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2011春、ヒシケイジ、再始動
2011年2月、栗東トレーニングセンターの坂路コース。
2010年度を戦い抜きJRA賞最優秀2歳牡馬となったヒシケイジは、放牧先として選ばれた信楽ノーザンファームから栗東トレーニングセンターへと戻って調教を再開していた。
まだ、冬の寒さが残る二月であるが、雲の少ない空は気分のいい晴れ間が見えている。
そんなコンディションのいい一日ではあるが、調教師である「早山」のおやっさんは、目深帽を深く被ってサングラスの奥に浮かない表情を見せ――反対に厩務員の「土井」さんは、普段通りオーバーオールで胸を張り、明るい表情で人々に応対している。
「ギョロ……ヒシケイジの調教では追い切りがない日は、最低でも坂路一本を週四回を基本にしています!!」
「えっ……凄い調教量ですけど、嫌がらないんですか?」
「はい、ヒシケイジはホントに調教を嫌がらないし、むしろ無理に走ろうとするくらいですから!!」
「確かディープインパクトのだいたい2倍の調教量かぁ……そりゃ早いなぁ……」
ヒシケイジは感心する見学者たちがずらっと並び、フラッシュ抜きでシャッター音が響く中、今日も悠々と調教に励む。
栗東トレーニングセンターに戻ってから、ほぼ毎日のように見学者が着て早山厩舎はてんやわんやの事態になっていた。
曰く、ツイッターでこの前の朝日杯で報道陣に見せた笑った写真と、どこかで取られた気の抜けた写真が一緒になった画像が、“バズ”ってしまったおかげで、見学に来る人が増えてしまったらしい。
俺としては贈り物の野菜が増えたのは非常に喜ばしいのだが、「早山」のおやっさん的にはあまり嬉しくない様子だ。
確かに馬として人に注目されるストレスがないわけではない。
自分たちや厩舎の他の馬にかかるプレッシャーも、半端なものではないだろう。
「うおお……すまん、ヒシケイジ……もう限界……」
現に俺の上に乗ってる実は名前も覚えていないモブ顔の調教助手Aくんは、明らかに体調が悪い。
さすがにいかんでしょということで、途中で逆走し早山のおやっさんのもとに戻ると周囲からは心配の声が上がる。
「こらァ、馬鹿が……何してる」
「すみません、もう限界でーす……」
「おい、馬鹿!!」
緊張と体調不良でフラフラになってしまった調教助手くんは、タンカで運ばれて行った。
「驚かせてすみません、どうやら調教助手の体調不良をギョロ自身が察したようです!!」
「やっぱり調教って大変なのねぇ……」
「でもそうなったら、誰がヒシケイジの鞍上に乗るんだろう」
ヒシケイジは、集まった人々に笑顔を見せて場を繋ぐ土井さんを見て、確かにこれで影響がないは嘘だなと思った。
俺は正直、覚悟を決めたこともあり、注目はされるに越したことはないというスタンスだが、こういうアクシデントを「早山」のおやっさんが警戒していたと思うと、確かに注目されることは良いことばかりではないようだ。
って――ことは、今日の俺の鞍上はどうなるの?
もしかして、今日の調教、これでおわりですか!?
正直、もっと走りたかった……
「ブルル……」
「ヒシケイジが、悲しんでいるわ……」
「ギョロは走るのが好きな馬ですからね!! とはいえ、調教は鞍上に誰かを置かなければ始まりません、早山のおやっさん、今日はもうこれで終わりですか!!」
「声がでけぇよ土井……安心しろ、そろそろ来ることになってる」
(来る――何が来るんだ?)
ヒシケイジと、厩務員の「土井」さん、周囲の人々が丸ごと頭上にはてなマークを浮かべる中――
遠くから、乗馬用のウェアにプロテクターを付けた男性がこちらへと駆け込んで來る。
俺にはわかる。
頭を丸めて眼鏡をかけているが、あのシルエットは――
綾部オーナーの傍にいた騎士団長じみた男、門田さんだ!!
