打倒、オルフェーヴルを狙う葦毛の牡馬ヒシケイジ。
彼は錦の舞台、凱旋門賞において、最終直線を前に一歩先んじて馬群を抜け出していた。
『さぁーッ! 最後の直線、今最後の直線に各馬が入ってきます!』
観客席からは、歓声と共に悲鳴が湧き上がる。
『行け、日本二強!! 日本の夢を乗せてさぁ行け!』
ノーマークの日本馬、ヒシケイジが悠々とロンシャンのストレートを駆け抜ける。
先ほどまでオルフェーヴルに注目していた観客は、今や葦毛の豪駿の姿にくぎ付けになっていた。
(まあああぁぁぁぁぁぁぇえええええええぇぇえええええええええええええーーーーーーーーっ!!)
ヒシケイジは只管に手綱を扱く石破志雄の熱意を感じながら奔る。
時間が遅くなった感覚の中、もう何も耳には入らない。
周囲から聞こえる歓声、罵声、すべてがどこか遠くに消える――
自らの心の中で上がる悲鳴だけを頼りに、ただひたすらに太陽が地面に沈む100倍の速度で大地を駆ける。
『残り520mだ! 先頭は、ヒシケイジが先頭だ!! 父の奇跡、あの菊花賞をロンシャンで見せるのか!?』
久々に味わう先頭の景色――ああ、いい気分だ。
ヒシケイジの脳裏に走馬灯のように浮かぶのは嘗て、故郷の日高町で野原を駆けまわっていたころの記憶。
あの頃の純粋な走ることの楽しさ、何もかもを忘れて走ることだけに熱中する気持ちを俺は今まで押し殺して来た。
何時しか馬としての本能より、人としての心を優先してレースを走っていた。
今なら分かる。俺は間違っていた。
そんな甘えたモチベーションで本能とエゴをむき出しにして、すべてを走りに注ぐ良血の天才に勝てるはずがないだろ。
馬なのだから、馬らしく、最高の瞬間を求めなければ、ゾーンの先なんて行けやしない。
『そして外からも栗毛の馬体が来たぞー! 日本のオルフェーヴル!!』
何より、俺は感じている。
背後からの影、正体自明の圧倒的なプレッシャー。
今日も焦って俺を追ってきたな、甘えん坊のオルフェーヴルの馬鹿野郎。
ふざけるな、馬鹿野郎が――負けて楽しいマゾヒストがどこにいる。
迷う理由がない。
何がライバルだ――そんなものは、すべて自分の引き立て役だ。
目指すものは、もう目の前にだけある勝利だけだ。
世代最強、クラシック三冠馬。
世界最強クラス、だからどうした。
俺はもう自分が怯えていた理由がもう分かっていなかった。
「そうだ、勝つぞ、俺たちで勝つんだ、ケイジ!!」
(そうだ――勝つんだ。勝つために――前へ、前へと駆け出せ――!!)
ヒシケイジは鍛え上げられたトモの速筋を爆発させ地面を踏みしめる。
『残り300m、ヒシケイジが先頭だァ! ヒシケイジ、先頭は変わらない!!』
今やっとわかった。
そうだ――ただ、脚を前に送り込めばいいんだ。
“本能”のままに走るとはそういうことだ。
日本で待つ、みんなの夢を叶えるためにすべてを出し切る。
前へ、前へ、前へ、前へ、勝つために駆け抜ける。
『抜けた、抜けたッッッ!! ヒシケイジィ~~~~~~~~、リードは三馬身と開いた!!』
辛い、辛過ぎる。
息が苦しい。
脳がバチバチとスパークしている。
ああ、でも、静かだ。
ビシバシと、己に振るわれる――その啓示だけを聞いていればいい。
何て幸せな時間なのだろう。
ただゴールへと馬鹿正直に全力を出し切れば勝てる。
何も考えず、前だけ見ていればいいんだ。
『栄光まで残り200メートルッ!! 豪駿!! ヒシケイジ!! シルバーコレクターのッ下剋上なるか!!』
そうだ、勝てるんだ。
相棒はやり切った。
オルフェーヴルのリズムは崩した。
最良のタイミングでスパートを切れていない。
今、この瞬間、遮二無二に奔ることができれば――
たとえ、オルフェーヴルの最高速に届かなくても――このマージンは守り切ることができる。
『しかし、追いつく、外から、外からオルフェーヴル!!』
だから、今はただ――この全力を全開にして、前へ、前へ――!!
