ヒシケイジさえ居なければ   作:ハシダ シュンスケ

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誤字脱字報告、感想ありがとうございます。




2012秋、フォワ賞(後:3/3)

 2012年9月16日。

 パリ・ロンシャン、凱旋門賞と同じ2400mのコースをヒシケイジは逃げていく。

 

『そして二番手にジョシュアツリー、三番手ミアンドル』

 

 既に後方とは三馬身の差。

 悪いが後方を気にして逃げる気は一切ない。

 

 ヒシケイジはスタンドや中継の見えるお茶の間の動揺などどこ吹く風で、ロンシャンの芝を踏みつけて進む。

 

 感じるのは、脳から背筋を通じて体を突き抜ける焦燥感。

 後方から感じるプレッシャーはオルフェーヴルと、クリストファー・ソロモンだ。

 

『オルフェーヴル折り合ってソロモン、現在五番手、フィオレンテの後ろに馬を入れました』

 

 オルフェーヴル。

 生添 賢治が鞍上でなくても、お前が強いのは良くわかっている。

 

 だが、幾らクリストファー・ソロモンが世界屈指のジョッキーだからって――

 最終追い切りの時に、お前に抜かされているからって――

 

 今日の本番のレースで、クリストファー・ソロモンが最後までお前と折り合う保証はない。

 

『さぁオルフェーヴルどんな感触か、クリストファー・ソロモン』

 

 ヒシケイジは、率先して坂路を駆け上がる。

 入れ込んでいるつもりは一切ない。だが、手を抜く気はない。

 

『実戦……この辺りから上り坂になって行きます』

 

 ヒシケイジが、少しずつ脚を使う中――

 後方でまだ追ってくる空気があったジョシュアツリーとの距離は、少しずつ離れていく。

 

『ちょっとウチの開いたところを入って行ったのか、やや前のフィオレンテとの差を詰めて行きました』

 

 俺自身が作れる最高のペース。

 海外の芝は寧ろ、俺のパワーと相性がいい。

 

『豪駿ヒシケイジ、今日はマイペース。ついて来れるなら、ついてこい』

 

 行ける、行けるぞ相棒――

 無言でペースを読む石破 志雄に俺は言葉はなく、ただ走りで答えた。

 

『二番手にはジャンカルロ・フランキーのジョシュアツリーです』

 

 ヒシケイジは、ロンシャンの坂道を怒涛のように疾走していく。

 隊列はヒシケイジだけ一頭前に、後方を置き去りにする形となった。

 

『三番手、黄色い勝負服がミアンドル、2400mのG1を二連勝しているという実績馬』

 

 常軌を逸するヒシケイジの逃げであるが、相棒の手綱捌きにミスはない。

 

『そのすぐ後ろフィオレンテ』

 

 いいぞ、相棒。

 俺とお前は戦えている――

 

『それから四歳秋初戦のオルフェーヴル、凱旋門賞に向けてどんなレースを見せるか』

 

 坂の頂上で再び一段となった馬群の先に待つのは、ロンシャンの急な下り坂であった。

 スタミナには全然余裕がある。

 

 なら、俺は全速力で行く――。

 

「ケイジ、やり過ぎるなよ」

 

 分かってるぜ、相棒――精々、振り落とされるなよ!!

 石破志雄の声を受けた直後、ヒシケイジは全速力で坂を駆け下る。

 

 ヒシケイジは、意識を集中させながらも、自らの肉体を自分の体をバネのように弾ませた。

 周囲の光景が、みるみるうちに背後に消える中、酷い遠心力が、俺の体を外に押し出していく。

 

『ヒシケイジ既に翼が見える中、先頭、五番手が日本の馬という展開になりました』

 

 まだ、まだ耐えられるはずという確信と共に、ヒシケイジはさらに加速しようと芝を踏みしめる。

 脳がスパークし、周囲の景色が遅れはじめ――“本気”が脳を焼いていく。

 

 前に出て勝つ。

 今日はただそれだけを考えて、俺は前に出る。

 

 勝つ、勝つ、絶対に勝ってやる――!!

 日本に残った早山さんたちの表情がチラつく中で、ヒシケイジの脚は全速力のまま直線に突っ込んでいく。

 

 後方の馬が、坂を下る。

 脚を貯めてきた他の馬も加速し、マージンが少しずつ喰われる中――

 

 來る、オルフェーヴルが來る――

 まるで吹雪の中で、全身の毛が逆立つような、氷の矢に背骨が置き変わったような焦燥で脳が焼かれようだ。

 

 今すぐ逃げなければ、殺されてしまう!!

