2012年、3月。
二カ月の休養を終えたヒシケイジは、栗東トレーニングセンターで調教を再開した。
検疫も終え、休養である程度落とした筋肉を骨格に合わせて鍛え直すかのようなトレーニングは、老将「早山」の手だけではなく、競走馬獣医師の指導も含めて、細心の注意を払った環境で行われていた。
その日、晴れやかな春の空の元、うららかな春の日差しとは裏腹に――
栗東トレーニングセンター、ポリトラックコースには変わらず熱気あふれる早山陣営の馬が集まっていた。
ヒシケイジは鞍上に、門田調教助手を乗せて、昨日装蹄してもらった足元を確かめるように地面を踏みしめる。
長期の搬送は久々だったから、来てから二日三日はあんまり元気がなかったが、大分体も回復してきた。
悪くない――栗東トレーニングセンターに戻ってから、色々とだいぶ良くしてもらっているお陰だ。
今日の調教だっていつものメンバーだが、実績だけ見れば相当豪華なメンバーだ。
2012年1月25日川崎記念において、距離適性を不安定されながらも4着となったヒシパーフェクト。
2月26日阪急杯に勝利し、短距離馬として頭角を現し始めたヒシロイヤル。
これなら、いい調教が出来そうだ――なんて思っていると、此方に近づく影が一頭。
何故か、他の厩舎のはずの葦毛のアイツがここにいた。
あの後、土井さんが語ってくれたヤツの名前はゴールドシップ。
今年クラシックを走る新進気鋭の一頭らしいが――
『おうおう、兄さん。デカい顔してるのは今のうちだがよ。下手な走り見せたらぶっ殺してやるからな!!』
みたいなオーラがむんむんと漂っている。
ヒシロイヤルとヒシパーフェクトも、【こわいねー】とか【やばんだね~】みたいな目線を奴に向けている。
「早山先生。もーダメなんです。こいつは、文字通りのじゃじゃ馬ですよ」
「なぁ、
俺はちらっと、早山さんの方を見た。
聞こえてくる会話からもう、経緯は分かる。
「そんなこと言わんでください。後生ですからね……グヘヘ」
ちょっとぽっちゃりとした、
理由は簡単、にわかに俺と走った馬は素直になるという噂が広まっているからだそうだ。
「おう、門田。本当に悪いな」
「おやっさん。困ったときは、助け合いですよ。ケイジも分かってくれると思います」
「よっ流石、門田調教師。心の広いお方!!」
なんだかんだ人のいい早山のおやっさんが詫びを入れ、俺の鞍上で丸眼鏡で、丸坊主がトレードマークになってきた門田さんが快活に笑う。
それにしても、菅生調教師、気のいい人だ。
今まで、調教師は老獪な人やなんかデータキャラみたいな人しかいなかったから、こう言う三枚目タイプは初めてだ。
(悪くない。アニメでも、こういうシーズンが変わった直後に方向性の違う新キャラを入れるものだしな――)
『うるっせぇぞ、菅生。俺は俺がやりたいようにやるんだ!!』
普段通りヒシケイジが人間的な感性で状況に納得する背後で、じゃじゃ馬盛りのゴールドシップがぐるぐると呻く。
おいおい、君、そんな態度を取っていいのかね。
盛り上がった日本競馬を支える一頭の駿馬として、その態度は良くないと思うよ。
良くないなぁ――良くないよゴールドシップ君。
ヒシケイジは耳を伏せ、不快を示しながらもゴールドシップを睨みつける。
『なんだてめぇ、見下ろすばかりの筋肉ダルマが!! 少し年上だからってなめてんじゃねーぞ!!』
みたいな顔してるけど、後ずさる内心ではビビってるのがバレバレ。
馬体重的には多分30kgくらいしか差がないが、まだ俺のほうが一回りくらいデカい。
てか、あれ――?
