ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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誤脱報告、感想ありがとうございます。
思ったより、長くなってしまいました。お許しください!!



2011冬、有馬記念(後:3/3)

 2011年、12月25日。

 極めてハイペースで進む有馬記念の先頭に、ヒシケイジは立っていた。

 

『三番手、ヴィクトワールピサとミルコ・ディムロス。早めに上がってくるか――』

 

 背後からついてくるアーネストリーのペースに合わせつつ、俺は中山の向こう正面を逃げていく。

 ペースは今のままでいい。限界ギリギリではあるが、息を入れることは出来ている。

 

『その後ろですが、インコース、ブエナビスタ、ちょっとややかかり加減になっているか』

 

 逆に背後から迫るプレッシャーも多くが揺らいできている。

 そうだハイペースなレース展開で、中距離が得意な連中の脚を鈍らせる――今日の勝ち筋はそれしかない。

 

 もし俺が、皐月賞のようにスローペースな脚に合わせてきたら、最終直線で確実に食われていた。

 もし俺が、日本ダービーのように乱暴に逃げるだけだったら、最後のスパートの脚は持たなかった。

 もし俺が、菊花賞のように沈んでいたら――きっと、菊花賞以上のベストな展開にはならなかっただろう。

 

『トーセンジョーダンがいて、レッドデイヴィスがいる、インコースにペルーサがいる』

 

 アーネストリーの騎手も、それが分かっている。

 俺と限界まで競ったように見せかけて、最後の直線でしっかり脚を使う気なんだろう。

 

『そして間にエイシンフラッシュ、インコース、ヒルノダムールがつけています』

 

 それは俺も同じだ。

 

 いや、石破 志雄も同じ考えなんだ。

 俺はゆっくりと加速するように見せながら、虎視眈々と状況を狙っていた。

 

『外目をついてジャガーメイル上がっている』

 

 その状況を、ヒシケイジの決死の努力を、綾部オーナーと雅秀社長は固唾を飲んで見守っていた。

 

 ヒシケイジは、諦めていない。

 むしろ、世代最強の名をかけて、馬主、陣営、この場に集まった観客の思いをかけて戦っていた。

 

「親父、ヒシケイジ……頑張っているよ」

「うう……すまない、ヒシケイジ……私の夢のために、今、必死になって戦っている」

 

 綾部 雅一郎は涙を浮かべていた。

 

 負けてもいい戦いはない。

 だが、彼が自分の我が儘で、分の悪い賭けに身を置いていることを雅一郎は良く知っていた。

 

 日本のため、競馬界のためなど言い訳はいくらでも効く。

 

 けれど誰よりもヒシケイジの活躍を近くで見たかったのは――

 ただ錦の舞台で、彼の激走を見たかったのは、自分の我が儘だった。

 

「雅秀――ヒシケイジは菊花賞、痛い思いをしたのに――菊花賞の時より、ずっと美しく走っている……それが嬉しいんだ」

「ああ親父、あの石破 志雄という騎手が、早山調教師が負ける賭けをするはずがない。今はただ見守ろう」

 

 そうだ、見守るのだ。

 綾部 雅一郎は袖で目をこすり、馬群の先頭を往くヒシケイジを見た。

 

『そしてその後ろ、トゥザグローリーがいて、アパパネが上がっている』

 

 あの日、冬の牧場で荒々しく走る姿から、ずっと洗練されたヒシケイジの走りだ。

 荒々しさの有る本気の走りとは違う、力を抑えるのではない。

 

 力を抜いて――待っているのか。

 

「親父……?」

「雅秀――ヒシケイジはやる気だ。このグランプリですら、相手はオルフェーヴル、彼だけなんだね」

 

 オルフェーヴル、そうか、ヒシケイジ――お前は本当に負けたくない相手に巡り合えたのか。

 

 私たちや陣営のため――

 

 観客のため、日本のため――

 

 楽しむため、勝つため――

 

 ライバルのため――

 

 走る理由なんて、いくらでもあっていい。

 

 ヒシケイジ、背負えるなら、背負え――

 お前は、強い馬だ。背負った分、皆がお前の背を押してくれる。

 

 苦しい戦いでも、お前は支えられているんだ。

 

「だから、負けるな――ヒシケイジ……私の夢……」

 

『さらにインコース六番のキングトップガン。外目をついて、オルフェーヴルはこの位置後ろからまだ三頭目』

 

 ヒシケイジは、綾部オーナーの思いを背負いながら、ゆっくりと坂を上りながらも脚は貯める。

 しっかりと、背後の馬は追いついてきている――

 

