ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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UA20,000突破、ありがとうございます。
誤字報告、感想もありがとうございます。

ネガい話はさっさと終わらせた方がいいのでちょっと長いです。


2011春、ヒシケイジ立ち直る。

 その日、ヒシケイジは確かに本気で走った。

 今まで一度も手を抜いたことはなかった。

 

 鞍上の石破 志雄の鞭の音が、耳に響く。

 だが、自分の外側を一頭、栗毛の馬がより速く――ぐんっ、と加速し抜け出していく。

 

 やめろ、オルフェーヴル、俺は勝たないといけないんだ。

 俺を信じてくれた綾部オーナーに、早山のおやっさんに、厩務員の土井さんに、調教助手の門田さんに――

 俺に夢を託してくれた、皆のために、何より相棒のために、負けるわけにはいかないんだ。

 

「すまん、ケイジ――俺は、お前を本気にさせて、やれなかった……」

 

 相棒やめろ、そんな顔するな――

 

 俺は本気だ。

 本気だ。いつだって、そうだ。

 競走馬になってから、競馬を頑張ろうって思ってから今日まで手なんて抜いてない。

 

 なのに、勝てないのか。

 俺は、オルフェーヴルに勝てないのか――

 

――パン!! バン!! バン!! バン!! バン!! バン!!

 

(いやだ――いやだ、いやだ――)

 

『オルフェーヴルゥゥゥウウ!! 一馬身、抜けだしたッ!! 一冠目、皐月を制したのは――オルフェーヴルゥゥゥ!!!』

 

(いやだぁああぁあああああああああああああああ!!)

 

「ブヒヒヒヒッ……」

 

 夢の中で、叫んだヒシケイジは、寝藁の上で、目を覚ました。

 分かってる。俺は今日もあの日の、皐月賞の夢を見た――

 

 体は、まだ動かない。

 思考は働かず、つまり、そう――風邪を引いていた。

 

「ギョロ、良くならねぇなぁ……」

「獣医の話じゃ、メンタルの面もあるって話だ――今はただ見守るしかねぇ」

 

 2011年5月。

 

 ヒシケイジは生まれて初めての、熱発を経験していた。

 皐月賞が終わってしばらく経つが、熱はまだ引いていない。

 

 朦朧とした意識の日が続き、飼い葉もマトモに食べられない日が続いている。

 心配が表情に浮かんだ厩務員の土井さんに反して、早山のおやっさんは冷静にヒシケイジを一人にした。

 

 今はその心遣いすら苦しい。

 

 ごめん、土井さん。ごめん、おやっさん。

 俺が弱くて、負けたばっかりに、二人にはもっと負担を押し付けてしまっている。

 

 あれから、綾部オーナーにも会った。

 綾部オーナーは決して俺を怒らなかった。

 

「がんばったね、ヒシケイジ――」

 

 あのしわがれた手で、慰められるその心遣いが辛かった。

 どうして、俺に良くしてくれるんだ。

 

 俺は負けたのに――勝てなかったから、このザマなのに――

 

 そうだ、オルフェーヴル、アイツは強かった。

 俺より、ずっと努力して努力していたんだ。

 

 俺は、毎日、努力した気になっていた。

 他の馬よりも多く調教メニューをこなして、他の馬より上手く走ったつもりだった。

 

 つもりになっていただけなんだ――

 転生して、もう一度頑張ったからって、俺の頑張りは、本当に頑張ってるヤツの頑張りよりも劣っていた。

 

 実際、追い抜けないはずがないんだ。

 オルフェーヴルとは、これで一勝一敗。

 

 これからは本気の成り方を、覚えないと負け続ける。

 でも、そのやり方が、俺には分からない――

 

 ごめん、相棒……俺は、弱かった。

 

◇◆◇

 

 ヒシケイジが一人、馬房で苦しむ中――東の地でも一人の漢が苦しんでいた。

 