「すみません。丁度、調教助手の子が救護室に運ばれていたのを助けていまして……少し遅れました」
「おう、
「はい、持ち馬がいる身での二足の草鞋になりますが、綾部オーナーにヒシケイジの調教をやりたいと頭を下げました――調教師としては新米ですが、乗り手としての腕は鈍っていません――早山先生、どうか僕を使ってください!!」
そういって、頭を下げる門田さんの肩を早山のおやっさんが叩く。
周囲にいた見物客は俺と土井さん含めて静かに彼らを見守っていたが――
二人が言葉もなく抱き合ったところで、誰ひとり歓声を止めることが出来なかった。
「ヒヒ~~~ン!!」
「おおっ、凄ぇや!! 良かったなギョロ、門田さんが調教助手なら百人力だぜ!!」
「ミラコーの親子二代騎乗が、こんな形で実現するなんて……」
「俺、門田厩舎の馬も応援しよ……」
「うるせぇぞ!! 土井、てめぇまで乗せられやがって!!」
「土井さん、
その言葉と共に、門田さんはヒシケイジの上に騎乗した。
確かに、この人なら周囲のプレッシャーに押しつぶされるということもなさそうだ。
「おぉ……なるほど……」
「門田……坂路、一本頼むわ――いけるか?」
「早山先生、了解です。見物に来た人の前で、恥かくような騎乗はしませんよ」
ヒシケイジは背に乗った男の合図通り、調教を再開した。
にしても、この人、馬に乗るのが上手い。
俺自身、去年春から大分走り込んだからこそ分かることがある。
馬と呼吸を合わせる折り合いの技術、コーナーを曲がるときの体重移動といったテクニックは相棒より上手だ。
(さすがは、門田さん。一流のベテランジョッキーの騎乗はレベルが違うぜ)
「ヒシケイジ、さらにパワーをあげたなっ!!」
「ブルルルルッ!!」
門田調教助手は、まるで子を見守るような感情を俺に向け、俺もヒシケイジとして全力で答える。
最終直線、馬なりとはいえぐんぐんと速度を上げてヒシケイジは脚を使う。
人生に“もしも”はやってくることはないが――今、共に全力を出せるこの瞬間は本物だ。
「ミラコーの子が、こんなすげぇ走りをするなんて……」
「なんていうか、いいもの見たな……」
実際、見物にきた人たちの多くが、シャッターを切るのを忘れるほどの快走であった。
坂路一本、馬なり四ハロン54秒9という時計は、我ながらいい時計である。
俺的にも感触は悪くない。
当然、もっと頑張れば良いタイムにはなるが――普段の調教でやり過ぎてもいいことはない。
何はともあれ、早山のおやっさんがいる場所に戻って審判を待つ。
「おう、流石は坂路コースでレースがあれば――間違いなく主戦やってた男だ」
「すげ……っ、早山のおやっさん、こんなのマジでクラシック三冠行けるんじゃないですか!?」
「馬鹿が、浮かれるのは早えよ……門田、どうだった」
鞍上にすわる門田調教助手は、ちらりと見物客を一瞥した後、笑顔を作る。
俺からは正直よく見えないけど、たぶん土井さんには野比のび太LV100みたいな男の姿が見えているに違いない。
「ヒシケイジは最高ですよ。馬体の張りも十分です。ただ――坂路だけじゃ分からない事は多いですね」
「それもそうかーーまた頼むわ」
ヒシケイジは「早山」のおやっさんと、門田調教助手の言葉にならない感情のやり取りを見ながら気を引き締める。
俺には分かる。
門田さんは間違いなく、何らかの不安要素を掴んでいる。
きっとそれは、芙蓉ステークスの後、生添ジョッキーが感じていた何かと同じだ。
早山のおやっさんも、門田さんも俺が聞こえるところで、不安要素の話はしない。
当然だ、馬に不安な姿を見せて、俺が不調になったら元も子もないからだ――
(なら、答えは俺自身が見つけるしかないってことか――)
ヒシケイジはその日、もりもりと18kgの飼い葉を平らげながら考え事をしようとして――
「おお、ギョロ……よく寝てるなぁ……」
疲れが出ていたのか――
普段通り、寝藁の上に横たわって朝まで爆睡した。
◇◆◇
その日の夜、早山厩舎の厩務員室では調教師である老将「早山」と、調教助手の「門田」が顔を突き合わせていた。
「忙しいところ悪いな――人の目も増えた。表じゃ、話せないことも増えちまったぜ」
「いえ、ライバルも多い馬です。懸念は表に出すべきではありません」
「門田、率直にどうだ」
「ヒシケイジは、大分挙動が素直じゃ無くなっています――どうも馬なりに走らせても、上手な馬が一杯走った時のような挙動になるんです。あと、ヒシケイジ自身、出せる全力が分かっているような走りで……本気のレースで求められる馬本来の野性的な感覚に、彼自身が目を背けているように感じました――これは、石破くんが頑張り過ぎましたね」
椅子に座った早山は唸る。
眼鏡を光らせる門田の判断に間違いはない。
元よりそうしなければ走らなかった馬――とはいえ、問題があることは事実である。
調教師として、受け取めなければ始まらない――
「つまりだ、本質的には何も解決していないと?」
「そうですね。ヒシケイジが彼と本当に同レベルの馬を追うとき――闘志の有るヒシケイジは間違いなく全力で走り、斜行するでしょう」
「これを解決する手段は――」
「早山先生も分かっているでしょうがレースの中にしかありません。正直クラシックは、捨てるくらいの気持ちがいいでしょう――と言うのも、思った以上にオルフェーヴルが仕上がっています」
「下馬評はギョロかサダムパテックだと思ったんだがな――」
「ハッキリ言って見れば分かります。きさらぎ賞は二着でしたが……上がり三ハロン、33.1秒です」
「33.1秒……ヒシケイジの本格化、間に合ってくれればよかったが」
「そうですね……苦しい戦いになると思います。綾部オーナーには覚悟させておいてください」
不穏な雰囲気が陣営に漂う中ヒシケイジのクラシックは幕を開ける。
かくして彼のクラシック初戦は報知杯弥生賞、三月六日に決まった。
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明日も1800投稿予定です。