2010年12月、中山競馬場11Rは朝日杯フューチュリティステークス。
ヒシケイジはマークされ得意の逃げを封殺された直後、中団へと下がっていった。
『マイネルラクリマ五番手、ブラウンワイルド、さらにエーシンブラン』
ヒシケイジを逃げ一辺倒の馬だと信じた観客が、掌の馬券を握りつぶしかけるような光景の直後――
既に初めから「差し」を想定していたかのように、馬群の中団にヒシケイジは収まっていた。
こう言っちゃなんだが、俺は別に「折り合い」が悪いわけじゃないぜ。
相棒である石破 志雄もそれはよくわかっている。
幾度も競馬ラジオで聞いてきた――脚を貯めて差すようなレースーー
ぶっつけ本番だが、今日この場でそんなレースを俺は見せてやる。
『これら広がって二コーナー回って、向こう正面に出ました』
(何が起きても心配するな、か――)
ヒシケイジは前を追う馬に合わせて巡行するように脚を貯める。
確かに今日の朝日杯は、距離はマイルでハイペース。
蹄鉄が地面を踏みつける轟音と共に、風を切るようなレースだが――
これも初めてじゃない。
芙蓉ステークス、オルフェーヴルに追われたあの瞬間を俺がやるんだ。
追い切り調教で、生添ジョッキーがやろうとしたような虎視眈々とした走りを見せてやる。
今日の俺は「挑戦者」だ。
相棒の合図があるまでペースを落として、前の馬に合わせてついて行けばいい。
『その後ろリアルインパクトが続き、ヒシケイジも中団の前に行って』
今日の指示は、何が起きてもビビらず、石破 志雄を信じることだ。
なら、ここまでは――俺の相棒「石破 志雄」の想定の範囲内だ。
『そのうちにグランプリボス、さらにはアドマイヤサガス、中団の後ろまで上がりました』
(やっぱ、すげぇな石破 志雄……にしても、これが差しの景色か)
ヒシケイジは余裕丸出しで、周囲の光景へと意識を向けた。
前後からは、感じる周囲の馬たちの息遣いは皆レースに必死だ。
中山の大歓声も、ここまでは伝わってこない。
蹄鉄の轟音、自分の息遣い。
息を整える相棒の気配――
『その後、タガノロックオン、トキノゲンジ、そしてリフトザウイングスは後方から三番手――』
なるほど、みんなの意識は先行していい位置をしっかり確保した一番人気のサダムパテックに向いている。
見事にライバルに注目が集まった状態は、後で評価をひっくり返すには最高の展開だ。
それにしても、クリストファー・ソロモンだっけ。
アイツのお陰で抜け出せなかったんで、やっぱ全殺し決定です。
『あと、マジカルポケットとロビンフット並んで後方です』
「おいケイジ……焦らずキープしろ」
ヒシケイジは集中と余裕で引き延ばされた意識を引き締め、ペースに乗っていく。
分かってるぜ、相棒――コイツらは強い。
この距離なら、オルフェーヴルよりも強かったんだ。
油断はしない。ついて行って仕掛ける、相棒、お前を信じる。
『前から後ろまで12、3馬身の隊列が三コーナーを回っていきます』
ヒシケイジは、体がそれるほどの遠心力を受けながらコーナーを回る。
苦しいペースで走る他の馬たちが、悲鳴のような息を上げていく。
『オースミイージー先頭で800を切りました』
テンが速く、レースについて行くのがやっとな馬も多いみたいだが――
俺が
『一馬身半のリード、シゲルソウサイ二番手。ブラウンワイルド三番手に上がりました』
ヒシケイジは、前に意識を向ける。
先行集団と距離は大して離れちゃいないが、馬の尻がぎっちりだ。
『その後、サダムパテック、エーシンブラン、マイネルラクリマ、最内二番のリベルタス』
(これ、俺が抜け出るスペースあるのか?)
ヒシケイジは想像と現実との差に怪訝な表情になった。
目の前に見えるのは七頭分の馬の尻だ。
『これらが広がって、三四コーナー中間600を切りました』
(石破 志雄のお手並み拝見コーナーかな――)
『その後ろ一馬身半差。リアルインパクト』
ヒシケイジが考えを巡らせた直後、石破 志雄は手綱を引いた。
徐々に位置取りを上げるように、前のリアルインパクトの横に付ける。
【えっ、こいつ、はやくね――】みたいな表情をするリアルインパクトは無視だ。
俺の敵は、サダムパテック。いや、サダムパテックですらない。
一位だ――俺はこのG1レースで、一位が欲しいんだ。
だから頼むぞ、俺の相棒――
『外にヒシケイジ、この二頭の後ろにグランプリボス。外からアドマイヤサガス、先頭まで五馬身くらい』
馬群の距離はぐっと縮まり、コーナーが近づく。
手綱に合わせてペースを上げ、エイシンブランをパスしながら、さらに馬体を加速させていく。
『大外を回って、その後ろ一馬身半差手が動いてリフトザウイングス』
第四コーナーに入るころ、ヒシケイジは――
先行していた馬群の、視界が開けたちょっと外側という好位置についていた。
ええ、相棒――これも、想定通りなのか!?
だが、この状況を、魔法か何かかと疑っている暇はもう一切ない。
『第四コーナーから直線に向かいます』
「ヒシケイジーー行け!!」
――パシィ!!!
ヒシケイジに合図同然の鞭が入る。
直後、ヒシケイジは溜めに溜めたトモの筋力を全開にして、ぐっと地面を踏みしめる。
芝がぶっ飛ぶような感触と共に、一杯の加速が始まる。
ヒシケイジは飛ぶように――広いストライドで、最終直線へと飛び込んでいく。
『逃げるオースミイージー、オースミイージー先頭で、半馬身のリード』
――パシィ!!! パシィ!!