 今年二度目ともなれば流石にこれが「恐怖」だと分かる。

 

 例えるなら、大鎌を振りかぶった死神が、コースの幅いっぱいに迫るような圧力だ。

 耐えがたい苦痛から逃げるうちに、思考が瞬時に真っ白に染まっていく。

 

 ダメだ――あんな化け物に勝てるわけがない。

 クラシック戦線で幾度となく感じた、何度だって夢に見た。

 

 俺は今確かに先頭にいる。

 それなのにオルフェーヴル、俺はお前に勝てるヴィジョンが何一つ浮かんでいない。

 

 心臓を万力で締め上げるような焦燥に、視界かぼやける。

 

「ヒシケイジ、落ち着け!!」

 

――パァン!!

 

 直後、相棒の声と共に、鞭の感触を感じる。

 

 まさか俺、またヨレかけたのか――

 

 ヒシケイジに自分の失敗を悔いる時間はなかった。

 

『カーブを終えてフォルスストレート、石破 志雄、一瞬姿勢を崩したが豪駿に常識は通用しない』

 

――パァン!!

 

 加速だ、直線なんだから加速するんだ。

 

 まだ、レースは終わっていない。

 

『レースは中盤から後半に入って行くなか、豪駿ヒシケイジ、後方は約十馬身』

 

―― パァン!!

 

 脚は全然残っている。

 マージンもある。

 

 一完歩、リズムが狂ったに過ぎない。

 会場のどよめきなんて知らない。

 

 ヒシケイジは器用に手前を変えて、普段通りのストライドで前に出る。

 そうだ、今日だって俺はたくさんの夢を背負っているはずだ。

 

 ここに立ちたくても来れなかった馬が何頭も居たはずだ。

 早山のおやっさん、土井さん、門田さんからバトンを渡されてここに立っているはずだ。

 

 綾部オーナーと、雅秀社長の期待を背負っているはずだ!!

 

 俺は相棒の期待に応えられるはずだ。

 

『オルフェーヴル、ソロモンと折り合ってここまで来た!!』

 

――パァン!!

 

 直後、俺の脳内で火花が再点火する。

 恐怖でくらんだ思考が、クリアになっていく。

 

『ジョシュアツリーが必死に追う、ミアンドル依然として三番手』

 

 ヒシケイジは確かにこの瞬間、白い稲妻となってロンシャンの直線を駆け抜けていた。

 

 純白の鍛え上げられ、絞られ切ったギリシャ彫刻を思わせる馬体。

 それを飾るネイビーの馬具が、コート・ダジュールから見えるアンジュ湾の如き鮮烈な青色で輝いている。

 

 見る者を魅了する美しいストライドのギアは、どんどんと登り調子に上がっていく。

 暴力的に膨れ上がったトモが生み出す、一歩一歩の間隔はどんどんと広がり、速度を維持するどころか加速する。

 

『流れは速いフィオレンテを抜いてオルフェーヴルは現在四番手』

 

――パァン!!

 

 ヒシケイジが飛んだ。。

 順調な道行とは言い難いレースの最後に、確かにヒシケイジは飛んだ。

 

cheval blanc qui vole(白い馬が、飛んでる……)

 

 湧きあがる会場の中の中で――ヒシケイジが感じるのは、他の誰でもないプレッシャー。

 

「HAHAHA!!」

 

 奴が、オルフェーヴルが來る!!

 

『オルフェーヴル、さぁ最後の直線533mに向いてきた、オルフェーヴルは堂々中央!!』

 

 直後、人々は見た。

 オルフェーヴルが來る。

 

 栗毛の馬が黄金の矢のように、後方の馬を抜き去っていく。

 今日見ているのはGⅡレース、所詮は凱旋門賞の前哨戦に過ぎない。

 

 オルフェーヴルは、画面の向こうで安寧を貪る人間に、己の成長という事実を突きつける。

 

 真の王者には、競い合う中で手を抜くことが許される瞬間など在りはしない――

 

 暴君は、今年度の敗北を経て確実に成長していた。

 目の前に見えるヒシケイジに、あの馬に本気を出して負けることなどありえない。

 

『クリストファー・ソロモンとオルフェーヴル、グーンと沈むようなフォームになっていく!!』

 

 もう慢心はしない――

 

(チガうね、するキがない――オルフェーヴルはジブンのイシでヒシケイジをハカイすることにヨロコビをオボえていル!!)

