明日出走→明後日決着まで行けそうです。
2012年6月。
来る春のグランプリ宝塚記念を前にして、オルフェーヴルの異次元的な復活が大々的に報じられた。
前年度に三歳馬として初の春のグランプリ優勝をもぎ取ったヒシケイジと、昨年の四冠馬オルフェーヴルとの今年三度目のライバル対決も、おおむねヒシケイジ有利で進むと見ていた競馬ファンにとっては、この報道はまさに青天の霹靂とも呼べる事態であった。
「やっちまったな」
「はい……」
その日、6月23日。
早山厩舎の会議室に集まった老将「早山」、厩務員の土井、調教助手である門田、そして騎手である石破 志雄の表情は暗かった。
「自分としては、やれることはやってきたつもりッス。絞る方向で進めましたがギョロの調子はこれ以上はありません!!」
「ええ、ヒシケイジの意欲も悪くありません。去年の通りの展開であれば勝てるレースでしょう」
土井と門田の言葉に偽りはなかった。
この二カ月、春の天皇賞を勝った直後から、彼らは全てをヒシケイジに賭けてきた。
「ああ、やっちまったと言ったが、俺としてもやることはやった……ヒシケイジは万全だ。その上で石破、お前は――あのオルフェーヴルと張れるか?」
「宝塚記念なら、やるしかないと思っています」
早山の冷静な言葉に、石破はただ己の中で燃えさかる意欲のままに言葉を返した。
早山は、ため息をつきながらも、満足したように煙草に火を付ける。
土井はただ、言葉なく己の内側のワクワクを感じていた。
「ハハハ、それでこそ石破くんだ――良い表情をするようになった」
門田が満足そうに頷く中で、石破 志雄は立ち上がった。
自然と、そうするべきだと彼は思った。
「ケイジに会えますか」
「石破ジョッキー。勿論、いいですよ。まだ起きてると思います」
「じゃあ、俺達は野暮だな……門田、今夜くらいは付き合え」
「いいですよ、早山さん。土井さんも如何ですか?」
ワイワイと酒を飲み始めた早山陣営を背に、石破 志雄は一人会議室から厩舎に向かって歩き出していた。
まだ、明るい厩舎を前に、石破 志雄は足が止まっていた。
ケイジ――俺は、お前に勝ってほしい。
そのためには、オルフェーヴルと生添 賢治に塩なんて送るべきじゃなかった。
お前は――負けるかもしれない。
オルフェーヴルは、ヒシケイジと同じ領域に来た。
あの、最終追い切りで――来てしまったと、肌で分かった。
ケイジも分かっていただろう。
あのオルフェーヴルと、生添騎手の騎乗技術が合わされば十戦に九戦は負ける。
もう来年の春まで、オルフェーヴルとお前は3200mをともに走ることはない。
有利なレースはない。
いくら、本格化したヒシケイジだからって――勝てない勝負はあるのか。
そう考える、石破志雄の脚は震えていた。
怖い、俺はヒシケイジが、このままオルフェーヴルの二番手で終わるのが怖かった。
俺は――ケイジにどんな顔で会えばいいんだ。
「ブヒィ~~~~~~~」
いまだに迷いの中にある石破 志雄が一人、厩舎の入り口でうつむいていた時だった。
馬房の中から聞こえてきたのは、ヒシケイジの声だった。
「アイツ……」
どうせ、やっちゃったよ~みたいな声を上げて寝藁の中で後悔してるんだろ――アイツも!!
「おい、ケイジ。来てやったぞ」
意気揚々と馬房の前に来た石破 志雄の目の前で、ヒシケイジは想像通りの姿で寝藁に埋もれていた。
◇◆◇
ヒシケイジはただ一人、あの日、オルフェーヴルと再会した日のことを考えていた。
俺自身、オルフェーヴルには、ちょっと――いいかんじに発破をかけるだけのつもりだった。
去年、苦しみながらも――苦しんでいた俺を助けてくれたアイツは、俺にとって一番の友だった。
オルフェーヴル、アイツがただ腐っていくのが耐えられなかった。
結果はもう、言葉にしたくもない。
俺が石破 志雄と共にたどり着いたあの領域に、オルフェーヴルはたどり着いた。
『本能』のままに走った先にある領域にたどり着くように――ヤツは『集中』して俺に『挑戦』した。
オルフェーヴルは、見ていた。俺を見ていた。だから、至れた――至れてしまった。
「本気」を出す条件がそろっていたんだ――ああ、クソッ!! 俺が、馬鹿正直に走らなきゃ……
早山さんが、土井さんが、門田さんが、綾部オーナーが、雅秀社長が……相棒が――また悔しい思いをすることもなかったのに!!
「ブヒィ~~~~~~~」
俺の馬鹿~~~~~~~~!!
