2012年、9月。
職業、騎手。
美浦寮、芝田厩舎所属。
好きなスポーツは、野球。
趣味は、ゲーム。ジャンルは何でも。
嫌いな食べ物は野菜全般。
結婚三年目。GⅠ勝利回数、三回。
世間的評価、美浦の癖馬担当兼、客寄せパンダ。
現在位置、フランス、シャンティーの
厩舎の管理人室を間借りした俺は、マットレスの上でビールを片手に項垂れていた。
「クソッ……」
負けた――はっきりと分かる負けだった。
下り坂での体重移動、スパートのタイミング。
そして、フォルスストレートで垣間見せたヒシケイジのヨレ癖。
(門田さんからヨレるのは大分、修正されて来たと話ていたが――)
確かにケイジはヨレかけた。
一完歩歩くまでの間、姿勢を崩しかけた馬体を立て直したのはケイジ自身だった。
情けない。
何が、競馬王子だ。
所詮俺は、いい馬におんぶにだっこされているだけの二流ジョッキーだ。
ケイジ以外の馬で走ったとき、まだまだ一流ジョッキーの走りに及ばないのがその証拠だ。
それでも――俺が、暗い部屋の中、貞腐れたように寝転んでいられるのは、オーナーの好意に他ならなかった。
フランスにいる間の生活費、家の面倒まで見てくれるオーナーが早々いるだろうか。
(そんな人の好意に俺は答えられているといえるのか――)
フォワ賞の日の夜、電話越しの雅秀社長の声色は冷静だった。
雅一郎オーナーの体調は、秋に入った今も油断はできないらしい。
『君以外に、ケイジに乗れるジョッキーはいない。プレッシャーをかけるわけではないが、父がヒシケイジの走りを終わりまで見ることができるかは――断言できない』
凱旋門賞では、頼む――と念押しされたとき、俺は泣きそうになった。
(普通、それは憤る所だろう)
もし、これが漫画なら、俺はオーナーや社長に怒られても仕方なかっただろう。
なのに、今、俺は許されている。
それどころか、背を押されている。
俺が、鞍上なばっかりに――ヒシケイジは、またレースに勝つことが出来なかったのに――だ。
(悔しい、負けなんて幾らでもしてきた。二着なんてむしろ、誇るべき結果だと分かっていても悔しさが勝る)
そうだ。もっともっと、俺自身がもっと上手くやればよかった。
アイツには、ヒシケイジには、才能が有るんだ。
どんな馬よりも凄い馬なんだと、言わせる実力があるんだ――
贅沢な悩みだなって、前にタケさんにも笑われた。
生添騎手には、心底憎らしそうに叩かれた。
「すみません、生添さん……」
凱旋門賞、ワンツーでフィニッシュするという夢は、途方もなく遠い。
ヒシケイジは走るだろう。
だが、ヒシケイジに乗っている俺は所詮――
「それでも、俺は勝ちたい……」
石破志雄は飲み干した缶ビールを投げ捨てて、シーツと毛布の間に体を潜り込ませながら――ただひたすらにオルフェーヴルに勝つための手段を考え続けていた。
当然、酒が回った頭で、思いつくことは何もなく、その日の夜はただただ更けていく。
制限時間は、三週間――決して長くもなく、短くもない時間だった。
◆◇◆
「今年ィ、一人ィだけ、抜け駆けする石破クンの勝利を期待して乾杯ィ!!」
ぼやけた視界の中、狭い飲み屋に男たちが集まっていた。
山を下りたあたりにある場末の飲み屋――騎手と栗東のスタッフがお忍びで遊びに行くような場所に男たちは集まっている。
「このボケ!! 抜け駆けしやがって――」
「ウフフ、いやぁ……石破くんの壮行会なのに悔しいなぁ」
「芝田です。タケさんに呼ばれたからなんだと思ったら――石破くんの壮行会なら喜んでいきますよ」
焼肉を摘みに酒を飲もうとするのは、騎手というかこの年代の大人の習性であった。
(タケさんは、わざとこの四人にしたのだろう……)
この日の壮行会は、サンデーレーシングのごたごたに巻き込まれた生添騎手の残念会でもあった。
幸い企画したタケさんの気配りもあり、この場の誰にも角が立たないようになっている。