 ヴィクトワールピサ、ブエナビスタ、エイシンフラッシュ。

 これで潰れるとは思えないが、宝塚記念と同じだ。

 

『そして十四番のルーラーシップ、最後方から八番のローズキングダム。こんな展開です』

 

 お膳立ては済んだ。ここから最終コーナーを回って“本気”を出す。

 経済コースは、俺が抑えたから、ベストな状況の馬はこない。

 

『さあ、ハイペースな状況、どこで動くか? ヒシケイジ先頭、ブエナビスタ現在三番手』

 

 勝てる――やっとここまで来て、勝ちが見えてきた。

 そうだろう、相棒。

 

「そうだ。ヒシケイジ、よく我慢した……」

 

パァン――!!

 

「オルフェーブルはアパパネの背後、まだ後ろから七、八馬身の位置」

 

 石破 志雄の鞭が入る。

 徐々にペースを上げる合図だ。

 

『先頭はヒシケイジ、一気にペースを速める。加速――加速した!!』

 

 俺もだ。

 今、背後から、プレッシャーを感じた。

 

 あの笑い声が、無邪気な笑顔が見えるようだ。

 甘えん坊で、勝ち気で――無邪気で、一生懸命で――

 

 誰よりも気高く、強い。

 俺の友達。俺の親友。俺の最高のライバルが來る。

 

『石破志雄がペースを上げて、むしろこのタイミングで後方の馬を引き離しにかかる』

 

 痛くもない、胸のあたりが痛む――

 

 振り落とされた石破志雄の姿がちらつく――

 

 斜行して、オルフェーヴルにぶつかりに行った、あのミスを後悔しないわけがない――

 

『ヴィクトワールピサ、更にはトーセンジョーダン手が動いた!!』

 

 ヒシケイジはそれでも――過去の恐怖を振り払うように、トモに一層力を込めた。

 

『外から日本のタケ、レッドデイヴィスもやってきている!!』

 

 なぜなら、大外からやってきているオルフェーヴル。

 お前から教わった“勇気”が、今、俺の心で燃えている。

 

 負けたって、負けても、負けても――何度負けても、本気で勝ちに行く勇気が俺の背中を押してくれる!!

 

『オルフェーヴルが、外に持ち出した!!』

 

(行くぞ、最後の決戦だ――)

 

 俺は芝がなんとか残された中山の最終コーナーを、インコースギリギリを駆け抜ける。

 俺が通る最内とオルフェーヴルが通る大外の間は、今日のレースでもうボロボロだ。

 

『ブエナビスタは、最後の直線、最後の有馬記念!!』

 

 栗毛の馬体、お前の走りを誰もが見ている。

 良いぞ、俺を追ってこい。お膳立てはしてやった。

 

 そうだ、俺達が出来る全ての奇策をオルフェーヴル、乗り越えて来い!!

 

『さぁさぁ!! 先頭は、依然としてヒシケイジ先頭だ!!』

 

 ホームストレッチ、湧き上がる歓声が――

 俺達に浴びせられるように盛り上がる。

 

 勝敗はまだ分からない。

 馬群は、一頭誰も欠けずに、ヒシケイジについてきている。

 

 プレッシャーが膨れ上がり、弾ける。

 俺以外の馬が、俺以上に躍動する瞬間が來た。

 

 何頭来る――何頭が“本気”を出す?

 ブエナビスタ、レッドデイヴィス、ヴィクトワールピサが来た!!

 エイシンフラッシュ、アパパネ、トーセンジョーダン、アーネストリーが入る。

 ローズキングダム、ルーラーシップ、ペルーサの気配を感じる!!

 ヒルノダムール、トゥザグローリー、キングトップガン、ジャガーメイル――おいおい、誰も諦めていない!!

 

「石ィ破ァ、志雄うううぅぅぅーーーーーー!! 来てやったでぇ!!」

「生添 賢治ぃ――そんな大声出さなくても、聞こえるんだよ!!」

 

 なぁ、なぁ、オルフェーヴル、すげえぞ。

 全頭――俺が感じる限りどの馬も、本気で前を目指してる。

 

 俺達の本気の領域に、みんな入ってきやがった。

 

「オルフェーヴル、気張りドコロや!! 菊花賞の悔しい思い、今、ココで晴らせぇ!!」

「ヒシケイジ!! 楽しめ、楽しむんだ――お前のための最高のレースが来たぞ!!」

 

『熱戦だ、どの馬も前を狙っている!!』

 

――パァン、パァン、パァン、パァン!!

