ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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誤字脱字報告、感想ありがとうございます。



2012春の天皇賞(後:3/3)

マズい――

 

マズい――

 

不味いやろこれは……このペースでヒシケイジが行って、スタミナが持つ?

 

…………

 

……

 

うん、持つな。

 

菊花賞の時なんて、映像見る限り1500mくらいずっと加速してたやん。

 

石破くんなら、最初から最後まで飛ばす。

 

ケイジなら体力は持つ。

脚部不安考えても、やりかねん。

 

「オルフェーヴル、そろそろ前行こ、頼むで――今日は、頼む!!」

 

◇◆◇

 

 

 2012年4月28日。

 春の天皇賞で向こう正面を大逃げで駆け抜けるヒシケイジは、ついに後方と大差をつけたまま坂を上り切った。

 

『さぁそしてここにオルフェーヴル、相変わらず後ろから二頭目、最後方追走はローズキングダム、こういう大勢です』

 

 ヒシケイジが徐々に、加速のペースを上げた。

 後方との差が、また少し開いていく。

 

『前はだいぶ飛ばしています、今日の京都は前が止まらない、オルフェーヴルはここで点火か――徐々に前に出始めている。』

 

――パシィ!!

 

 石破志雄の鞭が入り、ヒシケイジが再び飛んだ。

 速度を維持するためのストライド走法、スピードは落ちない。

 

 ヒシケイジの心肺が全力を出せば出すほど――

 トモの筋肉を躍動させれば躍動するほど、ヒシケイジは加速していく。

 

『前とはまだ30馬身の差がある、残り800を切った。ヒシケイジは単独一番手!!』 

 

 クラシック期、完成したとは言い難いヒシケイジの肉体ですら、その加速は圧倒的だった。

 ならば、今の純白のランボルギーニに例えられるヒシケイジのトモが生み出すエネルギーがあればどうなるか――

 

『その後ろがもう10馬身以上広がっている、おっと、オルフェーヴルは中団まで上がってきた』

 

 他の馬が焦る理由は十分だった。

 

 後方、オルフェーヴルが加速を速めた――

 石破 志雄とヒシケイジの走りを最も近くで見てきた男の焦りを見て、他の騎手も己の馬に発破をかける。

 

『トウカイトリック、ムチが入る。後方集団、堰を切ったように加速する』

 

 あの日――第135回の天皇賞・春にヒシケイジがいれば、彼はきっと究極のサラブレッドすら置き去りにしていただろう。

 

 それでも、騎手は考える。

 目の前にいる葦毛の馬と己の愛馬、共に走ってきた馬が、ヒシケイジに劣っているはずがない。

 

 石破 志雄と自分の内にある決定的な差は何か。

 馬ではないはずだ、腕前でもないはずだ――ならば、それは何か。

 

『逃げる、ヒシケイジが逃げていく――第3コーナーを迎えて、まもなく植え込み』

 

 ヒシケイジの走りは、共に走る馬と人々を焦燥させる。

 遠目に見えるヒシケイジは、今まさに、淀を駆け抜ける馬と騎手にとっては己の闘志を映す鏡だった。

 

『オルフェーヴル、届くか! ヒシケイジまでは15馬身差があるぞ!』

 

――パァン!! パァン!! パァン!! パァン!!

 

 そうして、共に走る馬と騎手の熱を浴びながら――

 最終直線で一人歓声を浴びるヒシケイジは、心から急速に熱が失われていくのを感じていた。

 

 俺は――

 俺は、勝ってしまうのか。

 

 今年に入ってから毎日、毎日――今日勝つことだけを考えてきた。

 

 阪神大賞典で、不意に一位をつかみ取っても直――

 20馬身の大差を覆して、追いつかれかけたあの日のことを俺は考えていた。

 

 こんなにあっさり、俺は今日の日に勝ってしまうのか――

 

 なぁ、オルフェーヴル――やっぱり俺は、お前と走りたかったよ。

 お前と競り合わないと――おれ、やっぱり、楽しくないよ。

 

 オルフェーヴル――来てくれ、今日の戦いをこれで終わりにしないでくれ。

 

『豪駿ヒシケイジ、悠々と10馬身。あぁオルフェーヴル、ピンチか!』

 

――パァン!!

 

「ケイジ、集中しろ!!」

 

 直後、ヒシケイジの脳を満たしていたスパークは花が散るように消えた。

 まさか、このタイミングで――俺に限界が来たのか。

 

 俺の本気は――もう持たないのか。

 

『ヒシケイジ先頭!! トーセンジョーダン!! 外からウインバリアシオン!!』

 

――パァン!! パァン!! パァン!! パァン!!

