引き続きネガい話はさっさと終わらせた方がいいのでちょっと長いです。
2011年、5月29日。
ヒシケイジへと大粒の雨が降り注いでいた。
今は平静を保ちながらパドックを歩いているが、はっきり言って今までのレースで一番緊張している。
傘をさして俺たちを見つめる観客の視線は、いつも以上にギラついていた。
今、俺は彼らの期待に応えることが出来るだろうか――その、答えはない。
日本ダービーに向けて、俺はかろうじて体調と体重を戻してきたが、本調子とは言い難い。
併せてこの雨では、俺の調教の成果であるスピードを十全に発揮することは難しいだろう。
(まぁ、それはオルフェーヴルも同じだと信じたいが――)
とはいえ、ヒシケイジの懸念は体調やメンタルだけではなかった。
熱を出した自分を励ましてくれた相棒からの宿題――本気の出し方の答えは出ていない。
確かに、あの時、相棒は何を掴みかけていた。
けれど、それは多分、言葉で伝えてはいけない物だったんだろう。
けれどもう――時は来てしまった。
日本ダービー、俺は挑戦者として今日は全力で走る――それだけだ。
『二番、五戦四勝、ヒシケイジ。体重は496kg。4㎏の減量です』
そうして雨の中、心を震わせて歩くヒシケイジの姿を見つめる競馬ファンからの評価は、決して悪くはなかった。
五戦四勝、ここまで勝ち上がったヒシケイジは良くも悪くも注目されていた馬だった。
ヒシケイジが二週間近く陥った熱発は、テレビや新聞でも取り上げられていた。
今もパドックを歩く彼は、葦毛で分かりにくいが――
皐月賞と比べて万全であるとは言えない様子が見て取れる。
だが、それでも、ヒシケイジが掲示板を外すのか――そんな事態が来るとも思えなかった。
『五番、オルフェーヴル、勿論一番人気、馬体重は444kg。皐月賞の時から4㎏増えています』
ともすれば、あの不気味に昂ぶるオルフェーヴルの前走が、
石破 志雄の奇策が今日も発揮されるならば、ヒシケイジが勝つ未来は十分にあった。
「ねぇ、パパ、ママ、ヒシケイジやっぱりだめなのかな……」
「今日も先行策?」「石破、もうわかんね~よ」
「俺、デボネア買っちゃった。青葉賞も勝ったし、鞍上は世界最強騎手ジャンカルロ・フランキーだぜ」
「いや、オルフェーヴルだね。見ろよ、前走よりも絶対調子いいって」
「俺は、ウインバリアシオンを推すぜ。騎手が伏名だからな」
「タケも運いいよな~、サダムパテックが出走回避だなんて……」
「結局、ヒシケイジ――早熟だったってことか?」
「オルフェーヴルも大人になったよな。入れ込みとかもうねぇもん」
「やっぱりディープ産駒じゃないの?」
「いや、ここはステゴ産駒っしょ――どっちにしろ零細血統には荷が重いよ」
「わかったパパ、負けてもいいからヒシケイジにしてっ」
「ヒシケイジ、俺は買うね。お前を信じて今日も来たんだから」
「デボネアはどーせ勝たないでしょ。ま、複勝で1枚買うけど」
「どーなんだろ、俺オルフェーヴルに浮気していいか?」
「ああ~でもしょうがないんじゃない? 二十二頭目の皐月賞、日本ダービーの二冠馬の可能性あるって言ってたし」
「ムホッ、難しい……オルフェーヴル、ヒシケイジッ――どちらが、勝っても負けても、今日のダービーは、歴史には残るレースになるッ」
一向に止む気配のない雨の中、彼らの夢は確かにヒシケイジに届いていた。
オルフェーヴル、2.4倍、一番人気、
ヒシケイジ、3.8倍、二番人気――
オルフェーヴルか、ヒシケイジか――
三番人気以下は倍率が二桁となるほどに、この雨のダービーで二頭が走ると信じていた。
オルフェーヴルなら勝つだろう。
ヒシケイジも負けないだろう。
「ブルルルルッ」
その期待に反して、ヒシケイジは鞍上に石破 志雄を迎えてなお――心にしこりを抱えていた。
調子がどうあれ、表に出さないのは俺の悪い癖だ。
いつも通り本馬場に入場して、返し馬を普段通りこなす――いや、こなしてしまった。
本来であれば、俺は石破 志雄に自分の中に違和感があることをどこかで表に出すべきだった。
言葉がなくても、伝わるように伝えるべきだった。
それでも、この体が覚えた競馬という行為を、覚えたとおりに出来てしまうのだ。
「馬鹿だなぁ、ケイジ」
「ブヒッ」
ヒシケイジが待機所に向かう列の中で、その日、石破 志雄は初めて口を開いた。
バカか――そうかもしれない。
俺はバカだ。
何度も言われなくても分かるくらいにはな!!
