覚醒パートは走り切った方がいいのでちょっと長いです。
つまり、菊花賞は4パートってことか……
2011年、5月29日
日本ダービーの大舞台で掛かったヒシケイジは、大逃げをかましていた。
本調子ではない。奇跡は起こらない。
それでもヒシケイジは何をするべきかの片鱗を掴み始めていた。
『オールアズワンの後方、十八番のノーザンリバーが行っている』
ヒシケイジは緩やかに、緩やかに加速していく。
2400mの壁は分からない――末脚を残したうえで、取れるマージンは取っていく。
『ウチを通りまして、ショウナンパルフェ』
「パパ、ヒシケイジ、凄い、凄いよ!! やっぱり、ヒシケイジ――勝てるかもだよ!!」
「ヒシケイジ、いけんのかよ――絶対無理してるだろ」
「でも、走ってんだろ……あいつ、勝つ気だぜ」
「オルフェーヴル、行けるよな!? 諭吉なんだから頼むぜ!?」
「ああ、ヒシケイジなら、こいつの一万を無駄にしてくれる……」
「ム……ヒシケイジ、捨て身か。石破 志雄、我々が知らない何かを狙っているのか?」
それにしても、凄い歓声だ。
会場の熱狂がここまで伝わってくるのは初めてだ。
「ケイジ、不良馬場で逃げたのは――正解だった。後方の連中だけじゃない、スタンドまで計画通りだと思ってやがる」
『その後ろを通りまして、行っているのはユニバーサルバンクです』
そうか、それなら――話は速い。
ヒシケイジは気合を入れて、ペースを維持しつつ無理のないラインで悠々と逃げていく。
ワカタカ(1932)、カブラヤオー(1975)、アイネスフウジン(1990)。
東京優駿で逃げ勝ちした馬がいないわけではない。
だが、1997年のサニーブライアン以来、逃げて勝つ馬はいなかった。
ならば、ヒシケイジはどうだ、稀代の豪駿ならどうだ?
為しえるのか、沈むのか――会場の期待は、悲鳴にも似た歓声へと変わっていた。
『そして、七番のベルシャザール、それから十六番のトーセンレーヴつけました、そして十五番のトーセンラー』
「ギョロ、石破ジョッキ~~~~マジかよォ……キモが太すぎるぞォ~~~!!」
「土井、ここまでは、予測の範囲だ……門田、どうなると思う?」
「早山のおやっさんの考えている通りです。皐月賞のヒシケイジならチャンスはありましたが、オーバーペースです――」
向こう正面を走るヒシケイジを見つめる土井が、スタンドの前方で悲鳴を上げた。
その光景を見つめる老将「早山」と、門田は冷静だった。
『青葉賞二位、ギュスターヴクライはこの位置、染め分け棒はフェイトフルウォー、ウチを通ってエーシンジャッカルが続いている』
「ですが――」
その言葉と共に、今日に向けて頭を剃りなおした門田の丸眼鏡が輝く。
「ですがじゃ分からないよ、門田さん!!」
「ヒシケイジが掛かり気味に逃げたということは、ある程度、彼が主体的に走った――つまり、馬としての本能を優先させ取り戻したのだともいえます」
「無我の境地、説明されたからにゃ信じるが――元から今日のコンディションじゃ、切れ味勝負にゃ勝ち目がねぇ」
「そうです。ヒシケイジがオルフェーヴルに勝つ方法は二つ。相手にとってベストではない距離にベストコンディションで挑む。こちらがベストコンディションを越える力を発揮する――そのどちらかです」
『ウチを通ってエイシンジャッカルが続いている、そしてナカヤマナイト、真ん中デボネアがいて、六番のクレスコグランド』
早山厩舎の皆が固唾を呑んで、この光景を見守る中――ヒシケイジの心は少しずつ、少しずつであるが冷静になっていた。
「その後ろにオルフェーヴルが行っている」
雨の中、先頭をただひたすらに駆けるシンプルな時間だ。
確かに俺の背後に恐怖が迫る感覚がないわけではない――オルフェーヴル、確かに奴はいる。