――パァン、パァン、パァン、パァン!!

 

 ヒシケイジは、馬群の先頭で、最もインコースで、生まれて一番の歓喜の中、溢れんばかりの歓声を浴びていた。

 

 軽やかに、脚が動く。

 苦しさが脳裏から消え、思考が引き延ばされる。

 

 スパークが来たわけじゃない。

 俺の中から“負けん気”が失われたわけじゃない。

 

 今、瞬間、俺もお前らの本気に“当”てられているんだ。

 

 それに――この大歓声。

 スタンドの声で空気が揺れて、地面が震えるなんて初めてだ。

 

「ギョロ……お前、本気に成れたのか――!!」

「違う、あの乱暴な走りとは違う。普段のままのスパート……早山のおやっさん、アレは……」

「なんてことはねぇ――ヒシケイジが、ノっちまったってだけだ」

 

 宝塚記念だって、こんなにすごくなかった。

 だって、誰かのために走る以上に――楽しい、俺は今楽しいんだ。

 

(そうだ、この最高の景色を見るために、俺は啓示を受け生まれてきた!!)

 

『アパパネ伸びる!! ブエナビスタ、必死に食らいつく!!』

 

 いいぞ、各馬が最後のスパートをかける。

 

 アパパネが、鳥が羽ばたくようにぐっとギアを上げてくる。

 ブエナビスタが、俺と同じ絶景を見にインコースを駆け上がってくる。

 エイシンフラッシュが、最後に残した足で黒い閃光のような切れ味を見せる。

 トーセンジョーダンが、鮮やかな末脚で、マジで俺に並ぶ――

 

 俺が沈む、本気に当てられて、これだけスパートを駆けても――

 レースの展開は横一線になる。

 

『オルフェーヴルが、来た!! オルフェーヴル、先頭だァ!!』

 

 そして、お前が来るんだろ、オルフェーヴル!!

 

 一番大外から、黄金の閃光になったお前が、マイル顔負けかってくらいの速度で上がってくる――!!

 

「ヒシケイジ、頼む、もう一段、伸びてくれ!!」

「伸びろ伸びろ伸びろッ――石破志雄、もっと鞭、入れてくれぇ!!」

「オルフェーヴルぅぅぅ、やべえよ、勝ったって勝ったって勝ったって!!」

「ああああ~~~~頼む~~~!! 今日の俺の夢、ブエナビスタなんだよ!!」

「ムホホホホホ!! これはどういう――どういうことだ!? 明らかな不利を押しても馬が全力を発揮している!!」

 

 すげえ、本当に――今年は驚かされてばっかりだ。

 鞭一発も入れられずに、お前は今日、誰にも負けないレースをしてるんだよな。

 

 俺の意識が一気に前に向く。

 ルートは、開いてる。

 脚だって動く。スタミナもある。

 

 だから、オルフェーヴル――そんな【ヒシケイジ、来い】なんて、目をしなくたって――俺は行くぞ!!

 

『エイシンフラッシュ!! ブエナビスタ!! アパパネか!? ヒシケイジ、まだ伸びるのか!!』

 

 そう思った瞬間、ヒシケイジの脳裏にかつてないスパークが走る。

 ただ、一直線、自分が進む道が見える。

 

 周囲の馬、そのすべてのオーラが集まる、ぼんやりと橙色に光る道が続く――ゴールがある。

 間一髪――この領域に、皆が俺を押し上げてくれた。

 

(ありがとう、ありがとう――相棒、おやっさん、土井さん。門田さん。綾部オーナー、雅秀社長――)

 

 その瞬間、中山競馬場のスタンドに集まった十七万人の観客が、ヒシケイジの“本気”を見た。

 苦しさとは無縁の襲歩の感覚が、どんどんと広がるたびに――

 豪駿と評されるヒシケイジの筋骨隆々の背中に羽が見えてくる。

 

「パパ!! 見てパパ!! ヒシケイジが飛んでる!!」

 

 その時、少女は確かに、もう一度、ヒシケイジに羽が生えた瞬間を見た。

 

「ヒシケイジぃ!! 俺信じてたよ俺はぁあああああああ!!」

「すげえ、また追いつくのかよ、追いつけるのかよ!! 何度目だよ!! 最初から本気出せよお前ぇ!!」

「お、オルフェーヴル!! 行け行け!! もっともっと走れ!! もッと走れよ!! お前が最強なんだろぉ!!」

「ブエナビスタ!! 頼む頼む頼む!! ラストランだぞ!! もう見れねぇんだから!! 頼むよぉ!!」

 