ヒシケイジが馬房で己の愚直な行いに後悔する中――
「おい、ケイジ。来てやったぞ」
石破 志雄はヒシケイジの前に現れた。
また、酷い姿を見せてしまったことに、俺は後悔しながら――石破 志雄の表情を見ていた。
「なんだよ、その恰好は」
「ブヒ」
その言葉、お前に返すぜ石破 志雄。
泣きそうな顔で、柵を掴んだお前の手の震えが俺まで伝わってくる。
もしかしなくても、お前も怖いのか――あのオルフェーヴルと戦うのが怖いのか。
「すまん、ケイジ。全部俺のせいなんだ!!」
「ブヒ!?」
何を言うんだ――石破 志雄。
「オルフェーヴルをお前と一緒に走らせたのは、俺がそうしろとオーナーに言っちまったからなんだ!!」
「ブヒィ~~~~~!?」
何を言ってるんだ――石破志雄。
「お前が、オルフェーヴルと、走れば――こうなることは……分かってた」
「ブヒ」
「お前だって、分かってるだろ。今年、アイツ。おかしかったよな」
「ブヒ」
「アイツがさ、生添騎手とさ折り合えなくて、沈むなんて見てられなかったよな……」
「ブヒ」
「オルフェーヴルは、お前のライバルなのになぁ……あんなザマになってたら、助けたくもなっちまうよな――」
ああ、そうだな、一緒だったな。
目の前で泣きじゃくる石破志雄と俺は、誰よりも似た者同士だった。
「ブヒィ~~~~~~~!!」
そうだ、俺もそうだ。
石破 志雄――もしお前が馬で、俺が騎手だったら、きっと同じことをしていただろう。
俺と、石破志雄はただ感情をぶつけ合うように、少しの間、共に泣いた――
それは負けることが怖かったわけでも、互いが互いを追い込んでしまった負い目からでもない。
俺達の中にしか通じない何かのために泣いていた。
「アイツは『本気』を出した。『フロー』って奴に入っていた。『本気』を出し続ける領域に居続ける技術だ」
「ブヒ」
石破 志雄と俺が泣き止んだ後、石破 志雄はぽつぽつと自分の中の感情を整理するように語り始めた。
「わかるだろ。あの領域に行くためには、『本能』を『集中』と『挑戦』で引き出す必要がある」
「ブヒ?」
それは明らかに、俺に対して語っていた。
石破志雄は通じ合えると、分かっていた。
だから、俺は聞いた。
フロー、いわゆるオルフェーヴルが至った領域の話を聞いていた。
「そうだ、挑戦のために何をするか――だよな。『オルフェーヴルに勝つってのは言い訳に過ぎない』んだよな」
「ブヒ?」
石破 志雄の言葉に俺は疑問を呈する。
俺は確かに、オルフェーヴルの負けん気で本気を出していたはずだ。
「去年の宝塚記念、アイツはいなかっただろ? でもお前は『フロー』に入ってたぞ?」
「ブヒ!!」
それはヒシケイジにとっては目から鱗が落ちるような瞬間だった。
そうか、いや、そうだ――アイツがいなくても、俺は走る。
アイツがいるからこそ走る以外の選択肢を、どうして俺は忘れていたのだろう。
「ケイジ、去年のダービーと同じだ。宝塚記念で、お前の本気の先を見つけ出そう――」
「ブヒン」
「オルフェーヴルは強い。中距離なら資質はお前以上、自分自身でフローに入るっていうお前だけの武器も、もうお前だけのものじゃない」
「ブヒ……」
「でもな、ケイジ。俺たちバカはさ、バカなりに――やってきたはずなんだ」
「ブヒ?」
「本気になったうえでオルフェーヴルよりも、本能からバカが出来るはずなんだ……」
「ブヒ……」
石破 志雄の言葉を、俺はただ聞いていた。
本気の先の領域があるかも知れない。
「だからケイジ、俺達で『挑戦』してみよう。フローにだって『上』があるはずなんだ」
「ブヒヒヒヒ……」
そんな相棒の雲をつかむような話を、俺は信じることにした。
じゃあもう、凹んでいる暇はないな。
オルフェーヴル以上に、俺達は俺達にしかできないことで強くなる。
アイツ以上にスピードがなくても、スタミナでアイツに勝てなくても、パワーだけじゃ勝てなくても……
馬鹿には馬鹿なりの「根性」がある。
「だから、ヒシケイジ、明日は――俺を信じてくれ」
「ヒヒィ~~~~ッ」
そうだ、答えはきっとレースの中にある。
お前がいれば、俺は出来ないはずのことにも“挑戦”できるんだ。
約束だぞ、石破志雄、俺の相棒。
アニメで言うなら、やっぱり、お前は俺で、俺はお前だ。
そうして、2012年6月24日。
第53回目の宝塚記念は、曇り空の中で始まろうとしていた。
昨年覇者のヒシケイジは一番人気。
宝塚記念の票数も昨年から明らかに伸び、歴代有数の20万票以上が集まっていた。
だが、パドックを闊歩する馬の中で、人々はただ二頭の馬に目を奪われていた。
気鋭の豪駿ヒシケイジ、復活の暴君オルフェーヴル。
両馬ともに仕上がりは120%。
今年三度目の決戦、両馬の抱くオーラは見る者にどちらが勝ってもおかしくないと思わせるものであった。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。