前へ、前へ――前へ、前へ、前へ、前へ――!!
『先頭はまだ、ヒシケイジ、だがオルフェーヴル来る、先頭二頭は日本の二強!! 全世界を置き去りにする両者の差は一馬身!!』
そうして、ただ、遮二無二に駆け抜けるヒシケイジの、ぼやけた視界からゴールが消える。
心臓を胸から飛び出しそうなほど激しく鼓動させ、肉体に残ったすべてをスピードに変えて燃焼させる。
かろうじて騎乗姿勢を維持する“相棒”と共に、四肢から最後の力を振り絞る。
あと一秒――あと一瞬だけでも、速度を維持すれば俺たちは勝てる――勝てるんだ。
『帝王が迫る!! 半馬身!! 半馬身!! ヒシケイジか、オルフェーヴルか!! どっちだ~~~~~~~ッ!!』
(うわああああああああああぁぁぁぁぁァァァーーーーーーーーっ!!)
直後――オルフェーヴルがみるみる外側を駆け抜けていくなか、ヒシケイジは限界を超えた。
競走馬になって、菊花賞以来の、人生二度目の急失速。
無酸素運動の限界を超えると、馬も体は動かなくなってしまう。
気づけば、バカみたいな、熱狂が周囲を埋め尽くしている。
俺を笑う声も、もしかしたら、混じっているかもしれない。
でも、それでも――俺は、やり切ったんだ。
前世で人間だったころを含めて、生まれて初めて、真の意味で本気を出したんだ。
今負けたって、何度だってやり直せる。
あの最終直線で感じた「最高の瞬間」さえ来るなら、何度でも――そう何度だって戦い抜くことができる。
ヒシケイジは新たに手にした宝物を胸によたよたしたトロットから、とぼとぼとした歩みにすら戻せず脚を止める。
果たして、戦いは――どうなったのか――分からない。
勝ったのか、それとも――やはり全力を出し切ってなお、オルフェーヴルに勝つことは、不可能なのか。
だが、意識が絶望に包まれかけた瞬間――
その疑問に、答えるように――
鞍上の石破志雄が、右手を高々と上げていた。
『着順が出ました──1着はヒシケイジ!! ハナ差、ハナ差です!! 日本のヒシケイジが二強対決を、凱旋門賞を制しましたッッッ!!』
ガッツポーズだ。
春の天皇賞の時と同じ、勝利の証を石破志雄が掲げている。
笑いながら、手を掲げた石破志雄の頬からは、確かに涙が伝っていた。
その瞬間――ヒシケイジは耳に飛び込んできた歓声と共に――
今この瞬間、自身の勝利が歴史を塗りかえたことを知った。
そうか、勝った――勝ったんだ。
綾部オーナーの、早山のおやっさんの、厩務員の土井さんの夢を――相棒である石破志雄の夢を叶えたんだ。
いまだ現実感がないマンガみたいな決着に驚く以上に――
え、相棒って、泣くんだ、と……ヒシケイジは、目の前の事実に驚嘆していた。
「おい、おい……やったな……やったなぁ、ヒシケイジ!!」
だが、相棒が優しく馬の首筋を撫でたとき――
ヒシケイジを包んだのは、心の底から自分が勝利したという実感に他ならなかった。
(うおおおおおおおおおおおおおおおおおお!! やったあああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!! やったぞぉおおおぉぉぉおぉおぉ!!)
誇らしげに首を上げ、勝利の雄叫びを轟かせる。
勝利の美酒、待ちに待った直接対決での勝利。
自分が世界最強だという事実にヒシケイジは酔った。
仏様、どうだ、これで満足したか――俺は期待に応えられたか?
俺が生きた意味を見出した、日本で初めて俺は世界最強になったんだ。
俺は確かに馬生最高の栄誉を、唯一無二の相棒と共にこのフランスで手にしたんだ!!