 直後、ぐんぐんとヒシケイジが伸び、並み居る優駿へと再び迫っていくく。

 湧く――あらゆる意味で会場が湧き上がる――

 

 だが、その声は決してヒシケイジだけには向いていなかった。

 

「アパパネ~~~~~!! 七冠目取ってくれ~~~~~~!! 有馬でも行けるって見せてくれ!!」

「エイシンフラッシュ、最強世代の名前、伊達じゃないだろ――!!」

「タケ、タケ、タケがGⅠ勝てない年があるなんて、信じられねぇ――有馬でも、三歳でも行ける!!」

「ジョーダン、いいぞォ――お前の得意な展開が来たぞ!! 俺、ずっとお前買ってるんだからぁ……!!」

 

 伸びる、伸びる――伸びて來る。

 引きのばされる感覚の中で――俺が一歩一歩伸びていくたびに、俺に向けられるのはありとあらゆる歓声だ。

 この場に居る、誰もが、誰かに夢を託している。

 

 その馬に、どの馬も、応えている。

 でも俺は伸びる、もっともっと、前に行く――

 

「親父、ヒシケイジが……また、先頭に」

「そうだ。ヒシケイジ、もうお前は立派な競走馬だ。その飛ぶような普段の走りでも“ゾーン”に入れる」

 

――パァン、パァン、パァン、パァン

 

 前に、前に伸びる。

 たった一頭、オルフェーヴル、お前には負けたくない!!

 

『先頭、ヒシケイジ入れ替わるかッ』

 

 そうだ、俺は――白銀の豪駿、ヒシケイジだ!!

 受け継いだ奇跡を体現するように、俺は一歩、また一歩を踏み出して――

 

「ヒシケイジ――勝て、オルフェーヴルに勝て!!」

 

 ついに、オルフェーヴルと並ぶ。

 いける、このまま加速すれば――俺が勝つ!!

 

「オルフェーヴルッ!! 気張れや!! お前、今日勝つためにきたやないんか!!」

 

 刹那、観客の視線がヒシケイジへと集まる。

 ヒシケイジが、あの日のように菊花賞のようにだが、一直線にゴールへと迫る。

 

 しかし、直後、オルフェーヴルがぐん――と、一段ギアを上げて猛追する。

 

 叩く、石破志雄――

 手綱を握る、生添賢治――

 

『それでもオルフェーヴル、先頭か!? 勝ったのは――!?』

 

 ただただ、前に――

 ヒシケイジは、傍を駆ける暴君の気配だけを感じながら、ただ前だけを見てゴール板を駆け抜けた。

 

(うおおおおぉおおおおおおおおおおおおー―――――――!!)

 

『強い、間違いなく、強い……三歳馬がほぼ同時にゴール、大激戦――おっと、確定しません。決戦写真!!』

 

 ただ、歓声が会場を支配するなか、ゆっくりと、俺達は第一コーナーに向けてキャンターを始めた。

 始められてしまった、俺の脚、俺のスタミナは、もっと――残っていた。

 

 クソッ――やっちまった……俺は“本気”を出したが、本気を出し切ったわけじゃない。

 

 宝塚記念の時みたいに、石破志雄をぶっ飛ばすくらいの加速をしないと――

 菊花賞の時みたいに、ぶっ倒れるくらいじゃないと――

 

 本気をただ出すだけじゃ、勝てない領域が有るって言うのか――

 くそぉ……もし俺が、人の言葉をしゃべれていたら、きっと――心から悔しがっていたに違いない。

 

 でも、楽しかった。

 俺は、きっと笑っていただろう。

 

「ケイジ――笑ってやがるのか……はぁ、あんだけ啖呵切ったのにな……」

「クソォ~~~~石破志雄、いいレースしやがってからに――」

 

 俺は傍に寄ってきたオルフェーヴルと並走し、鞍上で石破志雄と生添賢治が拳を併せる。

 その姿に、いや、このレースを勝ち抜いたすべての馬を称えるように――

 

 会場からは、静かな思いが積み重なった大きな拍手が鳴り響いた。

 

「ウフフ、負けちゃったけど――ほら、第一目標は達成したからさ」

「芝田です……タケさん。負けて悔しくないわけじゃないですが――いやぁ、本当にいいレースでしたね」

 

 その後、写真判定のごくごく短い間、会場からは、止めどない拍手が鳴り響いていた。

 その日、全頭無事で駆け抜けたレースは、狂おしいほどの熱を誰もが胸に秘めたまま、静かに幕を閉じた。




誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。
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