芝田 慶福騎手は美浦所属の俺にとっては大先輩であり、顔役のような人だ。
彼は俺が憧れ、所属している
(一昨年までなら、文字通り雲の上にいた。憧れの人だ)
きっとそれが分かっていて、タケさんは彼を呼んだのだろう。
この場では一番年下で、一番気遣う必要がない気楽な立場で喰う飯がまずいわけがない。
煙い座敷の奥まった席まった場所に押し込まれた俺の前に、運ばれてきた肉を鉄箸でつまむ。
サシがしっかり入っていた細い一切れをタレに潜らせて口に含むとその瞬間、確かに肉が溶ける。
たまらず米をあんぐりと食む。
柔らかい肉は、米を咀嚼する中で甘い油の味わいと共に溶けて嚥下されて消える。
「どや、特上カルビ美味いやろ?」
「ご馳走です」
「ウフフ、こっちじゃ馴染みの店だから……喜んでもらえるのは嬉しいね」
本当に、素直に美味い肉だ。
「それにしても、叔父さんの所にいた石破くんがこれ程、化けるとは驚愕です」
「うんうん、やっぱり、いい馬との出会いは騎手を変えるよ――今後、関東での存在感は増すと思う」
「まったく、それでも世間は石破石破……たまったもんじゃないですよ。ボクだって頑張ったのにねぇ!!」
「そうですよ。俺、約束したのに――」
そして、肉があまりに上手かったから。
よりにもよって、このおじさん連中の前で、俺が生添騎手との間に結んだ夢のことを話してしまった。
「……」
男たちは、皆黙り込んでいた。
失笑は一切、起きない。
男たちは皆、顔を伏せていた。
この場に居る日本屈指の騎手たちは、一度は同じ青臭い夢を見た漢達だった。
もしも自分だったならば――悔やんでも悔やみきれない。
「気にするな、来年はボクがちゃんと――凱旋門賞に出る。だからさ、今年勝ってくれよ」
「ウフフ、こっちも体の調子を戻してね。またいきたいな、凱旋門賞……」
「大丈夫、石破くん。夢は同じですとも。芝田も来年こそ――パリ・ロンシャンを走りたい……」
デカい、人たちだ。
本当に――
「クソッ……何で、ヘコたれようとしてるんだ――バカの癖に―――」
朝日を浴びながら、目を覚ました俺は携帯を取り出していた。
そうだ、俺はもう手段なんて選んでいられない……
「すいません。生添さん。今、時間いいですか――」
そうして俺は一縷の望みをかけ、“
「知ってると思いますが、俺、フォワ賞、負けました。それでも、どうしても――凱旋門賞では、ソロモンに乗るオルフェーヴルに、ヒシケイジで勝ちたいんです。俺が出来ることなら、何でもします。幾ら罵ってくれても構いません。だから――オルフェーヴルの癖、言える範囲で、何か教えていただけませんか――」
◆◇◆
2012年10月7日。
泣いても笑っても、今日こそが年に一度の凱旋門賞。
雲の目立つ青い空に秋の西日が射す頃、ゲート前で俺はヒシケイジの鞍上にいた。
手綱を軽く引けば、普段通りハミを引くケイジはゲート前に来れば当たり前かのようにスタッフに従う。
ケイジを引く、スタッフもどこか彼と歩くと誇らしげに見える。
実際、ヒシケイジは歩く姿から様になる馬だ。
安定した四本の脚で、鞍上である俺の体を支えしっかりと地面に重さを分散させる。
何時いかなる時も、従順だが人には媚びない。
騎手と対等に、歩く。
そんな馬が、緊張するように瞼を閉じて息を吸って吐く。
三週間、準備はしっかりとやってきたつもりだった。
普段通りの調教、普段通りの追い切り。
俺はその間、ただケイジと共に過ごし、ケイジが考えていることをもっと深く読み取ろうとした。
そうしていると、ヒシケイジについていくつかのことを理解した。
まず、こいつは、一切へこたれていなかった。
俺を、俺のことを心から信じて、普段通りの自分をキープしようとしてくれていた。
そしてもう一つ。
これは確信に近い事実だった。
ヒシケイジは人間の言葉が分かるのだ。
