、最も期待される馬がそろうG2レースである。

 

 芙蓉ステークスに快勝したことで、賞金的に朝日杯にはねじ込めるから――

 と、休暇と調教を続けていたヒシケイジも、今日ばかりは食い入るようにラジオを聞いていた。

 

 このレースには、オルフェーヴルが出ている。

 ほぼ最高のコンディションで挑んだ芙蓉ステークスで、あれほど自分を追い込だ馬がここで勝ち抜いてこないはずがない。

 

 必ず朝日杯に奴は来る。

 ここで沈むようなオルフェーヴルじゃないだろう――と思いながら、今日10kg目の飼い葉をもりもりと食んでいると――

 

『スタートしました。先行争い、内でテイエムオオタカ』

 

 実にあっさりとレースが始まった。

 

『そして後方オルフェーヴル、さらには、オーケンウッドが続いて三四コーナー中間点に向かいます』

 

 レースの内容が気になって、モグモグと飼い葉を噛む顎が止まらない。

 コースは短いとはいえ、オルフェーヴルの時計は群を抜いている。

 

 幾ら同年に生まれた牡馬のトップが集まっているとはいえ――

 オルフェーヴル、お前が負けるようなヤツが、この中にいるのか。

 

『第四コーナー、600を切りました。その後は一馬身半開いて、内はグランプリボスーーー』

 

 そう思いながら、ラジオを聞いていたヒシケイジであったが、ふとある異変に気付く。

 

『さあ、先頭完全にグランプリボスに代わって、これに内からリアルインパクト迫って三番手接戦!!』

 

 レース後半に差し掛かろうとしているのに

 おいおい、まったくオルフェーヴルのことが聞こえてこないぞ――

 

『グランプリボス、ゴールイン!! リアルインパクト二着、三番手テイエムオオタカ残したか!!』

 

 そう疑問を想ったころにはもう遅い。

 オルフェーヴル、着外。

 

 彼の手に朝日杯の切符は舞い込んでこなかった。

 

(えっ、朝日杯、オルフェーヴル出れないの!?)

 

「ブッヒヒヒ~~~~~ン!?」

「おわっ、ギョロ~!? びっくりするだろぉ!?」

 

 ヒシケイジはその事実を聞いて、飼い葉桶をひっくり返しそうになるくらいに動転した。

 奴が負ける? 奴が負けるほど、此処にいる奴は強いのか!?

 

(負けたのか――俺以外の奴に……)

 

 ヒシケイジは自分がプレイしたことがない乙女ゲームの主人公のようなセリフを想いながらも、寝藁に寝転がった。

 こんな時は、現実逃避をするに限る。

 

 まさかライバルが、トーナメントを勝ちあがってこないなんて――

 そんなことが、起きたらアニメや漫画じゃ大問題だ。

 

「おーい、ギョロぉ……どうしたんだよぉ……」

「ぶひぃ……」

 

(でも、これは現実なんだよな……)

 

 そうだ、幾らオルフェーヴルが、強い馬だとは言え――

 これは現実だ。勝負の世界に絶対はない。

 

 だが、ヤツがいない朝日杯で、俺はワクワクすることが出来るのか――

 

 グランプリボス、グランプリボス……

 

 そういえば、栗東でちらっと見た気がする。

 

 ちょっと影が薄くて、印象がないが――だが、それでも次のレースはヤツの得意な距離での勝負になる。

 

 ヒシケイジは競馬中継が行けないのかとラジオのダイヤルを回した土井さんに暖かい視線を送った。

 チャンネルは気づけば聞きなれた地方FMへと変わり、明るいアイドルソングが馬房に流れ出す。

 

「ブヒッ」

「おお~ギョロ、お前もやっぱリラックスしたかったんだな~!!」

 

 相棒ほどツーカーではない土井さんの笑顔を見ながら、ヒシケイジは悠々と昼寝を始めた。

 

 オルフェーヴル、別にこれでお前との格付けが終わったわけじゃないんだぜ。

 お前は強い馬なんだ。だから、絶対に勝ちあがってこい――

 

 ギョロの心の声はいざ知らず、その日からオルフェーヴルは栗東トレーニングセンターへは戻ってこないまま―― 

 刻一刻と、二歳馬の頂点を決める戦い「朝日杯フューチュリティステークス」の時は迫っていた。

 

◆◇◆

 

 いなかのおかあさんへ。

 ぼくはれーすにまけすぎてしまったようです。

 

 いけぞえがかなしんでいて、ぼくもかなしい。

 れーすにまけるということは、くやしいようです。

 

 あと、じしゅせいがたりないと

 いけえせんせいが、はなしておりました。

 

 ひさしぶりにもどってきた、ぼくじょうで。

 じしゅせい を はぐくむよう がんばるそうです。

 

 だーびーまでには どうにかしよう と

 いけぞえ と いけえせんせいが 言っておりました……

 

「うひ……」

「オルフェーヴル、悲しそうですね」

「兄のドリームジャーニーも、レースのことは分かっていたというし……オルフェーヴルも負けたことを理解しているのかもしれん」

 

 栗毛の暴君が、己のふがいなさを嘆く中――

 彼の自主性のなさという課題の解決は、結局、日本馬初の凱旋門賞の勝利を待つこととなる。

 

 けれど、後の世でオルフェーヴルを知るものは語る。

 2010年11月、京王杯2歳ステークスは彼にとっての一つのターニングポイントであった。




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