寒くなってきましたので、皆様お体ご自愛下さい。
多分この辺がプロット上一番の下げ展開なので、お許しを。
2012年6月24日。
阪神11R、連覇が掛かった宝塚記念で、ヒシケイジは先頭集団の中でじっと脚を貯める。
『前半の1000mを今通過して58秒、流れています。オレンジの帽子ホエールキャプチャ』
坂を駆け上がる中で、先頭との距離はどんどんと詰まっていく。
俺にとっては、十分追いつける距離、追いつけるペースだ。
今のヒシケイジにとっては、このペースですら流しているに等しい。
最終直線――俺の脚をすべて使って、“本気”の走りの上に行くための布石は整った。
『それから七番のルーラーシップ。そしてここにいた、そしてここにいましたオルフェーヴル』
すべてはオルフェーヴルを出し抜くための布石だ。
辛い坂の中だからこそヒシケイジの意識は集中し、脚は軽くなっていく。
『ファンの気持ちを感じながら乗りたいと話した生添 賢治。後ろから五頭目ぐらいでレースを進めている』
オルフェーヴル、今日のオルフェーヴルは必ず来るだろう。
五月、アイツと共に走った日。
俺はアイツが、本気を出した直後――
後ろにつかれていたとはいえ一ハロン持たずに、追い抜かれていた。
最終追い切りでも、俺はヤツについて行くことすらできなかった。
残り三ハロン、追い始めたアイツが俺とゴールドシップを抜き去った時計はもう思い出したくもない。
『その後ろからはウインバリアシオン、フェデラリスト。それから黄色い帽子はナカヤマナイト』
直後、相棒である石破 志雄から合図が来た。
手綱を一度しごかれ、ヒシケイジは坂を下る加速と共にインコース、もっとも経済的なコースを占有する。
そのまま悠々と二番手に付けるヒシケイジは、脚をほとんど残していた。
悪くない、いや、いい。
ベストと言ってもいい位置取りだった。
それでも俺の心の中にはまだ焦りの感情があった。
(今のオルフェーヴルに、俺の走りは及ぶのか――)
そう思えるほど、オルフェーヴルは、名実ともに有馬記念以上の力を取り戻している。
俺はどうだ。
俺は果たして、有馬記念からどれだけ成長した?
当然、得意分野じゃ誰にだって負けない自信がある。
春の天皇賞で、俺はレコードで勝った。
宝塚記念、レコードで勝った去年の俺は今、はるか後方にいるだろう。
だが、それじゃ話にならない。
オルフェーヴル、アイツは2500mまでなら、世界中のどんなサラブレッドよりも三ハロンが速い馬だ。
『モンテクリスエス、後方でありますが2番のショウナンマイティ、これが一番後ろから――』
ヒシケイジは、走りの中で現実と向き合う。
逃げたい。
逃げ出してしまいたい。
それでも走りの中で、俺は挑戦しなければいけない。
俺というポテンシャルを、十全以上に発揮しなければ勝つことは出来ない。
『さぁまもなく三、四コーナー中間に掛かってくる!!』
気づけば目の前には、ネコパンチがいる。
さっきから徐々に下がってきていたネコパンチ――幸い、ウチにスペースはもう確保してある。
『さぁ先頭でありますが十六番のネコパンチ、ちょっと一杯になってきたか』
――パァン!!
石破 志雄が邪魔にならないうちに前に出ろと指示が來る。
予定よりも早い位置、スパートは掛けなくていい。
『来た来た来た来た!! ヒシケイジ。豪駿は、ここで早めに抜け出す判断か――』
牙山騎手のビートブラックの仕掛けを誘うように、ヒシケイジは前に出る。
『ともに上がってきているビートブラック!!』
――パァン!! パァン!!
外から牙山騎手のビートブラックがスパートを駆ける。
だが、同じコースでも、俺と奴では走る距離が違う――!!
『これを追ってルーラーシップだ、ルーラーシップ!!』
――パァン!! パァン!!
坂を下り加速する。
オルフェーヴルはこない。ならまだ、脚を貯める――
『そしてまだ十一番のオルフェーヴルはまだ後ろ――』
――パァン!! パァン!!
ヒシケイジは先頭で飛び込んだ第四コーナーで、普段以上に背後のプレッシャーが脈動するのを感じていた。
来る、来る――オルフェーヴルの圧倒的な加速が來る。
その瞬間を待つように、加速しながらコーナーの遠心力をものともせずヒシケイジは脚を貯める。
爆発しそうなプレッシャーが來る。
石破 志雄は待っている。
オルフェーヴルの仕掛け、奴が来るタイミングに俺も合わせて走る。
『十一番のオルフェーヴルはまだ後ろ――』
――パァン!! パァン!!
俺は負けない――負けてたまるものか――
叫びだしたくなるほどの思いに背中を押されている。
苦痛はない――
寧ろ、走ること自体を体が喜ぶように感じる。
そんなヒシケイジの脳裏に、走馬灯のように浮かぶのは早山厩舎の面々の姿であった。
(そうだ、俺は――走る、早山のおやっさん、土井さん、門田さん、綾部オーナー、雅秀社長、相棒――)
いいぞ、走る――走れるぞ。
俺は、本気を100%出し切れる。
みんなのために、オルフェーヴルを堕とせる。
勝てる!! 俺が勝つ――!!