「今日は、最初――お前の好きに走れ」
「ブヒッ!?」
驚いた俺は、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「俺を信じろ。前に言っただろ――大丈夫、途中で一発鞭を入れる。そのあと指示に従え」
「ブヒヒ……」
相棒、石破志雄――それで本当に俺は勝てるのか?
俺に人の言葉が喋れることができたなら、今この場で問いただしたことだろう。
「良いんだよ、どーせ普通にやっても勝てないんだから」
「ハァ、石破クン、随分と余裕ですやん……」
だが、あろうことかヒシケイジの疑問を解決するより前に――
俺の背後から聞こえてきたのは、生添 賢治の剽軽なトラッシュトークであった。
「どうもっす」
「ナハハ、石破ク~ン、硬くならんでもええよ。今日はダービー頑張ろうな?」
ヒシケイジが鞍上の指示に合わせて振り向けば、そこにはオルフェーヴルの姿があった。
直後、俺はがくがくと、脚が震えて止まらないことに気づく。
やっぱりだめかもしれない。
俺は、自分を睨みつけるようなオルフェーヴルの視線だけで、あの日の恐怖を思い出してしまっている。
思えば俺は、コイツ自身に向き合うことを今日まで避けていた。
だから、実際に奴の前に立つことが、こんなに怖いなんて思ってなかった。
去年の芙蓉ステークス以来だが、気迫、プレッシャーが段違いだ。
生まれながらにして纏ったオーラで雨をはじくように栗毛を煌めかせた奴は、今も俺を睨みつけていた。
「生添さん……大丈夫っす、分かります」
「ごめんな、ごめんな……石破クン。ちょっとオルフェーヴル、気ぃ立ってるみたいやね――」
【おまえすき、どうした、いっしょにはしろう――】
ヒシケイジはオルフェーヴルの目から、確かに入れ込みの気配を感じた。
その野性的なあの日――外厩の放牧地で出会ったときと同じ目だというのに――
もう、見れない……
俺は、彼から目をそらしてしまった。
「お、満足したか……がんばろ、がんばろな!! ヒシケイジも負けん気、見せるんやで~!!」
「ウッス……」
オルフェーヴルはそんな俺に失望したように、その場を立ち去る。
直後、出走のファンファーレが鳴り響き、会場が轟音と共に鳴動する中にあって――
ヒシケイジは、その心にオルフェーヴルに対する敗北の恐怖を取り戻してしまっていた。
正直、勝てる気がしない――俺の走りで、あのオルフェーヴルの自然な走りにどうやって追いつけばいいんだ。
戦う前から挑戦者として奴に挑む気を奪うなんて……生添ジョッキー、なんて卑劣なヤツなんだろう――
だが、不幸にも、ヒシケイジの誤解を解く暇はなかった。
泣いても笑っても、レースの時間はすぐに来る。
ヒシケイジは流されるままに――抵抗する意思もなく、ゲートの内側へと収まった。
「ケイジ」
相棒が、口を開く。
『正面スタンド前、第78回日本ダービー体制整いました――!!』
「俺も、お前を信じる」
――ガコン
『ゲートが開いた――全馬ほぼ一線!!』
ヒシケイジは普段通り、完全なスタートを切った。
いや、切ってしまった。
本来なら、俺は挑戦者としてオルフェーヴルと戦わなければいけなかったのに――
この場から逃げ去りたいという思いを、形にしてしまった。
『ヒシケイジがハナを取る形、ロッカヴェラーノがやや後方か――』
相棒からの指示がない中、ヒシケイジはコーナーへと飛び込んだ。
俺自身、掛かっていることを自覚していた。
それを知ったら早山のおやっさんも、土井さんも、門田さんも、綾部オーナーも、相棒も失望するに違いない。
けれどハッキリ言って――オルフェーヴル、アイツと戦おうなんて考えたのが、まず間違いだった。
『さあ、その他の馬は、まずは揃ったスタートを見せました』
もう脚を止めるのが怖い、追いつかれるのが怖い――
だから、逃げた。間違った。
思えば、レースの場で、自分の判断で走ったのはこれが初めてだ。