どういう仕組みかは不明だが、専門的ではない日本語が通じるらしい。
その事実を理解した瞬間、我ながら大分驚いた気がするが――もう驚かない。
その上で、ヤルことは決まった。
ヒシケイジは誘導に従い、八枠七番のゲートの中に納まった。
徐々に周囲の歓声が高まった行くのを感じる。
そんな彼らの声が聞こえなくなるくらいに――俺は、自分の心臓が高鳴るのを感じていた。
嫌でも、握る掌に力が入り、汗が滲む。
日本中、世界中の誰もが見つめる今日のレース、俺はきっともう後がないのだろう。
実際、ケイジは凱旋門賞に勝てる馬だ。
たとえば、ソロモンが、フランキーが、タケさんがもう一度乗ったなら、来年にケイジは勝てるかもしれない。
だから、今日――俺は、この凱旋門賞に勝たなければいけないのだと――
言葉なく語る俺を心配するように、ヒシケイジが枠内で振り向く。
幸い、まだ他の馬が収まっていないから良いものの、これで出遅れるような一大事だ。
それにしてもケイジは、普段目を伏せ常に笑っているような馬なのに――
耳を伏せて、目をギョロつかせて俺を見るなんて――
「なんだ。ケイジ、その顔――馬鹿にしやがって」
心配してるつもりなんだろうが――百年早い。
「ケイジ、悪いけど……やっぱ、オルフェーヴルには普通の競馬じゃ勝てない」
俺は、ケイジに聞こえるように言葉を掛けた。
普段レースでも、もう習慣になってしまった作戦会議だ。
「だから、馬鹿をやる。俺の指示に従え。斜行は絶対にするなよ」
俺は一つの確信があった。
普段であれば、ヨレを危惧してケイジには逃げか、精々前を走る競馬をさせてきた。
俺もそれは――脚質の事を考えても、悪くはない選択肢だと思っていた。
でも、以前から俺はその走りに――言葉にできない違和感を感じていた。
そもそもケイジは一度もメンコを付けたことがない馬なんだ。
『そしてご覧のオルフェーヴル、ゲートの中で大人しく待っています……ヒシケイジ、どっしりと構えて風格があります』
(ヒシケイジはもっと、多彩な走りが出来る。どんな状況でもハミを取ってくれる。何より言葉が通じるなら――)
「夢をかなえるぞ。ヒシケイジ」
(俺は鞭を使わなくても、レースの中でヒシケイジに細かい指示を出せるはずなんだ)
『さぁまもなくゲートインが終わります」
ゲートイン、一瞬の静寂――
パァーンと、号砲が鳴り響き、ガコンとゲートが開く。
肘と膝をくっ付けたような騎乗姿勢を取る俺の左右の景色が一瞬で流れていく。
ヒシケイジのスタートダッシュは、最早芸術の息を越えていた。
『日本のホースマンの夢を乗せて今飛び出しました! 大歓声がブローニュの森に吸い込まれていきます』
古今東西すべての馬を集めてもコイツが、一番ゲートが上手なのではないかと勘繰るほどの加速だ。
いいぞ、先行争い。
まずは、普段通り走らせて他の馬の動きを見る。
『ヒシケイジ、ぐんと伸びる。オルフェーヴルも良いスタートを決めています』
俺もケイジも馬鹿の部類だ。
最初は、出来るだけ冷静に好位置気味の位置に付けるように手綱を動かす。
『一番外の赤い帽子にご注目ください、日本のオルフェーヴル、さぁまずは先行争いです』
俺が冷静に乗ってさえいれば――ヒシケイジは鞍上と周囲の息遣いを感じながら、冷静に状況を把握してくれる。
ケイジは競馬が上手い馬だ、混乱しないように情報を絞れば、勝手に脚も貯めるし手前も替える。
その上でしっかりと乗せて走れば、ヒシケイジは馬でありながら勝手にフロー状態となりゾーンに入る。
だが――それだけでは、ヒシケイジはオルフェーヴルには勝てない。
『内からマスターストローク、そしてミアンドルが出て行って、さらにはキャメロットも出て行きました』
それを知っているからこそ、石破 志雄は凱旋門賞に勝つための奇策を用意していたのであった。
誤字脱字、感想お待ちしております。
明日も1800投稿予定です。