2011年、5月29日。
日本ダービーで掛かったヒシケイジは、野生的な本気の出し方を思い出し最終直線でオルフェーヴルを差し返す。
両馬接戦のまま、雨の日本ダービーは決着を迎えようとしていた。
『先頭はオルフェーヴル、オルフェーヴル先頭ッ!!』
「パパ……ヒシケイジ、頑張ったよね……?」
「クソッ、なんだよ……惜し過ぎるだろ……」
「な、競馬、マジで面白すぎ……ケイジがやったあとオルフェーヴルも差し返すとか思わないじゃん」
「やべっ、俺――馬券買わなかったのに、最後、ケイジ、応援してた」
「ああ、俺、オルフェーヴル、マジで負けたと思ったぜ……」
「ム……すまぬヒシケイジ、やはり月初の不調が響き、一歩とどかなかったか。裏切った分、次は全力で賭ける――!!」
最終直線を驀進したヒシケイジの意識が戻ったのは、ゴール板を踏み抜いた直後のことだった。
無我夢中で文字通り、すべてを出し切った。。
そんな俺が自らが敗北したことを悟ったのは、背後で湧き上がった歓声を身に浴びたからだった。
『二冠馬、二冠馬が誕生のその瞬間――!!』
相棒である石場 志雄が、淡々とヒシケイジを流す裏で――
オルフェーヴルに乗る生添 賢治が、両手を広げて勝利をアピールする。
本当なら心から悔しがって――敗北を受け入れるべきなのだろう。
けれど、今だけは敗北の後悔や夢を裏切った悲しさよりも、純粋に走る楽しさを相棒と共に取り戻したことへの喜びの方が大きかった。
『勝ったのは二十二頭目の二冠馬、オルフェーヴルです。生添 賢治、プレッシャーとの戦いの中、見事に東京皐月賞馬を、東京優駿、この日本ダービーの頂点へ導きました!! 勝ちタイム2分28秒5、後上がりの三ハロンが35秒3――果たしてこれは不良馬場のレースだったのでしょうか。我々は夢を見ているのでしょうか――!?』
ヒシケイジは「本気」という新たな武器を手に、よたよたしたトロットから、とぼとぼとした歩みにすら戻せず脚を止めた。
全力を出し切れば、こうも動けなくなるのか。
俺は日頃の努力不足を心の底から嘆かずにはいられない。
ああ、だが――今日の挑戦と成功は実を結ぶ確信がある。
今日の敗北は確かに、地面に転がって叫び散らしたいほど悔しい。
だが、次のレースなら――
あのオルフェーヴルを相手にしたとしても、今日のような、ニ着に甘んじるとは限らないぞ。
『行こうケイジ、次こそは――勝つ。俺たちは、挑戦者だ』
一着を取ったオルフェーヴルと、生添 賢治がウイニングランを走る中で、ヒシケイジはとぼとぼとした歩みでターフを去る。
それはそうと、せっかく期待してくれた早山のおやっさんや、土井さん、門田さんにはどう謝ろう。
ファンの皆にどんな顔で会えばいいのか―ー
脳内麻薬が晴れて、疲労がヒシケイジの全身に湧き上がる中、辛うじてレース後の検量まで、ヒシケイジは己の意識を保つことができた。
◇◆◇
2011年、6月1日。
暴君と、豪駿――二人の名馬が、後の歴史に語られる衝撃的な雨の日本ダービーを繰り広げた数日後。
普段通りのヒシケイジが帰ってきたのは、よくよく見慣れた栗東トレーニングセンターの駐車場であった。
「スタッフさん、ギョロは大丈夫ですか?」
「ブヒッ!!」
聞き慣れた厩務員の土井さんがどたどたと、走って近づいてくる。
土井さんと再会したのは、二日ぶり。レースの後ふらふらになったヒシケイジを労るように抱きしめてくれたとき以来だった。
スタッフさんからラジオを受け取った土井さんに曳かれ、ヒシケイジは歩きなれた厩舎横の土手を歩いていく。
数歩、コズミの痛さに顔をしかめるものの、歩かないって選択肢はないので頑張ってポクポクと歩いていく。
「なぁ、ギョロ……」
「ブヒッ」
「おやっさんも、門田さんも、すっげえギョロのこと褒めてたぜ!!」
「ブヒッ!!」
「なぁ、ギョロ……石破ジョッキーの言うとおりなら、ダービーで見せたあの走り、マグレじゃなくて何度でもできるんだよな?」
「ブヒヒ~~~ン!!」
「じゃあ、きっと菊花賞ならさ、条件は有利だし俺達も勝てるはずだぜ!!」
「ブヒッ!!」
「そうだ、今日は、綾部オーナーがさ、くるはずだからさ……ダービー二着でもきっと、褒められると思うぜ!!」
「ブヒッ!!」
ヒシケイジは少しだけ安堵して、早山厩舎へと戻り、普段どおりの日々が戻ってくるという事実に気を引き締めた。
次走はどこになるかのだろう――俺は自分の中のつたない競馬知識で、考えるに少なくとも秋までレースはなさそうだった。
もう、負けで心を惑わされて体調を崩すような真似はごめんだ。
今は、只管に休養して――手に入れた“本気”と、夏の休養で体をデカくして、必ず菊花賞、オルフェーヴルを倒す!!