 

 ヒシケイジは、己の内からライバルへの“負けん気”が失われたからこそ――

 あの日、嘗て朝日杯に勝った日のようにただ――己に夢を託した人たちに支えるように、己の理想とする走りを体現していた。

 

 それは、己の内になんのしがらみもなくなっていたからこそできた――

 ただただ、自然で美しい馬体の躍動であった。

 

「ギョロ、おおおおおおおおっっ!! 全然、余裕じゃないか!!」

「勝っちまうか……あれで、勝つのか。ヒシケイジ……いや、満足だ」

「ええ、流石に勝つべくして、勝った。ヒシケイジ……いいレースでした」

 

 ヒシケイジは、勝負のことをすべて忘れて、ただただ己を躍動させる。

 いや、俺は勝つ――俺を見てくれている人の前で無様を晒すなんて許されない。

 

 ストライドとギアはまだまだ維持できる。

 そうだ、まだレースは終わっていない前に――前にいくんだ。

 

『先頭はヒシケイジ、ついに豪駿がGⅠで本領を見せた!! オルフェーヴルは届くのか! あと150しかないぞ!! 』

 

 その光景を見せつけろ。

 土井さんに、早山のおやっさんに、門田さんに――

 綾部オーナーに、雅秀社長に――

 

 この間にいる全ての競馬ファンに、誰でもない相棒のために。

 

 前に、前に――走れ、ただ走れ。

 

 それが正しいかは分からない――だが、今はただそれでいい。

 勝つんだ。

 

『トーセンジョーダン!! ジャガーメイル!! 外からウインバリアシオンだ!!』

 

――パァン!! パァン!! パァン!! パァン!! パァン!! パァン!!

 

 ヒシケイジは徐々に、翼を散らしながらも――最後まで己の肉体を、羽ばたかせるように駆け抜ける。

 

 他の馬は確かに加速した。

 明らかに早めの加速に振り落とされながら――他の馬が必死に食らいつく。

 

 そのプレッシャーは立ち消えていた。

 他の馬のスパートに飲み込まれて、俺のいる場所までは届かなかった。

 

『ヒシケイジだ!! ヒシケイジだ!! 終わってみれば、豪駿の独壇場!!』

 

 ゴール板を踏み込んだ直後、俺の周囲を言葉にできない孤独が包んでいた。

 だが、石破志雄が、少し躊躇してからガッツポーズを掲げる。

 

 直後、歓声と拍手が巻き起こった。

 

 それは、ヒシケイジの勝利を祝う歓声――

 それは、第三次競馬ブームを産み出した名馬が明確に花咲いた事実への歓喜。

 

「見てママ!! 見てパパ!! ケイジが勝ったよ!!」

「ムホホホホ!! 流石ヒシケイジ、勝つべくして勝った勝った!! 今日に限って1.8倍!! これで380万!!」

「ケイジ、やったなぁ……オルフェーヴルについに勝ちやがったなぁ……!!」

「ま、直接対決って感じじゃなかったけど、前回みたいにマグレじゃない、作戦勝ちはもう勝ちっしょ――」

「お、俺の有馬記念の勝ちが……飛んだァ……」

「ああ~、ま、今日はヒシケイジが板だったからさ。しょーがないって……おめでとう、ヒシケイジ」

 

 気づけば巻き起こっていたイシバコールを背に、ヒシケイジは今はただ、静かに喜ぶことにした。

 

『予想だにしなかった展開! オルフェーヴルは掲示板にすら載れません。石破 志雄がやりました――』

 

 巻き起こる鳴りやまない歓声が、場内を包む中――

 その歓声の中には、確かに少なくない落胆が入り混じっていた。

 

「また、ケイジかよ……善戦マンしてろよ……」

「アイツ、勝ったときは全部逃げてるやん……」

「大逃げ、マジつまんねぇ……オルフェーヴルとの叩き合いを見に来たのに……」

「分かっててもやるかね……ばししゅーにプライドなんてねぇか――」

 

 曰く、絶対の強さは、時に人を退屈にさせる。

 あらゆる人気者も、一割の人間には反感を持たれるものだ。 

 

『二着はトーセンジョーダンではないでしょうか 三着争いがウインバリアシオン――』

 

 その日より再び、三冠馬以上の豪駿として人々の注目の的としてヒシケイジであったが――

 所詮、馬であるヒシケイジには、己の胸にぽっかりと空いた穴の埋め方を、思いつくことは叶わなかった。

 

『勝ちタイムが1分……ごめんなさい、3分12秒6。あのディープインパクトのレコードを越えて、ヒシケイジが大差をつけて勝利です』

 

 こうして春の天皇賞は、終わりを告げ――日本競馬の話題はダービーと春のグランプリ宝塚記念に移っていく。

 不完全燃焼な形でレースを終えたオルフェーヴルには、徐々に凱旋門賞の成績を危ぶむ声も聞こえ始めていた。




誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。
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