コイツ、デカくないですか。
「おう、菅生――にしてもゴールドシップ、でけぇなぁ」
「そうですよ、早山先生。いい馬でしょう。シップはデカい。スタミナもバネも一級品です。といっても打田くんもまだ、色々試してる段階でしてね、まぁ追い込み脚質で使えればとは思うんですが、併せ馬にも噛みついちゃうから、もう競馬を全然教えられないの。だから、今日はこうやって葦毛の豪駿ヒシケイジ様に、ご指導ご鞭撻してもらいたかったという、わけなんですよ」
お、菅生調教師。全部話すやん。
「ハハハ、じゃあ早山さん。どうしましょう」
「ヒシロイヤルとヒシパーフェクト、交互に使うか。ヒシケイジが誘導馬だ。頼むぞ」
直後、俺は門田さんに合図を送られて、ぐっと加速する。
「ほう……ケイジ、成長したな」
昨年から比べて、明らかに盛り上がったトモの筋繊維がパワーを生み出し馬体を急加速させる。
ヒシケイジの走りには、切れ味がある。
スタミナとパワーが重視された血統でありながら、マイラーを思わせる加速とスピードを兼ね備える加速は、日々の土井さんの世話と調教によって育まれた後天的な才能であった。
「いいぞ、安定性のあるデカさだ。筋肉量が生み出すスピードとトルク、最高だ!!」
鞍上で、門田さんが絶賛してくれるのは正直嬉しい。
残り六ハロンを切って、俺は隣のヒシロイヤルに目を合わせてともに加速する。
三頭合わせの誘導では、大体俺が外に出て、ウチにいる馬を二頭引っ張る。
しっかり、付いてこい新入り。
背後から、ちゃんとオーラは感じているぞ。
ヒシロイヤルも、しっかりと俺に付いてきてくれている。
約二年間、共に走ってきたおかげで、調教が始まれば息はピッタリだ。
「おい、ゴールドシップ!! 焦るな!!」
残り三ハロン。
後方から、ゴールドシップに乗っている調教助手から悲鳴が聞こえてきた。
ゴールドシップ、前から思っていたがコイツ頭いいな。
ゴール前で、ちゃんと俺達の前に出る気でいる。
「ハハハ、ヒシケイジ。遊んでやろうか!!」
直後、門田さんが手綱を扱き、合図が來る。
いいぞ、折角ポリトラックコースでやってるんだから――
俺も、ヒシロイヤルも、脚を使わなきゃ面白くない。
面白い!!
俺は今、ゴールドシップに勝ちたい。
そう思った直後、俺の脚が動く。
一歩、一歩を踏み出す感覚が、長くなるような感覚が來る――
引き延ばされる時間の中で、引きおこされる脳内のスパーク。
一直線に視界の先、ゴール板までの軌跡が見える。
俺の成長を相棒が居なくても――少しだけ、“本気”に成れるところを門田さんに見てもらおう。
これが――俺の本気だ。俺は、葦毛の豪駿ヒシケイジだ!!
「うおっ!!」
直後、門田さんが驚くほどの加速がヒシケイジに齎された。
それにつられるように、ヒシロイヤルがスパートを駆ける。
残り二ハロン、ゴールドシップが明らかに離される。
どうだ、お前は経験したことがあるか?
お前は、本気の馬と、走ったことがあるか?
サダムパテック、オルフェーヴル、ブエナビスタ、エイシンフラッシュ、アパパネ、トーセンジョーダン――!!
本当に強い馬は、この領域に来る!!
お前がイキってるだけの馬じゃないならこの領域まで来い!!
「うおっ……ヒシケイジ、忘れもしない。初めてGⅠ乗ったエリザベス女王杯で見た、メジロラモーヌがしたみたいな走りの領域――あんな、スパート、見せてくれてええんですか!?」
「ダーメ、門田の奴、やりすぎ」
残り一ハロン。
俺が本気で直進する背後で、確かな圧を感じた。
『舐めるなヒシケイジ。俺も、俺も、出来る、できるんだああああああああああああああああぁぁぁ!!』
みたいなこと考えてるのかな。
でも、お前、加速遅いし――距離的にもう間に合わない。
ヒシケイジはそのまま、飛ぶようにゴール板を跨いだ。
「ヒシケイジ。お前……」
「門田ァ、お前馬鹿が!!」
「いやぁ~~~むしろ、ありがとうございます。門田様……」
『負けた……いや、負けてねぇ、負けた……まけたぁあああああ!! クソォ、何だ、大人げねぇことしやがって――』
なお、俺と門田さんは案の定、怒られた。
っていうのが、あったんだよ――石破 志雄。
2012年3月18日、曇り空の阪神競馬場。
第60回阪神大賞典のパドックを終え、鞍上に石破志雄を乗せたヒシケイジは、久方ぶりに再会した相棒へと視線を向けた。
「なんていうか、俺抜きで楽しそうなことしてたんだな」
「ブヒッ!?」
その日、スタンドに集まった十二万人の観客に見られながら、ヒシケイジは相棒のセリフに冷や汗をかいた。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。
明日、アレが来ます。