ついにレースは最終局面に突入した。
ヒシケイジの眼前で、先行するサダムパテックが、加速を掛ける。
スタンドからは怒号や悲鳴にも似た歓声が上がる。
「やっぱやっぱ、サダムパテックだ――」
「ソロモン信じておけば、勝てるんだってッ」
「マジで速いッ、そのまま行けッ、2,2倍だぞッ」
今日の主役は、まだサダムパテックだ。
それでいいぜ。俺もわかる。サダムパテックは、本当にすごい馬だ。
正直後ろから見ているから分かる、アイツはマジで馬鹿みたいに早い――!!
あんないい位置から、本気で脚を使えば、どうなるかなんて一目瞭然だ。
『サダムパテック前に出る。シゲルソウサイと、リベルタスが追ってきた』
――パシィ!!! パシィ!! パシィ!!! パシィ!!
オースミイージーのマージンは一瞬で喰われた。
他の先行馬も、横一列に広がってスパートをかけていく。
前からじゃない。後ろもだ。
俺の後ろから、突っ込んでくる気配がある――
誰だ、グランプリボスか――でも、もう関係ない。
『中から飛び出しているヒシケイジ、最内からはリアルインパクト!!』
(最高だ――最高だ、相棒!! いいぞ、お前ら、俺を、俺を見ろ!!)
――パン!! バン!! バン!! バン!! バン!! バン!!
ヒシケイジの脳内が一瞬スパークするような感覚と共に――
瞳が輝き、まるで羽が生えているように駆ける高速ストライドのギアが、一段跳ね上がる。
「うわあああああああああああああ!?!? 嘘だああああああああああああ!!!!」
歓声が瞬時にどよめきと、歓喜の声に変わる。
どう見てもステイヤー血統にしか見えない葦毛の馬が、悪夢のような速度で「ぐん」と伸びてくる。
「パパ、見て、見て!! あの怖いお馬さんが来たよ!! 今夜は焼肉だよ!!」
「やっぱ、あの葦毛だッ――信じてよかった……ッ!!」
「おいおいおい、やっぱ16-10が正解なんだって、ボックスだから全部買ってるけどさぁ!!」
「ヒシケイジ、凄いな――仕上がり良かったもんな!!」
「ああ、すごいよ、アイツ、マジでマジで半端ないッ!!」
「ムホホホホホ!! 石破 志雄の積極的な仕掛け!! スレのアンチ共、震えてまて!!」
『横に広がってる追い比べとなっているが、先頭はまだサダムパテック!!』
(今すぐに、追いついてやる――サダムパテック、絶対に撃墜してやる!!)
ヒシケイジは、目の前のサダムパテックの外を目指して、持てる全てと共に加速していく。
最高の瞬間には届かないが、今の自分がヨレずに出せるトップスピードだ。
日高町で生まれて、母さんと過ごして――
田辺さんに世話してもらって――
牧場の仲間と走って――
綾部オーナーに見定められて、毎日研鑽して――
早山のおやっさんと、厩務員の土井さんに出会って――
門田さんに信じてもらえて、相棒、石破志雄に教えられて――
オルフェーヴル、生添ジョッキーと鎬を削って――
今、皆の思いを背負って走る、俺は夢を見せる為に走る!!
だから速く、もっと速く――動け、俺の心臓、動け俺の脚!!
今勝つ、今日勝つ、ここで勝つ!!
『ヒシケイジ、サダムパテックを追う!! ケイジが追いこむッ!! ケイジが捉えるッ!!』
サダムパテック、悪いがもう目の前にはお前しかいない。
――パン!! バン!! バン!! バン!!
――パン!! バン!! バン!! バン!!
相棒の鞭の感触だけが、俺に伝わってくる。
ああ、スタンドから聞こえる歓声もどこか遠くに聞こえる――
「いいぞぉギョロッ!! 早山のおやっさぁん!! 行っちゃいますよ!!」
「ギョロのヤツ、レースの中で掴みやがった……田辺さん、これは、ダービー行けますよ……」
「まさかうちの牧場からG1馬が出るなんて早山先生ありがとう……いけ、いけいけッ、ギョロッ!! いや、ヒシケイジ!!」
おい、悪いなサダムパテックーー今日の主役、実は俺なんだわ。
驚くクリストファー・ソロモンの表情だけ、ちらっと見て――後はもう、前だけを見る。
『ヒシケイジ差し切ってゴールイン!!』
ヒシケイジがサダムパテックを視界の端から消して、ゴール板を駆け抜ける。
石破 志雄が笑顔で腕を上げる――つまり、勝った、勝ったんだ。
『二着サダムパテック、三着グランプリボスか――』
サダムパテックを抜いて、俺が勝ったんだ!!
最高ォだぁああああああああ!!
俺が、俺が勝ったぁああああああああ!!
「はぁ……ケイジ、ありがとな……」
「ブヒヒヒヒヒッ」
おいおい、石破 志雄。
もっと嬉しそうにしろよーー
でもありがとうを言うのは、俺の方だって――
「これで、嫁さんにドヤされなくて、済むわ……」
「ブヒッ」
ああ、良かったな、相棒。
「石破、おめでとう!!」
「初G1だろッ」
「ありがとうございますッ!!」
ヒシケイジは相棒が他のジョッキーから祝福の声を受ける中、歓声を受けて走る。
それにしても、尻痛てぇ~~俺、今日何回……鞭でしばかれたんだっけ……
一着、十六番ヒシケイジ、勝ち時計は1:33.7。
上がり3ハロン33.4。
誤字脱字報告、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。