「石破くん、君から呼びだされるのは、正直嬉しい」

「すみません……門田さん。わざわざ、此方まで来ていただき、ありがとうございます」

 

 五月初旬。

 石破 志雄はその日、東京駅で一人の男を待っていた。

 

 今は髪をまっさらに剃り上げ、眼鏡をかけた門田 光一は洒落たスーツを纏い、誰が見ても分かる雰囲気を備えていた。

 石破 志雄は同じくスーツを身にまとっているが、垢ぬけた雰囲気でどこか背伸びしている感じが否めない。

 

 彼らは目的もなく京浜東北線に乗った。

 

 二人の正体を知らずとも、身にまとう雰囲気を感じ取れば、ただの上司と部下であるとは信じられない。

 何らかのアスリート、芸能人や役者と言われても、通じてしまうだろう。

 

 ただ、誰が見ても分かることが一つあった。

 それは、若い方の男が、今、悩みの中にあるということであった。

 

「本当は、此方から出向いて頭を下げなければいけない立場なのに……」

「石破くん。それは我々も同じだ。悔しいのも同じだ……事実として、君にばかり難題を押し付けている」

「分かっていたことでしたー―早山さんも、門田さんも、弥生賞の前には気づいていた」

「だが、君の騎乗が劣っていたわけではない。アプローチだって、考え得る最良のものだった――おっと」

「それでも……俺は、勝てなかった――どうぞ、俺達は降りるので」

「そうだ。今更言うことでもないが、この世界に絶対はない……圧倒的な実力があろうと沈む世界だ」

「俺に、ケイジの本気を出させることが出来るでしょうか」

「石破くん、それは僕にもわからない。だから、今、共に悩みに来たんだ」

 

 揺れる車内の中、ロングシートに座って二人は語り合う。

 途中、老人に席を譲り、立ちあがった二人は上野に来ていた。

 

 男達に理由はなかった。

 高い酒も必要はなかった。

 

 人々に紛れるような立ち飲み屋で、季節はずれのおでんをつつく。

 汗が滴る中で煮絞めた大根を齧り、ホッピーで流し込むと自然に口は開いた。

 

「いける口か」

「こういう場所は、好きです」

「普段は付き合いが悪いと聞いたぞ」

「煩わしいのが苦手で」

「分かるよ。だからこそこう言う立場で、石破くん――君と悩めるのは嬉しい」

 

 石破 志雄はその言葉に、口を結んだ。

 年甲斐もなく、泣き出しそうになるのをこらえるように必死で口を結んだ。

 

 苦しい。こんなに苦しいのは初めてだ――

 だが、自分にはまだ、手を差し伸べてくれる相手がいる――だが、ヒシケイジにはいない。

 

 本当に今、孤独なのはアイツなのに――

 アイツ自身に寄り添って、共に悩んでやらないといけないというのに――

 

「門田さん。俺には何が足りないと思いますか……」

「今の君を見れば、もう、分かっているような気はするが――そのアプローチだけでは十分とは言い難い」

「はい、ケイジは頭のいい馬ですが馬鹿です。折り合いがついても、俺達の目指す場所を伝えられる自信がない――」

「ならば、まず我々自身がヒシケイジの『本気』と向き合うべきだな――石破くん。君はヒシケイジの『本気』を、どこか感じたことがあるんじゃないか?」

 

 石破 志雄はシュワシュワと泡を立てるそれを飲み干しながら思いを巡らせる。

 ヒシケイジ、出会った時から空回りするほど、手は抜かない馬だった。

 

 メイクデビュー、芙蓉ステークス、朝日杯、弥生賞――

 

「そういえば、芙蓉ステークスのとき、一瞬だけケイジがぐっと伸びた気がします」

「以前にオルフェーヴルに勝ったときか――どう感じた、言葉にできるか?」

 

 石破志雄は、酔った頭でそれでも明瞭な記憶をたどる。

 あの時、最終直線でオルフェーヴルに追われたとき、ヒシケイジは――確かに奮起した。

 