(みんな、みんな、みんな――!!)
『懸命に手綱が動いている生添 賢治だ!』
ヒシケイジが、そう確信した直後。
直後、馬群が4コーナーから直線へと差し掛かろうとした瞬間――背後で、気配が爆発したのを感じた。
『四コーナーから直線を向いてきた!! 先頭は我らがヒシケイジ、インコースを駆け上がる!!』
――パァン!! パァン!! パァン!! パァン!!
その瞬間、ヒシケイジの脳裏に母親に見守られながら駆け回った故郷の景色が浮かんだ。
それは、ヒシケイジの本能が放った。
己の命が危機に察していることに起因する危険信号だった。
(かあさん――たすけて、かあさん!!)
直後、ヒシケイジの脚は、誰がそうしろと言う前に加速し、飛んでいた。
ヒシケイジの体が、純白の弾丸となって加速していく。
それは誰が見ても、俺から見ても自身100%だと実感できるほどの加速であった。
ストライドのギアは初めから最高地点を更に上回っていた。
息を呑んだ誰もが、俺の背に羽が生えていると分かる走りだった。
『ルーラーシップを引き離す。ヒシケイジ!!』
――パァン!!
それでも、勝てない。
勝ちきれない。
背後から迫るヤツの気配はどんどん高まっていく。
怖い、怖い――背後から迫るやつが怖い。
逃げろ、逃げろ――ただ逃げ続けろ。
オルフェーヴル、ヤツから逃げなければ、俺は間違いなく腸を引き裂かれて、殺されてしまう!!
『抜けた、抜けたッッッ、ヒシケイジィ~~~~~~~~、リードは三馬身と開いた!!』
――パァン!! パァン!! パァン!! パァン!!
石破 志雄はただ言葉なく、ステッキを振るって俺が前に走ることだけを望んでいた。
相棒の熱意のお陰で、俺はかろうじて正面に向けて歩を進めることができていた。
本当はもっと、色々大切なことがあるはずなのに、頭の中には「恐怖」しか残らなかった。
それは二度目の人生だとか、生まれてきた意味だとか――
自分の頑張りだとか、誰かの夢や目標だとか――
誰かの応援や、期待なんて、すべてが二の次になるような「恐怖」が追い込んで來る。
『真ん中十一番、オルフェーヴル!!』
暴君が來る。
黄金の風が、阪神競馬場に噴いた。
馬群の中央から、たった一頭――
尾花栗毛の馬が足の回転を行かした、ピッチ走法で抜け出してきた。
その瞬間、誰もがオルフェーヴルを見つめた。
激情を隠さない、オルフェーヴルの感情を感じた。
それは、身の内側に抑えることが出来ない正真正銘の歓喜であった。
それは、己の全てを走りにおいて表現できる自己実現の歓喜であった。
それは、この場において己こそが最強であると証明する生の喜びであった。
その走りは、一瞬でこの場に居る誰もがオルフェーヴルの勝利を確信する走りで会った。
全力で全速力で、己の信頼する相手と共に、この世界を駆け抜ける王の歓喜と共に――
気品すら感じられるような、黄金色の芸術品が加速し、至高の好敵手を追走する。
『笑いながら、オルフェーヴル来た!!オルフェーヴル来た!!』
――パァン!! パァン!! パァン!! パァン!!
ヒシケイジの翼は折れない、まったく折れる気配がない。
それでも、馬群から飛び出たオルフェーヴルの加速は止まらない。
その馬体、その歩様、そのカリスマが、溢れんばかりの歓喜と共に自らを縛り付ける全ての不都合を消失させる。
『ウチ、ケイジ、ヒシケイジ!!』
それでも――それでも!!
その走りに目を奪われたとしても、俺は脚を止める理由にはならなかった。
ヒシケイジのトモがこれ以上なく躍動する。
後のことなど一切考えず、振り抜く脚が、体のバネがヒシケイジを一心不乱に躍動させる。
そうだ、俺は速い。
昨日の、一昨日の、どのヒシケイジよりも早い。
ギアはもう、一杯一杯に上がっている。
今日はもう、過去の何時よりも多くの夢を背負っている。
『オルフェーヴル~~~ッ!! 三冠馬が復活するッ!! 三冠馬が復活するッ!!』
それでも――それでも――!!
それでも、オルフェーヴルは俺を躱すように抜け出して、ゴール板を踏み切った。
『やった十一番!! オルフェーヴル、復活~~~~~~~ッ!!!!』
俺はヤツに丁度一馬身差をつけられて、ゴール板を踏み切った。
『ヒシケイジ二番手 そして三番手にルーラーシップ、やりました!!』
――負けた。
ヒシケイジはその日、半年ぶりの敗北を喫した。
だが、その敗北は――万全の状態で己の才能を開花させ、己の可能性を十全に引き出した上での「完全な敗北」だった。
誤字脱字、感想お待ちしております。
今日は1分遅刻しましたが、明日は1800投稿予定です。