自由にやっていいといわれた、だから逃げてしまった。
『その中でもさあ、まず最初の一コーナーに向かって、そして一二コーナーでどういったポジションを取ることができるのか?』
こんな失敗をするくらいなら、今日のレースに出なければよかったと思いながらも――
俺は今、オルフェーヴルから逃げることを、自らの意志で辞めることは出来なかった。
『いきなりヒシケイジが前に出て大逃げの体勢か、オールアズワン、ノーザンリバーが良いポジション』
第一コーナー、普段より感じる遠心力をものともせず、相棒は騎乗姿勢を保つ。
大丈夫なのか、相棒――俺はもう、逃げ出したくてたまらない。
今ですら、虎視眈々と脚を貯める後方のオルフェーヴルが――まるですぐ背後に迫るかのように感じられる。
『さあ、その他人気馬、皐月賞馬のオルフェーヴルは後ろから現在四、五頭目というところでレースを進めています』
なら、走って逃げればいい。
オルフェーヴルが追い付いてくるよりも早く、前を駆け抜ければいい。
『緑の帽子、ウインバリアシオンは御覧のようにさらに後ろから三頭目』
突き放せ、突き放せば、怖い奴らは追いつけない。
芙蓉ステークスも、皐月賞も、距離が足りないから追いつかれたんだ。
『二コーナーのカーブへと入っていきます。どうやらヒシケイジが、大逃げでこのレースを引っ張る形になりました』
だったら、今は逃げる方がいい。
逃げて、逃げて――競り合いなんて、起きないに越したことはないんだ――
『そしてご覧のように外を回りまして、後ろからレースを攻めているのはオルフェーヴルです』
おい、どうした相棒、俺を臆病者だって笑わないのか?
失望したって、かまわない。
けれど勝てない相手に、挑むなんて絶対無理だ。
『向こう正面の直線に入っていますが、既に二番ヒシケイジが、三番のオールワズワンを突き放して、十馬身程度の差をつけています』
バカだと笑え、臆病者だと笑え――駄馬だと笑われたっていい。
挑戦して、勝てないからって逃げて何が悪い。
――パァン!!
「そのまま、走れ。ケイジ!! 今の走りのまま、逃げ続けるぞ!!」
その瞬間、泣き出しそうになったヒシケイジへと確かに一発、鞭が入った。
維持、大逃げを維持――大丈夫なのか相棒、お前を信じていいのか。
「よかった、これは賭けだった。今日のオルフェーヴルは皐月賞以上で――普通に走ってもダメだったからな――」
そりゃそうだ――悪いけど、分かってる。
「お前は病み上がりで、スタミナが万全じゃないからこそ――『本能』で走る可能性に賭けたんだ」
分かってる。
それでも、俺は勝負から逃げ出してしまった。
「ケイジ、そのまま『集中』して、レースの中で『本気』の出し方を掴むんだ!!」
相棒――石破 志雄。
それでも、まだお前は俺がオルフェーヴルと戦うと信じているのか。
それでも、お前は俺が本気を出せると信じてるのか。
「奇跡は、自分で起こして掴め!!」
ヒシケイジはレースの興奮と集中で、引き延ばされる意識の中――
石破 志雄が、倒れていた自分にかけた言葉を思い出していた。
(『本能』のままに走れ――)
(『集中力』と『負けん気』は、俺が一番わかってるから、また、オルフェーヴルに『挑戦』しよう――)
本能――そうだ、俺は今、“本能”で逃げている。
集中――言われて気づいた、俺はこんな土壇場でも“集中”出来てしまっている。
挑戦――俺は逃げ出したが、また“挑戦”していいんだな。
ヒシケイジは自らに鞭を打つように前を向き、向こう正面をひたすらに驀進した。
幸い前を向いたヒシケイジの胸に“負けん気”は、いくらでも溢れていた。
――ヒシケイジが生添騎手は卑劣なジョッキーであると、コメントしていますが
「ボク、何もしてないですよ!! 石破クンが挙動不審だったから、声掛けただけなのに!!」
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。