「確かに、ケイジは抜かれたくないという気持ちで、一心不乱に走っていた気がします」

「鞭が入っている状況でも――か」

 

 そうだ、あの瞬間、嘗てコスモネモシンが本気で走ったあの瞬間と同じ感覚をヒシケイジは持っていた。

 

「そうです。あの瞬間に――ケイジは、一歩上の領域にいました」

「いわゆる、フローに入ったという話か」

 

 石破志雄は、フロー、その言葉をこの時初めて耳にした。

 

「門田さん、フローって何ですか?」

「最近、心理学の分野で注目されてきた概念だよ。フロー、無我の境地。集中とリラックスが渾然一体となって、本能的に肉体の動きを十全に発揮させる『超集中状態』だ」

 

「まるで、漫画の世界ですね」

「最近になってやっと言語化され、技術として体系化が始まっているが、以前から騎手や馬が大一番で、特に奮起した経験があるものは多かった」

「門田さんも、そういう経験があったんですか」

「今になって、君の言葉でつながった気がするが――ヒシアケボノ、ジャングルポケット、ヒシミラクル、皆、大一番のレースで急に動きが良くなる瞬間があった」

 

「門田さん、フローは、どうすれば入れますか?」

「確固たる目的と自覚を持ち、眼前の事象に挑戦し続けること。だがフローに入ったからと言って、レースには必ず勝てるというものではない」

「相手もフローに入ったら本当の意味で実力勝負になる」

「そうだ。その上でオルフェーヴルは――まだ先がある馬に感じる。だが、ヒシケイジが決して劣っているわけではない」

「勝てる分野で勝つために、まずは持ちうる全力を出す――でも、そんなのどうやって伝えればいいんだ」

「そうだな――我々が向き合うのは、半ば机上の空論だ。ベテランジョッキーの内、果たして何人が体系的にこれを理解しているか分からない」

 

 そういって、門田は追加注文した日本酒の御猪口をぐっと傾けた。

 石破 志雄もそれに習った。

 

「門田さん。まずは俺から、頑張ってみます。来週、GⅡがある。その前にケイジに会いに行きます」

「私からも頼む、石破くん。キーワードは『本能』と『負けん気』と『集中』と『挑戦』だ」

 

 男たちは小さな杯を突き合わせた。

 そして――翌日。

 

「来ちまった」

 

 石破志雄、27歳。

 

 職業、騎手。

 美浦寮、芝田厩舎所属。

 

 現在位置、栗東トレーニングセンター、早山厩舎。

 石破志雄は我ながら重い足取りで、ヒシの名を冠する馬が集う早山厩舎へと脚を踏み入れていた。

 

◆◇◆

 

「石破ジョッキー、ケイジはまだ……」

「分かっています。熱発してるとか。昨日アポを入れたとき電話で聞いたので」

 

「ブヒ」

 

 ヒシケイジが目を覚ましたとき、厩舎の入り口から聞き覚えのある声が耳に届いた。

 石破 志雄――俺の相棒が来たというのに、俺はまだ飼い葉の中に埋もれていた。

 

「石破、今日は俺達がいてもいいか」

「勿論です」

「お、おやっさん!? ギョロ、はまだ……」

 

 ヒシケイジが倒れ伏す中、早山のおやっさんが現れる。

 気づけば厩舎の中、倒れるヒシケイジの眼前には石破志雄がいた。

 

 だが、もう瞼を閉じる余力もない。

 

「「……」」

 

 静寂、実際、互いに語れることもない。

 あの敗北から、一言もお互いにしゃべっていないのだ。

 

 漫画やアニメでは、よくあるシーンだ。

 でも、同じ状況になると、苦しいなんてものじゃない。

 

 心の整理は、未だに出来ているとは言い難い。

 

「なぁ」

 

 けれども、石破志雄は口を開き少し酒に焼けた声を発した。

 

「ごめんな、皐月賞で負けたのは、俺のせいだ」

「ブ、ヒ……」

 

