今日の話は辛いところがあるので、読み飛ばしても大丈夫です。
明日も1800投稿予定です。
2011年3月11日。
ヒシケイジは弥生賞を勝った翌日には、栗東トレーニングセンターへと戻ってきていた。
俺としては前走の疲労は抜けきったつもりなのだが、休養というのはそう単純な話ではないようだ。
午前中に放牧を終え、午後は厩舎へと戻る。
冬を越してさらに肥えた厩務員の土井さんが、盛る飼い葉をもぐもぐと咀嚼する生活だ。
今回のレースでは運動誘発性肺出血が出ることもなかったため、調教の再開は来週となった。
なら、来週までは、ひたすらに飼い葉を食べ、良く眠り、ストレスを溜めない程度に走る。
幸い食事に関しては最近よくニンジンが送られてくるので、ヒシロイヤルやヒシパーフェクト達と分けて食べている。
これからもファンの期待を裏切らなければ、こういう生活が続くことだろう。
もりもりと東北から運ばれる野菜を平らげて、俺はウトウトとしながら寝転んで、ラジオへと意識を向ける。
今日はもう予定もないので――
このまましっかりと――休めば、大丈夫だろう。
ラジオでアイドルソングでも聞いて――
流行について行くのは……努力、目標だ……
◇◆◇
2011年3月11日14時46分18.1秒。
ラジオから聞こえてきたのは、緊急地震速報のアラートだった。
特有の轟音にたたき起こされた直後――ヒシケイジは地面が揺れるのを感じた。
その揺れは気分が悪くなるほど、ゆったりとしていたが酷く長い揺れだった。
さすがの事態に意識が戻ったころ、隣の馬房からは【大丈夫かな――】とか【こわいね――】なんて、声が聞こえてくる。
俺はぐっと体を起こし、何があったのかをラジオで聞こうとした直後。
「駄目だ、ギョローー!!」
「ブヒッ」
真剣な表情で土井さんが、ラジオの電源を切った。
「駄目だギョロ……厩務員、調教助手仕事だぞ!! 馬の様子を見て回るんだ!!」
「ぶひ……」
何かが起きたことは分かる。
だが、その現実を知る前に――土井さんは、俺をラジオから引きはがし、そそくさと動き始めた。
幸い、栗東に残っていたスタッフは多かった。
他の場所でも、皆が力を合わせて、所属している馬の様子を見て回っていた。
頭から水をかぶった早山のおやっさんが、他の厩舎の面々と共に陣頭指揮を執る中――
3月11日、滋賀にいた俺の一日は、ただ淡々と過ぎていった。
「東北は、もう……」
「福島競馬場に被害が出たらしいって」
「インフラや、電力……影響出そうですね」
「今年のクラシック、どうなるんでしょう」
「とにかく馬たちには、普段通りを――」
聞こえてくる声に苦しくなって、俺はその日、寝藁に埋もれるように寝た。
何が起きたのか――北海道は、美穂にいる相棒は大丈夫なのだろうか。
母さんは、田辺さんはどうなってしまったのか。
俺は答えを知りたかったが、所詮人と会話することが出来ない競走馬の身では答えが分かることは無かった。
「ぶひ……」
翌日も翌々日も、栗東トレーニングセンターにいる馬は普段通りの日常を過ごした。
翌週には、調教も再開した。
だが、あれほどいた見学の人はめっきりいなくなってしまった。
あれだけ届いたニンジンが届くこともなくなった。
あの日以来取り上げられたラジオは、まだ土井さんはつけてはくれない。
3月中は東京で開催するはずのレースは中止になったと話を聞いた。
果たして皐月賞はあるのだろうか――
放牧中、ぐるぐると良くない考えが巡るようになった。
それでも、体の調子を落としてはいけないから、食事量だけは維持するように努めた。
「ブフ……」
翌日、あまりに落ち込んでいたからか、ボス馬のトーセンジョーダンが歩み寄ってきた。
【大丈夫か?】なんて、視線を向けられて――初めて、自分が随分と落ち込んでいることに気づく。
俺はこんなに無事なのに――
どうして、こんなに凹んでいるのか自分でも分からなかった。
今自分に出来ることは、何かを考えた。
何もできないとしても、毎日を必死に生きることは出来る。
そのためには、凹んでなんていられない。
そうだな、へこむなんて、俺らしくもないな――
と気合を入れなおしたころ、厩務員の土井さんが、久々にラジオを付けてくれた。
それは東日本大震災と呼ばれ始めていた地震が起きてから、半月が過ぎようとしていた頃だった。
「ギョロ……おやっさんが言ってたぜ、皐月賞、やるらしい」
「ブヒッ……!?」
「でも、中山競馬場じゃなくて、東京競馬場でやるんだってさ」
「ブヒッ」
「別にギョロなら、別にどこでやってもさ、一緒だよな!!」
「ブヒッ!!」
「一週間遅れで、レースは来月の末くらいになっちゃうけどさ――しょうがないよな、あんなことがあったんだから」