『皆さん、目の前の光景は真実でしょうか――夢では、夢ではありません……日本のヒシケイジ、石破志雄騎手がガッツポーズを掲げています』
歓喜が心を包む。
歓声が、周囲を包んでいる。
けれど、石破志雄が合図を送るから――
かろうじて動く体に鞭を打って、ヒシケイジはぐるりと振り返る。
『世界の高い壁を越えて、日本馬のワンツーフィニッシュという結果――まさに日本の誇り!! ついに、日本のサラブレッドが凱旋門賞という夢を叶えました!!』
その直後――ヒシケイジの眼前に現れたのは、残念そうな表情を浮かべながら、笑っているクリストファー・ソロモン。
そして、ヒシケイジのことを誰よりも恨めしく見つめるライバルであるオルフェーヴルの姿だった。
『いやしかし、オルフェーヴルは残念でした。ちょうど彼がペースをつかむかといったタイミング……ヒシケイジのスパートで折り合いが崩れてしまったのでしょうか』
ヒシケイジは、目の前のライバルの姿に不穏な違和感を感じていた。
何時だって追いかけてきて、いつも甘えん坊で、とても我儘な、弟のように思えていた暴君の視線が――どこか、昨日までの自分の姿に重なった。
【ヒシケイジ、おまえさえ、いなければ】
鞍上の石破志雄が、クリストファー・ソロモンに一礼し握手を求め、クリストファー・ソロモンがそれに応えて巻き起こった鳴り止まない拍手の中――ヒシケイジは何か決定的なものが、自分とオルフェーヴルとの間で砕ける感覚を味わっていた。
(あれ、おかしいな――俺、オルフェーヴルに勝ったのに、これで、終わりじゃないのか?)
【ゆるさない。ヒシケイジ、つぎは、ぜったい。おまえにかつ】
戦いは、まだ終わらない。
臥薪嘗胆――王の誓いし復讐は、果たされるまで終幕が訪れることはない。
まさにこの瞬間、ヒシケイジとオルフェーヴル。
二強世代と呼ばれた奇跡の世代が互いに鎬を削る対決の火蓋が、真の意味で切って落とされたのであった。
『今ロンシャン競馬場は大きな拍手に包まれています、ヒシケイジの栄光と、それから日本のオルフェーヴル、仏国のソレミアの健闘をたたえる拍手です、この三頭、四着とは相当な差がありました 着順掲示板には一着八番ヒシケイジ、二着日本のオルフェーヴル。感無量でございます。両馬とも古馬戦線、一年目です――今後の日本二強の対決に注目していきたいですね』
◆◇◆
日本馬、凱旋門賞、初勝利。
それも、日本馬によるワンツーフィニッシュ。
当然といえば当然だが翌日の新聞には、ヒシケイジの勝利を讃える見出しが踊った。
「日本馬、世界の頂点に」「豪駿、暴君を下す」
「ヒシミラクルの奇跡の再来、凱旋門賞を制す」 「石破騎手、日本人初の凱旋門制覇」
『Japan's Hishi Keiji Conquers Arc de Triomphe――』
『石破とヒシケイジ、不可能を可能に』
日本に帰国した石破志雄を、空港では大勢のファンで人の海が出来上がっていた。
ただでさえ甘いマスクに顔ファンがおおい石破志雄であったが、流石の事態にちょっと引いた。
カメラのフラッシュが焚かれ、インタビューの声が飛び交う中、その日の石破は自棄に饒舌であった。
そして、彼へと投げかけられた質問が、日本競馬の熱狂を一際盛り上げるこにとなる。
「どうですか、石破騎手。ヒシケイジは、前代未聞の凱旋門賞制覇とのことですが――日本初の凱旋門賞馬です。このまま種牡馬入りする可能性なども取り沙汰されていますよね。我々はまだ日本二強対決を見ることが叶うのでしょうか」
「それはもう、ヒシケイジは、まだ走りますよ。綾部オーナーも早山調教師も乗り気ですし……」
「本当ですか?」
「回復を待って、オルフェーヴルの予定とも、併せていくんじゃないですかね?」
この石破志雄の宣戦布告は、瞬く間に日本を駆け巡る。
そう、この凱旋門の勝利は、序章に過ぎない。
ヒシケイジさえ、いなければ――
これは本来産まれるはずのなかった一馬の馬が一人の騎手と出会い、共に成長し、勝利で歴史を塗り変えて何かを掴む。
そんな、起きえたかもしれない可能性という『夢』を追う物語である。
感想、誤脱報告お待ちしております。
「第一話、2008春、ヒシケイジ生まれる」
明日の1800に予約投稿しています。