そう心に誓い、飼い葉をもしゃもしゃと食べるヒシケイジであったが――
その日、予定された時間になっても白髪に杖を突いた好々爺である綾部オーナーが、早山厩舎にくることはなかった。
「ブフゥ~~」
ヒシケイジは、もりもりと飼い葉を咀嚼し嚥下する。
ラジオをアテにするなら、現在時刻は午後八時。
普段であったら、アポの時間よりも更に早く到着する几帳面な綾部オーナーが今日に限って遅刻している。
というか、アポをすっぽかしているというのは、最早説明がないだけで――何かあったに違いなかった。
「おーい、ギョロも心配かぁ?」
「ぶふ……」
「そうだよなぁ、オーナー、無事だといいなぁ……」
「ぶひぃ……」
俺と土井さんは共に厩舎の中で待ちぼうけを食らっていた、
早山のおやっさんが応対や会議で忙しく、厩務員の詰め所からスタッフを追い出したからか――
今日は、厩舎にスタッフが心なしか多い気する。
(こりゃ、俺達は蚊帳の外です、か――)
なんて、ヒシケイジがある意味で余裕をこいていると。
「えれぇ、ことになった……」
なんて、彼らを締めだした張本人である早山のおやっさんが、深刻な顔で良くないニュースを持ってきたとき――
厩舎にいるヒシケイジを含めた誰もが固唾をのみ、訪れる最悪の瞬間を覚悟した。
(やっぱ、勝てなかったのはダメだったのか……)
(オーナー、事故にあったんじゃ……)
(経営悪化、大量解雇……)
(方針転換、人員削減……)
「「……」」
「おう、大丈夫だ、クビじゃあねえ。むしろ金回りは良くなってる」
「じゃあ、早山のおやっさん。何がそんなに問題なんです」
「ブヒッ!!」
「綾部オーナーが、精魂尽き果てたのか、体調を崩して……病院に入院が決まったらしい」
「そりゃ大変だ……もう御年ですからね。ちなみに、それで俺達がクビになることは……」
「土井、心配しなくても、直ちに問題になるわけじゃねぇ――ただし」
「ただし――なんです?」
「ブヒッ?」
「ヒシケイジの次走が、宝塚記念に決まった。来年みれるか分からねぇから、今年走る所を見ておきたいらしい」
「ええ~~~~~~~っ!!」
「ひひ~~~~っ!?」
驚愕、今年の夏、休養モードかと思っていたヒシケイジへの、馬主からの無謀にも思える提案は――
一人と一匹が、情けない悲鳴を上げるには十分な状況に他ならなかった。
「おやっさん、ギョロはいけるんすか!?」
「正直、雲をつかむような話だ――年末の有馬を勝った三歳馬はいるが、宝塚記念はいねぇ。やったら快挙だ」
「それじゃ、むざむざ負けに行くようなものなんじゃ……」
「だが、綾部オーナーは、思いのほかやる気らしい」
「おやっさん、そりゃまたどうしてです?」
「曰く、あの本気の走りを見たから――だそうだ。あの走りなら古馬にも負けねぇ。それに負担斤量の差もある。万全なら勝ち目があると踏んだらしい」
ヒシケイジはそのとき、確かにあの瞬間至った“本気”について思い出していた。
宝塚記念、三歳馬で勝った馬がいないレースーー同じ領域に居れば勝てるのか。
ていうか、そもそも出走することが出来るのか。
その辺が分からないのは土井さんも同じだったらしい。
「出走条件に関してはどうなんです? ファン投票でしょ?」
この人がいると、本当に話が進むのが速くて助かる。
「実はこれがな……まぁ、見てみてくれ」
そういって、早山のおやっさんは印刷したウェブページを資料として取り出した。
俺は見ろと言われたので、土井さんおよび、その他厩舎に集まったスタッフ達と一緒にぺら紙を見る。
ヒシケイジ、牡3。
石破 志雄――83,641票!!
人気投票――二位!!
「え、なんで!?」
「ブヒィ!?」
「豪駿ヒシケイジ、昨年末から名前は売れてたからな。どうせ出ないだろうが票を入れた連中がいたらしい」
「それってつまり、おやっさん……」
「勝てるかどうかは、分からないけど、宝塚記念――出れるってこった」
「ヒヒ~~~~~ン!!」
ヒシケイジは、その一言にやる気をみなぎらせて雄たけびをあげた。
綾部オーナーは、まだ俺を見捨てていない。
それどころか、期待してくれている。
それなら、俺はあの人の期待に応えたい。
ベストの状態で挑めば勝てるなら――ベストに仕上げてやる。
(そうだな、相棒、俺は挑戦者だ!!)
俺が新たな目標に闘志の炎を燃やす中――
ヒシケイジが宝塚記念に出走するという事実は、世間へと大々的に報じられるのであった。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。
次回から、宝塚記念です。