「ぶふ……」
「でもやっぱ――俺も思ったけど、普段通りじゃないのはダメだよな!!」
「ブヒッ……?」
「だって、俺達が暗いままじゃ、今、苦しい思いをしていない人だって、このままずっとこういう気持ちでいなきゃいけないって、暗い気持ちになっちゃうだろ? それは、良くないよな!!」
「ブヒヒッ!!」
「そうだ、だから頑張ろうぜ――最終追い切りから石破ジョッキーも来るからな!!」
「ブヒヒ~~~ン!!」
そうして、ヒシケイジは皐月賞に向けて少しずつ調子を取り戻していった。
久々にニンジンの差し入れを持ってきてくれた綾部オーナーの応援もあり、一時は落ち込み気味だった馬体重も増加傾向に転じ、毛ツヤはみるみるうちに良くなっていった。
4月も中盤を過ぎるころには、コンディションも普段通りに戻っていた。
最終追い切りの際に石破 志雄は、早山のおやっさんや、門田調教助手にいろいろと相談されていたようだが――俺自身のタイムは悪くないどころか、着々と時計を伸ばしていた。
これなら勝てる――誰が来ても、負けるはずがない。
勝つために繰り返して来た日々に、後は勝ち星という結果を付けるだけだった。
◇◆◇
2011年4月24日。
その日、早朝から東名高速道を驀進した一台の馬運車が東京競馬場へと到着した。
葦毛の豪駿「ヒシケイジ」が駐車場に降り立ったとき、周囲は取材のカメラに囲まれていた。
一瞬、土井さんは怪訝な表情を浮かべたが、俺はいつも通りの笑顔を浮かべる。
普段通りに馬具を付けて、パドックへと向かう。
晴れ間が見える四月の東京競馬場は、今まで以上に多くの人たちで賑わいを見せていた。
勿論、多いのは観客だけじゃない。
パドックを歩く馬は最多の十八頭だ。
俺はぐるぐるとパドックを回りながら、視線だけで他の馬の様子を見ていく。
一番、ステラロッサ、確かスプリングステークスから上がってきた馬だ。
毛ツヤを見るに調子はよさそうだ。
二番、ダノンバラード。黒光りしたディープインパクト産駒。
事前情報でも、なんだかんだ注目されていた気がする。
三番、ノーザンリバー。G3から上がってきた馬だが三連勝している。
初対決となるが、負けるわけにはいかない。
四番、サダムパテック。前走から比べて明らかに絞ってきている。
決して、油断ができる相手ではない。
五番、ナカヤマナイト。見た目は良いが、唸り声が聞こえてくる。
この大舞台を前に、興奮しているのだろう。
六番、ダノンミル、入れ込み気味――七番、ロッカヴェラーノ。
二頭とも、オープンから上がってきた馬だ。とはいえ、油断はできない。
八番、ビッグロマンス、ダート競争とはいえ、G1を勝った馬だ。
だがしかし、芝での評価は未知数だからか人気は最下位。現実は非常である。
九番、カフナ、十番、エイシンオスマン。
思ったよりも、体重を落としている馬は多いようだ。
十一番、ベルシャザール。
二歳でホープフルステークスを取り、スプリングステークスも二位の注目株だ。
十二番、オルフェーヴル――ハッキリ言って仕上がりが、半端ない。
それに前のように、他の馬を見ただけで、甘えに行くような幼さがない。
オルフェーヴル、上がってくることは信じていたが予想以上で正直ビビる。
十三番、リベルタスが明らかに委縮している。
元からメンタルが良くなかったところに、あのオルフェーヴルだ。仕方がないだろう。
十四番フェイトフルウォー、サイズはデカいが、ビビることはない。
オルフェーヴル、奴を見ていればそれがよくわかる。
『十五番、ヒシケイジ――500kg、4kg増えています』
俺は土井さんに曳かれながら、普段通り、一切ブレのない歩みでパドックを見る皆にアピールをする。
「ヒシケイジ、いいね」
「葦毛は走らないんじゃなかったっけ?」「なんだよ、その古いジンクス」
「見本みたいな馬体してるな」「まぁ今回も勝つんじゃないの?」
「ムゥッ……今日は難しい……」
十六番のトーセンラーが、後ろで暴れている。
その後ろにいる十七番はウインバリアシオン――弥生賞では三位につけていた。
今も冷静に歩いているところを見るに、大舞台への適性は高そうだ。
十八番はオールアズワン、調子は悪くなさそうだが――
なんだか、鞍上の方が注目されそうだ。
周囲の馬の中にありながら――ヒシケイジは、静かに闘志を高める。
俺は勝つ。勝つために走る。
そうだ、相棒と一緒なら、負けるわけがない。
その思いを知ってか知らずか、熱狂と混沌の皐月賞は静かにその幕を開けようとしていた。
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明日も1800投稿予定です。