 違う、絶対にそうじゃないのに、言葉が出てこない。

 

「お前の走り方を俺が変えた。理由はどうあれ、昨日、勝てなかったのは俺のせいだ」

「ブフ」

 

 石破 志雄、謝るな。

 俺みたいなのが、ここまで来れたのはお前がいたからだ。

 

「でもな、やっぱお前も俺もバカのまんまだ。負けないと、何一つもわからない」

「ぶひひ……」

 

 おいおい、言うに事を欠いてそれかよ――

 

「出来ないことを出来ない理由を知らないで足掻こうとするからバカなんだ。不器用なバカは――俺も一緒だ――」

「……」

「お前が『本能』のままに走れるように、俺も頑張ってみるよ。だから負けることなんて怖がるな――お前の『集中力』と『負けん気』は、俺が一番わかってるから、また、オルフェーヴルに『挑戦』しよう」

「ブヒヒヒ……」

 

 ヒシケイジは、石破志雄の言葉を聞きながら、自分がしなければならないことを漠然と考えていた。

 そこまで分かってるなんて、やっぱりこいつは石破志雄は凄い奴だ。

 

 けれど、俺はそんなにすごくない。

 “本能”のままに走るって、どうすればいいんだ。

 “負けん気”なんて、お前が言うほど持ってはいない。

 オルフェーヴルがきて“集中”して、走れるかは分からない。

 

「だから、ヒシケイジ、また乗りに来てやるよ。その時は、また、俺を信じてくれ」

「ヒヒィ~~~~ッ」

 

 でも、お前がいれば、俺は“挑戦”出来る。

 

 約束だぞ、石破志雄、俺の理解者。

 アニメで言うなら、やっぱり、お前は俺で、俺はお前だ。

 

 ヒシケイジは心の中で、泣きながら――半泣きの土井さんと、肩を叩く早山のおやっさんと共に石破志雄を見送った。

 もう、へこたれている暇はなかった。

 

 熱発は翌日には無くなっていた。

 むしろ、俺を応援する人は皐月賞を見て増えていたらしい。

 

 届いていたニンジンを飼い葉と一緒に目一杯食べて、調教も再開した。

 

 門田さんを背に乗せて、俺は本能のままに走ることを考えていた。 

 まだ、石破 志雄が求める「本気」の意味は分からない。

 

 それでも、時間が過ぎるのは速かった。

 

 日本ダービーの前の、最終追い切りはすぐにやってきた。

 いつも通りの、栗東トレーニングセンターのウッドチップコース。

 

 果敢に全力を出そうと、頑張っては見たが――

 時計はかろうじて皐月賞と同じレベルまで戻すことが出来たが――逆にいえば皐月賞の状態に戻っただけだった。

 

「石破、どう思う」

「早山さん。ケイジはやっぱ、レースじゃないとダメですね」

「門田、お前はどうだ?」

「石破くんの言う通りです。ですが、あの状態からここまで戻せたことを僕らは誇ってもいいと思いますよ」

「そうっすよ!! おやっさん、ギョロは……あんなにボロボロだったのに……立ち直ったんですから!!」

「ま、そうだな。土井の言う通りでもある。石破頼んだぞ――この豪駿扱いされてる駄馬に乗れるのはお前しかいねえんだ」

「ヒヒヒ~~~~~ン!!」

 

 あっ、早山のおやっさん、駄馬とはなんだ駄馬とは――!!

 

 でも、駄馬でもいい。

 天狗になった豪駿よりは、挑戦的な駄馬でいい。

 俺を信じてくれるみんなが喜ぶなら、俺は何度でも立ち上がってみせる。

 

 かくして、泣いても笑っても2011年5月29日――

 一生に一度の日本ダービーの日がやってきた。

 

(あれ、なんか雨降ってない?)

 

 その日、ヒシケイジが馬運車で運ばれて東京競馬場に到着したとき――

 ざんざん降りの雨が、ヒシケイジの元に降り注いでいた。




誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。
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