『オルフェーヴル、ちょうどこの馬群の一番後ろにぴったりと取り付くような格好です』
ならば、俺は、なんで今、レースを走っているのか――
逃げるだけならば、奴とは反対の方向に走っていけば追ってなんて来ないはずだ。
思えば馬に転生して、生きる意味を見出すなんて目標のために俺は走り始めた。
ただ、毎日が楽しくて、走り続けた。
『さらにその後方は、ポツン、ポツン一番のウインバリアシオンがいて、十三番のロッカヴェラーノ、さらには九番のコティリオンという構え』
ヒシケイジとして走ることを決めて――綾部オーナーに夢を見せたいと思った。
早山のおやっさん、土井さんと出会って、帰るべき場所が生まれた。
門田さんと共に走って、彼らを裏切りたくないと思った。
そして、相棒と出会って、勝ちたい理由が生まれた。
生添や、オルフェーヴルと出会って、負けたくないと思った。
負けたくない――そうだ。俺は、負けたくない。
生きる意味なんて、分からない。
本気がどういうものかも、まだ分からない。
だが、今俺の中にあるこの気持ちは――偽物じゃないぞ。
『さあ、三四コーナー大ケヤキの向こうは既に過ぎました。前半の千メートルは堂々の60秒3……!!』
『そしてもうすでに、四コーナーをヒシケイジが曲がり切る』
ヒシケイジは気づけば背後に消えた大ケヤキを尻目に、東京競馬場の第四コーナーを駆け抜けていた。
人々は見た。たった一頭、逃げ馬が、零細血統の葦毛のステイヤーが、東京競馬場の最終直線へ駆け込んでくる。
初めて見たものは、その走りに目を奪われる。
均等の取れた馬体から繰り出されるロングストライドで、馬が雨の府中を飛んでいる。
二度見たものは、気づく。
今、ヒシケイジは懸命に、自分たちのためにこのターフを駆け抜けている。
そうだ、俺は――負けたくない。
あんな思いはもうたくさんだ。
夢を裏切るのは、もうたくさんだ。
自分に夢を託してくれた人たちの思いを俺は無駄にはしないだから――走る。加速する。
そう考えた瞬間、ヒシケイジは己の体に違和感を感じた。
『さぁ、この長い直線でもって、どんなドラマが、そしてこの不良馬場でもってどんな結末が待っているのか?』
(やっちまった――普段なら、こんなことないのに――!!)
「ケイジ!?」
疲れが――体中を支配していた。
脳内が疲労感でマヒしているが、確かに限界が近い。
この感覚は、ずっと忘れていた。
嘗て自分が人だったころベッドに寝ていた自分が、一人で立ち上がって、階段を下りて売店に行った帰りになるアレだ――
だめだ、これじゃスピードを維持するだけで精いっぱいだ。
オルフェーヴルは来る、奴なら、きっとくるに違いない――この長い東京競馬場の坂路の直線、奴は来る。
【もういい、行こう――】
「覚悟は決まったな? それじゃ一発、行ってみようか!!」
「ヒシケイジは先頭ですが、誰が上がってくるか。さあ、そして馬群の真ん中に飛び込んだのはオルフェーヴルだ!!」
ああ、俺には分かるぞ――
他の馬が疲れを見せる中で、一頭、明らかに正真正銘の威圧感がこっちに向かってきている。
『オルフェーヴル、馬群の真ん中に突っ込んだ』
「ケイジ――耐えてくれッ……!!」
――バン! バン! バン! バン!
石破 志雄の鞭が入る。
普段のように、ヨレる俺をしばくためではない。
俺を信じて、奮起させるために鞭を入れてくれている。
『オルフェーヴルが抜け出した、生添 賢治、姿勢を崩しながらも、喰らいつく。不良馬場など知るかと、東京の直線に暴君が駆ける』
だが、それでも――足りない。
俺の脚ではオルフェーヴルは振り切れない。
オルフェーヴルは化け物だ。
『ヒシケイジか、オルフェーヴルか、世代の栄光を掴むのはどちらか――』
――バン! バン! バン! バン!