 

 クリストファー・ソロモンは騎手としての才能を全力に発揮するままに、オルフェーヴルを走らせる。

 

 前に見えるヒシケイジは確かに速い。

 オルフェーヴルさえ居なければ、豪駿は凱旋門賞に錦を飾れただろう。

 

 だが、この時代にはオルフェーヴルがいる。

 考え得る最高の血と肉を受け継いだ、絶対的な王者がいる。

 

 これだけの才能を持ちながら慢心はない。

 掛からない、焦らない、ならば、失敗はない。

 

『日本二強が叩き合う!! オルフェーヴル来た!! 栗毛の、栗毛のタテガミが靡いている!!』

 

 ヒシケイジの翼は、まだ消えていない。

 考える限り、最良の選択肢を選び続けたレースのはずだった。

 

 よーいドンで走って勝てないから――

 日本ダービーのような逃げを、万全な状態で行った。

 

 脚を長く使わないと勝てないから、坂の上から徐々に加速した。

 初めから逃げれば、有馬記念のように追いつかれることはないと思っていた。

 

――パァン!!

 

 辛い、辛過ぎる、息が苦しい。

 

――パァン!!

 

 脳がバチバチとスパークしている。

 

――パァン!!

 

 だが最終直線、残り200m――

 逃げるヒシケイジの左には、既にピッチ走法で加速しきったオルフェーヴルが見えている。

 

(この展開で、折り合うのかよ――!!)

 

 オルフェーヴルの視界には、もうヒシケイジは映っていない。

 ただ前に、前に、自らを進めるという覚悟だけが宿っている。

 

『先頭、右ムチ振るってクリストファー・ソロモン、オルフェーヴルが先頭だ!!オルフェーヴルが先頭!!』

 

 世界の頂を競い合う騎手であれば――ペースさえ崩されなければ、暴君程度の癖馬を操るなど訳もない。

 

 そんな当たり前の事実をヒシケイジは、見せつけられる。

 

 オルフェーヴルの鞍上で、クリストファー・ソロモンが俺と石破 志雄を気遣うように右ムチを入れた。

 

「ハハハ!! イシバシユーとグレートホース、ヒシケイジ!! サイコーのレースにカンシャするゼ、だがホンバンはサンシュウカンゴだ!! マンがイチ、ケガでもしたら、コモリセンセにドヤされるからな!!」

 

 直後にぐんと、オルフェーヴルが伸びて今日の勝負は決した。

 

『先頭はオルフェーヴル!! 凱旋門賞に向けて快調な滑り出し!! ヒシケイジ、逃げの王道通用せず悔しい二着!!』

 

 ヒシケイジはゴール板を踏み抜き、日本の二強が見せた圧倒的なレースに向けた歓声を“敗者”として浴びていた。

 

 半馬身――決して悪い時計ではなかったはずだ。

 途中まではレースの全てを、俺と相棒で支配していたのに……

 

『完全にレースをねじ伏せたオルフェーヴル! 凱旋門賞に向けて良いスタートを切りました!!』

 

 勝てないのか――俺は、オルフェーヴルに勝てないのか。

 

「ケイジ、オルフェーヴルに勝つ方法は必ずある――」

 

 ヒシケイジが二度目の敗北に沈む中――鞍上の相棒、石破 志雄だけが冷静にこの状況を俯瞰していた。

 相棒の心は折れていない――なら、俺がするべきことは一つか。

 

(変わらない、明日も、やることは一緒だ)

 

 走って、喰って、休むことだ。

 俺は俺として出来ることをやり続ける。

 

 俺に出来ないことを、俺の力だけでやる必要は、ないよな。

 出来ることを、我武者羅にやり続けることしかできない。

 

 でも、それでいい。

 

『まずはこのフォワ賞を勝利で飾りました、そして二着にはヒシケイジ、三番手ミアンドルというゴール順です――』

 

 ヒシケイジは負けてなお、夢のために地道な努力を続けることを誓った。

 

 本番である凱旋門賞は、三週間後、2012年10月7日――

 泣いても笑っても、残された時間は後わずかとなっていた。




誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。

プロローグ前まで、ヒシケイジ側の描写はだいたい消化しました。
効率の悪い小説ですが、やっと前提となる部分を書き終えたので、引き続き励んでまいります。
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