大逃げのマージンは、もうない。
追いつかれるのは、嫌だ――そうだ。嫌だ、嫌なら、どうすればいいか知っているはずだ。
オルフェーヴルは俺を今にも追い抜こうとしている。
最早、奴の眼中に俺はいない。
じゃあ、俺がするべきことは何だ。
鞭に気を散らされている暇が合ったら、俺がするべきことを思い出せ。
俺は何のために走ってるんだ。
早山のおやっさん、土井さん、綾部オーナー、門田さんに勝った姿を見せるためには――どうするんだ。
『ヒシケイジ苦しいか、先頭はオルフェーヴル、ウインバリアシオンも狙っている。ウインバリアシオンも逆転を狙っている――!!』
――パン!! バン!! バン!! バン!! バン!! バン!!
直後、ウインバリアシオンが更に加速し、ヒシケイジを抜き去りにかかる。
大逃げには、やはり無理があった――と、鞍上の貴公子、
その直後――
(何もできずに、負けて――たまるかぁぁぁあああああああああああああっ!!)
直後、ヒシケイジの脳内すべてがスパークするような感覚と共に――トモの奥から力が湧き出てきた。
何をするべきか――それは“加速”だ。
勝つために、一歩でも多く脚を踏みしめることだ。
それなら、馬鹿にでも出来る、駄馬にでも出来る!!
その誰でも出来ることを、根性出して誰よりもやることが本気を出すってことなんだ。
『ああっ、ここでヒシケイジ、粘るか。まさか、オルフェーヴルを差し返すのか――』
ヒシケイジはギアを上げる。
馬体は機能的に美しく躍動する。
それは普段のヒシケイジとは違う疾駆だ。
飛ぶようでいながらも、ただひたすらに四肢の躍動と共に、銀色の蹄鉄でぬかるむ芝と地面を踏みしめるような暴走だった。
◆◇◆
馬主席で、愛馬であるヒシケイジの雄姿を眺めていた綾部 雅一郎はその瞬間、手に持った杖を落としていた。
「ヒシケイジ――そうだっ、その走りだよっ!!」
あの雪の日、日高町の放牧地で見たあの走りを、ヒシケイジは取り戻していた。
いや、彼は再び、自らの手で取り戻したのだ。
『ヒシケイジ、差し返すッ』
「ケイジ、俺はお前を信じていたぞ!!」
鞍上から、石破 志雄の歓喜の声が聞こえてくる。
そんな声を上げなくたって――わかるぜ、相棒、俺もお前を信じたんだ。
だから――ヒシケイジは、己の何処から出てきたか分からない力と共に、前を走るオルフェーヴルを捕らえた。
【信じられない――】
そう語る、オルフェーヴルを視界にとらえ――抜き返す。
最高だ。最高の気分だ。
今ならわかる――全力を出すことは――どういうことか分かる!!
デカい目標のため、誰かのために一心不乱に無心で何かに打ち込むことが本気じゃない。
何をするべきか分かっていて、目の前の目標に夢中になっていれば、勝手に頭はクリアになるものなんだ。
『オルフェーヴル、追う!!』
「オルフェーヴルッ、ここで気張らなどうする!? オマエは三冠馬になる馬なんや!!」
だが、直後にオルフェーヴルの表情は再び、一年前のあの日のものに戻った。
お利口で、優等生なのに、レースの時だけは本気を出す。
甘えん坊な、才能の塊――そうだ、それがお前だったな。
「接戦だ、両者譲らない――この場所は、暴君と豪駿だけの世界だ!!」
楽しい――雨の中、俺は残り30mもない最後の一瞬を、オルフェーヴルと共に駆け抜けていた。
ぼやける頭に浮かぶのは小さい頃、母親に見守られながら走ったあの瞬間――
ただ、晴れやかな空の下、走るのが楽しかったあの頃の光景だった。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。
明日はエピローグです。
明後日には……ご期待ください。